「岩見沢市内神社一覧表」と「岩見沢の記念碑」のお話の続き。
長年住み慣れた(というより飽きた?)我が家から、とうとう移転することになりそうだ。
様々な事情によって住み続けなければならなかった現在の家。「現在の」と言っても昭和55年に転居して来たので、ほとんどここで生まれ育ったことになる。しかし、家も自分と一緒、あるいはそれ以上に歳を取るもの。よく豪雪を乗り切ったものだ。
今後は不要なものを処分して、新天地に備えることになる。しかし、いらないものが多すぎる…。
無事に転居できるかどうか。この日誌はどうなる?
長年住み慣れた(というより飽きた?)我が家から、とうとう移転することになりそうだ。
様々な事情によって住み続けなければならなかった現在の家。「現在の」と言っても昭和55年に転居して来たので、ほとんどここで生まれ育ったことになる。しかし、家も自分と一緒、あるいはそれ以上に歳を取るもの。よく豪雪を乗り切ったものだ。
今後は不要なものを処分して、新天地に備えることになる。しかし、いらないものが多すぎる…。
無事に転居できるかどうか。この日誌はどうなる?
「岩見沢市内神社一覧表」と「岩見沢の記念碑」のお話の続き。
我が岩見沢市の渡辺孝一市長は、衆院選立候補予定ということで7月31日限り辞任し、明日から選挙が行われる9月9日まで市長不在となる。
岩見沢市長の辞任は昭和29年9月11日限り辞任の山本市英市長以来。その山本市長は、昭和21年に公職追放となった川村芳次前市長に代わって、統一地方選で当選した公選初代市長。2期目の満了を半年後に控え、統一地方選で選挙を行うと4月に選挙をすることになるので、一度骨格予算を編成後新市長で本予算を再編成するより、半年前倒しして秋に選挙を行ない、新市長が最初から本予算を編成した方が効率的であるとの考えから、昭和29年9月に辞任、10月20日に選挙が行なわれた。その想いは素晴らしいものだが、出馬した川村前市長に惨敗して、山本市長は引退した。
返り咲いた川村市長以降統一地方選前年の10月20日から4年間の任期が定着し、国兼孝治氏・能勢邦之氏と助役出身者が続いた。
平成14年の選挙では現職の能勢市長が出馬したが、官製談合批判の中で歯科医の渡辺孝一氏が当選を果たし、10年が経過した。
その間北村・栗沢町との合併や給食による集団食中毒、平成23年度の豪雪などの懸案が残る中、衆議院解散間近という政治状況の中、いずれは父である渡辺省一もと科技長官と同じ衆議院議員へという考えは断ち切れなかったのだろう。
9月9日に行なわれる予定の市長選挙では、もと副市長や市議など4人の立候補が想定されている。志のある方に投票したいが…?
我が岩見沢市の渡辺孝一市長は、衆院選立候補予定ということで7月31日限り辞任し、明日から選挙が行われる9月9日まで市長不在となる。
岩見沢市長の辞任は昭和29年9月11日限り辞任の山本市英市長以来。その山本市長は、昭和21年に公職追放となった川村芳次前市長に代わって、統一地方選で当選した公選初代市長。2期目の満了を半年後に控え、統一地方選で選挙を行うと4月に選挙をすることになるので、一度骨格予算を編成後新市長で本予算を再編成するより、半年前倒しして秋に選挙を行ない、新市長が最初から本予算を編成した方が効率的であるとの考えから、昭和29年9月に辞任、10月20日に選挙が行なわれた。その想いは素晴らしいものだが、出馬した川村前市長に惨敗して、山本市長は引退した。
返り咲いた川村市長以降統一地方選前年の10月20日から4年間の任期が定着し、国兼孝治氏・能勢邦之氏と助役出身者が続いた。
平成14年の選挙では現職の能勢市長が出馬したが、官製談合批判の中で歯科医の渡辺孝一氏が当選を果たし、10年が経過した。
その間北村・栗沢町との合併や給食による集団食中毒、平成23年度の豪雪などの懸案が残る中、衆議院解散間近という政治状況の中、いずれは父である渡辺省一もと科技長官と同じ衆議院議員へという考えは断ち切れなかったのだろう。
9月9日に行なわれる予定の市長選挙では、もと副市長や市議など4人の立候補が想定されている。志のある方に投票したいが…?
