畳屋の注文取り

2010-02-01 15:04:43 | 昔話
 暗い雨模様の午後、電話のベルが鳴った。 受話器を耳に当てて「もしもし・・・」と僕 「こちら、畳屋ですが、何か畳の御用はないか、お電話を・・・」と今までにも聞いた事のある中年女性の声。 「今の所、予定はありませんので」と僕は返事する。 断りの返事を聞くのには慣れた様子で「そうですか、 御用が御座います節には・・・」と相手は答えて電話を切る。 年に1・2回はこうやって畳の仕事の注文を聞く電話が入るけれど、中古の住宅に住み着いて以来、20年以上も経過する我が家では、今迄のところ新床に入れ替える事はおろか、表返しもした事が無い。

 僕の父親は祖父の代からの畳屋をやっていたのだが、 第2時世界大戦が終わった後、僕が中学生になる時期までは日本全国至る所貧乏だらけだったろうけれど、畳屋稼業の父の仕事は本当に少なくて貧乏な暮らしをしていました。 我が家は税金も満足に払えなかったらしく、税務署の人がやって来て、ガタピシやらなければ引き出せない古い箪笥にまで赤い色地に黒いインクで印刷した差し押さえを表示する紙が貼られた事を覚えています。 その箪笥が家の中から無くなることは無かったから、親はどうにか金を工面して税金を払ったんでしょうね。 江戸時代には代官所が置かれ、小さな町場を形成していた僕の田舎も、少し歩けば畑の広がる農村地帯でした。 父の仕事は農家が秋に農作物の収穫で収入を得た時期か、嫁を迎えるために座敷を手入れする話しの時にポツンポツンと有るだけでした。 そんなたまにしか無い収入で生活は成り立たないから、父や母はいろんな仕事をしていました。 近くの川原で建築資材用の砂利ふるい、 輸出用の造花の内職、 梨の時期には栽培農家から仕入れた梨をリヤカーで引き売り、 駄菓子屋、 その店先で夏にはカキ氷、冬には焼き芋。 もちろん僕も手伝いました。 小学生の頃には川原での砂利ふるいも、 カキ氷の配達や、店番も。 そして中学生や高校生の頃には焼き芋原料のカマスに入った重い芋を購入先の農家からリヤカーに載せて家まで運んで来ることも。 

 今の時期の畳屋さんもきっと仕事は激減して困っているのでしょうね、 景気が悪くて住宅着工件数が減少しているばかりで無く、部屋の間取りも畳敷きの部屋が少なくなっている事も有るようだし。 
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