野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

神戸ワイン新酒まつり

2012-10-30 06:30:10 | 日常生活
雨の日曜日(28日)、孫が区内小学校ドッジボール大会に出場するので、車で約30分弱の「神戸グリーンアリーナ」に出かけた。
「ほっともっとフィールド神戸」球場のすぐ後ろにある、「神戸グリーンアリーナ」は初めてだ。ズーッと昔、子供がまた小さい頃、グリーンアリーナもまだ建ってない頃に、同じ総合運動公園のコスモス広場の丘でご飯を食べた事を思い出し、そして、イチローが居なくなってからプロ野球を見に行く事もなく、野球場前の道路を走ることはあっても立ち寄ることはなかった。「グリーンアリーナ」は国際競技や全国規模の競技大会が開催されるドーム型体育館で、先週は全国バトミントン大会が開催されたとスケジュール表には書いてあった。この日は、ドッジボール大会がメインアリーナで、サブでは少年柔道大会が予定されており、また球場に足を運ぶ人もいて駐車場は大変混雑している。

          「神戸グリーンアリーナでのドッジボール大会」

★「神戸ワイン新酒まつり
孫のドッジボールチームは2回戦で敗退し、昼前に弁当を食べて体育館の外に出ると晴れてきた。帰リ道、その足で農業公園(神戸ワイナリー、神戸ワイン城)まで車を走らせた。市営地下鉄沿いに高速らしき道路を走るだけなのですぐに到着する。農業公園に来るのは数年ぶりだったが、ワイン祭りと言うこともあるのか、入口で黄色の「ドライバーワッペン」を胸に付けてくれと渡された。既に駐車場は貸し切りバスが数台駐車していたが、朝の雨が影響したのか乗用車の駐車場はまだ空きがあった。駐車場入口付近に、コスモスがたくさん咲いている。

農業公園(神戸ワイナリー)の登り階段右に「神戸ワイン発祥の地」の案内。
         

左側にはブドウ棚があるが、中央に「神戸ワイナリー」の入口。
         

入口に入ると直ぐ左に今年の新酒試飲コーナーがある。「ホイリゲ(日本酒の「もろみ」と同じもの)」の無料試飲もできたが、アルコール度数2度でも試飲せず。すぐ側で新酒の赤、白セットを販売しており購入する人が結構多い。
         

その横ではカリンを販売していた。200円/kgで、スーパーマーケット価格が500円弱/kgだったからかなり安い。場内を散策していると、近くにカリンの木が数十本あって見事なカリンの実がたわわになっていたが、未だ青みがかっておりカリン特有の芳香も弱い。その中から、芳香の強いカリン1kg購入した。暫く放置し芳香がもっと強くなってから漬けることにしよう。
         

場内の広場に出ると、ここにもワインコーナーがあり、ワイナリーで生産している神戸ワインを並べていた。勿論、グラス販売もしており、広場の陽の下で飲んでいる人も多い。当方「ドライバーワッペン」なので単に眺めて歩くだけ。
         

         

ワイン売り場と反対側に「たこ焼き」と「神戸ビーフ」販売コーナーがあった。「神戸ビーフ」コーナーには20人ほど並んでいたが、一人数個購入する人も多く、なかなか順番が回ってこない。鉄板の上で焼いているためか、焼き肉に油が纏わりついて味は今一つ。
         

城内のワイン販売所。神戸ワインの全商品が購入できるワインショップで、ここでも試飲できる。
         

この日のアトラクションはゴスペル音楽。
        


神戸市西区周辺の丘陵地帯に延々と続く葡萄畑(ゴルフ場に行く際に見かける)は西日本最大のワイナリーと言われており、ここで取れた神戸産葡萄のみを使用し他県産の葡萄はいっさい使用しない事で知られ、城内にある醸造施設や工場で生産されている様子も見学できる。他にも大バーベキュー施設や直営レストランもあるが、本日もバーベキューを食べている家族が結構いた。この日は「神戸焼き肉」を食べただけで、ゴスペル音楽を聞きながら昼間からワインもまた良しと羨ましく思えたが、終日試飲叶わず。

 「神戸ワイナリー」:神戸市西区の「神戸市立農業公園・ワイン城」


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お気に入りの歌手-Sarah Brightman

2012-10-28 06:13:02 | その他
何気なくネット記事をめくっていたらビックリした。
サラ・ブライトマンが今年10月10日、ロシア・モスクワで会見し、宇宙旅行する計画を発表したとある。旅行費用は、40億円以上にのぼる見込みで、「長年、手の届かぬ夢だと思っていましたが、かなうと信じていました」と話したと書いてあった。既に、モスクワ郊外のガガーリン宇宙飛行士訓練センターで医学検査などを受けて合格したことを明らかにし、出発は1年半以上先の見通し。

サラ・ブライトンも宇宙に飛ぶ時代が来たんだ。確か1960年生まれだから当年とって52才。「8歳の頃、月面に初めて人間が立ちました。この頃から宇宙への旅がしたいという極めて強い思いを抱いていた」と言い「私は単に夢見る人ではなく、夢を追う人間。届くかもしれない夢を持ち続けることが大事。世界中の子供、大人に夢を与えたい」と話したという記事もあった。

サラ・ブライトン・・私のお気に入り歌手のひとりだが、「Time To Say Goodbye」は特に気に入っている。


       Sarah Brightman「Time To Say Goodbye(2003Version)」
      


       Sarah Brightman & Andrea Bocelli - Time to Say Goodbye 1997 Video stereo widescreen
      
