『赤と黒』翻訳問題 番外編(2)


このエントリーから続きます)

 6月29日の日経の最終面に野崎歓さんが「前言撤回のすすめ」というのを書いておられますね。内容は、以前馬鹿にしていた宮崎駿アニメにはまってしまった、という話で、問題の翻訳の話はまったく出てません。 (^_^;)

 さて意識的にパロディー文体で書くのでなく(問題の光文社文庫にもゴーゴリ『外套』落語体というのが出てますね。これはなかなか面白いです)、出版と同時代、今なら2008年の日本語の普通のニュートラルな文章語で翻訳を作るということを前提にした場合、これはmidiさんの言われるように(という理解でいいんでしょうか?)翻訳は理論的にはほぼ「ひとつ」に限りなく収斂していくのかもしれないな、ということは考えます(日本語の変化スピードはめまぐるしく、究極の翻訳ができたところで、たしかにオルフォーさんの言われるとおり20年ほどで改訳が必要になってしまうんでしょうけどね)。
 ただ完全にひとつに決まるとはわたしには思えないんです。

 というのは、「原語centered」か「対象語centered」かみたいな重心の置き方の違いで選択の余地はあるように思うからです(「原文に忠実な」と「こなれた読みやすい」という言い方の対立は誤解を招きそうな気がするので、仮にこう言いかえてみます)。つまりテキストの書かれている原語のメカニスムと翻訳される対象となる言語のメカニスムが全く同じということはありえないので、少なくともそこに方針の違いが出てくると思うのです。

 原語フランス語のテキストを対象言語日本語に翻訳する場合なら、たとえば鷲見洋一先生が『翻訳仏文法』(上下。ちくま学芸文庫。英語にはこういう本はかなりあるのかもしれませんがよく知りません。少なくともフランス語=日本語間の翻訳を考える際には必読書です)で述べておられるように:

「言語自体が感覚現象をそのままなぞるかのように、各種各様の擬態を示す方向」(下75ページ)をとる言語といえる日本語の傾向に合わせるか、

「距離をおいて感覚現象に対峙し、これを分析・記述」(下77ページ)しようとするフランス語の傾向に合わせるか、

というのでかなり大きな訳の違いを生むはずだ、というのがまず頭に浮かびます。

 93ページのJulien Greenの訳の例で言えば

"Un profond silence regnait dans toute la maison"


「家中はしんと静まりかえり」等と訳するのが翻訳の対象言語、日本語の方向性に合わせた方で、
「深い沈黙が家中にたちこめていた」等とするのが原語フランス語に合わせた方ですね。

 この場合に関しては鷲見先生も「どちらかを是として、もう一方を排除するといった、絶対の選択は許されないケースである」とおっしゃってます。


 『赤と黒』だとなんですから、スタンダールのもうひとつの傑作『パルムの僧院』で例をあげてみます。
 
 この作品には、パルム大公の汚い仕事を一手に引き受けて民衆の激しい憎悪を一身にうけながら、宮廷で保身と出世をはかるラシという男がでてきます。
 モスカ伯爵に彼の過去のそういう悪行のひとつのことをなじられたときのラシの反応が、大岡昇平訳ではこんな書かれ方をしています:

 「あのとき勲章をいただいてもよかったんです」とラシはしゃあしゃあとしていった。(17章)

原文は:

--- C'est alors que j'aurais du avoir la croix ! s'ecria Rassi sans se deconcerter ;...

