退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「民主ということ」について

2012-04-18 03:55:30 | Weblog
快晴。スーツのみでも汗ばむほど。

古本屋で堤未果「ルポ 貧困大国アメリカⅡ」を見つけて読む。

各種の「利益団体」によるロビイング(政治家への働きかけ)は
「まともなこと」を主張していた政治家の「実行力」を奪う。

結局は「選挙資金や応援」がネック。
アメリカは「異様に長い大統領選」のせいで「大口の資金源」に逆らえない模様。

またしても「貨幣と数」か。
わが国ではそれが「利権を維持したい官僚の情報による囲い込み」で行われるようだけれど。

それにしてもあらゆる人を「カモ」にして
自らの「利益=安泰」だけを貪る勢力の「貧しさ」よ。

「生存競争」が「厳しい」のだとしても
その「レベル」は一般市民からすれば「とてつもないところ」にあるのが「事実」。

「問答無用な競争」以外に「道」がないはずもなく
多くの人々は「普通の暮らし」を望んでいるだけなのに。

とはいえ「消費者としてのわれわれ」が
いたずらな「消費」を重ねることで生まれる「現実」がある。

「安さ」や「手軽さ」を求めるしかない「境遇」に追い込まれる前に
もう少し何事かを考える必要がありそう。

そうした意味で「先進国」であるアメリカの「追随」をしても仕方がないのだから
ここらあたりであらためて「われわれの欲望と理想」について考えてみてもいいだろう。

広告代理店による「流行=欲望の喚起」や
メディア支配による「洗脳」についてもっと「敏感」でありたいもの。

「現実」はすでに「荒唐無稽」だと思われがちな「ハリウッド映画」を超えているのだ。

そこで描かれる「シナリオ」を理解する「力」こそが
「ヘタなシナリオライターたち」に対抗する手段だということを知ろう。

間違いなく「植民地時代」が復活している。
われわれがかつての「原住民」のように扱われているのはなぜか。

圧倒的に「ナメられている」のなら
本気で「不買運動」などしつつ「新しい流通」を作り上げる気概がほしいところ。

わが国においては少なくとも「ダメな」官僚たちの「手練手管」を知った上で
あいまいな「国家」などに何かを期待するのはやめよう。

「主権者」が「国家」を変えること。

それこそが「民主主義」なのだから。
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「現実」について

2012-04-16 03:13:11 | Weblog
晴れ。ほぼひきこもり。

昼頃起きてダラダラ。
下の妹たちの子どもがやってきてちょいと話す。

マル激を少しだけ観る。

民主党が大飯原発再稼働を決めたのは
どうやら「官僚の情報による『囲い込み』」のせいらしい。

その程度の「初歩的なこと」がわからない政治家が「普通」だとするなら
今後も「どうしようもない現実」が続く模様。

もっともそうした行動をする「官僚の劣化」を指摘するのにも納得。
自分たちのしていることが将来どういった事態を招くのかもわからないとは。

「一定の貨幣さえ払えばどんなサービスも即可能」という「現実」に慣れ
「間髪入れない利益」を受けるのが「当然」だとする「消費者の基準」を疑わないのか。

NHKで「練炭による殺人」の木嶋被告に関する裁判員裁判の番組を観る。

映画監督周防正行の
「一般市民に負担があるのは当然でだからこそ裁判員制度に意味がある」という内容の発言にうなずく。

ただし司会のアナウンサーはどうやらその意見をきちんと受け止められず
やたらに「負担の重さ」を印象付けようとするのみで。

本来必要なはずの「証拠集め」や「捜査」をまともにできない「警察」の姿もうかがえる。
いやはや「いずこも同じ秋の夕暮れ」。

やはり「まともな人間」を育てるよりない。

それが可能かと聞かれるといささか心許ないものの
もはやそのあたりにしか「可能性」は見出せないのだ。

母親がしきりに「あんなヤツはさっさと死刑にすればいい」と言う。
その遺伝子を受け継いでいることを思うとうんざり。

「お勉強」が出来ようが出来まいがどうでもよく
「バカは罪」だと敢えて言っておこう。

「再帰的=自己反省的」でなければならないのは「自明」。
さらに「控え目」であればなお結構。
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「消費」について