「岩見沢市内神社一覧表」と「岩見沢の記念碑」のお話の続き。
平成15年の訪問時、案内板のみだった「宝水神社」(旧名称:野々沢神社、岩見沢市宝水町のどこか)。ちょうどブルドーザーが動いていたので、社殿を改築中かと思っていた、しかし上記「記念碑」によれば、「宝水神社跡地」の表題で、「平成九年四月六日離農者多数、維持困難のため春祭終了と同時に昇神・本殿内神棚および神札を岩見沢神社に回収・焚き上げ。借地を元地主に返還。」とある。訪ねた時にはもう廃社(と言うのかどうかは知らない)になっていたのだ。
また、民家の畑を通らせていただいて訪問した「北部神社」(きたぶじんじゃ、岩見沢市若松町)。「北部神社跡碑」の表題で、「平成十七年九月三日、秋祭を最後に同十月二十二日社殿解体。本殿内神棚、神札、幟、幕等は回収焚き上げ。由緒書き等は神社跡地に保存。」とある。なお、掲載の写真は「北部神社跡地」柱であり、他の碑などをみると、本書では「跡」とある碑は「跡地」・「跡地」とある碑は「跡」という表題を付けている。
このように、案内板(由緒書き)しか残っていない神社(跡)が2社もある。そして、その消滅は全く知らなかった。人口減少地区の場合は、いつ消滅してもおかしくない。そのうち行ってみましょう…。
平成15年の訪問時、案内板のみだった「宝水神社」(旧名称:野々沢神社、岩見沢市宝水町のどこか)。ちょうどブルドーザーが動いていたので、社殿を改築中かと思っていた、しかし上記「記念碑」によれば、「宝水神社跡地」の表題で、「平成九年四月六日離農者多数、維持困難のため春祭終了と同時に昇神・本殿内神棚および神札を岩見沢神社に回収・焚き上げ。借地を元地主に返還。」とある。訪ねた時にはもう廃社(と言うのかどうかは知らない)になっていたのだ。
また、民家の畑を通らせていただいて訪問した「北部神社」(きたぶじんじゃ、岩見沢市若松町)。「北部神社跡碑」の表題で、「平成十七年九月三日、秋祭を最後に同十月二十二日社殿解体。本殿内神棚、神札、幟、幕等は回収焚き上げ。由緒書き等は神社跡地に保存。」とある。なお、掲載の写真は「北部神社跡地」柱であり、他の碑などをみると、本書では「跡」とある碑は「跡地」・「跡地」とある碑は「跡」という表題を付けている。
このように、案内板(由緒書き)しか残っていない神社(跡)が2社もある。そして、その消滅は全く知らなかった。人口減少地区の場合は、いつ消滅してもおかしくない。そのうち行ってみましょう…。
6月も下旬に入ったが、相変わらず変わり映えのしない毎日である。
それはともかく、以前「岩見沢市内神社一覧表」を作った。その後栗沢町・北村と合併したが、新しい岩見沢市域に手を広げていない。また、教育委員会によって「岩見沢の記念碑」という資料が作られたが、未知の神社が載っている。
こういう資料があるのなら、また現地に出向いて実際の神社を見てみたい。いつになるのか、それは神のみぞ知るということで…。
それはともかく、以前「岩見沢市内神社一覧表」を作った。その後栗沢町・北村と合併したが、新しい岩見沢市域に手を広げていない。また、教育委員会によって「岩見沢の記念碑」という資料が作られたが、未知の神社が載っている。
こういう資料があるのなら、また現地に出向いて実際の神社を見てみたい。いつになるのか、それは神のみぞ知るということで…。
昨日から、また岩見沢周辺は大雪。昨日の昼間は北の方、夜から岩見沢でも雪が多くなった。
今日は朝から高速道路が通行止めなので、列車で通勤することにした。岩見沢駅まではバスで行くことになるが、バス停へ行ってもバスが来ない。待っていた乗客の1人が問い合わせると、「運転見合わせ」という。乗客たちはタクシーで駅方向へ向かうという。わたしは別のバス停へ。待っている乗客がいるが、バスは来ない。営業所に問い合わせると、こちらも「運転見合わせ」という。まあ、先に行った国道経由のバスが運休なのだから、道が狭い道道を通るバスが来る可能性は低い。事実、こちらも運休である。
いったん家に帰って列車の運行状況を見てみると、昨日乱れたせいもあり、滝川方面からの列車が来ない。そして、岩見沢駅もポイント不転換でだいぶ乱れている。
本来はタクシーや特急に乗ってでも出勤すべきだが、そこまでお金をかける仕事でもない。なので、出勤が困難なので欠勤を届け出た。
こういう日もたまにはあるものだと割り切って、明日に期したい。
今日は朝から高速道路が通行止めなので、列車で通勤することにした。岩見沢駅まではバスで行くことになるが、バス停へ行ってもバスが来ない。待っていた乗客の1人が問い合わせると、「運転見合わせ」という。乗客たちはタクシーで駅方向へ向かうという。わたしは別のバス停へ。待っている乗客がいるが、バスは来ない。営業所に問い合わせると、こちらも「運転見合わせ」という。まあ、先に行った国道経由のバスが運休なのだから、道が狭い道道を通るバスが来る可能性は低い。事実、こちらも運休である。
いったん家に帰って列車の運行状況を見てみると、昨日乱れたせいもあり、滝川方面からの列車が来ない。そして、岩見沢駅もポイント不転換でだいぶ乱れている。
本来はタクシーや特急に乗ってでも出勤すべきだが、そこまでお金をかける仕事でもない。なので、出勤が困難なので欠勤を届け出た。
こういう日もたまにはあるものだと割り切って、明日に期したい。