先に三重県内の東海道五十三次の宿場町、お江戸日本橋から数えて、その42番目の桑名宿を皮切りに、四日市宿、石薬師宿、庄野宿、亀山宿、関宿、48番目の坂下宿ときて、鈴鹿峠にまでやってきました。 この間、街道筋にある旧跡を訪ねて写真を撮り、若干の歴史資料文を書き添えて、31編のブログとして残しました。
この東海道筋の歴史探訪の終りは想定もせずにスタートしたものでした。 只今は”伊勢神宮の遷宮ブーム”真っ最中故に、 「日永の追分」 から東海道を外れて、 伊勢に向うと言う考えもありましたが、 伊勢の今は人でごったがえし中であるし、調べて見ると、 途中の旧跡は東海道に較べれば、質量ともに見劣りするので、 鈴鹿峠を終点に置き替えしたものでした。
その時点では、鈴鹿峠以降は考えに無かったのですが、 別の新たな企画も生まれなかったので、 ひとまず続けることにした次第です。 この先、東海道の終点京都までは、土山、水口、石部、草津、大津、三条大橋があります。 都が近くなってきますので、旧跡の数も増えて来ますが、 目標として手ごろと考えて再スタートしました。
東海道の滋賀県の起点は”あいの土山”です。
土山宿は49番目の宿場で、最盛期には2軒の本陣、脇本陣の他に旅籠44軒を数える賑やかさでした。 今も土山氏本陣跡が昔の姿を伝えており、その周辺は宿場町の面影を残しています。 ”あいの土山”の名で呼ばれますが、”あい”の意味は「相対する」とか「向こう側」の意とする人など他にもいろいろの解釈があるとしているようです。
「坂(下)は照る照る 鈴鹿(峠)は曇る あいの土山 雨が降る」と、鈴鹿馬子唄のもあるように、鈴鹿峠を境に、天気ががらりと変わります。 また、川柳に 「土山で 濡れた雨具を 坂(下)で干し」があります。
下の地図、細いですが赤い線は旧東海道を示し、丸付き数字は尋ねた旧跡の在りかを示します。
撮影日 2013.09.11(水)
① 万人講常夜燈
江戸時代に四国金刀比羅宮の常夜燈として、建てられたもので、重さ38トン、高さ5.44mもある、自然石で出来ている。 坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕により作られたものと言われているそうです。
ここは国道一号線の峠を通過するトンネルの上にあり、 今は地元の農家の人と登山者、ハイキングの人と、何処かの物好きしか通らない場所にありました。 こんな立派な灯籠がです!。
② 十楽寺
③ 蟹塚
昔、鈴鹿の山に”大蟹”が住み、旅人や村人を苦しめていました。ある時高僧が訪れ、お経を唱えたところ、大蟹の甲羅が八つに裂けたといい、塚はその甲羅を葬ったものと言われているそうです。
また、弘法さんが杖で叩いたら甲羅が割れたとか、蟹は盗賊であったり、高僧が武士である場合などいろいろありますが、街道の名物の「かにが坂飴」(後述cf)もこの伝承を由来としています。
④ 蟹ヶ坂
現在は国道一号線の坂下江戸方面行き(一方通行)道路と交差する部分に、旧東海道はあったようで、下左の写真は水口京方面であり、右の写真右の道が旧東海道です。
写真で見る限りは特別厳しい坂とは思えませんが、昔はなかなかの難所であり、「夏の日に あな苦しやと旅人の 横這いにして登る 蟹ヶ坂」と烏丸光弘の狂歌に謡われているそうです。
前出の「蟹塚」は、右の道を100mほど下った所、うっそうとした林の中、川沿いにありました。
⑤ 白川神社御旅所
蟹ヶ坂の水口側中ほどにありました。
⑥ 蟹坂古戦場
天文11年(1542)、伊勢の国司北畑具教率いる1万2千の兵と、当時山中城の主、山中丹後国守秀国の軍勢5千との間で、ここ蟹坂周辺で戦い、秀国勢が勝利を収めたと書いてあります。