2012-04-15 02:46:10 | Weblog
くもり。小雨もパラつく。

ソウルバーへ行く。
マスターがあれこれと病気に襲われていることを聞く。

無理しないようにと伝える。
ランチは二週間後から始まる模様。

最初のうちは店にひとりきりだったけれど
その後お客さんもやってきてグッド。

お子の話に大いに笑い楽しい時間を満喫する。
繰り返すが興味のある向きは一度訪ねていただきたい。

「新しい貧困」読了。

著者について事実誤認があったので書いておく。
名前だけで勝手にドイツ人だと思っていたのだが実はユダヤ系ポーランド人だった。

1925年生まれで第二次大戦中はナチスの支配からソ連に逃れ
戦後母国に戻るものの「反体制運動」と「ユダヤ人差別」で教授職を失いイギリスに落ち着くことに。

なるほど「訳者あとがき」にあるように
そうした境遇が「世界に対する理解」を深めたというか「過去の再現」を見出すことになったのかも。

著者の「絶望と希望」を垣間見たような気分になる。
「同じ不幸」が繰り返されるのは誰にとっても耐えがたいことではあり。

「貧しさ」が「罪」だとされ
その種の人々が「刑務所という居留地」に押し込められるのはいかにもな「不正義」。

21世紀に「ゲットー」が「復活」し「植民地主義」も堂々と行われるとは。
なんともはや絶句するよりなく。

「冷戦」が終わったことで人々が「自国の内」に「敵」を見出す「貧しさ」よ。
たえず「敵」がいないと「安心」できないという「構造」を平気で生きる「貧しさ」よ。

誰もが「安楽」に暮らせることは「無条件」に「正しい」はずなのに。

「ナイキのスニーカー」は「ヴェトナムの劣悪な搾取工場」で作られ
「バービー人形の服装」は「スマトラの児童労働」によって作られ。

「スタバのカフェラテ」は「グアテマラのコーヒー園」、
「シェルの石油」は「ニジェール・デルタの汚染された貧しい村」に「さかのぼる」ことは知っておこう。

あなたの「何気ない消費活動」が「貧しき人々」をそこから抜け出せなくさせている「事実」がある。
「まともな消費者」としてそのあたりはきちんと意識しておきたいものではある。
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「働くこと」について

2012-04-14 03:15:09 | Weblog
くもり。夜に雨もパラパラ。

ジグムント・バウマン「新しい貧困 労働・消費主義・ニュープア」を途中まで読む。

1806年の無名の靴下製造業者の声明がなかなか。

「私は規則的な時間と規則的な習慣を、人間に対する最大の侮辱だと考えた」
「自分の好きな時に出入りできず、自分たちが望む休暇もとることができず(後略)」

かつてはこうした「プライドある労働者たち」が「普通」にいたものの
無条件に「働くことが正しい」という「労働倫理」の導入以降、人々はそうした「プライド」を「金で売った」と。

国際的な企業が「利益」を上げるためには「人件費の削減=失業」が「必要」で
その「事実」は統計上明らかでもあり。

「消費者」は絶えず消費するように追い立てられ
次々と現れる必要のない「新商品」を買うのが「理想的な消費者」であったり。

「アンダークラス」の人々は自らの「怠惰」のせいでそうなったのだという解釈が「当然」だとして
「余剰人員」として失業状態を固定されてしまうことも。

「アファーマティブ・アクション(一定の割合で特定の人々を成績のみでなく合格させること)」によって
「安定的な地位」を確保した人々がむしろその「制度」を否定したがることなど。

いやはや。

「人間の美徳」として「まともなこと」が片隅に追いやられ
いたずらな「貨幣の多寡」のみが「正しさの基準」になった世界にわれわれはいるらしい。

もちろんすでに出来上がった「システム」は強固で
なまなかなことでは「対抗」できるものではないことを承知の上で。

働くということについて
あらためて考えてみてもいいのではないかと思うのだが如何。

そこにはもちろん「シャドウワーク=影の労働」という「賃金を支払われない労働」もあり
「家事」は誰にとってもたいていは「めんどくさいもの」だという「事実」もある。

それぞれが「身銭を切って」経験を重ねた上で
「どういう暮らしが望ましいのか」と今あるものを「チャラ」にしてみる「思考実験」はしてもいいはずだろう。
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「なんとなく疲れてダラダラすること」について