となってます。
 se deconcerterで、辞書には「とまどう」という訳語が載ってますからsans se deconcerterだと「とまどうことなしに」等というのがより原語に忠実な訳と言ってもいいと思います。

 sans se deconcerterを「しゃあしゃあと」(「厚かましく恥知らずで、非難されても平気でいるさま」(岩波国語辞典))と訳するのは擬音語・擬態語を大きく活用して感覚現象をなぞろうとする日本語ならではの訳ですね。
 たしかにここでラシは「しゃあしゃあと」言っただろうなと、この言葉の表現力に、またこの訳語を採用した大岡昇平の言語感覚に、やりすぎという思いよりは惚れぼれする感覚を覚えます。

 これって考えてみたんですけど・・・「スタンダールはフランス語でしか書けなかったからこう書いたけど、もし彼が日本語知ってて日本語で書いたなら、こう書いたに違いないよ」と思わず信じさせられちゃうからでしょうか?・・・


 擬態語ばかりだとなんですから、また別の例。これもラシ絡みですが。

 大公が急死してパルム公国の権力が一瞬空白化したとき暴動が起こり、ラシは民衆に追われてモスカ伯爵のところまで逃げてきますが、そのラシの処遇についてモスカはこのとき愛するサンセヴェリーナへの手紙の中でこう書くんです:

 民衆はどうしても縛り首にするといっています。たいへんな間違いです。八裂きにしてやるのが至当なのです。(23章)

 どうみてもこの状況では民衆は蜂起して猛り狂っているはずなのに「民衆は・・・いっています」というのも、なんだかすっとぼけた言い方で面白い。
 それに縛り首では「たいへんな間違い」だというから、おやおや無罪放免してやれと言いだすのかと思ったら、こんな最低の野郎にはできることならいちばん苦しい死刑を与えてやりたいのだがとオトすので、あっはっはとなる。(^o^;)

原語は
Le peuple veut absolument le pendre ; ce serait un grand tort qu'on lui ferait, il merite d'etre ecartele'.

 えーとecartelerというのは四肢を馬に引っ張らせて罪人を死に至らしめる刑ですが、四肢を引っ張るんですから当然これほんとは「四つ裂き」ですね。仏和辞典でもそうなってます。
 でも四つ裂きの刑って日本ではやってなかったんでしょう、たしかに日本語の中だと「八つ裂き」の方がぴったり来ます(日本語の「八つ」にはたいして意味はなくて、たんにバラバラにするという意味なのでしょうから、これが「四つ裂き」の意味を含まないとはいえないところが微妙ですが)。

 このまさに厚顔無恥で、自らの出世と保身のためであればいかなる悪事もためらわない見下げ果てた野郎、でもその悪党ぶりがまことにぴったり板についていて――20世紀や21世紀の人間のような――ちまちましたところが全くない、その意味ではあっぱれでもある男へのモスカの快哉に満ちた嘲笑(そんなものがあるかな?)が、ここで作者のスタンダールも、読んでいる我々も巻き込んでいる感じ・・・

 ここではたしかにこの感覚現象を「八つ裂き」という訳がなぞっているかのように思えるのです。
 リズム的にも大岡訳の方がいいな、と思ってしまいます。

(もっとも大岡訳が「こなれた読みやすい」訳かというと、全体としてはむしろその反対だと思います。遠い昔の、遠い外国の話だということが前提でないととても通用しない日本語ではあると思います・・・ でもここというところで表現力があるんですね)
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明日はサランのリサイタル!


 パリでのサランのリサイタルは明日7月1日に迫りました。
 パリ在住の方々、ぜひ行ってあげてください。(^_^)y

このエントリーこのエントリーをご参照ください。

 (サランは、自分は子供のころから歌の素質があったんだ、みたいなこと言ってますよ。(^_^) 素晴らしい講演とリサイタルを期待します)
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「モノ」としての「CD」とか「解説」とか


 今月号の『ミュージックマガジン』が、クロスレヴューでダフマン・エル=ハラシのこのCDを扱っておられます。拙稿による付録のライナー解説まで褒めていただきまして (@^_^@) まことに恐縮。

 さてこの号では「CDはどこへ行く」というのが特集になっていて、いろんな方々のご意見が載ってます。
 それらは皆さんにもぜひお読みいただいて考えるヒントにされるとよいと思うのですが、ここでは不肖わたくしが個人的に思うことだけ書いてみます・・・