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ハーレーダビットソン 3Q

2012-10-26 06:25:14 | 二輪事業
 「優良二輪企業・・Harley-Davidson 」

ハーレーダビットソンの第3四半期決算」が先日(24日)発表された。
これによると、6-9月の3ヶ月で欧米向け二輪販売はやや低調だったが、1-9月累計では高収益を維持
 ■1-9月累計  2012年      2011年
  ・売上高   39.31億ドル   36.35億ドル
  ・営業利益   8.84億ドル    7.37億ドル
  ・営業利益率  22.5%      20.3%
 ■通期収益推移 (億ドル)・・・Harley-DavidsonHPより
  ・年度     2011   2010   2009    2008
  ・売上高    46.62  41.76  42.87   55.78
  ・営業利益    8.30   5.61   1.96   10.59
  ・営業利益率  17.8%  13.4%  4.6%  19.0% 
*注:営業利益はOperating income from financial servicesを含む

6月ー9月の3ヶ月販売は全市場で△1.3%、内訳は米国市場で△5.2%にダウンしたが、その他市場は+7.6%。
1月~9月までの累計では世界市場で+6.0%の販売増、米国市場では+6.2%。
今期販売台数目標24.5~25万台を計画し、これは昨年比+5~7%。


★一方、24日付け日経によると、川崎重工業は23日、2012年4~9月期の連結営業利益が前年同期比61%減の103億円になるとの業績予想を発表した。
「稼ぎ頭の建設機械向け油圧機器と欧州景気の悪化で二輪車も赤字が続いたのが主因。
 二輪車は主要市場の欧州で販売台数が計画を下回り、円高・ユーロ安で採算も悪化した。
 東南アジアなど新興国の販売は計画より好調だったが、欧州の下振れを補えなかった。」

★強固なブランド力で確な収益を挙げている米国のハーレーダビットソン、かたや苦戦中の日本の二輪企業と明暗を分けている。
製品品質(設計品質+製造品質という狭義の品質)には差ほどの開きもなく、むしろ日本企業の製品品質のほうが良いと思われるが、
それにして、この収益格差はどこから来るのだろうか。
(注:品質には製品、プライス、プロモーション、供給、製品背景等を総合した品質を製品品質と称する場合がある)
特に欧州の景気悪化は言われて久しく、企業も既に対応済みだと思っていたが、どこの品質差異が影響しているのかな。




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カワサキ全日本モトクロス歴代チャンピオン・・・その2

2012-10-24 06:33:40 | モータースポーツ
  「Kawasaki Racing Team
  

★二輪企業のファクトリーレースチームを、その企業が目的と意義をもって自己資金でレース活動運営を行う集団だとすれば、その中心を構成し実践してきたのが「カワサキレーシングチーム(Kawasaki Racing Team、KRT)」だ。そして、カワサキレーシングチーム(Kawasaki Racing Team、KRT)の歴史は、1967年~2011年の45年間で、最高峰部門250クラスのチャンピオン獲得数8回、同125クラスの獲得数13回、廃止になった90クラス3個を加えると計24個を数え、全日本モトクロス界において燦然たる実績を誇るチームである。(参考:ヤマハ=29個、ホンダ=21個、スズキ=19個)

黄金時代は現代ではない。その時代には気がつかず後になって初めて「あの時代はすごかった。圧倒的プレゼンスがあった」と分かるものと定義すれば、カワサキファクトリーレース活動の歴史のなかで、最大に輝いていた時代、それは’87~’97年代だと言うことに疑いのない事実だろう。'85年から再び始まったカワサキレーシングチームの活躍は、まさにカワサキの時代であり、カワサキの黄金期だったと言ってよい。全日本選手権におけるカワサキのファクトリーレース活動にはモトクロスとロードレースがあるが、モトクロス活動の歴史と戦績はロードレースの活動実績を遥かに上回り、カワサキのファクトリーレース活動の歴史はモトクロスが中心だったと言っても過言ではないだろう。1967年~2011年の間、カワサキモトクロスに関与したファクトリー契約ライダーは開発主体ライダーを含め延べ140名強。加えて、メカニックそして設計や実験担当の開発陣を含む組織の連綿と続いた歴史がカワサキレーシングチームを構成し、世界のレース活動の中心基地として活躍してきた。


★書籍「RACERS」vol06の、カワサキロードレース特集の巻末に、加藤編集長がインタビュー通じてのカワサキファクトリーチームの印象を編集後記として寄せている。それは、「参戦と撤退を繰り返すカワサキのロードレースに未来はあるか」というものだ。「他社は続けているのに、どうしてカワサキだけが参戦と撤退の歴史を繰り返して来たのか、その根源を分析しようと試みた。それは「小さい会社」ゆえだった。経営レベルが先行不安の情勢下に陥った場合、即効性のある緊急処置を求められると、どうしてもロードレース活動から撤退せざるを得なかった」と結論付けている。「小さい会社」ゆえの悲哀が、ロードレース運営の存続にも影響し続けた歴史だと言うことらしい。

