脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

それらは敬語ではありません

2013-06-06 | Weblog

あるスポーツ学校のバットを持ったあまりかしこくない軍団、こいつら親玉の前ではおとなしいが親玉が見ていないところでは態度がでかくて行儀がわるい、たばこをすっているところを目撃されているし、実際に私もたばこを持っているのを見ている。
親玉もこういう奴は俺じゃないと抑えられないと勘違いして得意がっているのだろうが、しかしこういう性欲と体ばかりは成長するが、肝心なところは成長していなようなぎらぎらした奴らがほたえると周りはかなり威圧される。
この前も大阪で電車にそういう軍団が乗ってきて、ほたえていたのだが、そいつらが仲間と電車の中でじゃれあって食べ物をまわして食べている姿は、まさにチンパンジーのバナナのまわしあい、せめて電車ぐらいはおとなしくしてろと思うのだが、こいつらが電車で座って本など読んでる姿を見たことがない。

今韓国語を教えているのだが韓国語は日本語に近いが、しかし助詞のつかいかたや表現の仕方が違う。
ひとつ表現の違いをあげれば、過去の人を指す時の違い、日本語で話をしていて過去のある人物が話題になると「あの人」と言う、例えば「この前ミーティングで斜め前の席にいた人ほらほら」「あああの人ね」と言うような感じであるが、しかし韓国語では過去などの人を指す時は「その人」を使うのだが、ここが日本語や英語に比べて人の関係が近く違うところである。
また韓国語はしばしば会話では助詞を省いてつかう「私は日本人ではないです」を「私 日本人ではないです」と日本語では助詞がぬけるだけでかなり違和感があるのだが、しかし当たり前だが目上の人に話す時や文章を書くときはきちんと助詞をつかって書かなければいけない。
韓国語は敬語を徹底させている。さっきのバットを持った軍団の話だが、こいつらの世界では一応服従を示すような言葉を使えば敬語とみなされるのだから、始末に於けない。

その群れの親玉の言葉がとぼしければ、その群れのレヴェルがわかる。
親玉がきちんと言葉が話せないとまわりに集まってくる奴もそれなりの人間で、中にはやっかいな奴もいる。こういう奴らをひきよせて窃盗事件や暴力的なことがしばしばおこると言うのは、指導者がきちんと言葉を持っていないからだ。
しかしここで何も学がないということをバカにしているわけではない。私が言いたいことは日本語でも英語でももっと言葉を勉強しろ、言葉が話せないとはずかしい、言葉の重要性がわかっていないということで、同じようなレヴェルでかたまっていたらそういうことはわからない。

日本語がきちんと話せない奴はあいさつしろとか、礼儀がどうだと言うが、しかし大切なのは言葉そのものをどう使うかということで、指導している人間がきちんと言葉を学んで日本語を話せば、あいさつも次第とできるようになるし、礼儀正しくなるものだ。
問題は何の意味もわからずに、ただ服従させるために上から押さえつけるためのあいさつや敬語はかえって人の顔色を見る人間になるだけ、スポーツクラブが愚連隊や暴走族がつかう敬語とほとんど同じでは意味がない、何のためのスポーツクラブか?あいさつとか礼儀と言う前に自分たちがまず日本語を正しく話す必要があるのではないか。

学生の頃ある人から手紙をいただいたことがある。
その方は非常に学のある方で、そのしたためられた言葉は非常に丁寧で、きれいな日本語で異国にいる私のことを気遣ってくれる様子がひしひしと伝わってきた。
私はその方の気遣いと日本語に感銘を受け、日本語と言うのは素晴らしい言葉だ、言葉は力だということを実感したのだが、言葉を理解して正しく使うということは、時には人を感動させ、そして勇気づけるものである。言葉と言うのは力である。その力である言葉をしっかりと学び蓄えることが、人間の力になるということを信じている。







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携帯電話のかけかた

2013-06-04 | Weblog
私は昔電話でうっとうしい会話になるとあるしぐさをする。それは携帯電話を持つ別の手で中指を立てながら話をするのだが、それは英語でいうところのF○CK YOUであるが、忙しい時とか夜の非常識な時間にかかってくる勧誘の電話にたいして、しかめっつらでもう一方の手で中指を立てながら、わかったわかった用があったらこっちからかけるから,もう二度とかけてくるななどと言うような感じで電話をきって、また再びきった電話に向かって中指を立てる。
あれは子供がまだ3歳になろうとするぐらいの頃、携帯電話に興味をもったことがある。
私は子供につかっていない携帯電話をつかわせていて、子供はその電話でよく電話をかける真似をして遊んでいた。
実際につながらない携帯電話であったが充電したら音も出るので子供は十分に楽しめる。その携帯電話を使ってうちの子供はよく遊んで満足していたものである。
しかしある時その子供が携帯をかけるようなしぐさを見てかなり驚いた。
何と彼は電話で遊んでいるときに、私がやっているように電話を持っていない別の手で、中指を立てたようなしぐさで電話をしていたのだ、どうやら電話と言うのはそういうしぐさでかけるものだと思っているらしい。最後の切った後のF○CK YOUまでは真似していないが、しかしこれはやばいと思ったので、電話は両手でかけるんだよとあえて両手でもたせて電話をかける真似をさせたが、この時子供と言うのは大人のしぐさをよくみているのだなあと感心したものである。