 わたしは、CDかアナログ・ディスクかカセットか何かは別として、音楽をのせたモノ、存在してしまうモノ、「ある」ということから逃げられず空間を占めてしまうモノがなくなってしまうのは、ちょっとまずいと思います。

 一番大きな理由のひとつは、それだと「偶然の出会い」がなくなっちゃうことだと思います。

 音楽でもなんでも「ありゃーこんなものがある!」というオドロキ体験がほしいなあ、と思うんです。
 「ある」ものというのは、否が応にも自分の姿を人目にさらしてしまうから、そういう体験を起こしうるんです。

 インターネットの弱点は、自分の頭の中で「こういうもの」があることが分かっているときその「こういうもの」を注文するというのにはたいへん便利だけど、「こんなものが存在するとは思わなかった!」という発見をするのは不得手なメディアだということではないでしょうか(これはよく聞く話のように思いますが)。

 供給する側の整理、データベース化がきちっとなされているとき、ある特定ジャンル内でなにかを検索することは非常にシステマチックに行えますが、ジャンルからはみでるものはこちらから見えません。ジャンル内のものでも供給する側が意識的にネットに載せないと存在しないも同然になってしまうわけです。

 出会いの体験は、供給側に完全にコントロールされるようではいけないと思います。

 (・・・でもこういう予期せぬ体験が起こりうるってことは、「大都市」みたいなもののもつ性質かもしれません。
 たとえばパリがあれだけ大きな顔をしているのも、この種のオドロキ体験をたくさん用意する仕組みを作っているからでしょうね。だからあの町の使い方を知っている人は、絶対ときどき行っとかなくちゃ、と思うわけなんでしょう。
 そうすると中小都市とか田舎とかの存在理由というのは・・・)


 それから、今回のダフマンのCDの場合、自分でライナーを書いてみて、これが「モノ」としてのCDにくっついて売られているということの意味について考えさせられる機会になりました。

 あの解説は、口幅ったいですが、確かにある種のオドロキを与えるものだったと思います。3000万アルジェリア国民、および彼らとメンタリティを共有する北アフリカや欧州、そして世界に散らばる数千万の人々の「心」について、日本でこれまでなかったといえる認識を供給してますので。

 もうちょっと続けます。 
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『赤と黒』翻訳問題 番外編(1)


このエントリーのコメントから続きますけど、前のエントリーからも続いてますね)

 ド=ヴィルパンさんは「誤訳からさえ創造的なものが生まれうる」てなこと言ってましたが、この『赤と黒』新訳の場合、あんまりクリエイティブな何かが出てくるようには思えないのが残念ですね・・・ (^_^;) 
 意義があるとすれば、それは「とにかく新しい読者を開拓した」ということになりますか。
 たしかにそれがありますけど、それしかないことが問題なのだと思います。

 オルフォーさんのコメントは、学術的なところが関わってくる古典的名作の翻訳としては問題になるこの種の翻訳出版態度も、エンターテインメントの領域ではむしろ当たり前になっているという現状を述べておられると思います。
 ただ昔の翻訳をあえて参照しないという立場がありうることは分かりますが、それでも単純なミス、意味の取り違いに気づくために、多忙な訳者じゃなくて誰か他の人(フランス語できない人でも構わないです)がいちおう定評ある旧訳と突き合わせてチェックするくらいのことはしてくれてもよかったのになあ、というのが今回のケースについてのわたしの感想です。

 というのは、やっぱり読者は、たとえ複数の訳が簡単に一緒に読めるような状況ができたとしても、基本的に一つの訳に沿って読み、あとの訳はときどき参照するにとどまるだろう、ということもあります。「お話」というのは基本的にリニアな、単線状のものだ、という宿命がそこに関係してくると思います。
 既訳参照という方法で簡単にある程度の誤訳チェックができるなら、読者への信義のためにも、いちおうそれをやってほしいと思います。

