退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「誰も見ていないところを見る人の作品と明晰ゆえに曖昧にならざるを得ない人」について

2020-10-10 02:32:34 | Weblog
雨。今日も終日降る。

蓮實重彦「『ボヴァリー夫人』論」を途中まで読む。

「ボヴァリー夫人」は3人いるじゃないかという冒頭の指摘がいかにも著者らしく。
いつものパターンだなと思うことしきり。

誰もが「見逃していること」を見ている人。
その後は「資料のあれこれ」は十分にチェックしているぞといった趣き。

わかりやすい「二項対立」を敢えて立てた上での展開。
「論理的な正しさ」に納得する一方であまり「刺激」を感じないのが不思議。

それはおそらく半世紀以上の時間をかけるほどの「愛着」がこちらにないせい。
同時に著者の作品をいろいろ読んでその「パターン」に慣れてしまったからだろう。

「自由間接文体」というのが興味深い。
言われてみればなるほどという「描写のスタイル」で。

「農業共進会」の描写を懐かしく思い出した次第。
「要約は万引きあるいはウソであること」を忘れずに。

「欲求不満の妻が不倫の挙句自殺した」というのがそれ。
フローベールが書いたのはそんなチンケなものではないということでよろしく。

明日も読む予定だが到底最後に至るとは思えず。
来週末に読了した際の「感想」がどうなるのかが我ながら気になる。

藤井謙二郎「曖昧な未来、黒沢清」(’03)を観る。

「アカルイミライ」(’03)の撮影現場と監督キャストスタッフに取材した作品。
「コミュニケーションの不可能性」は「地獄の警備員」(’92)以来変わらない認識ぶり。

その明晰ゆえに「曖昧」にならざるを得ない演出にふむふむ。
監督は常に「怖れ」を抱いていて。

「自由に溺れること」を本気で怖れているあたりが何とも「まとも」。
ただしいざとなったら「自らの『狂気』を全開にする」あたりがなかなか。

「どうしてこんな世界に生きていて狂わないでいられるのか」。
それが「倫理」として他人に迫る「密やかな怒り」よ。

その一点だけでも「信頼」に足る人物。
このところその作品が評価されているようでうれしい限り。
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