雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

ツイッター 雑感

2016-08-25 07:34:10 | ネット、Twitter & Facebook

★ツイッターのフォロワーが昨日2度目の55万人に達した。

  この6年間毎日1000人ぐらいフォローしてそのフォロー返しで積み上がっていったのである。

 

最近のネット社会は何でもいろいろと勝手に分析してくれる。

ツイッター関係もいろいろと纏めて分析している『ツイログ』と言うサイトがある。

  http://twilog.org/rfuruya1

 

 

★ これが私のツイッターの分析である。

ツイッターに登録したのは2009年12月5日とあるが、いろんな分析が始まっているのは、翌年2010年2月2日となっていて、3ヶ月は登録だけはしたのだが、やり方が解らなくて『何もせずに放置』されていたのだと思う。確かに、そんな記憶がある。

こんな分析は、個人ではとても出来ない。

 

 

 

 

 

 

 

★現在そのフオロワーは55万人に達したのだが、『フォロワーを増やそう』と思い立ったのは、2010年の5月からで、これは NPO The Good Times の情報発信力の強化という目標を明確に定めてからスタートしているのである。

その方法は『毎日限度いっぱいのフォローをして、そのフォロー返しでフォロワーを増やす』と言う単純なやり方で、6年目にして55万人、平均すると1日233人の増加となっている。

下のグラフの通りその増え方は最初の10万人までは、あっと言うまで段々とそのカーブは寝ているのである。

これはフォロワーが増えてくると、その中にはフォローを止める人が 毎日 0.05%位はいて それが50万人にもなると250人にもなるので、最近でも毎日500人近くの新しいフォロワーがいるのだがカーブは寝てしまうのである。

 

   

 

グラフをご覧になるとお分かりのように、今年になってちょっと異変が起きている。

1ヶ月ちょっと前の7月10日頃には、550,670人までは達していたのに、何が原因かよく解らぬが、

ツイッターを突然止められて、それは何とは復活したのだが、フォロワーの数が一日だけで、1万人も減って54万人まで逆戻りしたのである。このグラフの線だけで見ると、それは1万人どころか、5万人ぐらい一挙に減っている。

そんな出来事があったのだが、気を取り直して昨日2度目の55万人を達成したのである。

 

 

ツイッターのフォロワーの多いベストテンはこんな人たちである。

 トップは600万人に達する勢いである。

 

  

 

有名人ばかりだが、私の知らない人もいっぱいいる。 この人たちは、特に何もしなくても、勝手にフォロワーが集まってくるのである

 私は今、全国で226位と出ているが、有名人を除く所謂一般人の中だけなら、全国20位以内に入っているので相当なものだと自分では思っている。

 

   

 

 

 

いろんな分析があるのだが、県別分析では兵庫県では3位だが、そのトップ『だからこそ神戸』さんはは全国でもトップで100万人のフォロワーがいる。 詩を書いておられて、Facebook では、トモダチで繋がっている。

 

    

 

 

何でもすぐ分類できるのがネット社会のオモシロさで、『NPO The Good Times の公式ツイッター』と自己紹介しているからだろう私のツイッターは『自治体・公共機関・NPO』という分類の中に入っていて、

首相官邸の次に入り、『陸上自衛隊』や『厚生労働省』より上に来て、全国ベスト10の中にいるのは気分がいい。

 

 

 

 

 

今朝は、こんな状況になっている。  https://twitter.com/rfuruya1 

 

 フォロワーの数のほうは、55万人と一応の目標としていた『神戸新聞の発行部数』と肩を並べるところまで来たので、今後は、情報発信の方法を少し考えようかなとも思っている。

ツイッターはMAX140字で、日本語の場合は140字でも結構な内容が書けるのだが、橋下徹さんがやってるようにTwilog』を使えば、140字をどんどん書いても、その順番は並べ替えられて、普通のブログのようになるのである。

  橋下徹さんの Twilog はこんな感じである。  http://twilog.org/t_ishin/asc

  

今の私のツイッターを Twilog にしてみても、今の状況では変わり映えはしない のだが、  http://twilog.org/rfuruya1

私流に『新方式』を考えてチャレンジしてみようかな? 

と思っているのである。

 

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カワサキの二輪事業と私 そのー12  ジェットスキープロジェクト

2016-08-24 07:09:53 | 発想$感想

★前回 ジェットスキーの本格的な事業化 ということでアップしたのだが、

  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/1c9054d9f38219c730c3b108d67e4ba3

 今回は、その続きである。 前回お読みでなかった方は、是非お読みになってみて下さい。

 

★ ジェットスキーのプロジェクトを本格的にスタートさせるキッカケは、苧野豊秋さんから国内にもレース協会JJSBAを立ち上げるべく、一緒にアメリカに出張した1984年の12月だと言っていい。

川崎重工業の単車事業本部では、ジェットスキーは正規事業にはなっていない時代で、西武自動車が逆輸入したものをカワサキの部品会社の子会社KATが年間200台ほどを販売していたのである。

苧野豊明さんは、部品会社の社長とその子会社のKATの社長も兼務されていたのだが、KATは川重から見ると孫会社で、当時はそんなレベルでの小さな事業だった。

渡米の目的はアメリカのジェットスキーのレースの協会 IJSBA(インターナショナル)から正規の認定を受けて JJSBA(ジャパン)を日本にも立ち上げようといううもので、当時のKMC社長の田崎雅元さんにその仲介を頼んだのである。

苧野豊明さんは私のかっての直接の上司だったし、田崎さんもジェットエンジン時代に苧野さんの下にいたので、この渡米の目的はホントにスムースに何の問題もなく認定されて、JJSBAは苧野豊明さんの初代会長で85年の春からスタートするのことになるのである。

このころのジェットスキー関連は、輸入元の西武自動車関係の方たちが中心で動いていて、JJSBAがスタートしたが従来の西部関連の上田、日高さんなどを中心とした運営で、特にカワサキとしての正規の動きはなかったのである。

 

★カワサキとしての検討が始まったのは1986年からだと言っていい。

1986年の6月には JJSBAの山中湖でのレースが開催され、私も初めてジェットスキーレースなるものを見たのだが、その前夜祭に出席して、びっくりしたのは出席者がタキシードなど着用していたり、女性たちも華やかなドレスの正装なのである。二輪のレースとはちょっと違った雰囲気で、まさにお金持ちのスポーツそのものの雰囲気だったのである。

このジェットスキープロジェクトを川崎重工業の正規の事業として育てるべく検討に入っていた矢先、7月にオーストラリアの販売会社社長の任を終えて帰国した鶴谷将俊くんをジェットスキー専任に指名し福井昇くんとのコンビで具体的に動きだすのである。

この鶴谷・福井コンビの動きは非常に素早くて、9月にはヨーロッパ市場が動き出し、86年末には国内販売体制の具体的な検討に入るのだが、独特のレースを中心にしたジェットスキーという遊びの商品の販売は、『専門店でないと将来の発展はない』と最初の段階から専門店での展開としたのである。

然し、現実には未だ年間200台そこそこの販売なので、簡単には専門店は成り立たないので、87年の1月に神戸の灘に大型のジェットスキー店舗をほぼ直営に近い形全国で1店だけオープンさせたのである。

その店舗とは、現在AJの会長をしている吉田純一さんに借り受けて、実質大阪の二輪の販売店のスポーツ・インが動いてくれて、店舗は大きかったし構えも立派だったので、新規事業の立ち上げとしての広報力は相当なものだったのである。

そして3月には福井昇くんが、川崎重工を退社して、実質ジェットスキープラザ第1号店を明石にオープンさせたのである。

JJSBAのレース活動そのモノが、専門店を創る営業活動のような機能を果たして、たった1店からスタートしたカワサキのジェットスキー専門店網だったのだが、東京・大阪・名古屋・福岡など大都会を中心に結構スムースな立ち上がりを見せたのである。

 

★さらに、Jet Skyヨーロッパを設立し、国内もKATの機能をジェットスキー専門販売会社として整備し直して、鶴谷将俊くんが実質旗を振る体制としたのである。

その間、JS400/500のJS440/550へのボアアップなどもあって、ジェットスキーは世界的に好調に推移するのである。

この立ち上がりの数年間、素晴らしいテンポでジェットスキープロジェクトは進展してゆくのだが、カワサキ内部としては『古谷・武本・鶴谷・藤田・福井』のメンバーが主力で動いたのだが、カワサキ以外のいろんな方たちがその核になって頂いたのである。

大阪の大南勝也さんや松口久美子さんなどの協力が大きかったなと思っている。大南さんはジェットスキーに不思議なほど入れ込んでいたし業界の顔も広かったので、いろんな意味で大いに援けて貰ったのである。また松口さんは当時の女子のジェットスキーヤーとしては誰もが認める日本で一番のダントツのトッププレイヤーだったし、当時のジェットスキーのプロジェクトはこんな社外のメンバーたちの協力で進行したのである。

 

★それに今は世界チャンピオンにもなって超有名な金森稔君は、当時はまだカワサキの二輪のテストライダーだったのだが、それがジェットスキーのテストライダーに転身することで、めきめき頭角を現し、日本チャンピオンとなるのである。

金森君は大阪の月木モータースの出身だということご存じだろうか? 月木で二輪レースなどをやっていたのをカワサキの二輪のテストライダーに推薦して放り込んだのは平井稔男さんなのである。

何かのご縁で、ひょんなことで人の人生は変わるものである

 

     

 

88年9月のソウルオリンピック開会式当日のハンガンのデモンストレーションには、この初期の貢献者たちがみんな参加したし、それから30年近くたった今も、大南勝也さんも、松口久美子さんも、弟さんの松口博文さんなど、当時のメンバーたちとFacebookではトモダチで繋がっているのである。

 