(それにしても今回の騒ぎで、日本スタンダール研究会の専門家諸兄が評判の野崎歓訳『赤と黒』をほとんど読んでなかったことが分かって、なんだか面白かったです。(^o^) わたしの場合を考えても、原文がいちおう読めるとすると、あとは最初に読んだ冨永訳がすばらしい訳なのでこれだけで「十分」という感じになっちゃうんですよね。ちなみに『パルムの僧院』の方はわたしは大岡昇平訳です。こいつはスタンダールの原文よりいいや、とつい思わせてしまうところがあるから凄い。原文よりいい、というのは本当は一種の誤訳のはずなんですけどね。(^_^;)y )

 このお話、まだ続けられそうです。(^_^)y

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ド=ヴィルパン元首相来日(2)


(前のエントリーに続きます)

 さてド=ヴィルパンさん及びほかのお二方のお話は、英語が世界共通語として広まるのと反比例して個別の文化が軽視され、多様性が失われていくことに憂慮の念を示し、その弊害から世界を守りたいという意思に基づいたものです。そういうフォーラムですね。

 ド=ヴィルパンさんの基調講演は、それに加えてあらゆる意味での言語と文化の「交通」に次々に触れていくものだったので、わたしの貧弱な頭では個々の事例を肯定的にとらえているのか否定的にとらえているのか、ちょっと真意をはかりかねるところが多々ありました。 m(_ _)m f(^_^;)  
 たとえば翻訳のこと。それが文化を伝え、誤訳もまた創造的でありうること。
 ヘレニズム世界がアテネを変えたように、伝播した文化はその本家に影響を与え返すこと。
 ブリティッシュ・カウンセルやゲーテ・インスティチュートのような在外文化紹介機関の存在。
 大量の移民による文化の変容・・・

 ただド=ヴィルパンさんが、世界共通語としての英語がコミュニケーションのための単純化されたツールになっているのは、それを生んだ文化と切り離されることになるから本当は英語のためにはよくないことである、という立場であることは理解しました。
 世界の人が(単純化された)英語によるコミュニケーションに頼るようになれば、便利にはなるだろうが文化の貧困化を生むわけで、彼はここを問題にするのです。

 だから(ということになるかな?)、いくつかの言語 quelques langues の特権化ということには彼は否定的なのです。「いくつかの言語」という複数形ですから、グローバルな見地からは英語のみならずフランス語、スペイン語・・・という、例によって国連公用語とほぼ重なる言語グループ、共通語群が問題になっていると考えていいでしょうか? 

 彼は多言語主義というものを、個人が自らのものとは違う別の言語と文化の深みに肉薄していく、その様相においてとらえていたと思います。
 そうして多言語、多文化を横断する人々は「架け橋」「渡し守」となっていくわけです。

 さすがに自身も詩人であるド=ヴィルパンさんは、詩人についてかなり複雑なことを言っていてわたしはよく分らなかったのですが (^_^;)  話の中で一番よく出てきた詩人・文学者は明らかにパウル・ツェランPaul Celan でした。ユダヤ系ルーマニア人で、両親をナチに虐殺されながらもなお詩作をドイツ語で続けずにはおれなかった人です。たとえ両親の殺戮者の国の言葉でもドイツ語は彼の言葉であり、捨て去るわけにいかなかったのです。

 そしてツェランを持ち上げることは結局、フランス語能力と文化力を同一視するフランス語帝国主義の悪弊についての会場からの問いかけに対して、カリブ海人でありながら生涯フランス語で創作し、けっしてクレオール語では書かなかったエメ・セゼールAime Cesaireの立場を、同じく英語でしか書かなかったデレク・ウォルコットDerek Walcottの立場を肯定する答えに直結するわけですね。

