野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

野々池貯水池 - 「ネジバナ」

2013-06-29 06:10:36 | 野々池周辺
梅雨もなか休み、晴れては曇りの不安定な空模様。もうそろそろだなと思いながら、野々池貯水池の土手を横手に見てウォーキング。
この時期は野々池貯水池の土手に小さいなネジバナがピンクの花を咲かせる。
昨年はネジバナを撮った時期が早すぎて数が少なかったが、今日は時期が良かったせいかネジバナを沢山見かけた。
早足でウォーキングすると見落とすほどに小さいが、スーット伸びた細い茎に螺旋状にピンクの花が房状に咲き、本当に感動ものだ。
野ランの一種とあるが、よくよく見ると本当に品のある花姿をしている。

ネジ花の背丈は小さく20cmにも満たず、それにびっしりとピンクの花が捻じれて咲く。
デジカメの焦点を合わせながら屈んで撮るが、咲く場所は湿った土手なので必ずズボンの膝が濡れる。

野々池貯水池ジョギングコース沿いに写真を撮りながら、半分ぐらい歩いていると、野々池貯水池の草刈が始まっていた。
いつもと違う造園業者らしく、何時もよりか早く草刈を始めたようだ。
もうあと一週間もすると草刈も終了するので、良いときにネジバナの写真が撮れてよかった。

            


高層マンション側の野々池貯水池の土手に、毎年たくさんのネジ花が咲くが、もう今年は草刈が始まった。
 
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Z1会の続き・・・

2013-06-26 06:27:32 | 二輪事業
カワサキZ1は1972年に生産開始され、昨年がちょうど生産から40年経ったそうで、その記念行事の一環だろうか、
当時の関係者の方々が担当分野でそれぞれの体験や思いを執筆された本が刊行され、その出版披露が6月25日に西明石で行われたので出席した。一方、「カワサキZの源流と軌跡」の著者の一人であり、監修者でもある、大槻幸雄さんが主催しているZ1会というゴルフコンペの会員になって、早数年経った。「Z1会」の会則によると、会の目的は「カワサキの名車”Z-1”で燃えた時代を想起し、これを愛し誇りに思う人達がゴルフを通じて親睦をはかる」こと、会員の資格は「カワサキの名車”Z-1”を限りなく愛していることを宣言できる人」となっている。私は、Z1の開発等には一切関与していないが、大槻幸雄さんやZ1開発に深く携わった故井上隆志さん(Z1会初代幹事)とも懇意にして頂いた縁もあり、Z1会加入を許可してもらった。そのZ1会の縁で、「カワサキZの源流と軌跡」の出版披露に出席することになった。

Z1は当時の二輪車事情からすれば画期的な二輪だったと思うが、それ以上に、Z1開発に至るマーケティングとZ1の素晴らしさを市場に認知させた手法に興味がある。ところで、Z1に関し、昨年の5月の本ブログに、「城を落としたくば、民の心を落とせ」として、Z1が何故優れた二輪車に成り得たかを、当時の担当者達の思いと実行力を評価してブログに書いた。そのブログに若干の補足を加えたので、再稿してみた。        「’73 KAWASAKI-Z1 24時間 スピード記録挑戦時:デイトナ」
「Facebook 和田 将宏さんの写真より転用: Kawasaki Z1 24 Hour Endurance Record at Daytona Motorspeedway 1973 with riders Masahiro Wada and Hurley Wilvert」

『元カワサキワークスロードレースライダーの和田 将宏さんがFacebookに投稿した貴重な写真。
Z1が発売開始された翌’73年、デイトナスピードウエイでの24時間スピード記録挑戦時の写真とある。
’72年に発売されたZ1が二輪を代表する機種として君臨していく過程で、Z1の優秀性を市場にアピールすべくプロモーションが次々と計画された。
その都度、Z1は驚嘆すべき性能を発揮し、主戦場だったアメリカ市場で、Z1は”パフォーマンスバイク”の代名詞となっていく。
加えて、著名なチューナーによって更に性能向上され、過酷なレースにも耐え続けることで、持てるポテンシャルを如何なく発揮し、
Z1の基本性能の優秀性と耐久信頼性を更に高め、「パフォーマンスバイク」の名を揺るぎないものとした。その過程中に実施されたのが、デイトナ24時間スピード記録。

販売して間もないZ1を、当時の「最も過酷なデイトナ24時間スピード記録に挑戦する」という、当時の先駆者達の自信と意気込みこそを、高く評価すべきではなかろうか。カワサキ単車事業の浮沈をかけた大勝負、カワサキの先駆者達の熱情と功績は見事と言う他ない。和田 将宏さんは事もなげに当時の写真を投稿してくれたが、一見無謀と思える挑戦に挑むライダーの心意気にまずは驚嘆、そして無事成し遂げたライダーに乾杯!!。この写真から、先輩諸氏のZ1にかける思いがひしひしと伝わってくるし、優秀性において自信ある製品を如何に市場に認知して貰うのか、商品プロモーションの基本を、この写真は伝えている。「Z1 24時間 スピード記録挑戦時ーデイトナ」はYOU TUBEでも見ることが出来るが、成功したからOKなものを、失敗していたらここまでのZ1の評価は得られなかっただろう。

