扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

在所へ還った松平 −奥殿陣屋−

2012年02月19日 | 街道・史跡

義母を看取って早10日。
ここのところ、実家に帰っていなかったこともあり1週間豊田にいる。

御袋様が骨董市に行きたいから連れて行けというので珍しく親子で出かけた。
出かけたといっても行き先はクルマで30分ほどの豊田市内、奥殿陣屋である。

奥殿陣屋というのは奥殿藩1万6千石の小藩の政庁をいう。
以前、松平郷に出かけた際にも地元の史跡に無関心だったことに驚き反省しきりだったが、当然、こちらも行ったことがなかった。
位置的には徳川家康の御先祖の本貫、松平郷の隣、矢作川上流の山裾にある。
現在の住所は岡崎市。

徳川家というのは家康の代で一挙に全国区となり幕府を開くに至るが、祖先が松平郷に流れて来、土着して松平家の養子になったことから徳川家の歴史が始まることになっている。
日本の武家とはおもしろいもので源氏も平氏も本貫地がある。
多くは地名を名字とするため武家の在所を探すとほとんどの場合、地名に行き当たる。
ところが名字と領地が一致する場合というのは極少なく、皆、本貫を離れて家運を開いた。
中世日本の都市はほぼ例外なく盆地か山裾にあった。
当然、武士の本貫も山にある。
故郷を出て名を上げるというのは近世までに山を降り平地に新居を定めたということだ。

松平氏は無論、松平郷が本貫である。
松平氏は諸流に分かれ俗に十八松平などという。
家康は無論、徳川こそ松平氏の氏の長者ということにせざるを得なかったろう。
ただし、家系からいうと徳川につながる松平氏はいくつかある松平氏のひとつに過ぎないということになる。
一族の中で会社を興しめきめき成功した者が親戚のおじさん達を自分の会社に招き寄せたという感じだろう。
江戸時代、松平諸氏は家康の親族ということで優遇された。
優遇といえば聞こえがよすぎるかもしれない。
家康は親戚のおじさん達よりも自分が抜擢した古参の重役や買収した会社経営者(伊達やら藤堂やらだ)の方に期待した。

家康は今川氏と訣別した際、松平に復し当然子も松平を名乗った。
そして徳川という家康が創始した名字にはずれる子孫を松平と名乗らせた。
そのせいで松平には家康から始まる「新」松平と家康以前からある「旧」松平の二種類ができてしまうというややこしいことになる。
旧松平系は幕閣の中核に座ることはなく身代も小さかった。
対して新松平は家康の忠臣の子孫と並び全国に散って要衝を守った。
身代も大きい。
越前の結城秀康系や会津の保科正之系などが代表であろうか。

旧松平の人々はその代わり先祖代々の土地をずっと保証されていた。
といっても米がざくざくと取れそうな土地ではなく濃尾平野に張り付いた山裾である。

ここまで前置きしなければ奥殿の松平氏(大給松平)がどういう人々だったかを想起するのが難しい。

家康は三河から出て遠江、駿河、信濃と侵攻したところで天下人が信長から秀吉に代替わりし、先祖伝来の地も切り取った土地も全て秀吉に取られ代わりに関東王となった。
当然、家康の譜代家臣同様、松平諸氏も家康に従って三河を出て行き関東平野に引越した。
山深く、天狭い松平郷からすれば関東平野はあほらしいほど天が広く感じられたであろう。

幸いだったのは秀吉が家康が三河を失って10年もたずに死んでくれたことである。
家康は三河のみならず全国の人事権を取り戻した。
松平の家康のおじさん達も転勤させ放題である。

奥殿藩祖の松平氏は家康に従って大坂の陣に行きその功で土地をもらうことになった。
その時、当主の松平真次という男は「これはもう先祖の地、大給に戻していただく以外に望みはありませぬ」と願い出て許され、二代将軍秀忠によって大給城にて三千石の旗本になった。

三千石といっても前述のように東海道の要衝とか畿内の話ではない。
軍事上も経済上も幕府にとってどうでもいい地勢と思ったであろう。
大給松平は二代目の乗次の時1万6千石に加増されて大名に連なり、四代の乗真が正徳元年(1711)年、奥殿に陣屋を築いて大給から移った。
ちなみに大給松平氏の所領の内、奥殿周辺は4千石に過ぎず、1万2千石分は信州佐久郡にあった。
ふつうの江戸の大小名の感覚であれば所領の大きい方に城や陣屋を持とうとするであろう。
藩の当主や家臣の中には「いっそ信州へ引っ越そうか」と言い出すものもいたはずだ。
その度、たぶん老臣歴々が「あいやこの地を離れてはなりませぬ」と言い張ったであろう。
その者はそう言いながら内心、自分自身が引っ越すのがいやだったはずだ。

奥殿の陣屋には当時の建物はすべて明治に破却されて何もない。
石垣やら空堀やらの遺構もない。そもそも当初からまともな要害ではなかったろう。
わずかにこれは土塁かというほどの土盛りを見るのみである。
ところが陣屋の裏手の山にある歴代藩主の墓というのが立派なのに驚く。
ここだけは10万石の大名クラスといえるだろう。
江戸の大名で城内で先祖歴代の墓をしかと守れた家は少ない。
移封があれば菩提寺を定めて後々も守ってもらうか、墓石ごと引っ越していくしかない。

陣屋跡にはささやかな資料館があって藩主の功績や年表などが紹介されている。
そういえば、幕末に活躍した永井尚志は奥殿藩主の庶子であった。
この人は石頭ぞろいの幕閣には珍しい開明派の官僚として名高く文官かと思えば五稜郭まで戊辰戦争を戦う武人でもあった。

そして最後の藩主、松平乗謨(のりかた)は文久3年(1863)になってやっと藩庁を佐久に引っ越した。
この殿様はフランス語に堪能で幕閣に参加し若年寄から陸軍総裁にまで出世した。
佐久の領地には五稜郭のような星形要塞を造りだした。
徳川の世が瓦解すると肥前の佐野常民と共に「博愛社」を興した。
日本赤十字社の前身である。

都会に憧れず三河の山村を捨てなかった大給松平というのも「偉いなあ」と思った。
田舎とは時に珍人を放つ。

以上のようなことを母親が骨董市を冷やかしてうろうろしている間に考えた。
これはこれでおもしろい時間であった。


私のような三河の田舎で一生を終えるべき者が、次男坊で少しばかり勉強ができたばかりに故郷を捨てかけている。
おかげで死んで骨になればどこでどうなるものやらわからぬことになっている。
我ら夫婦の墓やら葬式やらはどうするか考え出したこともあって、先祖の土地にしがみついて墓を守るというのも案外捨てたものではない人生ではないかと思った。

 
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土塁跡

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奥殿藩、藩主の墓所


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