退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「西洋による科学あるいは宗教」について

2015-06-18 02:38:31 | Weblog
『くもりのち晴れ。』と書いて昨日は寝る。

くもり。ちょいと雨も降った模様。

エイドリアン・ベジャン&J・ペター・ゼイン
「流れとかたち 万物のデザインを決める新たな物理法則」を読む。

「生物・無生物の別なく動くものはすべて流動体である」という認識の下
「すべては流れをよくするために」という「コンストラクタル法則」があるのだと。

「自然界のデザイン」はすべてその法則に従っていて
例えばダーウィンの「進化論」も間違っているとのこと。

「万物は物理法則にしたがっている」というのが著者の考え。
「あらゆる運動は質量を移動させること」だというのは「運動方程式」そのもの。

「観察あるいは帰納」からでなく「理論あるいは演繹」からすべてがわかる。
その真偽のほどは判定しようがないもののある種のタイプの典型的な議論だとはわかる。

科学者たちが「専門分野」という「タコ壷」にはまり込んでいることを思い出すにはいい材料。
ただ個人的な直観としてはいささか「キナくさい」感じ。

もちろん「刺激的」であることは間違いないけれど
ちょいとその法則が通用する範囲を広げすぎているように思うので「専門家の意見」が聞きたい。

「有用な考え」ではあるが「すべてではない」。
なにより「世界を解釈するわれわれ」そのものが実に「非論理的な存在」だから。

ここには「世界を貫く法則がある」という「信念」があり
「神に代わるものがあること」を疑わないという「前提」がある。

「なぜ世界は『デタラメ』であってはいけないのか」。
とりあえず著者に聞いてみたいものではある。

実はそのことがわれわれにとって「耐えられないこと」だからだとすれば
その一点でこの「科学」は「宗教」に似たものであるのだと言っておきたい。

「モデル」は「現実を理解する助け」にはなるが決して「現実そのもの」ではない。
それぞれが「プリズム」となって「現実」を「反射」するしかないというのが「基本」だろう。

もっともそれが「素人のバカげた考え」であるならむしろ「幸い」。
繰り返すが「わかった」と思った瞬間から「世界は凍りつく」ものであることを忘れずに。
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