 そのあたりド=ヴィルパンさんは、狭いコミュニティの地方的アイデンティティを越えた普遍主義、超越するアイデンティティidentite qui depasseというような言葉で説明していたように思います。

 
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ド=ヴィルパン元首相来日(1)


 広く報道はされてませんが、去る20日金曜日に京都大学で「多極的世界観の構築と外国語教育――多様な言語文化への挑戦」La formation d'une vision du monde multipolaire et l'enseignement des langues etrangeres -- Le defi du multilinguisme という難しげなタイトルのフォーラムが開かれてました。

 目玉はフランスの元首相のドミニク・ド=ヴィルパン氏です(↑は懇親会におけるド=ヴィルパン氏。わたしは例によって「ライ名刺」お渡ししときました。(^_^) )。彼の基調講演のあと佐伯啓思京大教授、三浦信孝中央大教授のお話、最後にお三方によるフォーラムという進行でした。

(それにしてもSimone de Beauvoirは姓だけ呼ぶときは「ボーヴォワール」なのに、なんで彼はDominique de Villepinで「ドヴィルパン」なんでしょうね? ・・・ちなみにフランス人で姓に de が付いているのはいちおう貴族のしるしです。まあ貴族といってもピンからキリまであるんですが)

 ぶっちゃけた話、英語の世界支配、世界言語の画一化はよろしくない、多極的世界観による多言語主義でいくべきだ、うんぬん、という話をフランス人がすると、結局英語の世界的優位がいまいましいのだろう、フランス語の地盤沈下がくやしいのだろう、と日本の一般大衆は思ってしまうでしょう。
 これは多かれ少なかれ当たっているだろうと思います。 (^_^;)

 ただそこからフランス人があれこれ考えて紡ぎだす論理自体は謹聴するに値すると思うので、日本人としては、フランス人を嘲笑して終わり、にはしない方がいいと思うのです。

(だいたいフランス人はなんとかいって、おおむね日本人より英語をうまく利用して世界での存在感を保ってますからね。国連ではド=ヴィルパンさんも英語で演説するし、カンヌではカトリーヌ・ドヌーヴが英語で話すわけです)

 今回のド=ヴィルパン氏の来日は京都大学がフランス大使館と朝日新聞の後援を得て企画したもので、京都だけ来てすぐフランスにお帰りになりました。さすが京大!
 実現にあたっては京大の大木充さん西山教行さんがたいへん尽力されたとのこと。(^_^)

 わたしは朝日新聞のサイトから申しこんでうまく聴講券をゲットしましたが、抽選にはずれて来れなかった人もかなりいたそうです。

 でも、大手メディアでは報道されていないものの、このフォーラムはYoutubeやETVなどでの放映、テレビのフランス語会話の時間での紹介などがぬかりなく準備されているそうですから、待ってましょう。 (^_^)y
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京都・河原町のひんかく


 この週末、豪雨の地方の方は大変でした。でも金沢もそろそろ雨が来そうです。 (*_*;)

 気がついてみると、少しブログをご無沙汰してました。m(_ _)m
 たしかに先週はへちゃへちゃに忙しかったです。そのあとがーっと羽伸ばしました。(^_^)v
 ちょっと京都へ帰ってました。

 以前丸善京都河原町店閉店でショックを受けてましたが、今回は同じ河原町通のBALビルに寄ってみてびっくりしました。良い意味で。

 このBALというビルはファッションビルだと思ってました。だいたい衣料関係のブティックが主で、わたしは昔はあんまり上の階には行ったことがなかった。(^_^;)
 地下にヴァージンメガストアがあったのでそっちにはときどき行ってましたが、ずいぶん前に閉店しました。
 あの閉店以来、京都ではめぼしいワールドの輸入盤CDが手に入りにくくなっちゃいましたね。今の四条河原町のタワーレコードさんではまだちょっとこころもとないところがあります。がんばってほしいですが・・・
 大阪梅田のヴァージンは早々に消えてましたが、最近梅田・茶屋町LoftのWAVEが消えたのに気付いてこれまたショックでした。
 やっぱりCD産業は斜陽なんでしょうね。
 ただそれは音楽産業そのものがダメということとイコールではないはずです。