一方、「モトクロス部隊がうらやましい」との記述もある。
「全日本モトクロスに行くと、今シーズンもカワサキワークスのテントが張られ、その中にファクトリーマシンがある。モトクロスにおけるファクトリー活動はここ30年以上途切れることはなかったと思う。ファクトリー活動によってKXの開発が進み、また活動によってカワサキのブランドイメージが向上し、結果KXが売れユーザー層も厚くなり、ファンは喜び、社員の士気も上がって、また新しい技術が投入されたファクトリーマシンが走り出す。そんな図式が連綿と続いている。翻ってロードはどうか。残念ながら、ファクトリーマシンを走らせて結果を残せばバイクが売れる時代ではなくなった。ならば、メーカーにとって、レースに参戦する大義は何だろう。」とカワサキのモトクロスとロードレースを対比させ所感を述べている。

カワサキのロードレース活動は参戦と撤退を繰り返さざるを得なかった、その歴史の主因をカワサキが「小さい会社」ゆえとする結論にはもう少し考察すべき事柄もあると思うが、しかし、多くの日本二輪企業担当者との面談を通じて各会社の企業文化を外から見た編集長の意見は、外部から見える企業の一つの姿として謙虚に受け取る必要がある。一方、外部からみたカワサキモトクロス活動の歴史への評価は、概ねその活動を高く評価しているものと受け取って良いと思われる。


★カワサキモトクロスレース活動が戦績を挙げ続けてきた歴史の一番の要因は、ファクトリーチームが技術部の開発チーム内に所属し量産車の開発をも一緒に担当してきた歴史にあるだろう。カワサキモトクロスのプレゼンスが次第に上昇してくると、常勝カワサキを維持し続ける必然性と責任に加え、いや負けるかもしれないという恐怖感が一緒になって自然と心中に沸き起こる。この恐怖感などは一度でもチャンピオンになった者でしか味わえないものだろうが、実際そうなってくる。しかし一方、チャンピオンを獲得し続けると、社内を含め周辺から雑多な雑音がそれとはなしに聞こえてくるものだ。これもカワサキモトクロスがその地位を確立したことを認める証左だと理解し納得してきた。当方が一休止すれば、敵がその席を占拠するだけのことで、尖閣と中国との関係と一緒の事だが、それでもレースに勝つ事の難しさを理解してくれた当時の事業本部長の支援には助けられた。

        
 「誰でもJEFF WARDと同じマシンを購入出来るし、JEFF WARDと同じようにライディングすることが可能です」 
カワサキのモトクロス開発組織は本当に小さな所帯だ。その中で持ち得る戦力で他社と互角に戦うために、カワサキ独自の戦略を立てた。
それは、全日本選手権は次年度以降の量産車の先行開発に専念することだった。他社の先駆的な機構を横目に眺めながら羨ましくはあったけど、自社の立ち位置は守った。他社に劣る戦力は如何ともしようがないが、持った戦力をフルに活用し全日本でのカワサキのプレゼンスを明確にすること、それは量産車の先行開発に徹することだった。その思想の延長上にKXシリーズが完成し、60cc~500ccまでの品揃えの完成と、その技術を活用してのKDX,KLX,そして三輪や四輪バギー車を自組織内で開発した。昔のように潤沢な資金などとは程遠い予算で、レース活動を継続し、成功させ、認知してもらうには量産KXを含むオフロード車の開発を広く手掛け事業経営に貢献すること。その間、技術者は複数の開発機種を同時に担当せざる得ず、ファクトリーライダーも量産車の開発に多くの時間を費やす事にならざる得なかった。

幸いにも、アメリカTeam Green組織の支援体制が確立した時期もあって、カワサキオフ車の追い風となり、生産ベースではカワサキオフ車の生産台数が一位を占める時期が数年に渡って何度もあった。この生産と開発ラインを完成し続けるために、全日本選手権レース参戦は必須だった。これが、カワサキモトクロスの成功の理由の一つでもある。


★カワサキの全日本モトクロス参戦史の中に、アメリカンライダーを起用した時期がある。'92~'94年のエディ・ウォーレン、'95~'97年のジェフ・マタセビッチだ。この時期は、前述したようにカワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し時期に相当する。
この経緯は「kawasaki DIRT.CHRONICLES vol09」に記載されているが、その記述通りである。全日本選手権にアメリカンライダー採用する是非については異論があってしかるべきだが、しかし、これを機に日本人ライダーの技量は確実にUPしたことは事実だし、更に言えば、E・ウォーレンが全日本選手権から引退する最終戦の菅生で、当時のホンダファクトリーの東福寺選手が全ライダを代表してウォーレンに感謝の挨拶をしてくれたことで、カワサキの選択が正解だったことが証明された。
それにしても、グローバルな時代と言われて久しいのに、「Motocross of Nationsの結果」には目を覆うばかり。

kawasaki DIRT.CHRONICLES vol09」の一節から。
「外国人ライダーの起用には、チャンピオン獲得という使命以外にも目的がありました。当時からレース活動は量産車の先行開発の場という位置付けでしたが、日本人より速いペースで走れるアメリカンライダーを介せば、もっと高い次元での開発が行える。そしてマシン開発だけでなく、日本のモトクロス界に刺激を与え、全体のレベルアップにも貢献できる。そんな理想を掲げていたのですが、ただトップアメリカンを呼んでも、日本のレベルとは差がありすぎるという懸念がありました。ぶっちぎりで勝ちまくっては意味がない。程よく競り合いながら勝ち、日本人から見ても手が届くぐらいのライダーが理想でした。ちょうどいいのは誰か。この人選が難しかった部分でした」
 