つまり、「城を落としたくば、民の心を落とせ」と言う、ユーザーの心の奥にある心情に響かせ訴える効果の必然性。この意味をどう解釈するかは、其々の経験、思い、立位置によって異なる事は承知しているが、閉塞感を打破し抜け出る術、それは、「世の中をワクワクさせる仕掛け」ではないか。』

Z1に関して、Z1の優秀性の一端を示す別の貴重な一節があるので紹介したい。
その後のZ1は競争相手から常にマークされ、Z1を超える二輪車開発のターゲットとなっていくが、次の資料も、優秀な商品を開発し続けたチームが、如何にして開発したマシンの優秀性を市場に訴えたかの記録である。そのターゲットはZ1で、そして市場に訴求するやり方がZ1と類似なのが面白い。元スズキ二輪車設計責任者であった、横内悦夫さんが出身の宮崎で、宮崎日日新聞に連載した、「世の中の流れを変えよう」 だ。下記は「世の中の流れを変えよう」の中から、文章の一節。

 「昭和51(1976)年の・・・・以下略
  マシンの速い・遅いは結局比べてどうかの話だ。・・・(略) 
  テストの最終日は、夕方、私たちは一週間、3,200キロのテスト走行を終え、ロサンゼルスに戻った。
  翌朝、全員でミーティングを始めると、パフォーマンスバイクのことが話題になった。
  テスト走行の経過から見て、スズキGS750だと思ったのに、カワサキ900ccZ1がパフォーマンスバイクだという。
  この世の中で最も優れた速いバイクをパフォーマンスバイクと呼び、それがカワサキだというのである。」

 「パフォーマンスバイクを考える上で、過去に私は貴重な体験をしている。
  1972年10月、・・・・以下略
  西ドイツでの走行テストが終わって、4人のヨーロッパのライダーたちとパフォーマンスバイクについて話し合ってみた。
  最初はまとまりのない話ばかりが続いたが、メンバーの一人が耐久レースの話を始めた。すると、みんな話に乗ってきた。
  耐久レースとは、24時間連続して走るという過酷なレースだ。中でも、フランスのル・マン24時間が有名である。
  ヨーロッパの耐久レースではホンダCBR900ccが連戦連勝し、不敗神話を誇っていた。  
  4サイクルエンジン最後発のスズキが世間にアピールするには、権威ある人気レースに出場して優勝するのが最も手っ取り早い方法」

 「フランクフルトから南へ三十分ほど走ったヘッペンハイムだ。
  まずはアウトバーン(高速道路)でテストしようということになった。この時代のアウトバーンはどこでも超高速で走ることができたからだ。  時速200kmのスピードは、テストコースでは怖くないが、アウトバーンという混合交通の中では速度感がまったく異なり、恐怖さえ襲ってくる。  橋などのわずかな路面の継ぎ目も、時速200kmともなると、大きな衝撃となって車体を突き上げる。これをきっかけに車体が左右に振られる。  この挙動が増幅すれば、転倒という悲劇の二文字が待っている。  一人乗りで問題ないことを確認した後、二人乗りでのテストに移った。  ではなぜ、二人乗りで時速200kmもの高速テストを公道上で行わなければならないのか。  答えは簡単で、数多いお客さまの中には、ほんのわずかだが、所有するオートバイにその能力があれば、時速200kmで二人乗りする人がいるからだ。  私たち開発者が最初に考えなければならないのが、お客さまの安全を守ることなのである。」

 「“安全で世界最速のパフォーマンスバイクを造ろう”が基本の発想だ。  まずエンジンパワーが強力でなければいけない。半面、パフォーマンスバイクは、ただ速いだけでなく、乗り心地の面でもトップレベルでないといけない。  大陸横断や縦断の相乗りロングツーリングで疲れの少ないものにする必要があるからだ。・・・(略)・・・  ’76年、カワサキZ1に対抗できる1000ccを造りたいとの要望が提案されていた。  翌年の9月に、ほぽ目標通りのGS1000の最終試作車が完成。  評価ライダー、その中には「スズキはパフォーマンスバイクではない」と言ったボブ・クレーマーもいた。  例によって、ロサンゼルスをたち、サンフランシスコに向かう。ゴールデンゲートブリッジを渡り、レークタホで一泊。  翌日カリフォルニア山脈の東を南下、国立公園ヨセミテの山間道で走行テストをした後、3泊4日の行動走行試験を終えた。  バイクのことに詳しいボブ・クレーマーらに評価を求めると、「これは立派なパフォーマンスバイクだ」との答えを得た。  次いで私は、GS1000を世界にアピールする手段を考えることにしたのである。」


