行雲流水

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随処作主 立処皆真

2010年06月15日 | 禅の心
随処に主となれば 立処皆真 なり

本題に入る前に、一言。法華経や密教教典を勝手な解釈すれば、危険思想になります。弘法大師もそのことを、恐れられたのでした。しかし、現代にはびこる、ニセもの宗教では、これらの教典を勝手な解釈して危険思想にもっていっている例がいかに多いことか。禅も例外ではありません。

随処作主 立処皆真 の句をみて、若い人は「主」に主眼を置きがちです。

もちろん間違いではありません。しかし「真」という言葉にも重きを置いておく必要がありません。

この言葉を、「自分の心は何ものにも束縛を受けず自由だ」という意味だけにとれば、危険です。

「自由」という言葉に弱いのが現代人です。禅で言う「自由」は文字通りの「自由」ではなく、「自分の置かれている状況の中で、精一杯やる」ことなのです。

仕事をするときには精一杯やり、休むときにはしっかり休む。病気になれば、養生する。その時々に自分の置かれた状況で精一杯生きることが、「随処作主」 であり、そうすれば真実のいのちに巡り会えるというのが「立処皆真」なのです。
晴れの日は晴れの日の生き方、雨の日は雨の日の生き方ができることが、本当の自由人なのです。


広島市中区
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2 コメント

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失礼いたします。 (tenjin95)
2010-06-15 06:35:41
> 管理人様

今の人の「自由」は、仏教でいうところの「自由」「自在」とは意味を異とし、ただの「解放」である場合が多いですね。「解放」とは、常に「束縛」との対概念でしかなく、臨済禅師がいうような「主」となることは出来ないのであります。
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ありがとうございます (きたろう)
2010-06-19 20:18:31
「主」の意味が難しいところですね。
返信する

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