「日本人は限界まで無理していないし、一方アメリカンたちは倒れる寸前まで攻めているんだなと、レースに対する姿勢の違いを痛感しました。みなさんはアメリカンなら全日本で勝てて当然だと思われるかもしれませんが、彼らがどれほど真剣に取り組んでいたのか、再認識してもいいのではないでしょうか。優等生だったウォーレンでも、負けた悔しさからトランスポーターの中でヘルメットを叩きつけていたことがありました。マタセビッチの場合は、2位のトロフィーをゴミ箱に投げ捨てていました。行儀は決してよくありませんが、彼らはとことん本気だったのです」
 
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カワサキ全日本モトクロス歴代チャンピオン・・・その1

2012-10-23 06:30:07 | モータースポーツ
      「Kawasaki Racing team

21日、2012年全日本モトクロス選手権の最終戦が終了した。
カワサキライダーは善戦したものの、結果は残念ながらシリーズ2位で今季は終了した。
15年ぶりの全日本モトクロス最高峰部門250でのチャンピオン獲得を期待していたが、来季に持ち越しとなった。

そこで、2012全日本選手権も終了した機会に、カワサキのモトクロスチャンピオンの歴史を振り返ってみたい。

その前に、全日本選手権チャンピオン制度が開始された歴史について調べてみた。
MFJ Online Magazine 「モーターサイクルとともに50年」の「MFJ50周年記念」によると、
1961年に、国際モーターサイクリズム連盟(FIM)の要請により日本モーターサイクルレース協会(MFJ)が設立されたのが始まりとある。
それまでは、浅間レース等をふくめ、各地域のモーターサイクル愛好会の連合組織「全日本モーターサイクルクラブ連盟(MCFAJ)」が主催していた。

MFJの記録によると、全日本モトクロスレースの開催は1964年からとある。
また、同協会の「歴史に残るライダー達の軌跡」によると、「MFJ歴代チャンピオン」として認定されたのは、モトクロスが1964年から、ロードレースが1965年で、
モトクロスチャンピオンの制定がロードレースより一年早かったことになる。
 ●1964年:第1回モトクロス日本グランプリ大会を群馬県相馬ヶ原で開催。
 ●1967年:現在にも続くMFJ国内競技規則を確立し、全日本選手権にランキング制度を導入。

一方、カワサキモトクロスレースはどうかと言うと、平成2年(1990年)に発行された「明石工場50年史(発行:川崎重工業株式会社 明石工場)」によれば、
1963年5月、兵庫県青野ケ原コース、MFJ兵庫支部主催の第1回モトクロス大会で初優勝し、その後も地方主催レースでカワサキは勝利を築いて行ったと解説している。
当時、単車事業の業績が悪化し赤字が増える一方だったため、1963年に入ると事業継続か中止かが経営上の大きな課題となっていた時期であったが、
青野ヶ原の完全優勝を皮切りに事業部全体が自信を取リ戻し、優勝マシンB8の成果を背景に10月、積極的に事業展開した。と解説している。
モトクロスチャンピオン制度が確立する前だが、カワサキ単車事業の継続を決定付けたエポックメイキングの出来事として記録されている。

前述の「MFJ歴代チャンピオン」によると、全日本チャンピオン制度が確立したのは1967年で、
それまでの’64~’66年はMFJ主催の日本GP勝者がチャンピオンとして認定されていた。
1967年の全日本選手権にランキング制度が導入された初年度、カワサキはモトクロスチャンピオンを獲得し、その後の歴史が下記表である。

              

1967年: 250:山本 隆     90:山本 隆 *’67年はジュニア部門が最高クラス
1968年: 250:山本 隆    125:星野 一義 90:星野 一義 (カワサキ:3クラス制覇)*68年からセニア部門新設され最高クラス
1969年:  90:山本 隆
  ・それまで日本GP勝者がチャンピオンとして認定されていたが、’67年からチャンピオン制度が導入され、その初年度の2クラスでカワサキがチャンピオンを獲得した。
  ・MFJ主催の全国大会日本GPでは、他社ワークス相手では入賞すら出来なかったカワサキは、3年後の'67年初代チャンピオン獲得まで飛躍的に成長した。
  ・また、’68年からセニア部門が新設され、それまでのジュニアからシニア部門が最高部門となっている。  

1976年: 250:竹沢 正治
  ・’68以来、8年ぶりに最高峰部門250チャンピオン獲得
  ・これ以降、カワサキはチャンピオンから遠ざかり低迷が続く。

1985年: 125:岡部 篤史 
  ・9年ぶりチャンピオン獲得   
1987年: 125:岡部 篤史
1988年: 125:岡部 篤史
1989年: 250:岡部 篤史
  ・岡部選手は2年連続チャンピオンを獲得し、最高峰部門250もチャンピオンとなる。

1992年: 250:E・ウォーレン 125:請川 意次 *(カワサキ:IB250/IB125を含む4クラス制覇
1993年: 125:佐々木 祐介
1995年: 250:J・マタセビッチ
1996年: 250:J・マタセビッチ
1997年: 250:J・マタセビッチ125:高見 俊次 *(カワサキ:IB250/IB125を含む4クラス制覇
  ・アメリカンライダー('92~'94年のエディ・ウォーレン、'95~'97年のジェフ・マタセビッチ)起用。
  ・この間、獲得チャンピオンシップは最高部門クラス部門で合計7タイトル(12クラス中)。
   全日本モトクロス選手権において、カワサキの時代で、圧倒的にカワサキの存在を示し続けた黄金期
  ・加えて、'92と'97年、国際B級125/250も含む全日本4クラス制覇
   
