雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキの二輪事業と私  そのー7 高橋鐵郎さんを偲ぶ会 に集まった人たち

2016-07-24 09:21:31 | 自分史

★7月21日に 高橋鐵郎さんを偲ぶ会 と言う名目でこんなメンバーが 灘の酒心館に集まった。

 

 

   カワサキの単車の激動期支えたメンバーと言っていい。

  前列真ん中が、この会の主宰者桑畑禎文さん、左が北村敏さん、右が阿二眞三郎さん、

  後列は左から、井川清次さん、野田浩志さん、私、大前太さん、一番右は川崎芳夫さん。

  

このメンバーたち、カワサキの二輪事業の中で初期のころから、或は入社してから退職するまで、ずっと二輪事業部の中にいて、激動期のカワサキの二輪事業を文字通り支えたメンバーなのである。

そんなお一人、お一人を私なりの目でご紹介してみたい。

井川清次さんと阿ニ眞三郎さんが、昭和38年(1963)入社で一番若いので、お若い順番からご紹介してみたい。

 

井川清次

昭和38年は既に二輪事業は始まっていた。 青野ヶ原のモトクロスがあった年で未だ発動機と単車とが一緒にやってた時期だと思う。

私は既に単車営業にいたのだが、井川清次、鍋島英雄 というイキのいい新人が企画配属で入社したのをよく覚えている。だから井川くんは、この8人の中で、ただ一人、単車以外は知らないというか、ほかの部門は最後にちょっと発動機の子会社を引き受けただけの生粋の単車マンである。

二輪事業が本格的に動き出すのは、日能の調査で『二輪事業やるべし』との結論が出て、昭和39年1月に単車事業部が発足し、広告宣伝課が出来て当時の川崎航空機本社が開発費として1億2000万円の予算を3年間に亘って付けてくれて、私が会社始まって以来初めての広告宣伝課を担当したのだが、この膨大な予算の管理は企画部門で、その直接の担当が井川君だったのである。

この広告宣伝費の使い方が大変で、1億2000万円もの予算は大きすぎてなかなか使えないのである。テレビとか新聞広告でもやれば、それは簡単に使えるのだが、当時のカワサキは『実用車のカワサキ』で125B8 や125B1の売りは登坂力があるなど田舎に強くて、売れるところも九州や東北、新潟などの地方が主力で、東京、名古屋、大阪などの大都会ではさっぱりなのである。
そんなことで大都会が中心の新聞やテレビは使えないので、田舎向きの販売促進費や、ジェットエンジン部門から下取りのヘリコプターを買ってきて、ヘリを持って地方のドサ回りなどもやっていたのだが、それも大した額ではないのである。

当時のヘリは、1000万円ぐらいなのだが、償却年数は4年だから下取りのヘリなど100万円ぐらいの簿価なのである。それを飛ばす費用だけだから、非常に派手なのだが、金は掛からないのである。

だから、細かい伝票の数ばかりが増えて、そんな大量の伝票をすべて井川君に回していたのである。そういう意味では当時非常にお世話になった井川君だが、確か2年目ぐらいで、彼は山梨の代理店山梨カワサキに出向したのである。

多分、川崎航空機籍の中で一番先に現地出向の第1号かも知れない。彼が山梨に行くときには、お世話になったので大量の助成物など広告宣伝課から贈呈したのを覚えている。

山梨から戻ってからは、確かブラジル市場の調査をやったり、そのあとドイツの販社の社長もやったりして、彼がドイツにいるときは、川重の山田副社長のお供をして一緒にドイツに行ったのを覚えている。

山田さんもそうだが、井川君も酒飲みでどんどん飲むと最後は解らなくなってしまうのである。空港にはちゃんと迎えて貰ったが、夜は私が彼の家まで送ったのだが、そんなこと覚えているのだろうか?

