行雲流水

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2010年03月23日 | 禅の心
「喝」という禅語ほど、簡単に用いられているものはありません。

「喝」をよく使っていたのは、臨済禅師です。

しかし、臨済禅師よりも前に馬祖道一禅師が使い始めたと言います。

さて、「喝」をよく使っていた臨済禅師ですが、「臨済の四喝(しかつ)」として有名です。

有る時の一喝は金剛王宝剣の如く、有る時の一喝は 踞地 ( こじ ) 金毛 ( きんもう ) の獅子の如く、有る時の一喝は 探竿 ( たんかん ) 影草 ( ようぞう ) の如く、有る時の一喝は一喝の 用 ( ゆう ) を作(な)さず。


簡単に言えば、

1.何でも切れる金剛王宝剣のように、煩悩をスパッと断ち切る。

2.百獣の王ライオンのように、あたりすべての者が畏れおののく。

3.漁師が竿で草の下の魚を探るように、修行僧の力量を見極める。

4.喝の役割を示さない喝。・・・・・実は、これが一番重要なのです。

喝と言えば、若い人たちがカッコいい言葉としてむやみやたらと使うのですが、修行のできている者が使ってこそ意味のある言葉なのです。

喝は天の声であり、宇宙に響き渡る声です。

喝の役割を示さない喝とは、自分自身が宇宙と一続きであることを実感できる喝なのです。

喝の役割を示さない喝は、無心です。無欲です。何ものにもとらわれない清浄な心が発する喝なのです。

赤ちゃんがこの世に生を受けて発する第一声の「おぎゃー」という声が、「喝」と聞こえればそれでいいのです。
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