2003年: 125(4スト250):溝口 哲也
2004年: 125(4スト250):中村 友則
2007年: 125(4スト250):新井 宏彰
2008年: 125(4スト250):勝谷 武史
2009年: 125(4スト250):勝谷 武史
2011年: 125(4スト250):三原 拓也
  ・’03年以降のカワサキは125クラス(4スト250)で圧倒的な強さを示し、6タイトルを獲得
  ・一方、’97年以降最高峰部門250クラスではチャンピオンから遠ざかる。

                 「’96チャンピオン祝勝会ー開発Gr @金龍閣」



・・・その2に続く。
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今年も食べた「むかごご飯」

2012-10-21 06:28:46 | グルメ


この時期の楽しみの一つは、「むかごご飯」を食べること。
野々池貯水池のとある場所に毎年とれたむかごの茎は2年ほど前に刈られてなくなってしまいガッカリしたが、昨年は、貯水池の近くに住む知人が持ってきてくれた。

今年はどうかなと思っていたら、同じ人がむかごの実を持ってきてくれた。自分の庭にむかごが出来るらしい。
昨年も貰ったので非常に美味しかったとお礼を言ったのだが、覚えてくれてる。
近所でも今年は余り取れなかったようだが、それでもこれだけあれば、「むかごご飯」ができる。
                    

先日テレビを見ていたら、年配者にとっての”ごちそう”を語っていた。
それは、小さい頃に食べた食べ物らしい。とっさの時にでる九州弁と同じで、小さい時に食べた、あの味が一番だと言うことかな。

その日の晩に、女房が作ってくれた。
ご飯の香りがまず素晴しい。むかごご飯は炊いている最中から、むかご特有の食欲をそそる香りが漂う。これこそ秋の味覚だ。
松茸などは食べたいと思わないけど、めったに手に入ることがない”むかご”は毎年一度は食べたいと思っている。

で、作った「むかご料理」がこれ。
昨年はご飯に、そのまま「むかご」をご飯と一緒に入れ込んで炊いただけの素朴なものだった。
今年は、レシピを探して女房が作ってくれたものだが、
左はビールのつまみ用に、ニンニク、バター、塩で炒めた物。・・・まあまあ食べれた。
右は「むかごご飯」で、酒と塩をむかごと一緒の炊飯器に入れ、昆布を上にのせて炊いたもの。・・・これは美味しい。

  
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鉄の女 マーガレット・サッチャー

2012-10-19 06:24:16 | 映画

  

DVD「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙 」は面白かった。
見どころはメリル・ストリープのソックリさんだが、その演技は見事と言うほかない。顔の大写しが多い中、皺だらけの化粧の技術がすごい。年寄り独特の不随意に動く口元や 震える手など本物の年寄りとしか思えない。小さな店で牛乳パックが高いと嘆く婆さん。この婆さんが鉄の女と言われた、あのサッチャーかと一瞬目を疑った。この出だしで映画は始まる。

認知症を患ったサッチャーは、その自覚がないまま過去を回想するというパターンでストーリーが進行していく。
地方都市の食料品店に生まれ、若き日のマーガレットが夫のデニスからプロポーズを受けたとき、彼女はこんなふうに答えている。「私は他の女の子みたいに可愛らしく旦那のそばに付き従うことはできないし、一人で孤独に皿洗いにふけることもできない。ティーカップを洗いあげるだけでは死ねない」

映画の中の幾つかのセリフだけでもサッチャーがどんな政治家だったかわかるので、気になった場面をセリフと合わせて書いてみよう。議員を目指したマーガレット・ロバーツは保守党議員の言葉を真剣な眼差しで聞いている。
「政界に入るのは戦の前線にいるようなものだから」
「どこかの国の誇りを忘れた政治屋たちに、つぎのセリフを贈ろう・・「保守党の理念を再認識させてやりたい」「グレートブリテンをその名に恥じない偉大な国へ」」

男社会の国会に、食料品店の娘が乗り込んで頂点を極めるには、それ相応の試練があった。
下院議員選挙に初めて立候補して落選する25歳のころから 結婚し、やがて大臣になっていく過程での英国。労働組合は、基本的にデモやストライキをすることでしか所得拡大を計れない。そしてゴミが回収されなくなり、電車もバスも動かず、所謂「英国病」がイギリスに蔓延していた。大臣になったサッチャーは、労働組合のストによって出来たゴミの山を視察して歩く。

ちょうど、サッチャー政権誕生の前夜のできごとだったが、そこでサッチャーは下記の演説をする。
「我々保守党の目標は、人々に自由と機会を与え、可能性を開花させることだ。”皆平等”っていうふりは良くない」
「子供を励まし、より高い目標に向かわせよう。その子供たちが英国の明日を担うのだ」
「労働者を守るべく組織された組合が、労働者を働かせず、雇用を奪い、この国を弱体化させているのです」
「グレートブリテンをその名に恥じぬ偉大な国に!」
「無能極まりない今の労働党政権は誤った情報を流し、浪費を続けている。もう限界だ!」

