退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「安心」と「希望」について

2012-04-07 03:58:08 | Weblog
晴れのち雨。夜はまた少し冷える。

「リスク社会化する日本 ウルリヒ・ベックとの対話」を途中まで読む。

「危険社会」でも採り上げられていた「個人化」と
「リスクのグローバル化」を「コスモポリタン」で補おうというあたりに興味が持てる。

こちらの勝手な「文脈」のせいか
「本家」ベックの書いたものがやはり面白く感じられるけれど。

「西欧基準」をいたずらに当てはめるのではなく
東アジア特有の「歴史と環境」において考えようというのはもっともな話。

いずれにせよ「事態」は「複雑」なので
「最適解」を見つけるのは難しそう。

「あらゆる『当然』」がすべて頼りない現在
否応なく「再帰的=自己反省的」にあれこれ考えるよりなさそう。

とはいえだからこそ「過去への回帰」も起きるわけで。
たとえばわが国の若い女子たちは「母親の苦労と必死」を見て「専業主婦」に走ったり。

おそらく彼女たちはそこに「意味」を見出せなかったのだろう。
もちろん「人は楽なのが好き」という「大原則」はあれど。

「禍福」のみならず「歴史」はまさに「あざなえる縄の如し」。
常に変わりゆく「基準」には敏感でいよう。

さて。

「個人化の果て」はどのあたりに行き着くのか。
「世界の中心」が「ちっぽけな私」であるのはつまらない。

ただしそう思える「契機」がないと
大多数は「動物もしくは虫」のように生きることになりそう。

要は「不安」に耐えられる人は少ないということ。
「中国雑技団」並みの「綱渡り」は「普通の人々」には無理だし。

われわれはまだまだ「ひよわな花」らしい。
倒れても倒れても「打つべし」。

その中におそらくは「かすかな希望」があると思いたい。
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別の「味わい」について

2012-04-06 03:13:17 | Weblog
晴れのち雨。少しだけ濡れる。

仕事関係でバタバタしてゆっくり本も読めず。
「ヤクザな身」にはちょいと面倒くさい。

深夜にTVで「トゥルー・ナイト」(’95)を観る。
「ナイト」は「夜」ではなく「騎士」なのでよろしく。

「アーサー王と円卓の騎士」の物語。
まだ若いリチャード・ギアがランスロットでアーサーにはショーン・コネリー。

王妃ジュリア・オーモンドがあまり「美しくない」ところがネックだけれど
「身分違いの恋の情熱」と「王の人間らしい迷いと回心」にはいささか魅力があるか。

TV版なので作品の全貌は不明。
もう少し「円卓の騎士たち」のキャラクターの詳細が描かれているとよかったかも。

興味深いのは「恋の逆転劇」。

王妃は自分を助けてくれた「野性的な」ランスロットに当然のように惹かれるものの
最後には国を救うべく立ち上がったアーサー王を初めて「愛する」ことになるというのが「ミソ」。

おそらくシナリオを書いた人物が「年配の男子」だったと思われる結末。
敢えて「事実」は調べずにおく。

こんなふたりに愛されれば女子としては「本望」だというあたりを思えば
むしろそうしたシナリオを書いたのはそっちだという解釈もできなくはなく。

さて。

恋の物語において「身分違い」という設定が成立しやすいのは
「人は自分の知らないものに魅力を見出す」という「ルール」による。

要は「未知なるもの」が「ロマンティックの源泉」であるということ。

もっともそこに「ロマン」を感じすぎて
「現実の相手」を見失うこともしばしばあり。

まるでミルフィーユを味わうかのよう。
ちなみに「ミルフィーユ」とは「千枚の葉」という意味があったりもする。

なるほどやがて朽ち果てるとはいえ
それが「養分」に変わるところが「味わい深い」。
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ついつい

2012-04-05 04:35:30 | Weblog
深夜にあれこれのあとでyoutube。

ego wrappin'と大西ユカリを比較検討する。

くちばしにチェリー」「色彩のブルース」が前者。
後者は「恋の追跡」「北国行きで」など。

ジャズとスカ、ソウルと歌謡曲。
それぞれの「ハイブリッドぶり」は楽しく。

拾える曲の都合でいささか前者に「有利」になったか。

いずれも「ツボ」を押さえた曲作りや選曲。
思わず「それそれ」と言ってしまいたくなる魅力がある。

わが国では「泣き歌」の力がどうしても強く
売れ行きにも相当な影響があるのは事実。

その中で「微妙にズレる」感覚を味わおう。
もっとも「ガラパゴス」と言われるかもしれないけれど。

ある種の「洗練」には「鎖国」が大きく作用するとして
「開国」の中にも乱れ咲く「花々」はあるということでよろしく。

明日はいつもより早く出かけなければならないのだが
そういう日に限ってついつい。
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「売ること」について

