(211)日本一弱かった陸軍師団
「伊藤正徳の『帝国陸軍の最後』、『山岡荘八』の『太平洋戦史』などを読むと、日本軍は、忠勇義烈、鬼神のごとく勇ましい精鋭部隊として描かれているが、果たして両氏の説くような強兵ばかりだったのだろうか?
もちろん軍隊の強弱は、指揮官の優劣に大きく左右され、また複雑な条件が絡むから、簡単にはいえないが、旧陸軍で、【日本一弱い】と、自他ともに折り紙つきの師団が存在した。その名を「大阪第四師団」という。
日露戦争で連戦連敗、“またも負けたか八連隊”の勇名(?)は、日本中に喧伝され、それから昭和12年の日中戦争までに起きた戦乱にも、一度も出動せず、わずかに昭和8年大阪市内の繁華街で起きた、信号無視による交通事故がトラブルに発展して、時の寺内師団長が「皇軍の威信にかかわる」と見当違いの大見得を切って世の嘲笑を買った事件が大阪師団唯一の武勇伝である。
昭和14年7月、満州ノモンハンでの日ソ激突が重大危機に、逆上した関東軍が、北満国境駐屯地の仙台・大阪両師団に応急動員をかけて出動させたとき、仙台二師団は勇躍出発し、駐屯地のハイラルから徒歩四日間で現地到着、先遣隊の新発田(しばた)十六連隊などは、直ちに戦闘に加入、勇戦奮闘したのに、「大阪四師団」は出動を命じられるや、急病人激増、何とかして残留部隊に残ろうと将兵が右往左往、怒った連隊長が医務室に出向き、自ら軍医の診断に立ち会うしまつだった。
やっと出動部隊を編成したものの、駐屯地ハイラルから現地までの行軍では、他の二師団は四日間で強行進軍したのに、大阪師団は一週間、しかも落伍兵続出、やっと到着したら日ソ停戦協定成立。とたんに元気が出た浪速っ子の面々、「口々に戦闘に間に合わなかったことを残念」がり、落伍した将兵は急にシャンとなって続々原隊復帰。帰りの軍用列車ではいちばん威勢が良かったという、おとぼけ師団だった。
その後、中支に派遣され、武漢に司令部を置く精鋭十一軍の指揮下に入ったが、ここでもオトボケぶりを発揮して、前線に出すと相手の中国軍が“大阪の兵隊日本一弱いあるよ”とばかり必勝の信念で逆襲、突撃してきて「逃げ出すのは大阪連隊」と相場が決まり、ついに甲装備の野戦編成でありながら、最前線は3D,13Dの強豪師団に万事お任せして、4Dはもっぱら後方の警備を担当してお茶を濁した。(注:Dなどの記号意味は不明ですが、【師団の略】と推定。)
さて、昭和16年太平洋戦争が開始されるや、使い場がなく、結局大本営直轄の南方軍予備という名目で、上海付近でブラブラしながら待機、17年4月フィリピン戦線で上陸以来苦戦する16D、65BSを助けるため、5D,18D,21Dの精鋭師団の選抜歩兵連隊と共に増加派兵が下命されると、
「今度こそ一巻の終わり」と、青菜に塩の部隊は力なくしょぼくれて、上海からフィリピン戦線に向かったが、このときのバターン第二次攻撃には、日本軍は強力なる砲兵団、航空部隊を準備、本格的な立体攻撃を実施したため、大阪師団は軍主力の一翼となり、ビクビクしながら進むうち、米比軍が勝手に白旗をかかげて降伏してくれ、またも停戦成立。
初めての勝ち戦に有頂天になったオトボケ師団の将校は、まるで自分たちだけでバターンを占領したような大ホラを吹きまくり、郷里の大阪では号外が出る騒ぎになった。
大本営でもこの第四師団の戦力と使い方にはよほど困ったと見え、その後あれほど南方各地で陸軍が苦戦しても、この師団はついに激戦地に使用されず、もっぱら後方基地で待機。終戦は、タイ国バンコック付近で休養中に迎え、復員が開始されるや全員が血色の良いはちきれそうな元気さで帰国、出迎えた、やせ衰えた内地の人々を驚かしたという。
思えば「あまりにも弱い」との定評が幸いし、おそらく南方出動師団のなかで、いちばん戦死者を出さず、たくましく生き抜いた大阪人のド根性は見事であり、もっとも人間的には正直な、平和愛好者だったというべきかも知れない」
伊藤正徳氏の『帝国陸軍の最後』「進攻編」に、マレー半島進撃時には、この師団も勇猛果敢だったとの記述もあるが、一方で、大阪人について、もう一つ別な見方がある。元戦車隊小隊長福田中尉(司馬遼太郎)は、次のように説明している。
大阪はもともと商人の町だから、幕府の威光も恐れず、大名の権力にも関知しない、独特の生き方の伝統をもっていた。こうした環境に育ってきた若者を、いきなり軍隊に徴収し、国家のため、天皇のために戦い、かつ死ねという。
その理屈が実感としてどうしてものみ込めない。これがかりに東北の若者なら、つねに領主の圧政に屈してきた伝統に育ってきたから、「天皇は領主よりもずっと偉いのだ」、といえば簡単に通じる。しかし大阪人には、いくらいってもわかりかね、「えらい迷惑なこっちゃ」、といった意識がどこかに染み着き、つねにその不合理につまづかざるを得ない。従って、むろん戦争に弱いのは当たり前だ・・・・・・というわけである。
これは卓見かもしれない。天皇のためという意味が、しまいまで分からなかった兵隊は、大阪以外にもたくさんいたのである。ただかれらは大阪兵のような率直な意思表示はせず、天皇を狭義に解釈し、「恋人や女房や子どものために国を守る」・・・・・・といった諦観(ていかん)と覚悟を自らに強いた、ともいえる。(中略)
日本の軍隊がもしすべて大阪兵団のようだったら、日中戦争または多くの事変や戦争は起こらなかったろうし、最後に大敗することもなかったかもしれない。しかし、その代わり、もっと早い時期に、どこかの国に、より惨めな状態で隷属(れいぞく)せざるを得なくなったかもしれない。判断の難しいところである。
最近の中華人民共和国の行為に対し、経済人がその場しのぎの発言を繰り返しているが、伊藤桂一氏の文末の結論は、戦争を知り抜いたベテラン日本兵の意見として大いに参考になるかと思い紹介させていただいた。
何人も他人事と思わぬほうがいい。いくら利益をあげても、国土を失えば意味がない。隷属してもどうなってもと考えるなら、見本となる国がそこにあるような気がする。
参考本:『兵隊たちの陸軍史』伊藤桂一