やがて11年間も首相を務めたサッチャー物語はノンフィクションの映像もふんだんに使われ、その時代の世界情勢をみることができる。政界におけるサッチャーは、女性であるが故に風当たりが強く、自分を認めさせるために悪戦苦闘を強いられる日々が続く。彼女の主張である「自助努力・自己責任」のスローガンの下、労働運動に明け暮れる労働組合を無力化し、効率的な企業運営ができるようにしたいと考えていた。そんな中、あまりにも不甲斐なく弱腰な保守党に憤慨した彼女は、党首選に立候補することで安穏とした保守党に揺さぶりをかけ党全体の活性化を図りたいと考えた。しかし、周囲の政治家達は様々な思惑から、サッチャーを党首選に当選させるべく画策していた。発声練習やルックスなどについて指導を受けて党首選に当選、そして1979年、女性初のイギリス首相となる。

しかし、進む先には既得権益にしがみつくイギリス国民が横たわっている。
「小さい政府」を志向し、徹底した減税と支出削減を政策の柱に、規制緩和を推進する経済自由主義を信奉者だった、サッチャーは電話、ガス、空港、航空、水道などの国有企業を規制緩和で民営化し、そして法人税を値下げして、消費税を引き上げた。あわせて教育法を改革し、学校の独自性を認めず全国共通の教育システムを強制、教科書も一本化し「自虐的」人種差別や、植民地支配の歴史を改正していく。劇中にも出てくる米国のリーガン元大統領は「小さい政府」で自由経済主義を志向し成功したが、サッチャーも同志向を目指した。そんな中でのサッチャーの劇中会話。
「今の時代の問題の一つは、人々の関心は”どう感じるか”で”何を考えるか”と言うことではない。
 ”考え”とか”アイデア”こそが面白い。”考え”が”言葉”になり、その”言葉”が行動になって、”行動”が”習慣”になる。
 ”習慣”がその人の”人格”になり、その”人格”がその人の”運命”になる。”考え”が人間を創るのよ。」
「選挙で勝利したのは、この偉大な国を衰退から救うためです。
 国民は私を選んだ。英国経済を立て直してくれると信じてね。 私はそれを実現します」


そして、フォークランド紛争勃発でのセリフはこうだった。
「アルゼンチンの軍事政権の英国領土侵攻を許すことはできません」「交渉についての私の立場を明確にします。 私は犯罪者やゴロツキとの交渉には応じません。英国領であるフォークランドをとり返します。 はっきり聞かせてください。戦てる可能性はありますか」

和平協議を勧めるアメリカ国務長官との交渉時におけるサッチャー首相の発言に国務長官はぐうの音もでない。
「英国住民は少数だから政治的、経済的にも重要ではないというのですか。
 日本が真珠湾を奇襲した。1941年ですよ。あの時、米国は紳士らしく東條に和平を申し出ましたか。 ハワイの同胞を見捨てたのですか?」
「信条を貫くかどうかが問われています」
そして、「アルゼンチン軍艦を沈めて」と指示した。
紛争発生からわずか1週間程度で第1陣の艦隊を編成し出撃させたのに続いて、商船など民間船を多数徴用した国家的即応体制と危機対応能力を示した。
中でも、巨大客船「クィーン・エリザベスII世」を輸送船として徴用し、短期間のうちに所要の改造を施して実戦へ投入したことは特筆すべき点と評されている。


イギリス経済の低迷から支持率の低下に悩まされていたサッチャーは、戦争終結後「我々は決して後戻りしないのです」と力強く宣言し、支持率は73%を記録する。フォークランド紛争後、保守党はサッチャー政権誕生後2回目の総選挙で勝利し、これをきっかけにサッチャーはより急進的な経済改革の断行に向かう。この後、経済政策、いわゆる新自由経済政策が実を結び英国病から脱却、英国経済の復活が続く。「黒字、黒字、黒字」、「サッチャー景気!」 
彼女の強烈なリーダーシップが大英帝国を復活させた。
    
サッチャーは11年もの長期政権を維持し続けたが、しかし、政権の終盤期に手がけた人頭税導入計画あたりから政府要人も離れていく。これを境に、首相を辞めた。その後のサッチャーは映画の序盤に戻り、亡くなった夫と過去を回想しながら食事する場面に戻っていく。「牛乳パックが49ペンスもする。 高い!」

★サッチャーは蔓延した英国病を退治し輝かしい大英帝国を復活させ、低迷していた経済を未曾有の好景気に変換させた。サッチャーが劇中に話したセリフの、労働党を日本の政権与党に置換えて読むと、当時の英国の惨状が今の日本と酷似していることで対比できる。翻って、日本にサッチャーのような強いリーダーが出現する可能性はあるだろうか。・・それは多分無いだろうという説がある。なぜなら、日本社会は年齢で上下関係をつくらないといけないぐらい平等で、強いリーダーをきらってきたという歴史がある、との説だ。日本は欧米みたいな対外的大戦争を経験する必要がなかったので、紛争=戦争を抑制するりーダーを必要としなかったとある。

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黒星池のヤマハギ

2012-10-17 06:21:03 | 野々池周辺
  「萩の花-写真の駅より」

既に野々池貯水池のハギの花は散ってしまったので、次は黒星池のヤマハギが咲く番だと思いながらウォーキングしていた。
近くのコンビニや西明石近辺に用事で行く時は、黒星池と亀池貯水池間にある農道を通るのだが、その農道から見える黒星池の土手にヤマハギが集団で咲く場所がある。
いつものように野々池ジョギングコースをウォーキングしたあと、黒星池まで歩いてみた。
ところが、咲いてからもう大分経ったのだろうか、少し凋んでいるものもある。
それでも、ハギは秋の爽涼感が実に良く似合う。
日本の秋の情緒をこれ程までに強く表す花もない一方、これ程までに一抹の寂しさを感じさせる花もないと思っている。