★その後金森稔君はアメリカに渡って、今はアメリカのKMCの技術部門にいるのだが、3年ほど前アメリカに遊びに行ったとき、月木さんの娘婿さんがやってたかっこいい『お鮨屋』さんでこんなメンバーで旧交を温めたのである

http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/a8488b6d3ed5982eb43ba3b11ed68f2b

 

   

 

 

1987までが、カワサキのジェットスキー事業創成期と言える期間だが、

1988年10月からは,私自身が川崎重工から国内市場に3回目の出向となり、カワサキオートバイ販売グループの統括責任者としての立場に変わるのである。

89年1月からはジェットスキー専門販社としてKATからKJSに名称変更した販社の社長も兼務するのだが、この時点では未だ部品会社の子会社で川重からみると孫会社の位置づけは変わっていないのである。

この販社は常務として統括してくれた藤田孝明くんが実質運営してくれて、それを潤井、渡部くんたちが支え、彼独特のやり方で年間200台だった販売会社を最高年間7000台を売る販売会社に成長させるのである。

全国を明石と東京の2拠点だけで統括し、全国ジェットスキープラザと言う専門店を設置し、7000台を売り切ったのである。年間200台の販売でもペイしていた販社が7000台も売るとどんなことになるか想像してみて欲しい。KJSもその販売店も折れて曲がるほど儲かって、私の長い販社経験でもこんなことは初めてだったのである。

この当時のKJSの利益額(売上高ではありません)は孫会社ながら10億円に手が届きそうな利益額で、こんな会社を孫会社のまま放置するのもおかしいので子会社に格上げしようとすると、そのあたりはよく解らないのだが、利益が多すぎて、その額を減らすためにまずは親会社の部品会社に配当し、さらに川崎重工に配当して適正な利益額に修正したとういう、世にも不思議な対策をしたのである。

 

その成果もあって高橋鐵郎本部長に約束した二輪と合わせて7万台の目標も達成出来たのである。ただ7000台もジェットスキーが売れるとカワサキオートバイ販売会社と言う社名が合わなくなって『カワサキ・モータース・ジャパンKMJという現在の社名に変更することにもなるのである。

 

★余談だが、今は二輪などの部品関係の インターナショナルトレーデイング・ムラシマ http://www.j-bike.com/murashima/ を経営し、NPO The Good Times の関東地区統括をやってくれている村島邦彦さんもジェットスキー関連でカワサキとのお付き合いは始まっており、89年5月RPM の村島兄弟に初めてお会いしているのである。

90年には、ヤマハさんと共同で2月にPW安全協会設立総会を開催しているし、7月には川崎重工内にJS専門部門が出来て、鶴谷将俊くんが担当することになり、自ら JSBAの会長にも就任することになるのである。

91年には、鶴谷くんがJJSBA会長に就任したことに依り、カワサキが主導するJJSBAの運営方針への刷新を図り、KMJからも宇田川勇、永野、望月くんらがJJSBAに出向して、新しいJJSBAを創り上げたのである。その成果は11月にはサイパンで、大々的にJet Sky KAZE Water ForumJet Sky ARK (Authorized Riliable shop of Kawasaki)たちと開催するまでになったのである。

84年に新しいジェットスキープロジェクトを立ち上げて以来、約6年で新事業は完全に軌道に乗ったと言ってもいいのである

 

★1990年代は、カワサキの二輪もジェットスキーも絶頂期で、ジェットスキーはJJSBAのレースをそのベースとしての展開になるのだが、そのレース規模も年を追うごとに大きくなり、

93年11月には 琵琶湖の近江舞子でJJSBA10周年記念のWorld Cup を大々的に開催。

96年には 石川県羽咋市千里浜での10周年記念レースにはエントリー台数1000台を記録。

するなど世界最大のエントリー台数となるなど、ジェットスキー最盛期を迎えたのである。

 

 

二輪も、ジェットスキーも『遊び道具』なのだから

私の国内担当時代は徹底的に遊んで、『遊んでいたら自然に売れる仕組み』で勝負したのだが、一般に真面目な人が多すぎて、遊んでいてもあれだけ売れるのなら『真面目に一生懸命売ったらもっと売れる』と錯覚して、真面目に販売をやり出したら、逆にマーケットは縮小して台数は減ってしまっているのである

 

もう一度、

二輪業界は、本田宗一郎さん時代のサーキットやレースなどの『遊び心』を取り戻してほしいものである

バイクも、ジェットスキーも、楽しい乗り物である。

若し、一生懸命やるのなら、それは販売ではなくて『安全運転活動だと思っている。

 

  

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私と台風

2016-08-23 07:15:13 | 発想$感想

★関東から東北・北海道ㇸ進路をとっている台風9号は、11号に続いての襲来なので、大きな被害が出ないかと心配である。

   

 

もう三木に来て40数年になるのがが、この40年間台風に出会っていない、と言うか台風が来たという感覚がない。

戦後70年、明石ー仙台ー高槻ー三木ー札幌と住んだのだが、明石以外で台風に出会ったことはないと感じている。

明石にいたのは、昭和41年(1966年)までなのだが、その当時は毎年台風に見舞われていたような気がするのである。

特に印象に残っているのは、昭和25年、高校2年生の時に出会った『ジェーン台風』である。

ジェーン台風』と検索すると、こんな写真と説明文が現れる。

 

   

 

 

1950年8月30日、硫黄島南西海上で台風第28号が発生。当時の日本はアメリカの占領下にあり、気象業務も米軍と共同で行われていたため、番号ではなく、アメリカ式に「ジェーン台風」と名前が付けられていた。

台風は、9月3日10時に、徳島県日和佐町付近に上陸した。その後、台風は淡路島付近を通過し、12時頃神戸市垂水区付近に再上陸した。その後、若狭湾へ抜け、日本海へ進み・・・・・台風による影響は、降水による影響よりも、強風による影響の方が大きかった。四国・紀伊半島沿岸では35m/sの暴風が吹いた。また、近畿・北陸・東海では30m/sの暴風が吹いた。神戸海洋気象台でも、最大瞬間風速40m/s以上となったが、計測器の破損により、一時欠測となった。大阪湾では、台風の強風による吹き寄せで高潮が発生し、船舶に被害が出たり、多くの家屋が浸水したりした

 

そのジェーン台風の真っただ中で、半日ほど過ごしたのである

この日は、京都で野球部の練習試合があり、明石から京都に電車に乗って出かけたのである。

台風が来るのは『解っていた』と思うのに出発をしたのは、明石高校は昭和23年の夏の予選、兵庫県の優勝候補と言われていたのだが、明石では雨が降ってて予選は中止だろうと行かなかったら、西宮球場付近は晴れていて棄権になってしまったのである。それ以来はどんな状況でも現地までは行くというのが伝統になっていたのである。

京都に向かった電車は、大阪駅を出て次の駅あたりで止まってしまうのである。台風の中心は神戸を通ったのだが、より右側の東側のほうがきついので、一番ひどかった地域で何時間も止まっていたのである。目の前にあった消防署の建物が一瞬風で浮き上がったと思ったら、次の瞬間倒壊してしまった。

電車は揺れはしたが、ひっくり返ることはなかったが、台風が通り過ぎるまで何時間も車中に閉じ込められたのである。

 

これが私の台風の一番ひどい経験だが、1960年代も毎年のように明石には台風かきたような気がする。

関東からレースライダーたちが明石に来てた時にも台風が襲来し、当時は関東には台風は来なかったようで、みんな初めての経験でビックリしてたのを思いだすのである。

 

★台風と言えば、9月以降九州に来るものと思っていたのだが、それが最近は関東方面に行くことが多いような気がしている。今年は特に、関東がいろんな被害にあっているようだが、なぜこのような進路になってしまうのだろう?

素人考えでは、温暖化現象で海面の温度が上がり、台風発生の地点が、従来より北に寄ったのではなかろうか?

いずれにしても、自然災害は基本的に防ぎようがないので、災害が少ない地域に住むことが第一でそういう意味では安全な地域に住んでいるとも云えるのである。私自身が勝手に思っていることだが、昔から人が住んでいた旧いまちは、基本的に安全である。

仙台に住んでいた時に地震があったのだが、仙台の旧市内は何ともなかったのに、新しく開拓された地域の被害は大きかったし、東北の昔からの旧いまちは、冬雪の降り方も少ないのである。永年の経験から来た『人の知恵』だと思っている。

三木は旧いまちだから、何となく『安全だ』と思っているのである。神戸の隣町なのに、阪神大震災の時も大丈夫だったのである。

今住んでいる緑が丘は新興住宅地だが、なだらかな丘なので幾らか斜めになっているので水に浸かったりは絶対にしないのである。浸水も怖いし、山の近くの土砂災害も恐ろしい。

日本は山国だから、山裾にはいっぱい住宅が建っているから大雨のあとの土砂崩れが恐ろしい。

台風は今日も北海道を縦断中である。札幌に2年住んでいた時は、梅雨も台風とも無縁でいいところだと思っていたのだが、そんは北海道に台風が続いて襲来している。

大きな被害にならなければいいのだが・・・・・

 

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リオ五輪 の感想

2016-08-22 07:03:55 | スポーツ

★始まる前までは、リオ五輪に正直そんなに関心も持っていなかったのだが、もう明日は閉会式である。

日本が『こんなに活躍するとは思ってもいなかった

この五輪をずっと見ていて、一番の感想は、『人間の能力はスゴイなと言う一言』である。

 

いろんな競技で40以上ものメダルを獲得しているのだが、簡単に 金・銀・銅 と言うけれど、それは世界3番目までの中に入っているのである。

それははホントに凄いことである

そして、いろんな競技の演技など見ていると、『とても人間技とは思えないそんなレベルなのである。

あのレベルに達するには、それなりの日々の練習の積み重ねがあるのだが、どうしたらあんなことになるのか?