2012-04-05 03:22:09 | Weblog
晴れ。一転おだやか。

ベック「危険社会」をとりあえず読了。

ただし今日はドトールの隣りの席で
人材派遣会社の上司と部下が延々とロールプレイを続けていたので余計に読解できず。

素人なりに思うのは「営業の基本」が「自分をだますこと」だということ。
本当に「相手のためになる」と思い込めば説得力も出るのは「宗教」と同じ。

あるいは「自分の利益のために」と徹底した割り切りをすること。
たとえば老人たちに「要らないもの」を売るためにはそうするよりないだろう。

自社の商品を「客観的に」判断しては「迷い」が出る。
そしてそれは間違いなく「態度」に出るはずで。

「本当にいいもの」を自信を持って売る「幸福な営業」もあるのかもしれない。
とはいえどこの世界でも「幸せ」は限られているのが「定石」。

特別な話術やカリスマ的な雰囲気でもあればいざ知らず
「普通の人」には難しいことだろうと推察するのみ。

たまたまそこに「幸福な出会い」があり
互いに十分納得できる「結果」も生まれる「幸運」はなきにしもあらずだけれど。

さて。

商品は自らいくら「商品」だと名乗っていても
売れた「瞬間」に初めて「商品」になる。

その「飛躍」にはさまざまなパターンが無限にあることは理解しつつ
あまりの目まぐるしさと途方もなさに個人的にはうなだれるよりなく。

そのあたりを「偶然」だと片付ければ「営業」は成り立たず
そこに「人為的な効果」を見出せばこそ「評価」もされるわけで。

いずれにせよ人は何かを切り売りして生きていかねばならない。

あなたは今のところ何を売っているのか聞いてみたいものではある。
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「風」について

2012-04-04 03:28:10 | Weblog
春の嵐。春一番が吹かないと起きるとのこと。

仕事が休みになるのではという淡い期待があったものの
結局出かけることになり傘一本折ってコンビニで傘を買うことになる。

久方ぶりに身体を浮かす風を味わう。
坂道で後押しされると軽快に歩けるのが気持ちいい。

仕事場では「バケツをひっくり返したような」激しい雨も。
室内から見ているぶんには面白く。

とはいえ夕方には晴れる始末で
低気圧はまるで「じゃじゃ馬」のように駆け抜けた模様。

たまには「翻弄される」のも楽しからずや。
それもまた「思い出」になる。

若い友人が「年をとった」とのたまうので
「若者がそう言いたがり年配の者が若いと言いたがるのがこの世の常」だと言っておく。

彼女はちょいと「道に迷って」いて
そこからなかなか抜け出せない。

「殻を破る」のは悪くないことなので
「その鬱屈を未来に生かせよ」と祈るのみ。

何よりそうした「経験」は人を「やさしく」する。
いたずらに相手を気遣う種類の「やさしさ」とは異なるもので。

近頃やたらに「吹き上がる者」が多いのは単なる「経験不足」だと思っていいだろう。
「視界」や「視力」は常に「限られたもの」である「事実」を知れば。

いずれ「風まかせ」。

「明日は少しマシになれ」と歌ったのは中島みゆきで
「傷つくことだけ上手になって」と書いたのはつかこうへい。

「真実の言葉」は簡潔に人を刺す。
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「同じ運命を生きていること」について

