退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「捨て身になること」について

2012-04-25 03:09:00 | Weblog
晴れ。夏日。

土井隆義「友だち地獄」を読む。

真綿で首を絞められるような「やさしさ」の中
短期的に最適な手段で「環境」に「適応」すると「安定」も「承認」も手に入らない。

どうせ苦しむのなら「未来」のある苦しみを甘んじて受け入れ
「絶壁」のような相手に「抑圧」された方が「マシ」ではないのか。

あるいは「孤独」であることを怖れず
そこからあらためて他人とつながる道を見出すのもいいだろう。

「自分のことはよくわかっている」という「証文」は誰にでも発行できるもので
その「自分の視点」が「まとも」かどうかは自分には測れないものだとしたら。

とりあえず「世界」は高の知れた「自分」よりはずっと複雑なはず。
思いがけない「居場所」を見出さないとも限らない。

もちろん最後は自ら「選択」するよりないけれど
あらためて「他人」あっての「自分」だという「事実」を忘れずに。

「現在」をまるで「永遠」のように思うのは
たとえその「切実さ」を理解したとしても「まちがっている」。

人は年をとる「生き物」。
「時の流れ」は確実に「変化」をもたらすもの。

「純粋さ」を評価したくなるのは
それが「あらかじめ失われてしまったもの」として「固定」されているから。

ところでなぜ「あらかじめ失われている」のかを問うたことはあるのだろうか。
そこにおそらくは「カギ」があると思われるのだが如何。

「たしかなもの」は「うずくまったまま」では手に入らない。
仮にそれが「静止しているように見える独楽」であればオーケー。

「堂々巡り」から抜け出すためには
「目をつぶって跳ぶ蛮勇」が必要かもしれない。

その種の「通過儀礼」は周囲をよく見回せば実はどこにでもあったり。

ご縁があったら付き合うつもり。
誰を待つともなく過ごす日々には慣れているので。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。

そうした「手段」もあることをお伝えしておく。
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