ただただ、驚いているばかりなのである。

 

 

★ 数あるいろんな競技の中で敢えて印象に残った二つを挙げるなら、

その一つ目は男子の体操競技の団体の金メダルである。

 

  

 

 これは、金メダルが予想されていた競技である。

予想通りに金を獲った。 そのプレッシャーは想像以上のものだっただろう。

内村の最後の鉄棒での逆転、あれは圧巻だった

あんなことが、どうしたら出来るのか? それもあの最後の着地が微動だにしなかった。

演技力もさることながら、あの精神力に脱帽である。

 

 

★もう一つは、400メートルリレーの銅。

一人一人は、9秒台を出したことのない4人が、見事アメリカより早い銀メダルの獲得を誰が、予想しただろうか?

 

 

 

 日本らしい、細部の研究・対策による、まさにチームとしての勝利である。

 

 

 

この写真、一瞬トップを最終走者が走ったのではなかろうか?

BOLT の表情は、何を意味しているのか?

これは『予想外の出来事』であったに違いないのである。

日本独特のバトンタッチ、下でバトンを受けるのは日本だけと言うが、確か小学校の運動会のリレーのバトンタッチは下からである。

こんな経験は、運動会のある日本では、私でも経験だけした、その延長上にある方式なのである。

そんなバトンリレーの成功が『』の原動力であったようである。

 

 

★ 4年後の東京オリンピックに、いろんな期待が出来る、そんなリオ五輪になったような気がする。

ちょっと違った面での感想を言うなら、サッカーのブラジルードイツの決勝を見ていて、ネイマールの活躍や、ドイツのオーバーエイジの選手たちの活躍を見て、日本のチームはオーバーエイジの二人をなぜ全日本の誰が見てもトップ選手を選ばなかったのだろうと思った。

監督の考え方であることは、よく解っているし初めからそう思ったわけではないのだが、昨日の決勝戦を見ていて、両チームともオーバーエイジの4人が、大活躍だったのである。

監督が選んだ二人がダメだったとは言わぬが、なぜ岡崎とか本田とか香川など、誰もが納得できる選手を選ばなかったのかな? と思ったりした。

そんなことはない、と言う監督の考え方は、尊重しなくてはならないのだが、素人としては『日本の最強チームではなかった』と思ってしまうのである。

 

体操や、リレーの選手たちは間違いなく、今の日本の最高の選手を選んでいるのである。

文句を言っているわけではないのだが、結果から見ての正直な素人の感想である。

 

 

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野田浩志くん と 産業人OBネット

2016-08-21 05:21:36 | 発想$感想

 ★ 野田浩志くん、川崎航空機の昭和36年入社で私の4年、後輩である。

彼の新入社員時代の36年に、私は当時スタートしたばかりの単車営業部に異動したのだが、野田くん(ノンちゃん)はその営業部の小型エンジン部門にいて、机の並びはすぐヨコの列だったし、その発動機営業のノンちゃんの上司が私が個人的にもずっとお世話になった三浪正さんだったので、私はその入社当時からよく知っているのである。

その後、昭和38年に川崎航空機は単車事業を本格的に取り組むべく、単車事業部を立ち上げ事務屋の精鋭たちを大量に集めて、当時のカワサキ自販の販売推進部販売推進課広告宣伝課を創って組織化したのである。

その販売推進課の一員として野田浩志くんもやってきて、それ以来カワサキの二輪事業関係では、密接な関係で続き、退職後のいまでも非常に密接なお付き合いが続いているのである。

 

★そんな関係なのだが、その性格は私とは全く異なっていて、彼は理論家だし常に取り組みは真面目、まともで

何事にも『いい加減に、大雑把に取り組む』私とは全く違った生き方なのである。

 

ただ、野田浩志くんとは、カワサキの二輪事業の中でも、結構いろいろと関係があって、列挙してみると

● まずはカワサキが1970年代に国内市場でスタートさせた『特約店制度』の基本的な発想者、起案者はノンちゃんなのである。 ただ、彼らしくきっちりと細部まで決めつけているので、取締役会を通ったにも拘わらず、第1線の営業は2年経っても誰も取り組んだりしなかったのである

それを昭和45年、大阪万博の年に東北から大阪に私は異動して初めての第1線を経験するのだが、会社で決定されたことが実行されないのはダメだと、私が最初に取り組んだのが『特約店制度』で、私流に『間違いなく実現するように』仕組んで取り組んだのだが、やり方はノンちゃん方式とはちょっと違った方向だったのである。然し、その後約5年で『特約店制度』は全国展開できることになったのである。

● その当時、二輪業界でも初めての販売店の海外視察全国カワサキ会で主宰し、アメリカKMC見学を行ったのだが、カワ販側の事務局として、北村、野田両くんが参加されたのである。この時は東京・大阪・名古屋を中心に主力店約100店が参加したのだが、当時の販売店は『サブ殿さまのデーラー乞食』と言われていた時代で、うるさいのが揃っていて、真面目な北村・野田事務局では具体的対応がムツカシクて、全国カワサキ会の副会長としてで参加していた私が殆ど『事務局的対応』などしてお手伝いしたのである。

● そんなアメリカ行きの経験もあって、ホントに早い時期に彼はKMCに出向し、その後確か4回ほどアメリカ市場に出向していて、明石に戻った時は企画サイドでいろんな起案をしているのだが、ハーレーダンピング対策としてのカワ販構造改革の『営研発想』は野田くんの発想で、それを現実に実現できるように修正し本社承認を取り付けたのは私なのである。学者肌とも云える野田くんの発想は、常にまともで間違いはないのだが、具体的な運営はもう少し柔軟にやられたらいいのにと私は横で常にそんな目で見ているのだが・・・

 

★そんな野田浩志くんが、理事長として立ち上げた『NPO法人 産業人OBネット』が創立10周年を迎えて、その『設立10周年記念誌』も発行され、井戸知事を招いての『記念講演会』を開催されるようである。

私のところに、その冊子と講演会への出席のご案内を頂いたのだが、9月中旬はアメリカに遊びに行く予定なので、出席できないので、せめてその広報だけでもと、このブログも書いているし、ツイッターでも、Facebook でもお手伝いしておこうと思っているのである。

NPO法人 産業人OBネット』については、横からずっと関心を持ってみているのだが、基本コンセプトが確りしているし、集まっておられる方たちが、川崎重工業の真面目で固い方が中心なので、これは非常にウマく動いているように思っている。そこに参加されているメンバーの方とも何人かは、私も繋がっているのである。

私自身も野田さんの後を追っかけて、『NPO 法人 The Good Times』 を立ち上げて7年になるのだが、その監事をしてくれていた小川優さんは、産業人OBネットにも、当初関係していたのだが、『野田さんのところの理事会は、きっちりしてるから・・・なかなか大変』といつも言ってたし、野田さんらしいなと思っているのである。

 

 

 ★ こちらが『設立10周年記念誌』で、

 

   

 

 その冒頭に書かれている 野田浩志さんの冒頭の挨拶文 である。

その基本コンセプトは、非常に確りとしているのである。

 

 

   

 

 9月16日には、兵庫県井戸知事を招いての、こんな特別講演会が開催される。

 

 

 

 

  その参加申込書である。

  

 

そして、そのホームページである。

      http://www.sanobnet.jp/

 

   

       

 

★まだ、野田さんには、一度も言ったことはないのだが、

産業人OBネット』 は非常に『いい活動』をされているのに、その『情報発信力』をもう少し充実され、その仕組みにもっと『インターネット』を活用されたら、『無料でより効率的な活動になり、そのブランドイメージも上がるのにな』と常々思っているのである。

具体的には、『NPO The Good Times 』の団体会員に入会されて、その『団体会員プロジェクト』を利用されるだけで、殆ど、問題は解決できるのである。

私が起案している『NPO The Good Times 』は、『仕組みそのもの』で別にお金も掛からないし、その仕組みを動かしているだけで、『異種・異質・異地域をみんな繋いでいい時を過ごそう』と言う基本コンセプトが実現していくという、ちょっと世の中にはない、遊び心満点のNPO法人で、世の中一般のNPO法人との差別化を図っているのである。

これは、一度『ノンちゃん』に言ってあげないといけないかな? と思っている。

産業人OBネット』10周年記念に、そんな新しい方向で歩まれたらどうかな、と率直にそう思っているのである。

今日は、このブログにアップするので、自動的にツイターにも、Facebook にも広報出来るのだが、若し会員になられたら、いろんな形で毎日でも、『情報発信のお手伝い』が出来るのである。

 

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昨日の1日

2016-08-20 06:57:06 | 日常生活、園芸、バラ

★1年にはいろんな1日があるが、昨日は多分、忘れられない1日になるだろう。

何があった??

