退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「増える雑音と消えた心意気」について

2011-05-27 02:37:41 | Weblog
くもりのち雨。パラパラ降る。

作田啓一訳ルソー「社会契約論」を途中まで読む。

このところドトールでの読書が周囲の喧騒のせいで今ひとつ。
ややオープンな座席だと余計に集中しづらい。

自分に落ち着きが足りないのかもしれない。
静かに過ごせる昔の「喫茶店」のような店を見つけるべきだとは思うものの。

「客単価が安い」という経済的な理由のせいか
町から「落ち着ける場所」が減ってしまったという「言い訳」もないわけではないけれど。

たとえば必ずと言っていいほど話の中身と比例するように「不幸な臭い」のする不自然な笑いと声の大きさ。
「キャリーバッグ」という不快な音を立てるかばんのゴロゴロ(お年寄りは仕方ないのでOK)。

テーブルの上でプラスチックの灰皿がコマのように回って立てる音や
「かかとを上げて歩くこと」も知らずやたらにドタドタもしくはカンカンという靴音。

あるいは時間帯に関係なく大きな音で閉められるドア、
身体を投げ出すように電車の座席に腰を下ろす動作も含めて。

気分はほぼ「他人の心の声が聞こえる超能力者」と言うのは大げさか。
彼ら彼女らは疲れ切っているのかその言動には「弛緩」しか感じられない。

「たまたま同じ場所にいる他人」には「無関心」であるのが基本とはいえ
その「所作」をもう少しどうにかしていただきたい。

かつて永井荷風は近所から聞こえる「ラジオの音」を不快に感じたという。
そこまで「神経質」ではないつもりなのだが。

麻雀マンガ「哭きの竜」の主人公の台詞になぞって言えば
人々の「背中」だけでなくあらゆるものが「煤けている」。

「ボロは着てても心の錦」と歌ったのは水前寺清子だったか。
そのような「心意気」はどこに消えてしまったのだろう。
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