ドイツから帰ってから、国内の東京の販社の責任者をやったので、ご存じの方もいっぱいおられるだろう。まあ、兎に角オモシロい性格で、井川のことを悪く言う人は聞いたことがないが、武勇伝はいっぱいあるのだろう。

個人的には山登りは好きで、確か日本名山100山はみんな制覇しているはずである。久しぶりだったが、あちこちがどうこうと言っていたが、ちゃんと帰りには福寿の生酒の量り売りを買っていた。

カワサキの井川君ご存じのみなさん、ナイスガイ井川くん、結構元気です。

 

阿ニ眞三郎

阿二さんが、昭和38年入社だとは知らなかった。 二輪事業部でも知らない方も多いと思うが、彼は川航ではなくて川重入社でずっと労務畑を歩いて、単車が大変だった昭和58年(1983)に労務から本社企画に異動して、二輪とのお付き合いが始まったのである。

大庭本部長、高橋副本部長の時代で、私は企画、大前太さんが生産企画のころで、阿二さんが本社の予算を握っていたころだから、私と大前さんが阿二さんとは一番お付き合いがあったのだと思う。

大体、本社のスタッフはマジメすぎて頭はイイがオモシロくないのが相場なのだが、この時期の本社スタッフは、阿二さんはじめユニークな実力者が揃っていて、みんな単車を応援してくれたのである。

そんな中でも阿二さんは特別で当時の二輪事業部のいろんな会議に顔を出したり兎に角、明石の中を歩き回っていたのである。とても、本社育ちのエリートとは思えなかったのである。

当時の大庭本部長の覚えもめでたくて、独りで単車に乗りこんで来られた大庭さんの番頭役を私がやっていたのだが、大庭さんがいろんな判断をされる時に、阿二さんの意見を頼りにされていた節があるのである。

そんな阿二さんと私は非常に気が合っていろんなことで手伝って貰ったのだが、いまも二輪のユーザーに親しまれている大分県のサーキット SPA直入は、私と岩崎茂樹と阿二眞三郎とで造った と言ってもいいのである。

 

  

 

カワサキがサーキットをつくるなど、勿論初めてのことだし、スタートは岡山や四国の小さなサーキットの現地調査からスタートしたのだが、その調査のの段階から阿二さんは付き合ってくれて、岩崎茂樹との3人で田舎道を車で走り回ったのである。

大体サーキットなど川重の誰一人経験のないプロジェクトだったので、関係する本社各部門のスタッフたちへの説明を、事業部サイドだけのメンバーで行うのはなかなか難しかったのだが、本社スタッフそのモノの阿二さんが説明側に回ってくれたので、大きな説得力になったのである。

当時の社長が単車事業本部長を経験された大庭浩さんであったことも、その大庭さんに信頼厚い二人(阿二さんと私)が担当しているプロジェクトということも 、よかったのだと思っている。

こういう財産物件の担当である本社財産課も、非常に積極的に動いてくれて、SPA直入は計画して2年と言う最短の期日で実現したのである。

 

普通なら、高橋鐵郎さんを偲ぶ会 というこんな単車のメンバーの中に、本社のメンバーが加わるなどあり得ないのだが、阿二さんをこの会に誘ったのは当時本社から膨大な予算を都合して貰った大前太さんなのである。

Ninja ファンのために言っておくと、当初の Ninja900は、全く新しいエンジンであったので、その生産設備予算額が膨大でそれを通すのは大変だったのである。若し、本社の予算担当が阿二さんでなかったら、一度にあんなに大きな予算が下りたかどうか・・・

同じ新車でも、共通部品の多い従来のエンジンベースからの改良機種と 全く新しいエンジンとは全く別で、Ninja 900などの場合は、新しい機械設備が必要なのである。

当時の厳しかった二輪事業がスムースに復活したのは、確かに Ninja 900などもよく売れて、事業経営に貢献したことは間違いないのだが、それ以上に阿二さんはじめ、本社スタッフの応援による『資金投入』がなければ、カワサキの二輪事業は立ち直っていないのである。

 

  

 