普通の人には、大したことではないと思うが、池の金魚がコドモを産んでいたのである。

これは大発見だった。 生まれてから1ヶ月以上は経っているはずなのだが今まで気づかなかったのである。

 

最近は、家にいて車も出さない日があるのだが、車庫の下が池になっているので、外出しないと池を見るチャンスがないのである。

 

                               

 

 

 昨日は朝、家内と家から15分ほどの 栄の駅前の『皮膚科』に行ってきた。

我が家が写真の左上、 皮膚科は 写真の右下にある。

 

 

   

 

  栄の周りは、結構な住宅地がいっぱいなのだが、この『いでい皮膚科』の周りは、お医者さんが整形外科も、内科も、歯科などもいっぱいあって、気軽な総合病院のような状況になっていて、予約なしではなかなか難しいほど流行っている。

駐車場も、薬屋さんもみんな共同になっていて、なかなか『いいシステム』だと思っている。

 

   

 

    そこで撮ってきた動画である。

 

 

久しぶりに『いでい皮膚科』に行き、ちょうど昼時になったので、ちょっと行った先の『餃子の王将』にでも行こうかと言うことになったのである。

 

餃子の王将』は、こんな位置関係、車で5分は掛からない。

ここも、昼時で満席で、ちょっとだけ待ったりした、

 

   

 

 

 

ここで、『冷麺』と『餃子』を食って帰ってきたのである。

久しぶりで、『旨かった

別に、そんなに高いものでなくても、何でも『旨い』と感じる戦後食糧難時代育ちの『いいところ』だと思っている。

事実、高級料亭や有名店などの料理も『旨いと云えば旨いのだが・・・』形や理屈などが表に出過ぎて、どちらかと言うと あまり好きではない。  それに、値打ち以上に高すぎる

『食』は単純に『食える』のが一番である

 

  

   

 

 ★ 家には、1時過ぎに戻ってきた。

池の金魚やメダカに、餌をやってみていたら、金魚のコドモが何匹かいるのである

この池には金魚も、メダカも3種類。エビもいるし、田螺もいる。

鮒やドジョウもいたのだが、いつの間にかいなくなってしまった。

エビは多分、1000匹以上いるだろう。今年もコドモをいっぱい産んでいる。

何故か、メダカの仔を産まないというのか、今年はメダカの仔を見ることが出来ない。

金魚が仔を産むなどとは思わなかったが、昨年1匹だけ仔を産んだので、金魚でもコドモを産むのだと思っていた。

 

この動画を、ちょっとご覧になってください。

間違いなく、金魚のコドモでしょう。

ヨコにいるメダカと比べてみて下さい。メダカよりちょっと大きい程度に育っています。

 

 

以下は、動画から撮った写真である。

 

  

 

 

  

 

 

  そんなことで、昨日はめちゃめちゃ『よかった日』になったのである。

 ホントに池の一部を見ているだけなので、ここだけでも5匹はいたのだが、もっとたくさんいるのかも知れない。

それに、真っ赤ではなくて、まだら模様なのだが、この動画には現れないが、ちょっと違った形との金魚との交配なのかも知れない。

果たしてどんな風に育つのか楽しみである。

 

 

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カワサキ二輪事業と私 そのー11  ジェットスキーの事業化

2016-08-19 08:07:59 | 自分史

★ 『ジェットスキーの本格的な事業化

元々ジェットスキーはアメリカ人のアイデアの特許を発動機事業部が買い取って、発動機のエンジンを使い、アメリカのリンカーン工場で生産アメリカ市場でだけ販売していた商品なのである。

従って単車事業本部の明石工場のメンバーたちは、誰一人関与していなかったと言うよりは、製造者は川崎重工業ではなくてリンカーン工場と言う不思議な『継子事業』のような感じの事業だったのである。

それを正規の事業として本格的に「取り組むべし」と提案してくれたのは、私の企画室長時代企画部長として援けてくれていた武本一郎さんである。

その発想も意見もまともなのだが、1985年当時は単車事業本部内にそれを担当するセクションなど皆無で、具体的に展開するには『新しい何かを』創らなければどうしようもなかったのである。

 

さて、どのように展開するかと考え始めたそんな時、オーストラリアの販社の社長をしていた鶴谷将俊くんが85年9月に帰任したので、彼こそが一番の適任だと思ったのである。

一国の販社の社長をしてきた彼に部下もいない、正規のセクションもないプロジェクトを担当させるのは、ちょっと気が引けたのだが『新しい事業』こそ実力者がやらないと実ったりはしないのである。

武本部長の企画部の中に、勝手に『ジェットスキー担当部門』を作ってスタートしたのだが、明石の単車事業本部の中にはジェットスキーに乗れる人すらいないのである。

発動機に趣味でジェットスキーのレースをやっている福井昇くんと言うのが居るというのを聞きつけて、たまたま彼が私と同期の藤川哲三さんの下にいるというので強引に貰い受けて、鶴谷、福井のコンビでスタ―トすることになったのである。藤川さんは、若い頃ジェットスキーのエンジン開発を担当していたので、それを本格的な事業に展開したいという私の話に乗ってくれたのだと思う。

 

★このプロジェクトは、企画室内で勝手に立ち上げたもので、当初のメンバーは『古谷・武本・鶴谷・藤田・福井』の5人でスタートし、徐々に広げた形なのだが、いま思うとこれは最強のメンバーであったと思う。

 

古谷錬太郎

私が総合的に旗を振り、主として販売面の仕組みの構築を起案したり、国内のレース組織JJSBAの設立をアメリカのIJSBAに当時の田崎雅元KMC社長に仲介を頼んだりもしたのである。

軌道に乗ってからも国内のジェットスキー販売会社の社長や業界のPWSA会長なども引き受けてお手伝いはさせて頂いたのである。

 

武本一郎

 昭和35年入社の東大卒の英才である。私が最初に企画部企画課担当時代の係長で東南アジアのCKD事業を始めたとき陰で手伝ってくれたご縁などあって、二輪事業の再建に二度目の企画担当を仰せつかった時、その企画課長に真っ先に指名したのが武本一郎くんだったのである。昭和35年入社は英才が揃っていて、百合草三佐雄、大前太、種子島経くんなどみんな35年組なのである。

大庭浩本部長時代の大庭さんのムツカシイ宿題をすべて処理してくれたのは武本一郎くんであり、先述したように『本格的なジェットスキー事業の展開』を提案してくれたのも武本一郎くんなのである。早く逝ってしまって本当に残念なのである。

当時のジェットスキーは JS400/500の2機種で、アメリカ市場だけでコンスタントに8000台ぐらいの販売だったのだが、これを440/550ccにボアアップしたら、突然アメリカ市場だけでも2万台も売れだしたりしたのである。

このボアアップするための開発費などは、正規の事業になっていないので、とても貰える訳もなく、武本一郎さんが『忍術を使って』生産関係の予算から捻出したはずなのである。それを技術本部で引き受けてくれたのが百合草三佐雄くんで、私はそのあたりのことはすべて武本くんに任していたので詳細はよく知らないのだが、このボアアップしたジェットスキーが売れに売れて、当時の二輪事業の危機を救った一つの商品になったことは間違いないのである。

 

鶴谷将俊

彼とは、開発途上国市場をスタートさせたとき、岩崎茂樹くんとのコンビでイランを担当してくれた時に初めて出会った。山登りが好きで、会社を1年間休んで山に登っていたという豪傑である。

CKD市場担当の後、オーストラリアの販社の初代社長として出向して、その任を終えて帰任して、ジェットスキー事業を担当してくれたのである。スタート以来約10年間、彼が カワサキのジェットスキービジネスを育てた と言っていい。

ずっと川重の営業部の籍のままではあったがJJSBAのジェットスキーレースも、国内のKJSと言うジェットスキー専門の販売会社も鶴谷くんが旗を振ってくれた。当時のJJSBAの国内レースは琵琶湖や福井県千里浜海岸で開催され1000台のエントリーがあった最盛期なのである。

末端市場を見ることに興味・関心があって、私を誘って二度二人で末端状況視察の海外出張をしている。

ヨーロッパでは、ドイツのボートショーを皮切りに、ボーデン湖ースイスースペインのジブラルタル海峡からの海岸線ーフランスイギリス を殆どレンタカーで移動したり、オーストラリアでは、彼の元担当国なので、小型飛行機で中央部まで飛びそこからはレンタカーで、普通の人は知らないオーストラリアを経験したのである。

 

ヨーロッパに J/Sヨーロッパ と言う新会社を設立したのも鶴谷くんである。多分現在のKawasaki ヨーロッパは、このJ/Sヨーロッパがスタートで、鶴谷くんはその後アメリカのKMC社長や、Kawasakiヨーロッパの社長などを歴任するのだが、最後は川重商事の社長をされたのである。

個人的には、カワサキ二輪事業本部長を若し彼がやっていたら、また変わった『カワサキ』が見れたのではないかと思っているのである。

     

   

 

  これは1988年ソウルオリンピック開会式の当日、オリンピック組織委員会からの要請を受けて、競技場のすぐ前のハンガン(漢江)でジェットスキーのデモンストレーションの依頼があって、オリンピックということで日本・アメリカ・欧州・オーストラリアから男女のチャンピオンを集めたチームを構成し、私がその団長を務めはしたのだが、このプロジェクトを実際に進めてくれたのは鶴谷将俊くんなのである。

このメンバーには初代JJSBAの苧野豊明会長・鶴谷将俊・藤田孝明・福井昇くんや大南勝也・金森稔・松口久美子さんなどの黎明期を支えたメンバーたちが参加したのである。

 

 

 ●藤田孝明

彼とは会社では本当に長いお付き合いで、私が最も信頼していた一人である。昭和32年の川崎航空機の同期入社である。

入社当時は野球部のチームメイトで、私と三遊間を組んで、1,2番を打っていた仲間なのである。

1973年カワサキが特約店制度に踏み切った当時は、京都営業所長だった。大阪・京都・名古屋で特約店制度はスタートしたのだが、京都が一番徹底して立派に創り上げたのである。

その後名古屋の統括所長も彼に頼んだし、一番問題の多かった東京都対策も藤田くんに任したのである。さらに西日本地区を担当したりしたのだが、彼の行くところ販売店との関係はみんな抜群だったのである。川崎重工籍なのだが、川重での役職などには一切興味を示さなかった珍しい存在だったのである。

このジェットスキーの販売網を国内で一からスタートさせるとき、私は躊躇なく藤田孝明を二輪の東京市場の責任者から引っこ抜いてたった一人で最初はスタートしたのである。

ジェットスキーは、国内の新商品で従来西部自動車が逆輸入してボート屋のネットワークで年間200台ほど販売していたのだが、この商品のレースを中心とする独特の遊びの分野は、それなりに専門店に育てなければ将来はないと思ったので、たった200台しか売っていなかったのに、専門店を創る方向を採ったのである。

全くの白紙の状態からカワサキのジェットスキー販売網は全国に見事に展開されて数年後、最高では7000台の販売を記録し販売会社もその販売店も、折れて曲がるほどの利益が出たのである。