希有な設計者である横内悦夫さんの原文を多少端し折ってしまった事はお許し願いたいが、意図とするところは理解して頂きたい。
今は良く知らないが、AMAロードレースでは、どこのサーキットでもスズキのバイクが溢れ、スズキ主催のレースも開催され、スズキの草の根活動が成功し、米国市場で「パフォーマンスバイクといえばスズキのGSX」という時代が最近まで永く続いたことを記憶している。市場に認知してもらうのは、そのバックグランドの構成要素が最も重要だと思っている。

★Z1は確かに”パフォーマンスバイク”の一つに間違いない。が、この機種のみがカワサキを一挙に高性能バイクメーカーに押し上げたかと言うと、決してそうではないと思う。バックグランドに、H1R,H2Rのようなカワサキを強烈な”パフォーマンスバイク”として構築する土壌があったからこそだと思う。すごい時代だった。凄いぞカワサキ。
 ●カワサキの強烈な戦闘パフォーマンスを示したカワサキのH2R(和田 将宏さんのFacebookから):
         
     
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Kawasaki ”Adam Cianciarulo” のプロ初レースの結果は?

2013-06-24 06:20:33 | モータースポーツ
 「Kawasaki racing」

現地時間6月22日、AMAナショナルモトクロス選手権第5戦、サルモネラ中毒で第1戦欠場から回復した、Kawasakiの Adam Cianciarulo(16才)がプロレビューした。バッズクリーク・モトクロスパークがプロレビューの舞台となった「Kawasaki racing]
                      「 #292 Adam Cianciarulo:Racer X」
さて、その結果は、250クラス第1ヒート、Adam Cianciarulo はホールショットを獲ったが、結局、第1ヒート14位、第2ヒート17位とほろ苦いスタートとなった。しかし、AMAモトクロス史上最高ランクのRicky Carmichaelでさえ、プロレビュー戦は 6位/13位 だったことを考えると、こんなもんかもしれない。成りもの入りのプロレビューだったので若干失望したが、次への期待も大きくなった。

Adam Cianciarulo は、Ricky CarmichaelJames StewartRyan Villopoto に続く、カワサキの、いや世界を代表するモトクロスライダーになると期待されている。久々の超大型新人の登場に、AMAナショナルモトクロス選手権から目を離せなくなった。
 
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ゼフィランサス・・・庭の花

2013-06-22 06:03:22 | 
「ゼフィランサス」
濃いピンク色のゼフィランサスが咲いた。丈夫なんだろうか、鉢植えのまま放置しているが、球根が鉢一杯に目詰まりする程なった。
それが、数日前、たくさんの花茎がスルスルー出てきたかと思ったら、1~2日ぐらいでポッと花を咲かせた。ピンク色のサフランにそっくりの綺麗な花だ。
一鉢に、これだけたくさんの花を付けると、さすがに良く目立つ。もうひとつ気に入っている、このゼフィランサスの良いところは写真映りが素晴らしい事。
実物も綺麗だが、写真に撮ると実物よりメリハリがあって、花全体が浮かび上がり濃い目のピンク色が際立つ。
こんなゼフィランサスも、昨日と今日の梅雨の雨に当たると、どの花もうつむいて下を向いている。意外と打たれ弱いことがわかった。
だから、2日程前に撮ったゼフィランサスを載せることにした。
                          

                                                         
                       
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庭の花・・・6月中旬

2013-06-21 06:20:06 | 
梅雨に入る前の、6月中旬までの庭の花を撮った。
5月の庭の方がもっと沢山の花が咲いていたが、薔薇の花に気を取られ、写真は撮ったもののブログに記録する間がなかった。
6月は5月に比べれば、圧倒的に花の種類は少なくなり、雨に似合う花になっていく。
それで、雨にぬれた情景の花を撮影して残して置こうと試みるが、6月前半雨も少なく上手く写真に残せない。ついつい、晴れ間に撮ることになる。
              
              
              

「ホタルブクロ」
白の「ホタルブクロ」がたくさん咲いている。梅の木の下に植えているので日当たりが少し悪くひ弱だが、ヒョロっとした花茎からしっかり咲いている。
この花、梅雨に咲くからかうつむいたように下向きに花を咲かせ、わざわざ下からのぞきこまないと花の中を見る事は出来ない
しかし、細長い釣鐘形をした花は、朝日を浴びると花弁が透けてみえるので、朝日のあたる時間頃のホタルブクロが一番良い。
梅雨時の蛍が飛ぶ時期に咲く、ホタルブクロはお気に入りの庭の花の一つ。
                       
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先週の出来事、感じた事・・・色々書いてみた

2013-06-17 06:35:56 | その他

     やっぱりか!・・・プロ野球ボールの反発係数変更
誰でもおかしいと思っていたプロ野球のボールは年初より反発係数を変えていた。
昨年、一昨年と反発係数が基準を下まわっていたので、今度は反発係数をあげたそうだ。すると長打が増え、ホームランも増加した。
プロ野球ファンとして、飛ぶ方が圧倒的に面白い。 阪神の新井も打率が向上したし、マートンもヒットを増産するようになって、ボールが原因だとすればボール様さまだ。
12球団とも同じ反発係数のボールを使用するので、条件は同じ。阪神だけが有利になったわけでもない。

