行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

鈴木大拙先生が無心について語る

2011年09月16日 | 禅の心
日本には、「サトリ」という妖怪が居たそうです。あるところに働き者の木こりがいて、朝から晩まで一生懸命働いて、木を薪にして生活をしていたそうです。ある日いつもと同じように山の中に入っていき、木を切ろうとしていると、サトリが現れました。このサトリは、人間の心が読めるのです。ところがサトリは人間の心が読めるので、どちらから来るかが予測がつき、逃げられるわけです。
「お前はおれを生け捕りにしようとしているな。」
そう言い当てられて、木こりはびっくりして声もでません。するとサトリは、
「ほら、お前は俺の読心術にびっくりしているな。」
と言います。木こりは、斧でサトリをやっつけてやろうとしていると、
「やあ、お前は俺を殺そうと思っている」
と言い当てられてしまいました。仕方なく木こりはサトリをやっつけるのを諦めて、仕事に専念しました。
するとサトリは
「お前はついに俺を捕まえることを諦めたな」
と言いますが、木こりは黙々と仕事を続けました。
ところが、仕事の最中に、偶然振り上げた斧が手から滑って、飛んで行き、サトリの頭に命中して、サトリは気絶してしまいました。

【味わう】この話は、悟りを追いかけるなということではないでしょうか。
悟ろうとしていること自体が迷いであり、煩悩の一つなのです。
悟りを追いかけるという心が残っているうちは、悟りはないのです。悟りの方からやってきて、悟らせていただけるのが本当の悟りなのです。

難しい話になってしまいましたが、登山をしていて、山頂を目指そうとか、どこまで行こうとかと考えながら歩くのは、ある意味、苦痛です。そうではなく、今日は暑いから、ここで引き返そうとか、体調が悪いので、麓で山を眺めておこうと、自由に考えた方がいいのです。山頂にたどりつくばかりが登山ではなく、麓でも、途中まででも山の楽しみを味わうのが本当の山好きなのです。