藤田くんは、口数の少ない地味な存在なのだが、彼のことを悪く言う販売店を見たことがないのである。彼が私に紹介してくれた店の一つが『月木モータース』のあの月木さんである。

 

福井昇

若し、カワサキがジェットスキーの本格的な進出を展開しなかったら、福井昇くんは、川崎重工業の発動機事業本部の中で普通一般のサラリーマンで終わったに違いないのである。

ジェットスキーに乗れる奴がいる』ということを聞いて、発動機に彼を貰いに行ったことから彼の人生は変わったと思う。

最初は、ヨーロッパ市場の開拓などをやっていたのだが、いろいろあって国内のジェットスキー販売店網を創ると言った時、彼は手を上げて、川重を退社し、ジェットスキー専門店国内第1号店を立ち上げたのである。この面倒を徹底的に観たのが藤田孝明くんである。

ジェットスキープラザ明石』  http://jsp-akashi.com/ 

が彼の店である。もう30年にもなるのだが、その間彼は大成功で、巨万の富とは言わぬが、趣味のミニトレインの線路を庭に設置して楽しむほどには成功したのである。

余談だが、福井昇くんとは最近でもいろいろとお付き合いがあり、カワサキワールドの恒例行事となった神戸のメリケンパークの『ミニ鉄道フェスタ』の起案者は福井昇くんで、それを田崎雅元さんに私が頼んで実現したのである。

 

     

 ちなみに彼はNPO The Good Times の理事もやってくれていて、30年変わらぬお付き合いが続いているのである。この週末21日の理事会でお会いできるのが楽しみである。

 

 

★ この間、成功話ばかりではなくて、今なら考えられない失敗話もあるのである。

先述したように、ジェットスキーは発動機事業部の商品でありそのエンジンも発動機事業部のエンジニアの開発によるものなのである。

当時の技術本部長は安藤佶郎さんで単車独自の300cc小型高性能のエンジンを積んだ小型のジェットスキーを創って『もっと数を売ろう』というコンセプトの JS300 の開発を考えたのである。

二輪車の場合は、一番数が売れるのは50ccの小型モペットで、それは小型で初心者の入門車として量販できるので、単純にジェットスキーでも『手軽な小型のモペット』を創ろうとしたのである。

この機種の開発段階のテストランに、一般のテストライダーと共に福井昇くんも参加したのだが、その商品評価会議で、福井君くんが『これはダメだ。走っていたら突如転倒してしまう』と発言したらしい。

これは二輪の常識で発想した技術部の『間違いだったのである』 二輪車と違ってジェットスキーのような水の上の乗り物は、小さいと安定しないのである。小さな車体に高性能のエンジン積んでアクセル吹かしたら『不安定』になって、福井くんでも転倒してしまうのである。

このマシンは、福井くんの意見を聞かずに、そのまま開発され上市されたのだが、殆ど売れずに失敗作になってしまったのである。

こんな話は冷静に考えると私でも理解できる話なのだが『小型のジェットスキーを大量に』と言うと二輪関係者は、モペットのイメージで錯覚してしまうのである。

 

 

★ ところで『ジェットスキー』と言うのはカワサキ独自の商品名であることをご存じだろうか?

ヤマハさんがこの分野に参入されたのは、1986年で、86年の1月にヤマハの小宮常務がわざわざ明石まで参入のご挨拶に来られているのである。 

そして1990年に業界としての安全協会を立ち上げたのである。

それがPW安全協会で、PWとは『パーソナル・ウオータークラフト』なのである。

   http://www.pwsa-jp.com/company/activity/

 

  

  

   業界の先駆者ということで当時のPWSAの会長職は、カワサキで私も会長職をお引き受けしたりしたのだが、そんなこともあって、当時ヤマハさんとは、本当に仲良くさせて頂いた。

その業界の会合も所謂私が議長をさせて頂いたのだが、一般の業界の会議とは違って、ヤマハの方から『社内会議』みたいだと言われてホンネの討議がなされたのである。年に1回の総会には中央官庁のお役人が出席されて、課長の祝辞代読などされるので、出席される方にそんな形式的なことではなく、あなたのご挨拶を是非とお願いしたら、2年目からは、ご自身の言葉で本当にいいお話をされたのが印象に残っているのである。

どうも、日本の特に業界の常識は、おかしなことが多すぎるのである。逆に中央官庁に新年のご挨拶に伺うと、メーカーではそっけない対応だが、業界代表となると それなりに対応が変わるのも不思議だなと思ったが・・・

 

80年代後半から、90年代にかけて、ジェットスキー黄金時代が続いたのである。

そして、ジェットスキービジネスは30年経った今、こんな300馬力の1台自動車並みの価格の商品が並んでいるのである。

ある意味、JS300も小型ジェットスキーを発想した時代が懐かしい気もするのである。

 

  

 

 

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消費者庁の担当者の方もご覧になってるホームページ  ビックリです

2016-08-18 06:26:04 | NPO The Good Times

お役所のお役人も、職務ではしょうが、なかなか大変だなと言う話です。

 

★ NPO The Good Times のホームページ  

     http://www.thegoodtimes.jp/   の中に、

 

  

 

   こんな 『特典一覧』というサイトがあります。

このホームページも、もう直ぐ来場者が10万人になろうとしているのですが、つい先日、お国の『消費者庁の担当者の方』がお越しになったようです。

 

 そして、その『特典一覧』をチェックされたようです

  「特典一覧」とこんなサイトです。

    http://www.thegoodtimes.jp/tokuten/

 

  

   

  団体会員さんが、提供される『特典』が並んで紹介されています。

 

● その中の団体会員さんが出しておられる特典の表現に、『消費税分をサービスします』と言うのがあったのですが、『これはちょっと問題なので、文言を修正してください』との指摘を頂きました。 

別に8%でも、10% でも問題はないのですが、『消費税分』と言う表示は問題のようです。

 

すぐに『修正』しましたが、 『消費者庁の担当』の方も、こんなホームページの特典欄までチェックするのは大変だなと思いました。

それにしても、そんな中央官庁の方に訪ねて頂いて光栄です。

多分、『修正しました』と連絡をされたのだとは思いますが、ホントに『直っているのか』もう一度チェックされるでしょうから、消費者庁の担当者の方は、間違いなく2回訪れて頂くことになるのかと思います。

 

  

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墓参 と 国際免許

2016-08-17 06:29:47 | 発想$感想

 ★ 今年の秋、9月からは多分アメリカの娘のところに遊びに行くことになるだろうと思っている。

1ヶ月近くの滞在になるので、車の運転が出来る様に、国際免許をとっていこうかなと思ったりしていたのである。

私の場合は、『・・・しようかな?』と思ったことは、GOが掛かることが殆どなのである。そんなことで8月中に免許をとりに行かねばと思っていた。

現役のころから、海外出張はいろんなところに結構出かけているのだが、当時はずっと国際免許を持っていたので、殆どの国でレンターカーを借りて自分で移動することが多かった。

アメリカは、いつも空港でレンタカーを借りての移動だったし、ヨーロッパでもレンタカーを借りてアウトバーンを走って、ドイツからオランダに行ったり、ドイツからボーデン湖さらにスイスへも自分の運転だった。スペインの海岸線のドライブも快適であった。

ひょっとしたらアメリカ行きも今回が最後になるかも知れぬし、免許さえ持っていれば何かと自由が利くだろうと思っているのである。

 

    

 

 

★それはともかく、今年のお盆は、孫が遊びに来ていたので、栗林公園に行ったりして、墓参りに行くことが出来なかった。

お盆は過ぎてしまったのだが、国際免許をとるなら、一緒に墓参りもしようと昨日明石まで行くことにした。

 

       

 

先に、国際免許の申請をするために免許センターに行き、30分ほどで、問題なく取得できたので、その足で、長寿院まで出かけたのである。

 

 

 

 お盆に墓参りをするぐらいは解っていて、毎年15日までには行っているのだが、16日などは果たしてどうなのか?

チェックしてみたのである。

まず、こんな記述が現れた。

 

お盆というのはご先祖様の魂が家に帰って来る時期とされているので、その間はお墓はお留守になります。

そのためお盆期間中は、13日頃にお墓にご先祖様の魂を迎えに行くか、お盆が終わった後の16日にお墓まで送り届ける意味合いでお墓参りをします。

このお留守になったお墓にお参りするのは意味が無いように思われますが、地域によってする・しないに分かれるようです。

 

などと書かれている。 16日でも大丈夫なのだが、昨日お墓に来ているのは私だけで、殆どのお墓の供花はしおれていたので、お盆前に来られた方が多いのだろう。

私は墓参りなど、あまり形などには拘らぬほうなので、16日でも『行かぬよりはいいか』と出かけたのだが、16日でもいいということでちょっと安心はしたのである。

服装は半パンツにポロシャツで出かけたのだが、ポロシャツは国際免許の写真が要るのでそれは襟付きのほうがいいだろうと思ったからである。普通なら多分 Tシャツで出かけているだろう。

ついでに、服装について、チェックしてみたら、このように書かれていた。

お盆のお墓参りの服装は半袖短パンみたいにラフでいい?


真夏の猛暑のなかでのお盆のお墓参りは服装をどうしたらいいのか迷いますよね?

