松尾芭蕉の奥の細道を締める最後の訪問地、大垣市での足跡と「奥の細道むすびの記念館」を見るために、2018.02.18(日)大垣市の中心街付近に、高校時代からの仲良し三人がやってきた。(西美濃で食事会 シリーズ14-7)
芭蕉は1689年に江戸を発ち、古歌や故事の名所・旧跡の地を訪ね、東北、北陸をこの間約2400Kmを150日かけて旅をし、大垣で結んだ。
この記録をまとめたものが「奥の細道」であり、現代まで読み継がれている。
この旅で美しい自然を体感し、古人と心を重ね合わせ、土地の人々と出会った芭蕉は、「不易流行(ふえきりゅうこう)」の考えを持つことになった。(パンフレットより抜粋=一部編集)
不易流行とは・・・・(Goo辞書より抜粋)
いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものをも取り入れていくこと。また、新味を求めて変化を重ねていく流行性こそが不易の本質であること。蕉風俳諧(しょうふうはいかい)の理念の一つ。解釈には諸説ある。「不易」はいつまでも変わらないこと。「流行」は時代々々に応じて変化すること。
「大垣船町川湊」
名勝 おくのほそ道の風景地。
「はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ」 松尾芭蕉
下の写真左端は、「住吉燈台」
1840年に建てられた。(県指定史跡)
橋は住吉橋
「奥の細道ふすびの地・記念館」
大垣市船街 2-26 入館料 ¥300
記念館の中には、そのメインとなる、「芭蕉館」「先賢館」は写真撮影禁止のために、写真はなし。
芭蕉館には・・・
奥の細道を旅路毎に区切り、関連する資料を展示。
先賢館には・・・
大垣藩主の文教政策や、江戸時代後期から幕末にかけ活躍の5人を紹介。
AVシアターでは・・・
奥の細道への、覚悟の旅立ちからむすびの大垣までを4ブロックに分け、合計約60分間、3D映像を美俳人の解説で紹介する。
「無何有荘大醒榭(むかゆうそうたいせいしゃ)」
大垣藩藩老の別荘を移築(市文化財)
市のホームページによると・・・
「無何有」の名前は、鉄心の師である鴻(おおとり)雪爪(せっそう)によるもので、荘子(そうし)の言葉「無にして何ぞ有らん」(無為・無作為で超然とした自然である境地)を意味しています。
「大醒榭」は、和風に中国風意匠を取り入れた設計で茶室・湯殿・水屋・厠の4室で構成されており、茶室の天井は葦の網代天井、屋根は茅葺き、外側は紅殻塗装になっています。
この後、ご一行様方は、大垣城へと向かわれた。 その記録は別途紹介する。
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和つぃは高校で「奥の細道」を何度か講義しましたが、実際に芭蕉氏の訪れた土地を見たのは、数箇所に過ぎません。実際に見てから生徒諸君に話をすれば、迫力が違ったでしょうね。この終焉の地も、次男が家族旅行で、私を一緒に連れて行ったからです。芭蕉記念館には、貴重な資料がたくさんありましたが、教員生活が終わった後でした。その際、大垣城にも上りましたよ。
朴念仁には感動するものには遭遇しませんでしたし、大垣が最後の地であったことさえ、初めて知りました。
それでも、こうして昔のことに触れ、当時はどんなものであったろうかと、思いを馳せることはよいものだと思って居ます。
いくつかの句が思い起されますが勿論、記念館にもそのいくつかは紹介されていたのでしょうね。
「古池や蛙飛びこむ水の音」はあまりにも有名です。
「無何有荘大醒榭」の屋根は芭蕉庵にぴったりです。
私のニックネーム「瀧庵」も実はこのイメージを想定しています。
私には、猫に小判、馬の耳に念仏そのものです。 書き物の最後に一句を添えて、締める文書がたまに見受けますが、何故か私にはそれが、大変に格好がよいと思えるのです。 もしも、このブログの末尾に内容にちなんだ一句を添えられたら、すばらしいと思うのですが、それは思うだけで、到底出来る訳がありません。 自分で作らなくても、例えば芭蕉の一句を添えても良いと思うのですが、句が本来意味するところ、詠み人の心の中を知らないで、引用しても、笑われるだけだと、諦めています。