 それはともかく、BALはいま2階から4階が無印良品、5階から8階がジュンク堂書店になってるんです(↑)。
 調べてみたら、河原町ジュンク堂さんはもう2年も前に開店してたんですね。ときどき京都には帰っていたにも関わらず間抜けにも気がつかなかったのは、BALに本屋、というのがイメージ的にピンとこなかったせいでしょう。

 丸善の跡がゲーセンみたいなものになってげっそりしてましたが、これならまだまだ京都・河原町のひんかく(この言葉、最近はやりの使い方は個人的には好きじゃないですが)も捨てたもんじゃないという感じがしました。
 
 すかしたブティック群(今考えてみると、こういうのを支えているのは、衣料品の分野における一種の「教養主義」みたいなものだ、と言えるんじゃないかと思います・・・)が無印良品に場を譲る。
 丸善のかわりにジュンク堂が京都の目抜き通である河原町の知性レベル保持の役割を果たす。

 CDもしくは音楽産業も、衣料品産業も、書店産業も、頭をひねって汗をかいて、がんばっていただきたいものです。

(ジュンク堂と無印良品の回し者みたいなエントリーでしたが、両社からは何ももらってません。念のため。f(^_^;) )
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『赤と黒』復刻本とインターナショナル

(いちおう前のエントリーに続きます)

 佐々木孝丸による本邦初訳の『赤と黒』というのは読んだことがありませんでした。手に入らないし、「訳としては良いものではない」というのも聞いてましたし・・・ もっともこういう訳業は先駆的に行うということだけで意義があるというものですが。
 
 しかし今回の翻訳問題の関連で、ちょうどこの最初の『赤と黒』邦訳がつい最近ゆまに書房というところからオンディマンドで復刻されているのに気付きました。かなり値段は高いですが、ためしに上巻だけ金沢大に入れておくことにします。まだ他のどこの図書館も入れてないみたいですし。 (^_^)
 
 さて、ついでに佐々木訳のインターナショナルの歌詞全体を見てみようと思ったのですが、ウィキペディアでは、著作権管理が不明のため掲載を控えた、とのことですね・・・

 (^_^;)
 これは、著作権という資本主義的財産を侵す危険があるかもしれないから、佐々木氏およびその相続者の権利を守ってくださっているわけですね。
 しかし、佐々木氏がこの歌をネットで伝播させる際には自分に著作権料払ってほしいという意思を持っていたとは、わたしには思えないのですけど。 (^_^;)

 文化的創造物の「作者」には、お金や権利のことなんかより、とにかく伝播、流布させてくれた方がわたしはうれしい、という思いがあると思うんです(それに、実際に作品が流布するなら作者の名声があがって最終的には作者の利益になってきます)。
 文化的産物には「文化流通権」のようなものがあるはずだ、「著作権」を強調することで世間を怖がらせて文化流通権を阻害することはかえって人権侵害である、という主張があるはずだと思うんですけど・・・

 とにかく歌詞はここには載ってました。 (^_^)v

[追記] ウィキペディアの「インターナショナル」の項目の「関連項目」のところに「ロバート・ワイアット」の名前があがってますけど、この高名なミュージシャンはどこかで「インターナショナル」歌ってるんでしょうか? 
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『赤と黒』翻訳問題(4) またまた第二翻訳論


前のエントリーから続きます)

 ただ産経ヤフーに載っている駒井編集長のコメントを拝見すると、光文社側はこの翻訳における誤訳の存在、数的な多さには直接言及せず、それらを問題にしない立場をとっておられると思います。