2012-04-13 02:53:24 | Weblog
快晴。さすがに今日はコートなし。

活字は読んだものの内容が頭に入って来ず。
自分なりにちょいと睡眠が足りないのか。

仕事帰りの地下鉄でふと目覚めると乗り換えの駅。
あわてて降りてどうにか帰宅する。

このところ乗り過ごすことはないけれど
たまにあるとたいしたことでもないのにひどく損した気分になる。

夜中にはこうしてダラダラ過ごしているのだから
たかが十数分の違いなどどうでもよさそうなものなのに。

ちょっとの違いが大きな違い、とか。

明日はたしかいつもよりのんびり出来るはず。
じっくり本を読むことにしよう。

TV画面には小笠原の父島の海の様子が
ビートルズの曲をバックに映し出されている。

「day tripper」「and I love her」など。
昔角川文庫から片岡義男訳で「ビートルズ詩集」というのが出ていたことを思い出す。

優雅に泳ぐサメ。
その表情はアップで見ると案外獰猛そうでもなくむしろとぼけた雰囲気。

背ビレにでもつかまって一緒にユラユラしたら楽しそう。
そういえば風呂の湯以外に水に浸かることもなくなって久しい。

エイの群れが泳ぐ姿はどこかクリオネを思わせる。
色彩のキレイさはあまりないものの。

さて。

今宵はこれまで。
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「近況」について

2012-04-12 03:34:17 | Weblog
雨。夜になって止む。

今日読んだ本も今ひとつ。
持ち運びを考えて新書にしたのがマズかった模様。

なにしろたまに新刊本屋で眺めてもあれだけ並んでいるのに買いたいものが少ない。
それを承知でいるのだから「自業自得」か。

来週からどうやら仕事場をふたつ掛け持ちすることになりそう。
曜日によって出かけるところが変わるだけなので個人的な負担は少なく。

あらたな場所は今の仕事場より自宅から近く
むしろ楽になると言ったほうがいいかもしれない。

ただしこの「移動」が今の仕事場にどう影響するのかがやや不安。
同僚からは「できれば行かないでほしい」と言われたし。

ある種の「レベル」を維持した仕事をしようと思うとやはりそれなりの「人材」が必要。
もっとも「レベル」さえ問わなければとりあえず「仕事は回る」。

それでいいのかと聞かれるとよくないに決まっているけれど
おそらくはあらゆる職場で「そうしたこと」は起きているのだと推察する次第。

要は「上司の判断」のマズさが問題なのだとはいえ
いわゆる「優れた上司」に巡り合うことも少ないのが「定石」で。

「飲めば都」のお気楽な身分としてはただただ「必要なこと」をこなすのみ。
その程度の「余力」は今の仕事に関してはあるから。

もちろん仕事の中身については常に「あすなろ」。
簡潔で中身の濃いものにするべく日々努力中。

「優れた職人」には比ぶべくもないので
せめて自分にできることだけはしっかりと押さえておきたい。

あれこれ含めて「マイペース」で行ける職場にいられることはありがたい限り。
「カタギ」のみなさんには何だか申し訳ない。
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「こども」について

2012-04-11 03:20:49 | Weblog
晴れのちくもり。深夜に雨。

コートを着ると汗ばむので手に持って出かける。
案外寒くなかったので結局「手荷物」になる。

桜はまだ散っていない模様。
帰りにちょいと見た夜桜はいくぶん妖しい魅力あり。

安心して子こどもを産めず育てることもめんどくさい時代になったという本を途中まで読むものの
いたずらに「硬い内容と文章」にやや疲れる。

著者は「お茶ノ水」出身らしいのだけれど
「チャラチャラ流れるお茶の水」という台詞をご存じだろうかとふと思う。

個人的にはある時期以降の日本人は全員「こども」だと思っていいだろうと勝手に判断している。
要は誰もが経験するものとしての「通過儀礼」がなくなったから。

もっともマッカーサーが「日本人は12歳」と言った頃にすでに「大人」だった人々を思えば
その「はじまり」はもっと古いのか。

「こどもが『希望』」だと思えるのは「『大人』への絶望」と「まだ未来のある身」というふたつ。
いずれも「思い込み」にすぎずむしろ「未来」は必ずしも明るくなかったり。

さて。

以前にも書いたように福田恆在は「消費は人を孤独にする」と言った。
今ではそれがあらゆる分野に及んでいる。

自分の「好き嫌い」を優先させるのはまさに「こども」でもあり
ある種の「偏屈な大人」でもある。

「こども」ってなに。

年齢という数字だけでそれがわからないのが「複雑」なところではある。
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「無邪気」と「邪気」について