秋や冬ならあまりラフな格好にならずいいと思いますが、真夏となると普段着はいつも短パンやTシャツにサンダル履きですから。でもネットでみなさんの意見をうかがっても、ほとんどの人が普段着のままお墓参りに行くようです。

きっちりと礼服を着て行かないといけないのは新盆(初盆)のときです。
新盆(初盆)とは亡くなった方が初めて迎えるお盆のことで、このときばかりは丁寧な供養が必要なため、礼服を切るのが通例みたいです。

 

      

 

★昨日は、 国際免許にいったついでの墓参なのか、墓参ついでの国際免許申請か よく解らぬところだが、兎に角そんなに問題でもなかったようで、よかったと思っているのである。

 

 

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京城(いまのソウル)の想い出

2016-08-16 07:41:58 | 発想$感想

 ★ 8月15日、終戦記念日である。

1945年8月15日、私は中学校1年生だった。

当時の朝鮮、京畿道京城府城東区新堂町桜ケ丘と言うところにいたのだが、8月15日は夏休みの最中で城東中学校のプールで泳いでいたのだが、正午に天皇陛下の玉音放送があって、炎天下の校庭で直立不動の姿勢で聞いたのを覚えている。

 

    

 

 ネットの中で探していたら、こんな城東中学校の写真が出てきた。

 ついでに当時の京城の写真を幾つか・・

こちらは京城駅である。 当時夏、冬の休みには明石に来ていたのだが、駅も汽車も朝鮮のほうが立派だなと子供心に思っていた。

学徒動員で出征する先輩をこの駅まで何回か送りに来た思い出もある。

 

   

 

  昌慶園の桜は立派だった。 冬は大きな池がスケート場になったりした。

 

  

 

  朝鮮神宮である。

何度か行ったことがあるが、立派な神宮であった。

今はどうなってしまったのだろう?

 

 

 

  朝鮮神宮も日本になってから創られたものだろうし、昌慶園の桜も、元の宮廷にあとで桜が植えられたようである。

 奨忠壇公園は、家から歩いていけるところにあって、冬は毎日と言っていいほどこの池でスケートをして遊んでいたので懐かしい想い出いっぱいである。

 

   

 

 戦時中のソウル(京城)の生活は、食糧難も空襲もなく平和な普通の生活で、何の問題もなかった。

戦争は新聞やニュースで聞くだけで、特に戦時中という感じはしなかったのである。ただ、母方の伯父は南方で亡くなったし。明石も岡山も空襲で家は焼けたし、明石の空襲では叔父、叔母が亡くなったのである。

 

 

★ 小学校の6年間と中学の1年生までソウルにいたので、戦前のソウル(京城)についてはちゃんと覚えているし、海外でも一番行ってみたかったところなのだが、なかなかその機会がなかったのである。

ところが、1988年9月、ソウルオリンピックの開会式の日に、オリンピック会場のすぐ前のハンガン(漢江)で、ジェットスキーのデモンストレーションをやって欲しいとオリンピック委員会からの依頼があって、私はその団長として懐かしいソウル(京城)に行くことが出来たのである。

 

その時頂いた額である。 

 

 

  

その時のスナップの1枚である。

オリンピックだから世界からトップレベルを集めようと、アメリカ、欧州、オーストラリア日本ジェットスキーチャンピオンを集めたチームをつくっての参加となり、日本からも、JJSBAの苧野豊明会長など選手諸君も大勢参加したのである。

 

    

 

オリンピック競技場のすぐ前に、ハンガン(漢江)はある。子供の頃も何度か行ったことがある。かってはハンガンの南側は何もなかったのだが、今は立派なまちになっていてオリンピック競技場もそこに創られていた。

 

 そのオリンピック村の施設に泊めて頂いて、オリンピックも観れたのだと思うが、真面目に練習ばかりしていて、私は競技場には行っていないのである。

 開会式の当日も、午前中に無事演技は済ませたので、そのあとオリンピックも観れたのだと思うが、私は当時のJJSBAの苧野豊明会長と一緒に、ひょっとしたら戦前住んでいた家が残っているかもと、タクシーをチャーターして当時の城東区を探し回ったのである。

 

日本と同じようにソウルも新しい道がいっぱいできてなかなか難しかったのだが、まず『奨忠壇公園』に行きそれから家を探したのだがなかなか難しくて、通っていた『桜ケ丘小学校』を探し当て、そこから家を見つけることが出来たのである

中学校はほんの数ヶ月だけだからもう一つ記憶にないのだが、小学校ははっきりと覚えていて、これは手前の建物のところは、かっては体育館だったのが新しくなっていたが、本校舎は昔の儘に残っていた

 

 

 

小学校の裏門から、道を辿ってゆくと懐かしい家が残っていた

何故か塀や門は新しく作られていたが、昔はもっと開放的はつくりだったのに、塀と門になってしまっている。

ただ、屋根は全く昔の儘の形状で、瓦のヨコの銅板もとゆもそのままで懐かしかった。

 

 

 

 

 苧野豊明さんとのツーショットである。

苧野さんは、ずっと上司だったのだが、後半はいろんな形で援けて頂いて、国内にジェットスキーを導入する際にも、JJSBAの初代会長として、手伝って頂いたのである。

 

★どうも昨今は、韓国との関係がもう一つなのだが、私個人は韓国は私の故郷であることは間違いなく、もう少し『いい関係』にならないものかとずっと思っているのである

 

 

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公園の木

2016-08-15 06:17:40 | 発想$感想

★毎朝、走りに行っている近くの公園

  

 

 先週あたりから、周囲の大きな木を切りだした。

  その切り方の思い切りの良さに少々驚いて、Facebook に動画でこんな風にアップしたのである。

 

 

  

 

   根元から、こんなにバッサリと思い切りがいい。

 

   

 

 間にあった樹を何本も切ってしまったので、見通しよくなったが、気持ちとしては、この根元から新しい芽が出たらいいなとホントにそんな気分なのである。

 

  

 

 すっきりしたと云えば、その通りで、今まで鬱蒼と枝を伸ばしていたので、見通しも悪かったのだが・・

 

 上のFacebook には何人かの方からコメントを頂いたのだが、10年も町内会長をいたという山本隆さんから、こんなコメントを頂いて、なかなかムツカシイものだなと思っている次第である。

 

 

山本 隆
 
公園内の樹木ですが、何年かに一度大きく伐採をする必要があります!
理由は沢山あります。
*秋になると落ち葉が遠くまで飛び、市民から苦情が入ります!
*風通しが悪くなり大量の害虫が発生します!
*害虫だけでなく、周辺からの見通しが悪く成れば、中高生などの不純異性交遊の温床になります!
私は10年間町内会長を務めましたので、市民のそれぞれの意見や苦情を聞いてきました。
イチョウの紅葉を楽しみにしていた遠くにお住いのお方が、その直前に伐採されたので憤慨していましたが、その周辺にお住まいの方からの苦情で役所は動きました!
皆さん自分だけのお考えでは公共性が失われます。"(-""-)"
 
 
 住宅のど真ん中にある公園だから、周辺にお住まいの方たちの意見が優先されるのだろう。
 確かに街路樹の落ち葉なども秋になると、掃除が大変なのはよく解る。
 
 今年はともかく、来年には確りとした枝が伸びるのを期待したい。

 

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『10年ひと昔』 世の中 どんどん変わるね

2016-08-14 06:41:09 | 発想$感想

 

★ 世の中どんどん『変わる』というのか、『進歩する』のか?

つい先日は、栗林公園に淡路周りで行ってきた。

昔は、栗林公園には、岡山経由が常識だったのだが、明石海峡にも鳴門海峡にも橋が出来て、その通行料はとてつもなく高かったので、仮に行けたとしても、そのルートは考えられなかったのに、

今は淡路ルートが常識で、それが一番早く、一番安いようである

それは、ともかく栗林公園の帰りに、淡路のパーキングに寄ってこんな氷を食ったのである。

 

   

 

 『旨い、不味い』は別にして、これは氷ではない。 ソフトクリームみたいである。

 氷独特の『シャリシャリ感が皆無なのである。

 

私が、そんなことを言うものだから、 『西神の風月堂の宇治金時を食べに行こう』と昨日はわざわざ西神まで出かけたのである。

 

まず、本屋に寄って、昼前なので飯を食おうということになった。

お盆の土曜日ということで、いっぱいの人である。

 

 

 

 

 

 

 昔、贔屓ににしてよく行ってた東天閣に行くことにした。

 

 

 

 明石の菊水人丸花壇など名店が並んでいるのだが、店の中に広い待合室があるのは、 東天閣だけである。

店の中で少々待たされたが、こんなランチを食ってきた。

1500円也である。ウイークデイは、1250円でサービスランチがあるのだが、『本日はやっていません』とテープが貼ってあった。

 

  

 

この東天閣は、個人的にもよく行ったし、会社でも使っていて責任者の王さんとは顔馴染みなのだが、おられないので聞いてみたら、『王さんは、定年でお辞めになりました』と言っていた。

私が定年後も間違いなく居たのだが、やはり定年後16年も経っているので、王さんも定年になるはずである。

お辞めになりましたが、よく遊びに来られますよ』などと言っていた。

 

 

 そして、風月堂の宇治金時を食べるべく、1階まで降りてきたのだが、

 

  

 

  肝心の『風月堂』がなくなってしまっているのである。

  

  確か、この向う側の角がそうだったのだと思うが・・・・

 娘一家は、この駅から一番近いマンションに住んでいたので、一緒に行った孫もよく覚えていて、店が移ったかなと、探してみたがダメだった。

 

 

  ホントに世の中、10年も経つとすっかり変わってしまうのである

 娘一家が、アメリカに行ってから、もう10年以上にはなる。

 

 10年 ひと昔』 昔の人は上手にいうものである。

 

 

 昨日の動画、 ご覧になってみて下さい。

 

 

<iframe src="https://www.youtube.com/embed/tLNgzzzDnVg" frameborder="0" width="560" height="315"></iframe>

 

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カワサキ単車の昔話

2016-08-13 06:50:22 | カワサキ単車の昔話

 

★このブログの中に『カワサキ単車の昔話』と言うカテゴリーがあり186話もアップしている。

昨日それをを見ていたら、高松の宮様や本田宗一郎さんとご一緒に昼食会に同席している貴重な写真が出てきた。

 