大問題は、そのボール変更を知らなかった事として記者会見したプロ野球コミッショナーと公表時期だろう。
ファンあってのプロスポーツだから、重要な変更がある場合には、事前にそれを発表しなければならないし、その理由もわかりやすく説明しなければならない。
加えて、プロ野球に関わる全12球団と選手会にも事前に、つまり年初に説明するのが筋であり、これが世間の常識だと思う。
最も非難されるべきは加藤良三コミッショナーだが、その発言が世間を馬鹿にしている。
「責任はあるが、不祥事ではない。事務局内のガバナンス強化に努める」として、自分に責任は無いので辞任はしないとテレビで何回も放送された。
事務方が秘密裏におかしな画策をしたのは「彼らが勝手にやったこと」であり、「報告をしなかった下々が悪い」。だから「自分は悪くない」、と。
まさに、プロスポーツとしての野球を束ねるコミッショナーの品性のかけらもない。

普通の企業の感覚でいえば、重要事項を報告されないような管理職は、部下の掌握に問題があるとみなされる。
今回の記者会見で、加藤コミッショナーは組織管理者として重大な欠陥がある人物だとテレビ放送されたに等しい。
絵にかいたような天下りの加藤コミッショナーは世間の失笑を買った。下田事務局長の「事前にコミッショナーに相談した」が、記者会見では突然「間違いだった」と。
聞く方は誰がウソをついているかなど、もろわかりなのに、平気で発言するコミッショナーは辞任することが当面の最善の策だろう。
こう書いたものの、実際の結末は日本柔道界の汚点と同じく、第三者委員会なる身内の調査で時間を引き延ばし、忘れた頃、若干の処分をして、加藤コミッショナーは居座る。
茶番劇に終わる可能性が高いが、関西のテレビ番組「アンカー」や「キャスト」のコメンテイターは、橋下市長をチョコチョコ突くのではなく、東京の汚点の本筋にモット迫るべきではないのか。
このような問題、本場アメリカではどのように処されるか、こんな記事「拝啓:クラブビジネスの浄財にアグラをかくNPBコミッショナー殿 」があった。
ところで、知らなかったのだが、3年前までは使用するボールは、各球団が決めていたらしい。これだったら、なんでも細工ができる。

★話は変わるが、外務官僚とは、いい加減な官僚が揃っているんだろうか。
先日、安部総理のFacebookに、元外務官僚だった田中均局長を通し伝えられた北朝鮮の主張の多くがデタラメだったと、北朝鮮の拉致問題時の内幕が暴露された。
また、鈴木宗雄氏の本「汚名」の「外務省の生き物の生態」では、具体的な実名まであげて外務省の内情を記述していると以前の私のブログ書評にも書いた。
例えば、怒鳴りつけるとアルマジロのように硬直する。ミスを叱責されるやいなや、ソファに倒れこんで、体をギュッと丸めてピクリともしない官僚が、
夜のキャバクラでは赤ちゃんに変貌する等々、本当かと思ってしまう。これが外務官僚の本性だろうか?
外務省の天下り先は少ないので、加藤コミッショナーを外務省は必至に守るだろうとあったが、なにか空しいな~。
金曜日のアンカーでは、コメンテイター森田さんが加藤コミッショナーを口をすっぱくした罵っていた。その通りだ。



   先週の事件で、最もビックリしたのは川重社長の解任事件:伝統ある神戸の名門企業社長が取締会で解任動議を受け社長の座を追われた。
その前の4月25日、私は自分のFBに、「(略)・・三井造船との統合話がなかりせば株価も380円近辺になったはず?と、ひとりで皮算用。
 中国の建設機械が不調につき、精密機械が予定の収益を確保できなかったとあるが、同様な精密油圧技術を持つKYBの株価は好調なので、川重株も早晩400円を目指すか? 
 そうなればいいな~と、これまたひとりで夢をみる。」と書いた。川重と三井造船との統合話が市場に出て、川重株価が急に下った。雀の涙ほどしかないが川重株を持っている身にとって、
株価が下がるのは大問題。 それまで川重株は同業のIHI株より高く評価されていたのが、IHI株の急上昇に比べ、川重株の低迷を眺めて悲観し書いたFBだった。
市場は三井造船と川重統合を川重価値を毀損するもだと判断し、結果的に統合を勧めた前社長は解任され、統合白紙化報道をうけて瞬間的には川重株は好転した。
今後の川重への信頼性は新社長の手腕にかかっている。社長解任という事件を受けた後の新社長の動向を市場は注視し、結果は株価に反映されるのだろう。
ましてや、新体制は社長解任の正当性を株高をもって市場から認知されたと記者会見で発表したこともあり、解任の必要性を株高で証明するしかない。