2012-04-10 03:25:42 | Weblog
晴れのちくもり。雨も少しパラつく。

仕事先の駅前で一服していると
母のあとを追いかける3歳くらいの男の子に突然「ばばーい」と手を振られる。

タバコをもった右手を振ってそれに答えたものの。
ちなみに母の呼びかけで判明した彼の名前は「ヒロくん」。

「同類」だと思われたのかあるいは「煙を吹かす存在」が珍しかったのか。
「特定方面」にだけ「人気がある」のはあいかわらず。

小倉孝誠「犯罪者の自伝を読む」を読む。

主に十九世紀フランスの犯罪者を採り上げたもの。
その他に妻を殺した哲学者アルチュセール、わが国の連続殺人犯永山則夫。

残念ながら著者が何を興味深く思っているのか十分に受け取れぬまま読了。
この手の話は対象を絞り込んで「掘り下げて」ていただきたい。

コリン・ウィルソンや本書に出てきた渋澤龍彦、種村季弘、
あるいは「復讐するは我にあり」の佐木隆三、古いところでは谷譲次などを思い出す。

映画つながりでいえば「ヴィドック」も出てきたけれど。
ある種の「紹介」だと思えば「活用」はできるかもしれない。

イタリアの犯罪学者ロンブローゾの名前は
確かTVアニメ版「黄金バット」の中で使われていた記憶がある。

今から思えば相当に「あやしい理論」を唱えていた模様。
とはいえ「家系」にまつわる「遺伝」の話は今でも「俗耳」には受け入れやすい。

人が「自分にとってわかりやすいもの」を信じるのは時代を問わず。
自他ともに「チェック」しておきたいものではある。
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「ゆれること」について

2012-04-09 03:13:55 | Weblog
晴れ。おだやか。

自宅近くの川沿いで久方ぶりに身内で花見をする。

ところどころきれいな風景がある。
大音量で音楽をかけて踊ったりバイクのエンジンを吹かしたりする若者たちも。

妹が買ってきた弁当を食べてシートの上でしばし横になる。
うららかな日差しの下なぜか「竹田の子守唄」が頭の中で繰り返し流れ。

実に「幸せ」なはずなのに「退屈」な時間。
買い物に付き合ったあと図書館へでかける。

蓮實重彦・黒沢清・青山真治「映画長話」をドトールで読む。

かつての「先生とその教え子」の対談。
あらためてそれぞれに限られた「視力」について思う。

「映像」を見ているはずなのに「物語」に流されてしまうこと。
かつて「総合芸術」と呼ばれた「映画」の「複雑さ」をわれわれは捉えきれない。

それはたとえば哲学でいえばカントの「物自体」と同じ。
「感覚器官」の「性能あるいはあり方」によって「世界」は違って見える「当然」。

「先生」蓮實重彦は「映っているのに見えていないこと」を怖れよと言っている。
「ショット」は「わかる人にはわかる」のだとも。

敢えて「抑圧的にふるまう」のはむしろ「打ちのめされたい」からだとしよう。
「圧倒的な出来事」を感じられる「世界」を見よと。

それが「虚構=フィクションの『力』」なのだとすれば
「人はパンのみに生きるにあらず」というのは全く「正しい」。

なるほど「官能的」というのはこういうことかと今更納得する。
ある種の「知性」はそのような「趣味」を持つものらしい。
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「状況」について

2012-04-08 03:51:29 | Weblog
晴れ。風が吹く。

「リスク化する日本社会 ウルリヒ・ベックとの対話」読了。

重要なのは従来の「システム」や「世界認識」が崩壊していること。
ただしここには「未来」の「方向性」は見えるものの確かなものはない。

とはいえ「確かなものがないこと」が「当然の条件」になったのは今に始まったことではなく。
その「宙ぶらりん」に耐えながら生きられるかどうかということ。

なんだ、いつもと同じじゃないか。

とりあえずどうやら「過渡期」であるらしい。
人々の「認識」がやがて一致する頃に「世界の姿」はまた「確定」するのだろう。

それが「本当の世界」なのかと言えば「ノー」と言うよりないものの
われわれにはそもそも「世界」を「正しく」認識する力はない。

それぞれがそれぞれに「描くもの」がかろうじて「世界の断片」を示す程度。
できればそれらが「魅力的なきらめき」を持つものであることを祈りつつ。

人が何を見出すのかはその人の「状況」によるもの。
たとえば何かで悲しんでいる時には「悲しい世界」しか見えなかったり。

「メディア」としてのわれわれはかくも「頼りなき存在」で。
そこで「幸福な出会い」があればうれしい。

もちろん相当に「ロマンチック」ではあるけれど
「現実」を知ることができない以上「何がロマンチックなのか」も実はあいまい。

あとはそれぞれがやってみるのみ。

ただしいたずらに「他者」を否定することで「自分」を確立するのはやめにしたいところ。
あいまいであるがゆえにそうなってしまいがちな「傾向」は重々承知の上。

降っても晴れても「日常」は続く。
食べて眠って排泄するのだけは「確かなこと」。
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