退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「ゆれること」について

2012-04-09 03:13:55 | Weblog
晴れ。おだやか。

自宅近くの川沿いで久方ぶりに身内で花見をする。

ところどころきれいな風景がある。
大音量で音楽をかけて踊ったりバイクのエンジンを吹かしたりする若者たちも。

妹が買ってきた弁当を食べてシートの上でしばし横になる。
うららかな日差しの下なぜか「竹田の子守唄」が頭の中で繰り返し流れ。

実に「幸せ」なはずなのに「退屈」な時間。
買い物に付き合ったあと図書館へでかける。

蓮實重彦・黒沢清・青山真治「映画長話」をドトールで読む。

かつての「先生とその教え子」の対談。
あらためてそれぞれに限られた「視力」について思う。

「映像」を見ているはずなのに「物語」に流されてしまうこと。
かつて「総合芸術」と呼ばれた「映画」の「複雑さ」をわれわれは捉えきれない。

それはたとえば哲学でいえばカントの「物自体」と同じ。
「感覚器官」の「性能あるいはあり方」によって「世界」は違って見える「当然」。

「先生」蓮實重彦は「映っているのに見えていないこと」を怖れよと言っている。
「ショット」は「わかる人にはわかる」のだとも。

敢えて「抑圧的にふるまう」のはむしろ「打ちのめされたい」からだとしよう。
「圧倒的な出来事」を感じられる「世界」を見よと。

それが「虚構=フィクションの『力』」なのだとすれば
「人はパンのみに生きるにあらず」というのは全く「正しい」。

なるほど「官能的」というのはこういうことかと今更納得する。
ある種の「知性」はそのような「趣味」を持つものらしい。
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