それにしても、新聞等が伝える報道は、解任した方からの記事説明だけで、解任された方からの記事がないので、どれが真の原因かは不明のまま。
神戸新聞報道では、三井造船との経営統合は川重を倒産に追い込みかねない大事件だと言う、これもまたビックリ仰天するような記事だった。
そこで、経緯が全く分からないので、それらしいを思われる部分を日経web刊等の記事の文脈から拾ってみた。
●6月14日:日経web刊 「川重トップ解任劇、新経営陣に「クーデターの代償」」
 「重厚長大産業を代表する名門の川崎重工業で、「トップ解任」という大きなトラウマを抱えて新体制がスタートした。14日の株価は上昇。株式市場で大きな混乱はなかったが、
  長い目で見れば、経営陣の迷走が会社そのものの停滞の始まりにつながりやすい。川重の新経営陣には、「クーデターの代償」が待っている。(略)
  川重の経営トップの選び方も少し変わっている。「社長が後継者を指名するのではなく、会長が指名することが多い」(同社関係者)という。そのため、会長―社長の間は微妙な関係になることが多い。
  そんなパワーバランスの中で、長谷川による三井造船の統合構想が動き出し、解任騒動につながっていった。
  社内の派閥争いの行き着いた先が、今回の解任劇なら、再出発する川重の新経営陣にのしかかる重圧ははかりしれない。
  そもそも、「縦割り」「内向き」など大企業病がまん延しているところに、社長解任の動揺が重なれば、社内は疑心暗鬼になりやすくなる。
  結果、混乱はそう簡単に収まらず、業績の長期低迷などを招いてしまう。」
 「川重の株価は14日、4%超上昇。時価総額は200億円以上増えた。新経営陣の想像通り、株式市場は「三井造船を抱え込むことは川重にマイナス」ととらえていたのだろうが、
  新経営陣は喜んでいられるはずがない。うまく経営をリセットできなかった場合の結末は、今のGMや三越の姿が証明しているのだ。」

●6月15日:日経web刊「川重・三井造の統合白紙「理解に苦しむ」 同友会代表幹事」
 「(合併・買収)では、相手の会社を決めたら取締役会に何度も諮って合意を得、資産査定もして決定するのが普通(のガバナンス)だ。あんな結末は理解に苦しむ」。
  経済同友会の長谷川閑史代表幹事(武田薬品工業社長)は川崎重工業の今回の解任劇について「詳細な内実は知らないが」と前置きしつつ14日の記者会見でこう語った。
  ひとつは議事の進め方が「強引だった」と指摘された前経営陣に向けた疑問、もうひとつは社内の確執を背景に、
  気にくわない経営上の方針をリーダーごと排除しようとした組織のあり方への驚きだろう。・・・産業界から漏れたため息は、深かった。
 「昨秋発足した新日鉄住金の場合は、トップを含む一握りの関係者で経営統合の大枠を詰め、意思決定する取締役会で初めて経営統合について聞かされた役員も少なくなかったという」 
  
●6月15日「世界四方山 川蝉のブログ」では、
 「そもそも川崎重工と三井造船の統合交渉のきっかけを作ったのは銀行。関係者によれば今年に入り、両社の主取引銀行であるみずほコーポレート銀行と三井住友銀行が両社を引き合わせたとされる。(略)
  三井造船は海底から原油やガスを掘り出して船上で精製などをする海洋資源開発で高い技術力を持つ。
  同分野の世界市場は2020年までに10兆円以上に膨らむとの予想もある。三井造船を取り込めば世界で存在感を示すことができる」
 「取締役の多くが統合交渉に反対した背景には、社内が7つの事業部に分かれ、それぞれが独立色の強い川崎重工の社内構造がある。
  解任劇の前は13人の取締役のうち10人が代表権を持つという独特の体制だった。
 「うちには何の利点もない」。5月上旬、ある事業部を指揮する取締役は統合交渉に反対する理由をこう言い切った。売上高で上回る三井造船にのみ込まれることを警戒したためだ」 
 「次期社長を巡る争いが背景にあるとの見方もある。川崎重工は7事業部のうち最も収益性や成長力が高い部門が社長を輩出してきた歴史を持つ。
  長谷川氏自身、ガスタービン・機械部門の好調さを背景に社長に就任した。
  その意味で、炭素繊維を使った航空機の胴体部品が好調な航空宇宙部門出身の村山氏は、取締役10人の中では次期社長候補の筆頭格。
  だが、三井造船との統合が実現すれば、それを功績に統合派の高尾氏が次期社長となる可能性が高まる。」
 「解任のリスクがあるなら長谷川氏は統合交渉を白紙にすればいいだけのこと。結局は川崎重工の社内部門間の権力抗争だったのではないか」