⑦ 高札場
上に示した地図にあるように、旧東海道が田村神社の前で不自然に直角に道が曲がっています。 例によって土地の権力者の仕業かと思いましたが、その理由が解りました。
昔は今の旧東海道の位置より、下流側に川の渡し場がありましたが、 大水が出るたびに溺れ死ぬ旅人が多く出たために、 川止めも再三あり、 旅人や役人を困らせていました。 そこで幕府の許可を得て東海道の道筋を変えて新しい道を作り、 田村川木橋を架けました。
「但し、この橋を渡る場合旅人などは「有料」だぞ!」と、「定め書」(規則)を書いたものが高札として掲げられたようです。 ちなみに、幕府の用で渡る人や、武家とその家族は無料。 近村の百姓などが田畑に行くための場合は無料であるが、それ以外は有料と書かれていたらしい。
⑧ 海道橋
前出の「田村川木橋」のあった場所にある橋は今は「海道橋(街道?)」と呼ばれています。 勿論、橋の前後は旧東海道であり、橋の向こう側には田村神社があり、 その先は京に繋がっています。 本当はもっと後方に下がって撮りたかったのですがそれは許されず、これでもこっそり橋の袂にある木材事業所の材料置き場に入らせて戴き撮ったものです。
そしてここで、広重さんの絵、「東海道五十三次の内 土山」のご登場です。
上左の写真とこの絵とを見比べて欲しいのです。 雨の中を進む大名行列が正に渡っている橋はその橋なんです。 勿論昔の橋の位置はもっと低く水面に近かったと思われます。 橋の向こうには田村神社の林がばっちり描かれています。
⑨ 田村神社
鈴鹿の鬼を退治した征夷大将軍坂上田村麻呂が祀られ、厄除けの神様として崇められています。 平安時代の創建と伝えられています。
旧東海道は上記の橋から真直ぐ30m程で、下の写真右上の銅の鳥居の前に来ます。 旧東海道はここで急に直角に曲がり南に60mほど来ると左上の写真の鳥居に出ます。 そのあと国道一号線を突き切り、道の駅「あいの土山」を横目で見て通るようになっています。
⑩ 「かにが坂飴」
前出「蟹塚」の所で蟹退治をしたあと、高僧が八つに割れた蟹の甲羅を埋めて蟹塚を建てると、不思議にも蟹の血が固まり八個の”飴”と化し、それを竹の皮に包んで村人に授け「この八っ割飴は諸々の厄除に効あり」と伝えました。 その後数百年に亘り「厄除けのかにが坂飴」として有名になったとか。
昔は2月17~19日の田村神社の「厄除大祭」に売られましたが、 今は神社前の売店「蟹が坂飴販売所」や、道の駅でで売られています。 小さめの袋に500円玉くらいの飴が20個ほど入って荒縄で縛ってあり、ひと袋¥400でした。 あまり甘くはないですが、癖の無い誰でもが親しめる飴と感じました。
”後期野次喜多衆”の旅はまだまだ続きますが、あとは次回のお楽しみとします。
続編が始まりましたね。楽しみです。私は「新名神高速道路」を、家族旅行でもパック旅行でも、通りましたが、寂しい山間部を通過していきます。地図で拝見すると、まさに旧東海道を横切っているのですねえ。車から覗き見ると、はるか下の方に集落や道が見えます。ああした山間部は、あまり風景が変わっていましかも知れませんね。歴史的な遺物も多くあるようです。面白い伝説なども残っていますね。現代の弥次喜多道中に、大いに期待しています。
歴史音痴の私が、にわか勉強でえらそうなこと書いているのもどうかと思うところもありましたが、 やり始めたら結構興味が湧いてきましたし、他に適切な企画もないものですから、提案してくれた友に感謝しつつ、再開いたしました。 相も変わらず、お粗末な内容ですが、この先もよろしくお願いいたします。