9・18歴史博物館内には、満州移民の資料も数多く展示されて
いる。今回は、天皇が1992年に語った
「我が国が中国国民に対し多大な苦難を与えた不幸な一時期」
の満蒙開拓の歴史について触れてみたい。
お断りとして、本来ならば、この役目は私などではなく実際に
開拓民として中国東北部に居住した人々あるいはその家族の方
たちがふさわしいのは当然である。しかし、同行予定のO氏が
都合がつかなくなったため不十分な点が多いことをご承知おき
ください。
下の写真の図は「日本移民分布図」で赤丸印は「青年義勇開拓
団」を表している。問題はその位置だ。大連や瀋陽といった南
西部にはほとんど赤丸はなく、新京(哈爾濱)以北のソ連との
国境地帯に多いことに気づく。
これは、戦局が不利になり、ソ連に対する備えを講じなければ
ならなくなった関東軍が「戦時緊急開拓政策」をつくり、若い
農村青年を主体とした「青年義勇開拓団」を国防第一線地帯に
入植させる、いわば「盾」にしたことの証左である。
この移民事業は敗戦とともに崩壊し、移民団総勢22万人のうち
現地で死亡した人は4万6千人。
行方不明者は3万6千人。
ソ連抑留者3万4千人という悲惨な結果を招いた。
そして、戦後中国に残された残留孤児たちの悲劇もここに始まる。
中国にとっては「移民侵略」のなにものでもないことが表題でわかる。
軍隊(関東軍)が異国を占拠、支配し、そこへ移民を行う。
これはブラジルへの移民と決定的に異なる。
「軍主導」か「(国主体でも)民間交流」かの違いである。
『開拓』とか『開拓共和』という雑誌も発行されていたことがわかる。
満州への移民は大きく3つの段階がある。
(1)試験移民期(1932年~1936年)
(2)本格移民期(1937年~1941年)
(3)事業崩壊期(1942年~1945年)
満州移民のきっかけは満州国の成立である。
満州国を統治し対ソ連防衛のための人材として当時の関東軍が日本の
農業移民に求めたことと、当時の日本は昭和恐慌期で農村経営は
最悪の状態にあり 加藤完治という人の唱えた
「土地飢餓に起因する日本農村問題解決の唯一の道は(中略)、
農村の二男、三男が大挙して鴨緑江を越え、満蒙の無限の沃野に
進出することである。」(出典:満州移民史研究会「日本帝国主
義下の満州移民」龍渓書舎刊:1976年)
という主張がベースになっている。
せっかくだから旧満鉄線を眺めてみようと博物館の裏手に廻って
みて驚いた。下の写真の赤丸で囲んだところに、石碑が無造作に
転がっている。どうも土の色から最近運び込まれたようだ。
もちろん、何の解説もないが、私達にはこれが戦前の日本人の手
によって建てられたものであることがひと目でわかる。ただ、こ
の場所はほとんどの入場者は気づかないところなので、私らが日
本人として第一発見者かもしれない。
旧満鉄関係者の霊を弔った石碑のようだ。
「満州事変殉職社員記念・・・」と彫られている。
「奉天妙心寺」というお寺があって、その住職がここで
経をあげたのであろう。
だれか偉い人の墓碑銘のようだ。
表側をひっくり返して見たい衝動に駆られたが、石は重す
ぎて男女3人の力くらいではどうにもならない。
しかし、この石碑は何故こんな「仕打ち」を受けてしまったので
あろうか?当然、旧満州に関わるものだからだろうということは
推察されるが、この先、これらがどうなるのかも気になった。
願わくは、この石碑も「歴史の証人」として9・18歴史博物館の
展示物として扱ってもらいたいと強く思う。
いる。今回は、天皇が1992年に語った
「我が国が中国国民に対し多大な苦難を与えた不幸な一時期」
の満蒙開拓の歴史について触れてみたい。
お断りとして、本来ならば、この役目は私などではなく実際に
開拓民として中国東北部に居住した人々あるいはその家族の方
たちがふさわしいのは当然である。しかし、同行予定のO氏が
都合がつかなくなったため不十分な点が多いことをご承知おき
ください。
下の写真の図は「日本移民分布図」で赤丸印は「青年義勇開拓
団」を表している。問題はその位置だ。大連や瀋陽といった南
西部にはほとんど赤丸はなく、新京(哈爾濱)以北のソ連との
国境地帯に多いことに気づく。
これは、戦局が不利になり、ソ連に対する備えを講じなければ
ならなくなった関東軍が「戦時緊急開拓政策」をつくり、若い
農村青年を主体とした「青年義勇開拓団」を国防第一線地帯に
入植させる、いわば「盾」にしたことの証左である。
この移民事業は敗戦とともに崩壊し、移民団総勢22万人のうち
現地で死亡した人は4万6千人。
行方不明者は3万6千人。
ソ連抑留者3万4千人という悲惨な結果を招いた。
そして、戦後中国に残された残留孤児たちの悲劇もここに始まる。
中国にとっては「移民侵略」のなにものでもないことが表題でわかる。
軍隊(関東軍)が異国を占拠、支配し、そこへ移民を行う。
これはブラジルへの移民と決定的に異なる。
「軍主導」か「(国主体でも)民間交流」かの違いである。
『開拓』とか『開拓共和』という雑誌も発行されていたことがわかる。
満州への移民は大きく3つの段階がある。
(1)試験移民期(1932年~1936年)
(2)本格移民期(1937年~1941年)
(3)事業崩壊期(1942年~1945年)
満州移民のきっかけは満州国の成立である。
満州国を統治し対ソ連防衛のための人材として当時の関東軍が日本の
農業移民に求めたことと、当時の日本は昭和恐慌期で農村経営は
最悪の状態にあり 加藤完治という人の唱えた
「土地飢餓に起因する日本農村問題解決の唯一の道は(中略)、
農村の二男、三男が大挙して鴨緑江を越え、満蒙の無限の沃野に
進出することである。」(出典:満州移民史研究会「日本帝国主
義下の満州移民」龍渓書舎刊:1976年)
という主張がベースになっている。
せっかくだから旧満鉄線を眺めてみようと博物館の裏手に廻って
みて驚いた。下の写真の赤丸で囲んだところに、石碑が無造作に
転がっている。どうも土の色から最近運び込まれたようだ。
もちろん、何の解説もないが、私達にはこれが戦前の日本人の手
によって建てられたものであることがひと目でわかる。ただ、こ
の場所はほとんどの入場者は気づかないところなので、私らが日
本人として第一発見者かもしれない。
旧満鉄関係者の霊を弔った石碑のようだ。
「満州事変殉職社員記念・・・」と彫られている。
「奉天妙心寺」というお寺があって、その住職がここで
経をあげたのであろう。
だれか偉い人の墓碑銘のようだ。
表側をひっくり返して見たい衝動に駆られたが、石は重す
ぎて男女3人の力くらいではどうにもならない。
しかし、この石碑は何故こんな「仕打ち」を受けてしまったので
あろうか?当然、旧満州に関わるものだからだろうということは
推察されるが、この先、これらがどうなるのかも気になった。
願わくは、この石碑も「歴史の証人」として9・18歴史博物館の
展示物として扱ってもらいたいと強く思う。