子供と言うのは大人の言動をよく見ている。前回の英語が理解できない、ホームページを見ても大人としてのきちんとした文章を書けない、俺たち勉強きらいでーす。というような雰囲気だだよう軍団が医学的にも問題視される子供のボクシングなどを奨励するのは危険で無責任だということをブログで伝えた。
前にも言ったが21世紀は特にスポーツは「わが国では」とか「われわれは」のレヴェルで物事を見るのではなく、グローバルスタンダードに立って世界はどう見ているかどう考えているかということを理解する必要があると言ったが、子供のボクシングも先進国である国の対応を見ればかなり消極的で、医師会がストップをかけているということが理解できる。
しかし俺たち勉強きらいでーすでは、英語が理解できないので、そういう情報を得ることができないばかりか、考え方がかなり固執したものとなる.
やはり21世紀のスポーツと言うのは学習能力が必要で、特にそれは指導する人間について言えることだが、子供にとってこういうせまい集団に入って影響されることが、いいことかどうかということは一般的な理解ができればわかることだと思う。

私がよくわからないのは日本人は話し合いになると必ずグループができることである。
これはよく理解できないがこういう傾向が村社会を生み出すと思っているのだが、特にボクシングははひどい、村社会ならまだいいが、仲間中心の暴走族的な集団だ。おまけに未だに師弟関係が存在するから時代錯誤の世界であるが、漫才の世界でもあるまいし、こういう関係をスポーツと言う横文字の世界でつくるのは非常に下品である。

日本人はグループをつくりやすい、特にスポーツの世界はそうだが、誰かが言ったことを誰かが擁護して、それに反対意見を言ったことを、そのグループがそれに対する反対を述べるのだが、日本では話し合いをすると必ずそこにはグループの存在があるのだが、問題は何をどういったかということではなく、誰が言ったかで、フランクに話しましょうなんて言っているけれでも、そこには力関係やグループなどがあって、異様なやりにくさを感じたものである。

はっきり言って2か国語や3か国語を話して、外国で学んだり生活したことがある人間は物事を広げる視野と言うものを持っていると思うのだが、しかし英語や語学に疎い人間が集まると自分たちの理解の幅を越えるのでそれを受け入れることができない。
この前話したUSAのルールブックは300ページぐらいで、さらに指導要領のような本があるが、これらはやはりUSAは多様性を認めなくてはいけない国家であり、ワールドワイドに物事を見ているからだと理解しているが、しかしそれにたいしてアマチュアボクシングはどうか?10ページちょっとの世界で、語学ができない物の見方がせまいとこういうところに大きな差が出てくる。

礼儀とかあいさつと言う前に公な場できちんとしたドキュメントを持つことは必要なことだ。
前にAIBAのヘッドギアの使用を義務付けたが、独占販売させたので、その発注が追いつかずに急遽WINNINGのヘッドギアを使用したらしいが、こういうことははっきり言って他の世界では通らない、バカまるだしとはまさにこのことだ、やはりこういったことは親玉中心の世界で、組織自体が機能していない、いわゆる自分たちはしっかりと何を守るべきかということがわかっていない、親玉中心の世界で暴走族的集団とはまさにこのこと、自分たちの機関が公であるならばきちんとした公的なドキュメントを持つべきである。

私は宗教学を勉強したが、宗教で集団ができ、それを組織化するために、まず行うのが宣言である。
その宣言はConfessionと言って自分たちが何を信じるかそしてどう生きるかということを文書化するのだが、その文書化に伴ってカテキズムと言うものがあって、これはその手引書みたいなもので、これらの文章はOfficial documentで、多くの人間が集まって群れを形成して組織化していくためには、ルールブックのようなものの文章化と言うのは、西洋では当たり前のことだと理解しているが、こういったドキュメントは非常に厳密に書かれ、かなり強い決定権を持つのだが、それは海外で自分たちが不利になるとルールの改正を求める西洋人たちの姿からうかがい知ることができると思う。

そういう公的なドキュメントを持たないということは、周りをよく見ていないということがいえるのだが、スポーツの世界は鎖国状態でひどすぎる。子供のボクシングに関しては中国なんかが金メダルを取りやすくなったので、子供の時から養成所に入れて訓練させているらしいが、はたしてそういう人権を軽んじている国がやっていることと同じようなことをするのが正しい事なのだろうか?
サッカーや他のスポーツならまだしもボクシングは頭をたたくスポーツだ、しかしその危険であるスポーツに対して日本のやっていることはその危険性について説明するのではなく(私はむしろその危険性を説明して自己責任を促すことの方が大事だと思うのだが)しかしただ大丈夫だということを強調するだけで、ひどい奴になると軽くうっているというような中学生の不良がするようないいわけをするばかりで、横文字で恐縮だが、こいつらにアカンタビリティーという言葉はない。
たぶんこういう言葉を聞いても何のことかわからないと思うのだが、人間の特に子供のデリケートな部分である頭をたたくスポーツであるのだから、まずその危険性を十分に説明した上で、自分たちはこういうやり方をしているということを伝えて、自己責任を促すことが大事なことであると思う。

そのため自分たちは何を守り、どういう理念に基づいて競技しているかということを公の文章としてまとめて持つことは大事なことである。


 

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