●6月15日:こんな記事「川崎重工の社長解任劇は企業価値を毀損する茶番 --- 岡本 裕明」もあった。

●6月16日:日経web刊 「川重解任劇にみる破談の構造 株主軽視の「内輪もめ」」
 「「取締役会を軽視した行動が許せなかった」。川重の村山滋社長は13日の記者会見で長谷川聡前社長を解任した理由を説明した。
  前社長らが独断で三井造船との経営統合交渉を進めたことに不信感を募らせたという。 一方、この日の会見で株主価値に関する言及はほとんどなかった。
  株主利益を守るのが取締役の第一の責務であることを考えれば、三井造船との経営統合が川重の株主利益をどう損なうのか、論理的な説明があってしかるべきだ。 
  株主は経営統合を推し進めた長谷川氏の言い分も聞きたかったはず。株主利益をそっちのけにして「許せなかった」で済ませたのでは「内輪もめ」の印象をぬぐえない。」
 「川重、シャープ、日本ペイントのケースに共通するのは「トップの決断」の軽さだ。欧米でも「株主の利益を著しく損ねる」と判断したとき、
  社外取締役などが中心になって最高経営責任者(CEO)を解任することはある。だが全権を任されたCEOの決断が、論理的な説明もなく覆ることはない。」

いずれにしても、取締役会で新体制がスタートした。報道機関や論評で報道されているように、新経営陣は企業価値を上げて、それを株価に反映することで正当性を示すしかない。
一方、株価の上下動は色んな要素が絡み合うので、株価で評価するの一概に難しいが、アベノミクスの様に、日銀が金融緩和発表時の日経株価の急上昇はアベノミクスの効果だと胸を張り、
先週の株価大暴落が発生すると株価には一喜一憂しないとコメントするのだけはやめて欲しいと思う。・・・川重新経営陣には期待している


★打って変わって、全日本モトクロス選手権第5戦が北海道で開催された。
ヒート1結果: 小島庸平、熱田孝高、平田優、成田亮、小方誠、星野優位、田中教世、新井宏彰(K)、星野裕、深谷広一、
ヒート2結果: 熱田孝高、小方誠、田中教世、小島庸平、星野裕、深谷広一、新井宏彰(k)、星野優位、北居良樹、平田優、
モトクロスで悪いイメージを振り去って欲しいと願っていたが、簡単ではなかった。今年の全日本モトクロス選手権はまさに大混戦だが、カワサキは蚊帳の外。
ポールポジションを取ったとか、ホールショットを取ったとか言っても、レースは規定時間を最初にゴールしたものが勝ち。レースも経営と同じで、結果だけが評価される世界。

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野々池貯水池・・・「金宝樹」

2013-06-15 06:30:26 | 野々池周辺
このところ暑い日が連続続き、日中の温度は優に32度を超え、暑い昼間に野々池貯水池を歩く人は少なくなった。
少しでも雲がかかって風でもあると過ごし易いのだが、こんな暑い日でも、3時すぎ頃になると、近くの中学生がジョギングコースでランニングし始める。
野々中運動部の子らは、男子に限らず女子も礼儀がよい。ちょうどこの時間帯にたまに遭遇する事があるが、「こんにちは」と必ず挨拶を受ける。
野々池貯水池では、今、夾竹桃が咲き始めた。圧倒的に白の夾竹桃が多く、場所によっては赤色が咲く。
それと、野々池貯水池に一本だけある、「金宝樹」(「カリステモン」)が咲き始めた。洗浄ブラシに似た花姿が面白く、オーストラリア原産のちょっと変わった木。
「お金が貯まる」とか「この木を植えると家が栄える」とか言われている「金宝樹」だが、「ブログを読んで頂く読者の皆さんに、写真の花を眺めて、幸せがくるように」と願い、
ついでに、野々池貯水池から当方の家にも「お金」や「幸せ」が風に沿って流れて来るようにと願いながら「金宝樹」を眺めている。
                                   
                       
                       
                       
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シチダンカの季節になったんだが・・・

2013-06-14 06:17:03 | 
庭にあった数種類の紫陽花を整理したのが数年前、その中で「シチダンカ」だけは大事にして、その場に残した。
西洋紫陽花のように、豪華に見栄えがするものでは決してなく、どことなく気品ある清楚な感じがする「シチダンカ」。
一本の株から出る花の色は、淡い青色が基本のようだが、薄紅、濃紫、藍色そして白色に変化し、内側にいくほど小さく星型に重なりあって咲く。
残念ながら、今年は不作だ。  茶色の蕾が出来た頃から、ズート楽しみにしてきたが、花数も色具合も思っていた「シチダンカ」ではなかった。
こんな風だと、逆にみすぼらしくさえ見えてくる。 好きな紫陽花だけに期待している時の落胆は大きい。                    
                    
                    
                                    
