退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「働くこと」について

2012-04-14 03:15:09 | Weblog
くもり。夜に雨もパラパラ。

ジグムント・バウマン「新しい貧困 労働・消費主義・ニュープア」を途中まで読む。

1806年の無名の靴下製造業者の声明がなかなか。

「私は規則的な時間と規則的な習慣を、人間に対する最大の侮辱だと考えた」
「自分の好きな時に出入りできず、自分たちが望む休暇もとることができず(後略)」

かつてはこうした「プライドある労働者たち」が「普通」にいたものの
無条件に「働くことが正しい」という「労働倫理」の導入以降、人々はそうした「プライド」を「金で売った」と。

国際的な企業が「利益」を上げるためには「人件費の削減=失業」が「必要」で
その「事実」は統計上明らかでもあり。

「消費者」は絶えず消費するように追い立てられ
次々と現れる必要のない「新商品」を買うのが「理想的な消費者」であったり。

「アンダークラス」の人々は自らの「怠惰」のせいでそうなったのだという解釈が「当然」だとして
「余剰人員」として失業状態を固定されてしまうことも。

「アファーマティブ・アクション(一定の割合で特定の人々を成績のみでなく合格させること)」によって
「安定的な地位」を確保した人々がむしろその「制度」を否定したがることなど。

いやはや。

「人間の美徳」として「まともなこと」が片隅に追いやられ
いたずらな「貨幣の多寡」のみが「正しさの基準」になった世界にわれわれはいるらしい。

もちろんすでに出来上がった「システム」は強固で
なまなかなことでは「対抗」できるものではないことを承知の上で。

働くということについて
あらためて考えてみてもいいのではないかと思うのだが如何。

そこにはもちろん「シャドウワーク=影の労働」という「賃金を支払われない労働」もあり
「家事」は誰にとってもたいていは「めんどくさいもの」だという「事実」もある。

それぞれが「身銭を切って」経験を重ねた上で
「どういう暮らしが望ましいのか」と今あるものを「チャラ」にしてみる「思考実験」はしてもいいはずだろう。
コメント
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