裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

戦争について考える

2024年08月27日 00時11分35秒 | Weblog

戦争について考えてみます。
「戦争はいかん」「もうあんなことしちゃだめ」というひとがいます。
賛成です。
だけど、「そのために武器を捨てよう」というひとがいます。
それはどうなんでしょうか?
「平和」と「武器の放棄」とは無関係で、それどころか「戦争をしないために軍備をしない」という考え方は一大矛盾を抱えてます。
終戦直後(第二次世界大戦後)には、まだ国連という幻想が生きてたんで、吉田茂あたりも「日本が攻められればそれを克服すべき国際的必然が生ずるであろう」なんてのん気な答弁をしてました。
だけど国連がハリボテとなった今日においては、戦争が開始されるのは常に防御が脆弱な場所、すなわち武器を持ってない国家・地域(クウェートとかガザとか)となります。
軍備とは、戦争をしない(侵略を受けない)ためのものなのです。
防衛装備(政府がひねり出した絶妙なごまかし語句)なしの平和など考えられないわけです。
その極端な例が「トルーマン・ドクトリン」で、核を一発撃ち込まれたら千発を撃ち返す!という考え方です。
これが東西イデオロギーに採用され、核軍事バランスがうまい具合いに機能して冷戦が勃発し、裏を返せば、長い平和な時代が共有されました。
ところがそのパラダイムもひっくり返された現在、核保有国が一方的に侵略を開始するとどうなるか?という実験が、ウクライナを舞台に行われてます。
「持たざる者」は、やり返せば一方的に破滅させられるので、どれだけ理不尽にやり込められてもディフェンスに徹するしかないわけです。
かつての北朝鮮は、アメリカ(脅迫番長)と対等な交渉をするには核を持つしかないことに気づき、それを実現させましたが、今度は北朝鮮が巨大発言カードを握って隣国と交渉を開始させようというステージにきてます。
中国も同じく、カウンターアタックの警戒が必要のない国には、どんどん攻め入ろうという姿勢です。
さて、その隣国である日本は、徒手空拳でいられるでしょうか?
いや、オレは別に、武器を持て、軍備を強化せよ、ましてや核を持て!なんてすすめてるわけじゃなく、あまりにも牧歌的で平和ボケ的思考停止状態のこの国のひとたちに「少しは考えてものを言え」と諭したいだけです。
武器を持つか、捨てるかは、戦争と平和の構造と原理、そして現実的な状況から結論を導くべきだと思いますので。
オレだって、戦うのはきらい。
だけど、ナイフなしにジャングルで昼寝をしようとは思わない。
問題提起でした。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園


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