退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「理解」について

2011-05-28 04:26:05 | Weblog
くもりのち雨。深夜になってもパラパラ。

ルソー「社会契約論」読了。
ただしもう一度読み直さないと評価は出来ない状態。

とりわけ後半は当時の政治組織についての固有名詞があれこれ出てくるので
とりあえず読んでしまうだけに終わってしまった。

ひとつだけ面白かったのは「等比数列」を使って説明しているところ。
それだけで割り切れるものではないがと断っているあたりの「科学を過信しない」態度は好ましい。

深夜に朝生を観る。

飯田哲也は前回に比べればややマシ。
彼の専門外なので仕方はないけれど「内部被爆」の話が一度も出ないのが残念。

さらに司会の田原総一郎の「無意味な決め付け」の「ダメさ」がさらに明らかになった。
誰も「正解」がわからないものになぜ「正解」を出させようとするのか。

たとえそれが「敢えて」であっても
それはただ「質問する側」の立場の「優位」をいたずらに見せるだけ。

「知恵」を集めて解決策を探るしかないのなら
いわゆる「斬る」という形で物事を処理しても仕方ないのは自明なはずなのだが。

そもそも被災地の人々にとってはすべて「どうでもいいこと」だろうし
幼い子どもを持つ人々にとっても同様。

大人の基準と幼児の基準を同じにしてもいいのかという話も出ず。
「人は自分の興味のあることについてしか話せない」という「限界」を再確認する。

「過去のデータ」を「真実」だとする医者は
たとえば水俣病における「疫学的な想定」の「正しさ」を受け付けない模様。

誰もが「絶対的な正しさ」を言えないことは「常識」なのだから
互いにもう少し「謙虚」にはなれないものか。

そしてそれはひたすら「正解」を求めるだけの人々にも言えることで
「わからないこと」に対してはそれぞれが「大事なこと」を挙げて押さえていくしかない。

もはや「真実」を知る人などどこにもいないのだということ。

おそらく「重要なこと」は
互いに「敢えてもの申したくなる人」にしか出会わないことかも。

それぞれの「懸念」が一向に消えない理由はどこにあるのか。

そこで味気ない「事実」をひとつ。

あなたは相手を決め付けることがあるけれど
相手は必ずしもそういう存在ではないというあたりがおそらくは「正しい」こと。

「あいまいさ」を抱えて生きるしかない「事実」を素直に受け入れよう。
出来れば相手の「本意」を理解できるように。
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