                    
ご存じの様に、シチダンカは幻の紫陽花と言わている。
「シチダンカ(七段花)は、1950年代に発見されるまで、幻の紫陽花と呼ばれていた。
 ドイツ人医師シーボルトが著した「FLORA JAPONICA: 日本植物誌」の中に、他の17種類のあじさいと共に紹介されていたが、
 実物の所在がわからなかった。 ところが、約130年後の昭和34年に神戸市立六甲山小学校の職員が、六甲ケーブルの沿線で発見し採取した。
 その後、シチダンカは神戸市立森林植物園などでさし木にされて増やされ、各地で植えられるようになった。」と解説書にある。

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’97年「KAZE」vol.84 鈴鹿8耐特集から 

2013-06-12 06:35:58 | モータースポーツ
  先日の当ブログで、97年鈴鹿8耐の模様を特集した「KAZE」vol.84('97) の一部記事を紹介した。
久し振りに開いたカワサキの鈴鹿8耐特集で、面白さに加え懐かしかったので、「KAZE」vol.84に掲載された写真の一部を紹介したい。鈴鹿8耐はスプリントレースとほぼ同等ラップタイムで8時間走り切る競争だが、燃料タンク容量の制限もあって、給油のために6~7回のピットインを要する。ピットイン、アウト前後のロス時間(とはいっても数10秒だが)と交換直後のタイヤは本来の性能を発揮しないので、給油時の周回タイムが若干遅くなる。それらも考慮しながら、8時間をミスなく誰よりも早くゴールしたチームが勝ち。勝つためには、ライダーの組合せは最も大事な要素だが、世界のトップライダー同士の組合せが必ずしも勝てるものではなく、組織の団結とチームワークを最も必要とする。とにかくミスせず、どのチームより速い周回タイムで、給油前後のタイムロスも少なく、8時間走行するには、優れた組織とマネージメントを作り上げることが大事。そうは言っても、梅雨が明け、連日35度を超す炎天下、生き物のようなタイヤ消耗を考慮しながら走るのは、テレビで観戦するとは大きく異なり、そう簡単な事では決してなかった。レース現場を支えるソフト部隊の活躍も重要で、ライダーの疲労回復や何時から雨が降る可能性があるかなど「ウェザーレポート」がない時代に他チームより早く情報を得る方法等、やるべきことは一杯あった。 日本の二輪企業はそれぞれ精鋭化した複数チーム作り上げて戦うので、各チームとも極度な緊張状態になる。

まさにサバイバル戦、だから、各企業のワークスチームは一台でも生き残らせるために、複数台のワークスチームを参戦させる必要があった。’97年8耐時、カワサキは3チームが参戦した。 話は変るが、面白いもので、チームにスポンサーがつかないと実力がないからだと嘆き、スポンサーが付いたらついたで、やっぱりカワサキはライムグリーンだよと言うのが上席の独り言。だから、スポンサーがついてもスポンサーに相談しながらライムグリーンを何処に入れるかを苦心した。で、’97年のメインスポンサー「ラッキーストライクカワサキ」を2台設定し、3台目をライムグリーンの「kawasaki racing team」とした。ところが、3台を組織化し8耐に参戦するのはいいが、ロードレースチームにはそれを充足するメカニックも技術員もいない。そこで、同じ組織内にあったモトクロスから大挙して応援することになる。(当時某社は3~4チームほどを参戦させていたが、事務屋まで8耐のピットクルーに借り出したらしい)

                
 ★「#1(クラッファ+柳川) #2(武石+梁)#7(ライマー+ボンテンピ)」・・「花は桜、男は川崎」・・「ラッキーストライクカワサキキャンペーンギャル」

     
 ★(左)#2チームのライダー交代:ストップボードを持ち、周辺整理を指示するメカニック長の和田修さん。(中央)武石から梁にライダー交代しGo指示の和田さん (右)#1チームのライダー交代:給油担当の三浦さん、前輪タイヤ交換担当の戎さん、後輪担当の今田さん、ボード担当の柳川さん、三浦さんの後方にMSの音頭さん、雨合羽はMXから応援の吉田さん(と思う)

                        
             ★(左)#1チーム給油作業中の三浦さん  (右)予想周回等の計算は電装の川村さん

       
         ★左端は走行直前のT・ライマーに注意説明の荒木さん、その後方にMX土橋さんとKazeギャルを挟んでMX田澤さん

      
  ★(左)最終走行中の#2 梁選手、    (右)手を合わせる相棒の武石選手とメカニック、後方脚立上は画面注視の安井さん

            
 ★#2チーム:ゴール時ピットの藤田さん、黒川さん等   (右)表彰台の「ラッキーストライクカワサキ」の3人

       
 ★(左)打ち上げ時のビール掛け:「ラッキーストライクチーム」監督の高田さん、中央後方に「kawasaki racing team」監督のMX土橋さん、右端にMXの土肥さんの顔 (右)武石選手と梁選手を祝福する私


 
 ★戦況を見つめる現場指揮官の安井さん
コメント (2)
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2013鈴鹿8耐も公開合同テストが始まった