ヤマハの菅生であった全日本モトクロス開催時に開催された各メーカ―や業界のトップなど10数名での昼食会である。

高松の宮様のご臨席を頂いて、その昼食会にはカワサキからは青野格本部長と若輩ながら私が出席させて頂いたのである。

  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/a99141f4c124e5cb5d8896a4ed08dbdb

2010年のブログで、『カワサキ単車の昔話』を書いているのだが、写真をブログに取り込めるようになったばかりのころで、残念ながら写真がピンボケなのである。

 

 

    

 

写真と言えば、このごろはパソコンで、写真を見やすく修正なども出来るのである。
この写真の現物はヨコ 17cm, タテ 12cm で非常に鮮明である。ぼんやりしているのは私の技術がダメなだけである。

などとコメントしていて、

 

丁度、いま孫が『来ている』ので、この機会にちゃんとしたものに修正しておこうと やって貰ったのである

間違いなく、写真はちゃんと修整できて、ちゃんとアップすることが出来たのである。

 

 

    

 

 左から、本田宗一郎さん、高松の宮様、業界の桜井専務理事,カワサキの青野格本部長である。

 

    

 

    乾杯。 宮様はお立ちにならないのは、今気が付いた。一番奥、青野さんの隣が私である。

 

    

 

    こちらは、一番手前である。

 

    

    これは逆に一番奥。

 

 

昼食会の席次もお品書きも一緒に送って頂いたのだが・・・


尊敬する本田宗一郎さんとは、直接お話ししたことは一度もないが、同じ会議やパ―テイなど何度かご一緒させていただいたのである。
非常に気さくな、常に場を明るくされるように、あちこちに気を使っておられたのが印象的だった。
一言でもいい。話をさせて頂いておればよかったなと思っているのだが、当時はご挨拶に上がるのことも、とても出来なかったのである。

 

 食事会そのものは、このように非常に明るい雰囲気で、気疲れするようなことは何もなかったのだが・・

 

★高松の宮さまは、ホンダさん、特に本田宗一郎さんと親しいと言っていいご関係で、二輪の全日本モトクロスや鈴鹿サーキットなどにも、何度もお見えになっていたのである。

これよりはずっと以前だが、BPICMの総会が東京であった時も、宮さまは出席されたし、本田宗一郎さんがホストをされたのである。

私が全国カワサキ会の副会長をしていた時で、業界側のメンバーとして夫婦同伴でご招待を受けたことがある。

この時は、会場までの廊下に各メーカーのえらいさん型がみんなホストサイドで、海外からの業界のお客様を並んでお迎えになったのだが、私たち夫婦も一応は業界からの招待客と言う立場だったので、そんなお出迎えの前を通って会場に入ったのである。

このころは、私も未だ40代前半だったと思う。

高松の宮さまもご臨席だというので、非常に緊張して、立食パーテイーだったのだが、そんなに食えないかもと出席する前にラーメンなど食ってから出かけたのだが、全然『いい雰囲気』であとで、『ラーメンなど食っていくのではなかった』と思ったものである。

この時の本田宗一郎さんの『歓迎スピーチ』が見事だったなとそれが一番印象に残っているのである。

 

上の菅生での全日本モトクロスは、それから10数年あとの話なのである。

 

       

 

 

       

 

 

       

 

 

 

       

 

 

 

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カワサキ二輪事業と私 そのー10  田崎雅元さん

2016-08-12 08:31:35 | 自分史

★先日来、高橋鐵郎さん、大庭浩さんのことを書いたので、順序としてはアメリカのKMC社長発動機事業本部長

川崎重工業社長を歴任した田崎雅元さんのことを触れないわけにはいけないだろう。

 

   

ただ、大庭さんや高橋さんは、私の上司としての存在だったのだが、田崎雅元さんは間違いなく一緒に協働した仲間であり、どうしても、彼の話となると長年一緒に協働した『仲間としての話』になってしまうことをお許し頂きたいのである。

 

田崎雅元さん、年は私より二つ下、昭和10年の生まれ、川崎航空機入社の年次で言えば、私の1年後輩なのだが、結構気が合って、本当に長いお付き合いは極々最近まで続いているのである。

私が一つでも先輩であったことは誠に幸いして、彼はホントに社会的には手の届かぬほど偉くなったのだが、彼との関係会話も、ずっと何十年同じように続いている仲間なのである。

生い立ちも似ていて、私は戦前朝鮮京城にいたのだが、彼のお父さんも京城大学の先生で小学校時代は京城にいたこともある。終戦前に満州に行って満州からの引き揚げ者なのである。

どちらも大陸育ちのちょっと変わったところがあって、後輩から『古谷さんと田崎さんは日本人でないところが困る』などと言われたりしたのである。

 

田崎さんは、川崎航空機の昭和33年の入社で、ジェットエンジン部門の生産関係に配属になっていた。田崎さんに言わすと入社時に、設計図面を書かない部門にと希望したからだという。設計図の昔のスミで書くのがどうも苦手だったのだという。兎に角口は達者だったが、字などもそんなに綺麗ではなかった。

曰く、『アタマの回転が速すぎて手がついて行かないからだ』などと仰る。ことほど左様に何か理屈をつけて決して『参った』とは言わないのである。

そんな彼がジェットから単車に移ってくるのは昭和37年だったと思うが、昭和36年当時私は既に単車営業にいて、労働組合関係の職場の常任幹事をしていたころ、彼もジェットの職場の常任幹事で同じ会議などで出会ったのが最初である。組合関係のことなど、どんな話題になっても、めちゃ上手く喋るので、事務屋だとばかり思っていたら技術屋と聞いてびっくりした。

 

★そんな彼が、単車の生産工場に異動して来て、高橋鐵郎さんの下にいたのだが、お二人とも当時のカワサキ創世期のレース委員会のメンバーだったのでそれからはずっと退職後も繋がっているので、もう50年以上のホントに長いお付き合いなのである。

 

田崎さんのことを時系列に並べてみると

● まずは組合の常任幹事時代のお付き合い 1961年。

● これは確か昭和37年だったと思うが『源平芸能合戦』と言う会社単位のテレビ番組があって、三洋電機が相手で私が勧進元だったのだが、田崎さんがその応援団として大いに手伝ってくれたことを覚えていて、いつも二人の間では話題に上がる田崎さんとの協働のスタートなのである。

●『カワサキが初めて鈴鹿を走った日』 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/8356d318b5dc414c15dd1b7488a09f63 

会社に内緒でロードレーサーを創って走らせたのは私と田崎さんなのである。そのカワサキの初代のレースチーム監督が大槻幸雄さん、助監督が田崎雅元さんだったのである。 1965年。

● その後彼はアメリカの異動になるのだが、当時のレース監督大槻幸雄さんもドイツ留学が決まりお二人同じ日にレースの仲間たちで送別会をしたりしている。1965年のことである。

 

 

これはその当時の1回目のアメリカ時代の浜脇洋二さんと田崎さん。

最初のシカゴ時代、所謂『7人の侍』の一人なのだが、当時バイクに乗れたのは田崎さんだけで、W1の試乗でハイウエイを走ったのが彼の自慢なのである。社長時代もオートポリスをバイクで走ったりしたらしい。

 ● アメリカから戻ってきて、私も国内の販社出向から単車事業部の企画室に戻った時は、彼も同じ企画部にいて、それからは殆どずっと仕事上でも密接な関係にあったのである。この年が1975年。

● 1978年だったか、アメリカのハーレーダンピング訴訟がありこれを担当したのが田崎さん、その国内販社の構造対策をしたのが私なのである。 

● その後、アメリカ市場がどんどん悪化して、彼は高橋鐵郎さんと一緒にアメリカKMCの社長で出向するのだが、それでも益々大変になり、販社の経営対策のために私は当時の山田専務に企画室に戻るよう言われる話は、高橋鐵郎さんの時にも書いた。

● その時、山田専務に高橋鐵郎会長を企画室に戻すようにお願いした時『田崎でKMCは出来るか?』などと仰るのである。『私と田崎さんは1年違いですから、田崎さんでKMCが出来ないなら、私が企画は務まりません』とお答えしたのである。

● その後のKMCは大変な時期だったのだが、田崎さんの相談相手の高橋さんを私のほうに頂いたものだから、そんなこともあって、大庭本部長時代の3年間の単車再建期間、私はKMCのことについては特に田崎さんを援けて尽力した

●『Ninja 』のネーミングは実はアメリカ発で、明石の技術部サイドは反対だったのだが、大庭さんがKMCの出張時に『Ninjaは黒装束のイメージなどではありません。アメリカではゼロゼロセブンのイメージなのです』と口説き落として、当初のGPZ900は、アメリカ市場のみ『Ninja』のネーミングで上市されたのである。

 あの時、大庭さんを口説き落とさなかったら、カワサキに『Ninja』のネーミングは生まれていなかったのである。その時その場にいたのは大庭さんと田崎さんと私の3人だけだったのである。

 

      

 

●その当時のKMCは、累損もあり日本円で言うと300億円近い借入金もあって、当時の貸付金利が20%に近い高率だったので、その金利だけでも60億円近い金額となり、当時の田崎さんにKMCの経営再建はモノを売ることよりも営業外対策をするほうが速いと、彼に営業外やバランスシートの知恵を教えたのは私なのである。

技術屋さんでバランスシートなど解る人は少ないのだが、一端覚えて勉強しだすとどんどん知識を深めて、私などが追いつけないほどの資金関連の知識を田崎さんはお持ちなのである。

後、川崎重工の社長当時、無配の川重を引き受けたのだが、彼の社長担当時に川重のバランスシートの内容は非常に改善されてその後の川崎重工の経営安定に貢献しているのだが、それを言う人は少ないのである。