★この季節のもう一つの花、香りを告げる金木犀の黄色い花が目についた。
その側を通り過ぎるだけの金木犀だと良いのだが、この花の近くには長く立ち止まれない。

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スナッグゴルフ大会

2012-10-15 06:26:36 | 日常生活
土曜日、孫の小学校で開催されたスナッグゴルフに、昨年同様、孫とペアを組んで参加した。
同小学校では、昨年、スナッグゴルフが初めて開催され、昨年は低学年クラスで3位だったこともあり今年も表彰を狙った。
勿論、スナッグゴルフの経験など皆無でグランドゴルフとの違いも全く分からず、玩具のような用具に子供のためのゴルフかと当初は思った。
しかし、始めてプレーした経験から言うと、これは本物のゴルフと基本的は何も変わらず奥が深いな~と実感した。
これは難しい!

昨年は冬の寒い時に開催されたが、今年はまさにゴルフ季節の10月、しかも最高のゴルフ日和の開催だったので気分良くプレーできた。

まずは用具の紹介から。
基本的にはパターとアイアンの2種で、子供用と大人用ではシャフトの長さが異なるようだが、アイアンのフェース角は見た目56~58度くらいか。
アイアンのグリップ部にはグリップする際の指の置き場を示す印があり、パターとアイアインではその印が付いている場所が異なる。
ボールは硬式テニスボールと同じようなものだが、識別の色つきで打つ場所を記した黒点がある。
これを持ち運び可能ティにのせて打つ。


運動場でプレーするために、地面に埋めたカップは設定できないので、この目印がカップとなる。
カップというか支柱面にはボールがくっつくように埴毛がついている。

プレー開始前に、スナッグゴルフ普及協会の指導員からプレー時の心がけや打法について説明があった。
危険性が伴うので安全プレーのための注意事項を説明され、基本はゴルフと同じマナーを踏襲する。
最初の打つ番が決まれば、カップから遠い順番に打ち、次のホールは打数の少ないプイヤーから打つ事や、空振りの数えた方、
そして申告の仕方等を教えてくれた。 要は紳士的にプレーし、ごまかすなと言うこと。


初心者も多いので、まずはパターの打ち方の指導と練習。
つぎはアイアンの打ち方だが、体重移動で遠くまで飛ばす上手な小学生もいる。
車で10~15分ぐらい近くに全国高校ゴルフ大会屈指の滝川第二があるだけのことはある。
複数メンバーで構成された各チームは交互に打っていくが、打つ順番も好スコア獲得のカギになっており難しい。


コースレイアウト。
6番ホール、パー23で、2番、3番及び4番のティグランドが校舎内に設定され、他のホールは運動場。
2番と3番ホールはパー3。
特に2番ホールは難しく、校舎玄関のブロックの上にコースが設定され、しかも傾斜がついているので、風が吹くとボールが転がりグリーンを仕切りしている縄跳びロープまで転がる。
2番ホールでかなりの数を打ったメンバーが多かったが、我々のチームはこのホールをボギーで切り抜けた。


圧巻は4番ホールで、校舎から運動場めがけて打ち降ろしのパー4。
見晴らしがよいので飛ばしたい気分になるが、そうすると、目の前を覆う桜の枝にボールがひっかかり、階段を転げ落ちる。
実に巧く考えられたコールレイアウトには感心したが、最も興味深いのも4番ホールだ。


各コースは白線で仕切られ矢印に沿って歩いて行くと各ホールのティグランドに行き着く。
運動場に設定されたコースには、白線で仕切られたグリーンがある。このグリーン内ではパターで打つ。
グリーン以外のコース内は持ち歩き用のティで打つが、フェアウェイは運動場の砂の上なので、巧くショットしないと止まらない。
OBなし。



で、表彰式。
パー23で、孫と私のチームはバーディ2個ボギー3個の1オーバーの24だったので、表彰ラインの2位に届かず。
優勝者は4アンダーだったが、なんと一番ホールパー4でホールインワンだが、アルバトロスと呼ぶのかな。
なにせ、パー4でグリーンに乗せたボールがホールにトントンと吸いこまれて行ったそうだ。




SNAGGOLFとは
「スナッグは、元PGAツアープレイヤーのテリー・アントンとウォーリー・アームストロング によって6年の歳月を費やして開発されました。
教える者、学ぶ者の両方にとって「やさしく」「正確に」「どこでも」「だれでも」ゴルフの基本を学ぶ事ができ、
また教えることができる用具とプログラムの開発をコンセプトにして用具開発に4年、プログラム作成に2年を費やし2001年米国PGAショウ(世界最大のGOLF SHOW)で始めて発表されました。