2013-06-10 06:33:07 | モータースポーツ
6月7日の「All About」記事に、「鈴鹿8耐はなぜ魅力的なのか? 回帰するライダーたち」があった。
この記事には、鈴鹿8耐黎明期の担当者の思いと現在の8耐に参戦するライダー達の思いが記述されている。
鈴鹿8耐と言えば、'80~’90年代に日本のモータースポーツを熱狂させ、いまなお日本を代表する二輪モータースポーツの最右翼に挙げられるが、それでも8耐がうぶ声をあげた’70年代は、オイルショックの影響で、モータースポーツ活動は現在のリーマンショック後の不況とは比べものにならないほどに、壊滅的な状況にあったとある。そんな中、視察団はアメリカのスーパークロスレース(SX)の活況を視察し、いわゆるナイトレースの素晴らしい雰囲気を鈴鹿に持ちこもうとしたのが発端だったとある。夜になると、予選が始まる昼間から一変し、スタジアムコースがライトに照らされるクライマックスのなか、決勝レースが始まる。その興奮絶頂の米国SXのナイトレースが鈴鹿8耐の発想ルーツだそうだ。’80年代中盤から’90年代後半にかけて、「8耐優勝」という日本二輪メーカーの意地の張り合いが最大の盛り上がりをみせた鈴鹿8耐も、2000年代になると下火傾向へとなって現在に至る。しかし、最近の8耐エントリーリストによると、40歳代のライダーの名前が非常に多いんだそうだ。バイクレース全盛期に育ったライダー達が再び鈴鹿8耐へと戻ってきたとある。

そんな選手の一人に「武石伸也」が取りあげられていた。
武石選手はもともとHRCライダーで、ホンダワークスを代表するライダーだったが、その後カワサキワークスに移籍した、日本を代表するトップライダー。2000年にレースライダーを引退するが、6年ぶりに8耐に復帰した武石選手は、2009年、カワサキのプライベートチーム、鶴田竜二選手のチーム「トリックスター」で参戦し、武石選手8耐参戦記録中、最高の2位となった。  「All About」記事には、「結局、サーキットが好き、オートバイが好きなんでしょうね。8耐は年に1度のお祭りだし、それに向けてモチベーションをあげていくことは本業(自動車販売業)を頑張る上でも良い刺激になっている」と武石伸也は語ったとある。
  「’09年トリックスターチームの武石選手:MOBILITYLAND」   「鶴田選手(中央)。井筒選手(右)と武石選手(左)は元カワサキワークスライダーで、井筒選手はカワサキで全日本SBチャンピオンとなった」

武石選手には色んな事を教えてもらったし、援けてもらったりしたので、沢山の記憶も思い出もある。
取りあえず手元にあったのがカワサキ機関誌’97年「KAZE」vol.84 鈴鹿8耐特集の表紙を飾った、武石伸也選手。(以下の写真は「KAZE」vol.84)
  「「KAZE」の表紙を飾った武石選手」
       「’97年鈴鹿8耐 カワサキ・ストップ・ボート:花は桜、男は川崎」・・・いまでは想像すら出来ないが、こんな時代もあった。'97年カワサキ8耐チームは3チームだったが、武石選手は梁選手と組み、カワサキ勢最高位の3位となった。有名なアメリカの煙草メーカー「ラッキーストライク」のスポンサーを得て、カワサキワークス3チームの内2組を「ラッキーストライクカワサキ」で出走させた。「花は桜、男は川崎」のストップボードは当時の物で、カワサキロードレースが華々しく戦っていた時代だが、「男は川崎」と言っても、「ラッキーストライクカワサキ」の外人モデルがチームに花を添えた。当時、「ラッキーストライク」はカワサキとスズキをスポンサードしてくれたが、かの担当者曰く、「カワサキさんに良い方のモデルを持ってきた」なんだそうだ。確かに群を抜いて目立っていた。当時のB&W(ラッキーストライクの販売元)の東京本社には何度も訪問した。当時の責任者から、彼らが思い描くカワサキブランドのイメージと何故彼らがカワサキをスポンサードするか等を教えてもらった。
          「ラッキーストライクカワサキのキャンペーンギャル」
’93年、カワサキが8耐に初めて優勝した年からカワサキのロードレースチームの現場部隊を総括する立場で、レース現場から引退したのが’97年、その5年間、常に8耐表彰台を獲得し続けた。それ以前は、カワサキワークスにとって8耐表彰台は随分と遠かったが、これを機に8耐の相手を常勝ホンダに焦点をあわせた時代となるが、チーム員のお陰で幸い良い結果を得た。

書くことは一杯ある。 既に書いてきた8耐をも再度掘り起こしながら、次回以降機会を見つけて再度書くことにしよう。ところで今年の第1回公開合同テストが6日に開始された。いよいよ鈴鹿8耐が始まる。が、今年も、カワサキワークスあるいはセミワークスの名前はエントリー表にない。
        
      「’97年8耐終わって。右が最終ライダー梁選手、中央が武石選手、左端は私」
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