 「読者が支持している」という事実をもって全ては免罪されている、という立場にたっておられるようにみえます(ちなみにここでいう読者というのは事実上、「この訳ではじめて『赤と黒』を読んだ読者」あるいは「既訳を読みかけて挫折、この訳で初めてある程度の部分を読破できた読者」のことでしょう)。

 これは「(古典的作品の)翻訳本の出版ということに関して、新しいゲームが始まっているのだ。ゲームの規則が変わったのだ」と宣言しておられるのかもしれません。
 もっとも訳者の野崎さん自身は、本国フランスで権威あるプレイヤード叢書新版における新しい注を活用した云々(下巻639-640頁)、ということも前面に出しておられるので、別に新しいゲームのようなものを提唱はしておられないようにみえます(たとえば作者スタンダール個人の世界像に関連してイヴ・アンセルさんがつけた綿密な注を反映して:

 「ヴェリエールの小さな町は、フランシュ=コンテ地方でもっとも美しい町のひとつといってよい」という訳文を、

 「ヴェリエールは小さいながらも、フランシュ=コンテ地方でもっとも美しい町のひとつといってよい」

にした、と言っておられます(下巻640頁)。わたくしとしては、本当に読者はそういう違いの意味するところまで読み取らないといけないのかな?と思います。作者はこういうところで読者に自分を押しつけられない、という文学観もありうるわけで・・・)。
 それについてはここでは触れないことにいたします。

 さて、ゲームが変わったということでしたら・・・ 
 まずはこのスレッドのカテゴリーを「スタンダール」から「ニッポンと世界をどないしましょう?」に変更して・・・ (^_^;)y

 当然ながら「読みやすい」ということと「翻訳の正確さ」ということはいつでも矛盾するわけではありません。読み易さの程度が同じならば、だれがみても原文により忠実である訳文を採用した翻訳の方がいいにきまっている、と思うのですがいかがでしょうか。
 出版社側にはいろいろ事情がおありかもしれませんが、そういうことは読者には関係のないことです。

 ここから話があらぬ方向に飛んでいきますがご容赦ください・・・ 
f(^_^;) m(_ _)m

 問題の『赤と黒』翻訳の場合でも、野崎さん自身どこかで「自分の訳が冨永訳への架け橋となれば幸いです」というようなことを言っておられたように思います(どこでしたっけ?)・・・
 複数の訳の併存を前提とするということなら、これはわたくしが昔から言っている「第二翻訳論」の発想に近づくと思うのです。

 最高に読みやすくて最高に正確な唯一の決定版的翻訳というのができればいいですが、そういうものが事実上ありえないとするなら、正確さより読みやすさを優先した訳、読みやすさより正確さを優先させた訳が並存していると、読者はどちらか選べますよね。
 さらに、それぞれ何段階もチョイスがあるようになっていると面白いですよね。 (^_^) 
 ・・・さらには訳者の個性を優先させた訳というのも面白いですね。ある特定の文体を借りた訳というのも面白いですね・・・

 ということで、どうでしょう、紙媒体ではいろいろ難しいでしょうから、デジタルテクストでいくつもの訳を一緒に発売する企画を考えては?
 『赤と黒』の場合、野崎訳と冨永訳の二つだけなどとけちなことを言わずに、まずは大正11年の佐々木孝丸訳にはじまる、ありとあらゆる『赤と黒』の日本語訳を、良訳悪訳超訳珍訳豪傑訳全部デジタルテクストでいっしょにして売り出してはどうでしょうかね? (^_^) もちろんフランス語原文も忘れずに。代表的英訳等を入れるのも意味があるかもしれません。そしてそのうち、読者のニーズのありそうな傾向の翻訳を作って、随時つけくわえていくのです。

 (ちなみにニッポン初の『赤と黒』翻訳を出したこの佐々木孝丸という方は、革命歌『インターナショナル』の日本語訳(「たてーうえたるものよ・・・」っていうあれです)もやった人なんですが、本職は俳優という、面白い人ですよ。写真を見たことがないので分かりませんが、ウィキペディアに載っている経歴を見ると、わたしもいつか映画やテレビで見ているはず、と思ってしまいます。こういう人に紹介されて『赤と黒』は日本に入ってきたんですね)