スナッグ(SNAG)の意味は、Starting New At Golf(ゴルフを始めるために)の頭文字をとったものです。
もう一つ、スナッグで使用するターゲット類はすべてボールがくっつくようにデザインされています。
SNAGとは、「くっつく」という意味がありますので、この二つの理由から「SNAG」と命名されました。
スナッグはゴルフの基礎的な要素を全て持ち合わせており、ルールはわかりやすく、広さの限られた場所でも充分に楽しめるスポーツです。
スナッグの用具やプログラムには、ゴルフの基本技術であるフルショット・ピッチショット・チップショット・パッティングそして“コースプレイ”を
「楽しく」「正確に」習得するために、様々な工夫が 施されています。
また、プレイや練習を通してゴルフの「マナーやエチケット」を学ぶことができます。
スナッグは、初心者にとってゴルフを学ぶための「ゴルフの入り口」となるでしょう!!」

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ヤンキース 黒田投手

2012-10-13 06:24:02 | スポーツ
    「9回降板の黒田投手を拍手で迎えるヤンキースファン」

ア・リーグ地区シリーズ第3戦(日本時間11日の9時) ヤンキースとオリオールズ戦。
1対1で迎えた第3戦 、勝てば王手をかけるヤンキース先発は黒田投手。
今季の黒田投手は安定性のあるピッチングを続け、今回も期待してのテレビ観戦。
黒田は105球、8回1/3まで投げ、5安打3三振3四死球で2失点。
8回で100球ちょうどの球数だったが、「9回は行けるところまで行かせてくれ」と志願の登板だったことを明かしたと報道にある。

2対1で先行された9回裏、3番ロドリゲスに代わる代打はベテランのイバニエス。
NHK解説の大島やアナウンサーはロドリゲスに代打とは何だとカナ切り声を挙げていたが、試合経過を見れば直ぐわかるだろう。
このところ絶不調のロドリゲスはこの日も2三振、観客席から大ブーイングなのに何故代えないんだろうとテレビを見ていて不思議だった。
 
イバニエスが打った瞬間、ヤンキースタジアムの大観衆は総立ちになり、右翼スタンドの二階席に吸い込まれた白球に歓喜の雄たけびを上げた。
これで同点。しかもだ。
延長12回、イバニエスが右翼へサヨナラ本塁打を放った。
劇的サヨナラ弾の前にイバニエスはチームを崖っぷちから救った。
9回1死、敗色濃厚のヤンキースをよみがえらせた、代打イバネスの起死回生の同点ソロ本塁打。
負ければオリオールズに王手をかけられる一戦でベテランがチームを救った。・・・「詳細試合経緯データ

この日の主役は、黒田とイバニエス。
いぶし銀ながらしっかりと良い仕事をこなす黒田を、普段は辛口のニューヨーカー達も大変気に入っている様子で、
名前の"Hiroki"とかけて黒田を"Hero"(英雄)と称するような記事も、NYのメディアでよく見かけるとの解説もある。

黒田に勝ち負けはつかなかったが、そんなことは関係ない。文句のないピッチングだったと思う。
たしかに、8番、9番にいずれも初球を狙い打たれてのホームランだったが、“完璧なピッチング”など、そんな簡単にできるものではない。
この試合の黒田は我慢の投球を続けた。いつものように黙々と投げた。
現地の目が肥えた観客は黒田の貢献をよく理解しているのか、9回に先頭打者を打ち取ってベンチに下がる黒田に送られた拍手と歓声がその証拠だろう。

11日の試合では、良いものをたくさん見せてもらった。・・・ヤンキースの粘り強い勝利。
黙々と投げた黒田の好投が救われたし、イバニエスの神がかった活躍もあり、そしてロドリゲスの潔い態度・・・ 。

    「Yahoo!sport

ヤンキースの黒田投手、サバシアと並び今季のヤンキースNo1投手の一人になった。
東部地区優勝に貢献したのは、16勝を挙げた黒田をまず評価すべきだ。
まさに堂々たるマウンド度胸、黒田がマウンドに立つと安心感が先に立つから不思議な感覚だ。
相手強打者を打たせて取る堂々たるピッチングは安心して試合経過を追える。・・・本当に妙に安心感を醸し出す不思議な投手だ。


それに引き換え、日本のメディアがイチロー、イチローと騒ぐのもいいが、本物とは何かを少しは考えてみて欲しい。
言うまでもなく、今シーズンのチームへの貢献度は、黒田の方が数倍上回るのに、なぜイチローが先に来るのだろう。
ヤンキースの地区優勝を報じた時もそうだった。
なぜイチローがクローズアップされるのだろう。正確にニュースの価値を判断できる日本のメディア記者がいないのだろうか。

イチローが嫌いなわけでもないが、マリナーズのお邪魔虫だったのを自覚しての移籍、ひと踏ん張りしないと来年の契約は無いと思ったのか、ここにきて俄然頑張りだした。
まるでヤンキースがこの試合に勝ったのは、いや、それ以上に、優勝そのものがイチローのおかげのような報道が多すぎはしないか。
イチローがヤンキースでプレーしたのは67試合だけだ。
もう、あの甲高い声で自分自身に酔ったような発言を繰り返すイチローの報道はもういいよ。
極端に言うなら、日本ゴルフ界には石川遼、テニスには錦織圭しかいないと思わせているのと同じ報道姿勢の罪は深い。

ファンは自分が好きな選手を思い切り応援すればいい。
しかし、メディアは違うはずだ。もっと公平に一番活躍した選手を取上げるべきだろう(11日のNHKスポーツ報道はどちらと言えば公平だったが)。
だから、Yahoo !sportや ESPNで誰が主役かをみることにしている。

★残念ながら、第4戦は延長13回でオリオールズが勝った。
今日(日本時間13日)が最終戦だ。
コメント (2)
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