はてさて、やっと見つけた・畑神社の提灯山笠の新たな資料、こんな歴史がある様です。
・子毅氏の『・畑「提灯山笠」と死者儀礼』
いろいろ山笠の由来を調べています。
そこには、やはりこの地特有の工業都市の成立が関与しているのでは とするのがこの方の趣旨の様です。
確かにあの勇壮な山笠を担ぐには、それ相応の屈強な若者がいなければ出来ない祭りです。
そのエネルギーが、祭り発祥の時代にあの地にあったと考え、各人のそのエネルギーが山笠に結集したと述べています。
この論文を要約すると、そこに書かれている驚愕の事例が浮かび上がります。
何と山笠のルーツは、あの・光神社にあったと書かれています。
明治期には、この神社でも提灯山笠が曳かれていたと。
今でも昼間の飾り山笠ありますし、もっと賑やかだった高度成長時代、それ以前の黎明期間違いなくより多くの山笠ありました。
何故・畑と・光で提灯山笠の歴史が変化したのか?
この方の結論は、やはりあの製鉄所が関与していたのだろうと考えています。
この地で育ったといっても、時代に差があるため、おらっちゃの思い出とも一致しないのは当然です。
・光での提灯山笠は、飾り山笠に提灯つけて曳いていたものが戦後まもない頃あったらしい。
そー云えば、そんな記憶も微かにあると云えば・・・・て感じです、記憶力の悪いおらっちゃですが。
聞き取りによれば、大正時代には正式な提灯山笠が曳かれていた様です。
また、その際にはお汐井とりも近くの海岸で実施され、町中を練り歩いたとのことで、昭和に入る頃にはその行動は消滅してしまったらしい。
一方・畑では逆により盛大になっていっています。
古老の話では、各々の町の山笠、・光では13段、・畑では12段と本家を超えてはならない分家の関係が・畑の山にあった様です。
また、山笠への製鉄の係わり方が、これを助長したらしい。
・光は、当時製鉄所の中でも本事務所と呼ばれる事務・技術集団のエリート職員が勤務、住む町であった。
そーエリートは自分では手を出さない、金は出すがと云った点にある。今ではその面影もないが、当時はそーだったらしい、エリートの町として。
祭の直接の原動力にはならないが、相応の寄付金は出していた様である。
こんな川柳が残されている。
「寄付金で祇園の山を曳き廻し」
当時の地図を見た限り、そーも云えないが、詳しく調べたこの方の意見に一応同調しておきましょう。
まだまだ知らべる余地はありそうです。
それに対し、・畑では製鉄所のいわゆる労働者「職工」が流入しつづけ、明治30年代数千人の人口が昭和に入ると、・数万人に膨れあがっている。
当然、祭りの曳き手もそれに比例し、また労働者であれば力仕事については朝飯前の作業で、それに対する偏見も当然ない。
そんなところで提灯山笠が盛大にそして喧嘩山として、互いに地区毎に競演していったと考えられる。
さらに、この山笠の持つ慰霊と顕彰について述べているが、ここではその内容は省略させて貰おう。
ただ、流れとして戦争中における日章旗や万歳の祝声とともに国威発揚のシンボルとして挙げられる「提灯行列」、
この行列、日清、日露戦争におけるその勝利とともに祝賀ムードとして、民衆が戦勝祝賀パレードなどの形で率先して行った様で、
その流れがこの山笠にも・・・。
・光と・畑の山笠の歴史が挙げられ、そこでの時代変化が見られます。
地元出身として、うーん、そーだなー?!と、云えるかな。
今後もさらに資料があれば、またまた追加して述べましょう。
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