 ということで、『赤と黒』翻訳についてのお話は、結局我田引水になってしまいました。f(^_^;) 失礼いたしました。m(_ _)m

 これで終わりにいたします。

 
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『赤と黒』翻訳問題(3) レナール夫人の寝息


このエントリーから続きます)

 さて『赤と黒』翻訳問題ですが・・・

 先のエントリーでも述べましたように、下川さんによる誤訳の指摘自体はまったく妥当なものです。訳の間違いが相当数存在するということは明明白白たる事実で、これはわたしにはどうにも否定しようがないです。

 もちろん程度的には、かなり食い違うものからそれほどでないものまでいろいろあります。

 わたしがこれは嫌だなあと思うのは、たとえば第一部第十五章、レナール夫人の部屋に忍んで行こうとするジュリアンが途中のレナール氏の寝室からイビキが聞こえて「夫人のところまで行かない口実がなくなってしまった」というところでしょうか。

 つまり旦那が起きていればその奥さんの部屋に姦通(なんと大時代的な言葉! でもこれは野崎さんもこの訳で使っておられる言葉です)しに行くのは危険すぎるからという引き返す口実(夫人に対してというより、自分に対して・・・)ができたのに、旦那が寝ていることがはっきりしてしまってはそれがなくなってしまった、ということでしょうね。

 この「レナール氏のイビキ」が問題の翻訳では「レナール夫人の寝息」になってしまっている(上168頁)わけですが、こう訳されていてはどう読んでもジュリアンの心理の流れが理解できなくなると思います。

 それにレナール夫人の寝息が聞こえるほどジュリアンは夫人の寝室の近くまできたはずなのに、その後でまた「夫人の寝室に通じる短い廊下にさしかかった」というのでは、時間が過去に戻ったみたいで話の流れがわからなくなります(もちろんジュリアンの部屋からみて夫人の寝室は、レナール氏の寝ている部屋の向こう側にあるわけです)。『赤と黒』はそんな複雑な時間の流れ方をする現代小説とは違うはずです。

 この訳を読んだ人は、この箇所はどういうことが起こっていると思われたんでしょう? 
 たとえこの訳を愛した人でも、なんだかよく分らないけど適当に読み進んだだけ、ということではないでしょうか。

(あるいはここは問題の「第三刷」で訂正されている箇所に入っているかもしれませんが、わたしはまだその第三刷をみつけていませんので照合できません。注文しても万一第二刷以前のが来たらあほらしいですので、周りに第三刷が出回るまで待つつもりです)

 他方、ヤフーで取り上げられているDe la vie の成句の訳の例なんかは、たしかに誤訳ではあるけれども、最高に重大なものではないとも言えます。なぜなら:

「人生上の問題について、腹を割って話し合ったことがある相手は老軍医ただ一人だった」(上88頁)

と書かれていれば、
たとえ「生まれてこのかた」という正しい訳になっていなくても、文章の流れからして、もちろん生まれてこのかたそうなのだろう、と読者には了解されると考えてよさそうだから、
そして腹を割って話すことのできる相手というのは、原文にはそう書いてないとしても、とりもなおさず人生上の重大問題を話せる相手に他ならない、ということも言えそうだからです。

 誤訳でいちばん罪が重いのは、誤訳のおかげで結果的に誤った感動のさせかたをする箇所ができてしまって、そういう感動の仕方をした読者があとで真相を知ったとき、

「感動を返せ!」

と訳者につかみかかりたくなるようなケースだと思います。

 De la vieのような箇所では、そういうことが問題になることはないと思います。
 もちろん「翻訳」として不正確であることは間違いないのですが。

(まだ続きます)
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