 ● 田崎さんがKMC社長時代、私と二人で掲げた目標は『KMCの38百万ドルの累損消去』であり、殆どの人がそんなことできるかと思ったのだろうが、田崎さんの後の百合草三佐雄社長時代に、見事消去されて、日本サイドで元大西副社長など関係者とお祝いのパーテーを一緒にして、田崎さんと私も出席した夜のことよく覚えている。

●川崎重工業社長時代に、彼でないとできなかったことがあるとすれば、それは神戸の『カワサキワールド』を創ったことだろう。その展示の内容は、二輪部門が中心にはなっているのだが、航空機も車両もホントに立派な川崎重工の展示場となり、神戸のメリケンパークの名物となっているのである。

 そのカワサキワールドも10年経って、今秋、特に二輪の展示部門の回収が行われるようである。こんな写真が、Facebook に載っていた。

 

●1986年がカワサキの二輪事業の再建最後の年で、大庭本部長は本社に戻られ7月からは高橋本部長となり、翌年4月に単車と発動機との統合があり、田崎さんも2月には戻ってくることになるのである。あれだけの大騒動であったカワサキの二輪事業の危機も、3年間で成功して大庭さんは翌年6月の川重社長が約束されて本社に凱旋されるのである。

 その1年前の1986年の事業部の動きである。

 

  

 

 

● 87年からは、そんな新しい体制になるのだが、大きな修羅場を経験した田崎さんなども、安定した事業部の企画副室長は勿体ないなと思っていたら、大庭さんが社長になると直ぐ、田崎さんはすぐ本社に引き抜かれて、そのあとすぐ川崎重工業のニューヨーク社長にまた出向することになるのである。

● 田崎さんはニューヨークから戻った後はCP事業本部の副本部長として、そして事業本部長を務められた。その後、川崎重工業の社長に抜擢されるのだが、これは大庭浩さんの最後の人事であったのだろう。

 

★田崎さんとのお付き合いはお互い現役時代も延々と続いたのだが、お互い引退後もずっと続いていて、そんな私との関わりを幾つか・・・・

 

● これは現役を引退して後のNPO The Good Times の平井稔男さんが主宰した『カワサキの想い出、そして未来』の時の幕開けの挨拶をしてくれた田崎雅元さんである。  2011年。

 

 

 

● こちらはひどく赤い顔をしているが、神戸の灘の酒心館の会合で昼から旨い酒を飲んだ時、NPO The Good Times の会員になってくれた時の写真である。

ちなみに、NPO The Good Times の会員NOは、高橋鐵郎さんが昔で言う監督NOのNo.0030 番、田崎さんがNo.0031番なのである。

 

 

 

●さらに、彼が孫文記念館の理事長を引き受けた際は『孫文を語る会』を創って協力もしたのである。ちょうどその頃の写真である。

  

 

● 引退後の田崎さんとの一番大きな協働作業と言えば、もう今はすっかり定着して、『カワサキワールドの定例行事』になっている、神戸メリケンパークでの『ミニ鉄道フェスタ』である。

 http://www.khi.co.jp/cgi-bin/kawasakiworld/topics/index.cgi?mode=detail&select=1458635683

 

       

 

これの起案者の福井昇くんに頼まれて、当時会長だった田崎さんに頼みに行ったのは私なのである。

彼が一緒に神戸市の副市長のところまで一緒に行ってくれてその開催が決まったのだが、第1回は副市長に頼まれて、神戸フルーツフラワーパークでの開催となり、NHKが報道したこともあり大盛況で、その実績から、メリケンパークでも開催することになったのである。

 

そんなことで、田崎さんとのお付き合いは、『源平芸能合戦』に始まり『ミニ鉄道フェスタ』まで、いろいろとあるのだが、二輪関連だけでなく、ジェットスキーのレース活動のJJSBAを立ち上げるにあたっては、当時KMCの社長をしていた田崎さんにアメリカのIJSBA に繋いでもらったりしたのである。   1961年。

 

 

日本でのジェットスキーのレース活動はそこからがスタートである。

ソウル五輪の開会式の当日 韓国のオリンピック委員会の依頼で、ハンガンでジェットスキーのデモンストレーションを世界のジェットスキーのトッププレイヤーを集めて実施した時も、いろいろ援けてくれたのである。 1988年。

 

 

 

 川崎重工業の社長を務めた田崎雅元さんなのだが、彼の中にある「遊び心」の原点は、こんなカワサキの創世期のレース仲間たちとのお付き合いから身に沁み込んでいるのだと思う。

二輪車も、ジェットスキーも『遊び』の道具なのである。

その事業展開に『遊び心』がなかったら、その経営は本物ではない。と私は思っている。

それは業界の大先輩、本田宗一郎さんのおやりになったことを見ながら、学んだ私の信念みたいなものである。

 

   

 

彼の社長時代には川崎重工業を、『川崎柔工業』に体質改善することを本当に目指したのである。川崎重工業と言う企業の中に、大庭浩さん以降『カワサキの二輪の体質』が幾らかでも沁み込んで行ったのは確かなのである。

 この写真、真ん中が兵庫メグロに西海社長、その両脇が川崎重工業の副社長をされた、山田さんと高橋さん、私の隣が田崎さんなのでである。

 

 

●カワサキの二輪事業と私―その1 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/5b28a7202c92e084c7df5f0632c1061c

●カワサキの二輪事業と私―その2http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/87a9e3fa841d6ad56654a7c1db9ec39b

●カワサキの二輪事業と私-その3   http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/db0f69c48e73631f572bf4e6dee220be

●カワサキの二輪事業と私-その4 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/7056cbe3357e995cff4b2a38fd7ab149

●カワサキの二輪事業と私-その5 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/4f03e9a2766e5131ec9c8c0143dacf66

●カワサキの二輪事業と私ーその6  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/bec3beebe6dc31dee51d81777ffda5af             

●カワサキの二輪事業と私ーその7  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/c67c41b1762e6fc0d6d6d121d7153321  

●カワサキの二論事業と私―その8 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/397e5a954f37f1d9189f62e1e4751da4           

●カワサキの二輪事業と私ーその9   http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/b9fbe1b5be12e51a7a9e33b1133f4826                                  

      

            

 

 

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体力年齢 雑感

2016-08-11 06:29:56 | 日常生活、園芸、バラ

★若い頃は運動をしていたので、体を動かすことは嫌いではない

現役時代と言うか50代、60代はゴルフなどはやってはいたが、今思うと体力的には一番衰えていたのではないかと思っている。

毎日が机にばかり座っていて歩くこともゴルフぐらいで、肩は凝るし膝や腰がしょっちゅう痛んで、マッサージ整形外科に通うことが多かったのである。

その頃は、年相応の『体力年齢』だったのだと思う。『体力年齢』という評価があるのが分かったのは6年程前だが、三木市の健康測定に行くとそんなのがあって器械が測定してくれる。

 

会社勤めがなくなった60代後半に、通っていた整形外科の先生に『通っていたら治りますか?』と聞いたら『電気治療などやってても基本的には治りませんね』『時間が出来たんだから、筋肉は何歳になってもつくし、ストレッチなどやるほうが効果があるでしょう』と言われて、私のストレッチは始まったのである

性格的に、『あまりムツカシクないことを続ける』ことには結構自信があって、毎朝40分以上やるストレッチがもう10数年以上続いている。

そんなに柔らかくはなかった身体だが、いまは相撲取りのように『また割』が出来るし、それは3年前の80歳のころよりは今のほうが柔らかくなってる のはその程度を見れば解るのである。

3年前に測定した体力年齢が『44.4歳』と出るのは、柔軟性が20歳と出るので平均値を引き下げてくれるのである。

いまは3年前よりは、もっと柔らかいから、44.4歳の体力年齢は保てていると思うし、最近は『筋力をつける』ように頑張っているので、『瞬発力』あたりが向上しているかも知れない。


最近は毎朝50メートルダッシュを公園でやっている。

先週末から鎌倉から孫が夏休みで遊びに来てるので、どれくらい走れているか、動画を撮って貰ったのがコレである。

 

   

 

 

 

  

 

    間違いなく『筋力』はついて、バタバタせずに走れるのである

 

 

 

  これは孫だが、やはり20代の走りは違うなと思った。

  私も今の体重80キロを75キロぐらいにまで落とせばもう少し、走れるかなと思っている。

 

 

★ 私の『生き方の基本』が『差別化』なので、 どうも一般の発想の『散歩』は、時間がかかる割に筋力はつかないように思うし、太っているので『体重を落とせ』と先生は仰るのだが、『体重を落とせばどんな効果』があるのかがもう一つよく理解できないのである。

体重の数値を見て、ただ『落とせ』と言われているようにしか思えないのである。

体重をもう少し落とせば、より走れますよ』とか 『瞬発力が付きますよ』などと言われるのなら、そんな気にもなるのだが、いま思っているのは『年を取って、痩せてるのは如何にも貧祖』に見えて『大福神』のほうが見た目もいいように思ってしまうのである。

 

  

 

 私のいまの目標は『綺麗に早く歩けること』 背筋をちゃんと伸ばし、大股で歩く。

 腹は出てても、腹筋がないと背筋は伸びないのである。

 『痩せて、前かがみで、トボトボと』だけは嫌だと思っている。

 

 

★ 別に長生きをしたいわけではなくて、生きてる間は元気に居たいだけである。

世の中の、少々衰えたと思われる方も、ストレッチはお勧めである。

朝起きて、布団の上で40分ほどおやりになればいい。別にジムなどに通わなくても、手軽に出来るほうがいい。

1日に1ミリ延ばせば、1年では30㎝以上になるのである。

 

そんなに、ムツカシイことではないので、60代の方には、是非お勧めである。

敢えて60代の方と言ってるのは、勤めのある方はなかなかやる時間がないと思うからである。

 

★NPO  The Good Times のホ―ムページです

★三木 緑が丘 サンロードを愛する人のカイ!のホームページです

★燦々Sun Sun です。

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