行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

2010年06月18日 | 禅の心
若い人の漢字ブームにあって、「無」「喝」などの言葉がもてはやされていると言うことです。英語の言葉よりも漢字がカッコいいとみるのも時代の流れでしょうか。
「無」ですが、本当のニュアンスをつかむことが困難な言葉だと思います。
哲学者の鈴木大拙先生が、このような話をしていました。

昔、サトリという化け物がおった。サトリは人の心がよめるのじゃった。
ある日、木こりが、山で木をきっていると、サトリが現れて、
「お前、俺を捕まえて見せ物にして金儲けをしようと思っておるな。俺には人の思っておることがわかるので、絶対に誰にも捕まえられんののんじゃよ。」
と言った。木こりは、何も言わずに、ただひたすら、木をきり続けたのじゃった。
サトリは「お前、油断させて俺を捕まえようと思っておるな」と言った。
その時、木こりの手がすべって、斧が飛んでいき、サトリに当たって、サトリは気絶してしまったんじゃ。こうして、木こりは、サトリを捕まえたんじゃと。

悟りは、無心に自分のやるべきことを一生懸命やっている中で得られるものだという喩え話です。

何かに打ち込んで何も考えない。それが無心というもので、無心から悟りが得られるのです。だからこそ、道元禅師は、日々の生活の一つ一つの行為が仏の行為だと考えられたのです。
花は無心にして蝶を招く(良寛)
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