2012-04-03 03:59:25 | Weblog
晴れ。夜になっても風なく暖か。

ベック「危険社会」はようやくあと少し。

それにしてもこの「知的体力」には恐れ入るよりない。
抽象的論理の「精度」の高いこと。

「科学」が「問題」を生み出し
突き詰めると「自らの根底」まで揺るがすことになるというのがなかなか。

それでも「科学」に頼らざるをえないところはあり
「科学=新しい宗教」の下で人々は動く。

深夜「モアイ」で有名なイースター島を採り上げたTVを観る。

かつては数百万本の熱帯雨林があったとのこと。
今はとりあえず植林活動をしているらしいけれど。

モアイを海岸沿いに並べたのが日本のある企業だという話には記憶がある。
ただしそもそも誰が何のためにモアイを大量に作ったのかは不明のまま。

当時の原住民が自分たちの集落を守るために作ったものの
互いの勢力争いのせいで森が消え人々も消えたとも。

「つわものどもが夢の跡」というのはいずこも同じ。
あらゆるものもやがてすべて消えるのが「運命」か。

さて。

他人の「ダメさ」をあげつらうことはいかにも簡単で
文字通り誰にでもできることなので誰もがすること。

経験則から言うなら
「大したことのない者」ほど「自分より下の者」を見つけてはあやしげな「土台」を固めたがる傾向がある。

そこで忘れられているのは「誰もがそこそこ幸せでいられること」だろう。
そして「より望ましいもの」を確認して進めること。

もちろん「自分の感情」のみを「世界」に投影するのも「貧しく」
いたずらに「悪玉」を見つけたがるのも同様に「貧しい」。

「自分の愚かさ」にはできるだけ「敏感」でいたいもの。
そしてそのためには数多くの「対話」が必要なはず。

誰もが「やがて消える者」ならば
そのあたりについては「同じ思い」を持つことができれば「幸せ」。
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「日々と倫理」について

2012-04-02 03:57:32 | Weblog
晴れ。やや寒さが戻る。

今日もほぼひきこもり。
グダグダしたまま一日が終わる。

家にずっといるとタバコの本数が増えることに気付く。
酒についてはあまり変わりない。

以前の同僚からメールが届いていた。
彼は「官僚」として「立派」になれるだろうか。

「また飲もう」と返事しておいたけれど。
こればっかりは「ご縁」次第でどうなるかは不明。

非常に真面目な男なので
「ひょっとしたら苦しむことになるかもよ」と言ってはおいたのだが。

とりあえず「楽しく暮らせる」ことを祈るのみ。
それも彼の「最低限」がどこにあるのかによるのだろう。

理想を言うなら「他人のためになる仕事をしてそこそこ儲かること」。
さらには「好ましい他人のために金を使うこと」。

ある種の「倫理」として考えておいた方がよさそう。

もっとも個人的には「自分のためになる仕事をしてあまり儲かっていない」。
「好ましい他人のために少しだけ金を使っている」というあたりか。

何とも情けない限りで「甲斐性なし」という言葉が思い浮かぶ次第。
それも「ご縁」というのが相変わらず「自分に都合のいい解釈」。

とはいえ何だかんだと「恵まれている」自覚はあったり。
関係各位には感謝するよりない。

そして「また明日」。
目が覚めれば「同じようで同じでない一日」が始まる。
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「希望」と「疑惑」について

2012-04-01 04:29:33 | Weblog
晴れ。だったはず。

予想通りぐずぐずして過ごす。
タバコを買いに出た以外は引きこもり。

今日はまともに本も読まずじまい。
TVで「世界卓球」と「世界フィギュア」を長々と観る。

前者では岸川聖也という選手のキャラクターに思わず笑ってしまう。
強豪ドイツ相手の団体戦で唯一勝ったのだけれど、どう見ても身体つきが「運動選手」に見えない。

全体にただよう「ぷにゅぷにゅ感」がいい感じ。
とりあえず「不出来な仏くん」と呼んでおいた。

いかにも「独自の世界」を持っていそう。
今後の活躍を祈りたい。

後者では高橋が銀で羽生が銅。
高橋のフリーはブルースを背景にしたものでもっと評価されていいのではないかと思う。

羽生は「震災」という「悲劇」をそのまま演じたのだと感じられる内容。
予想以上に「必死さ=緊迫感」が評価されたのか。

ただちょいと違和感があったのは全体の雰囲気。
会場がニースであるにもかかわらず日本企業の広告と応援団の姿が目立ち。

演技の途中でやたらに声が上がるのもいかがなものか。
自分が知っている「従来の大会」とはかなり異なる印象。

どこか「仕組まれている」というかスポンサーに配慮した「分配」の気配がなきにしもあらずで
これが杞憂であればいいのだけれど。

もちろん選手たちの「誠実」は疑うべくもなく。
だからこそなおさら気になるところがあるというもの。

せめて「スポーツ」だけでも
「公平な評価」があってもらいたいと思いつつそれは「ナイーブ」なのかもしれない。

やれやれ。

確かなものなどどこにもないのはすでに「常識」だと思いつつ
今宵も飲む。
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