野田浩志

野田浩志さんは、昭和36年川崎航空機入社である。入社して発動機の小型エンジンの営業を担当していた。当時は発動機事業部の中に単車と小型エンジンがあったので、私の所属した単車営業の隣にいたので、その頃からよく知っている。

野田さんが発動機から単車に移ってきたのは、多分カワサキ自販からカワサキオートバイ販売に社名変更しカワ販に販売促進部などが出来た時期からだと思う。

川崎航空機の事務屋の主力が本社からも明石の各部門から大挙異動し、カワサキオートバイ販売に出向したのである。

その象徴みたいな人が、販売促進部長に本社の人事課長から異動した矢野昭典さんで、本社人事課長だったこともあって、事務屋のこれと言う人たちを殆ど集めてしまったのである。

販売促進部の中に販売促進課広告宣伝課があって販売促進課は八木健さんが、広告宣伝課はが、いずれも川崎航空機では係長にもなっていないのに、いきなり課長抜擢などというドラスチックな対応をしたのである。ただ、課長ということで対外的には恰好はいいのだが、別に給料が上がるわけでもなく、『残業料』も入らなくなって、返って給料は少なくなったような気もするのである。

その販売促進課の中心に野田浩志はいたのだが、この販売促進課には本社から岩崎茂樹、前田祐作、明石からは鍋島英雄なども加わって事務屋のトップクラスが顔を揃えていたのである

野田さんは、ここをスタートに、井川さんに続いて長野県の営業所と言う第1線を経験しその後カワ販の本社に戻り、カワサキ特約店構想を起案したのは野田さんなのである。カワサキの特約店制度は、野田さんが起案し、現実に最初に手掛け実現させたのは大阪・名古屋などを担当していたなのである。

そのあとアメリカのKMCに出向し、アメリカでも現地第1線も経験し、そのあと何回も明石とアメリカを異動し、KMCの社長も、その後川崎重工業のニューヨークの社長も経験しているアメリカ通なのである。

いろんなことをやってるが、結構私との接点も多く、私の思っているノンちゃんのイメージは、社長と言うよりは、優秀な企画マンなのである。

 

 

大前太  

大前太さん、なぜこんな豪傑たちばかりが集まったのかと思うのが昭和35年入社の連中である。川崎航空機が二輪事業に進出するためにこんなに沢山採ったのだろうか、百合草三佐雄、種子島経、武本一郎、大前太・・・名前を上げるときりがないほど沢山いるのである。

この人たちは、種さんのように教育部門から何年か後に単車に異動してきた人もいるが、入社以来単車担当と云う人たちも多いのである。

そんな中で大前太は、生産技術管理などの専門家として、若い頃から結構名前を売っていたのである。特に私など直接の接点はなかったのだが、名前はよく知っていたのである。

 

 

 

 これは、1982年、二輪事業の存続が危ぶまれた時期に、私が企画に呼び戻されることになるのだが、その時の引き受ける条件のひとつとして、『大前太を企画部門の生産企画担当』で呼び込むことを条件にお引き受けしたのである。それまでに一度、企画部門を1年ほどを経験したのだが、技術オンチの私は技術屋さんの訳の分からぬ予算要求などの対応が大変だったのである。

今回の大役を引き受けて、主として海外販社経営の改善を行うためには、明石工場の案件を処理してくれる協働者がどうしても必要だったので、その時すぐ頭に浮かんだのが『大前太』だったのである。

これからの数年間で事業部は立ち直るのだが、大前太さんの会社勤めの中でも、一番性根を入れて務めてたのは生産企画部長時代だったのでは思う。

そして事業部の再建の目途が立ち始めた時点で、大前さんを国内の東京地区担当責任者に送り出した人事は、私なのである。生産サイドから企画に引っ張り営業部門を経験したら、将来より大きな職位の可能性があると思ったからである。

二輪事業は、川崎重工業の他の部門の『受注事業』とは全く違って、開発・生産・企画・営業・現地販売までの幅広い分野の事業展開なのである。

高橋鐵郎さんもそうだったが、短い期間ではあったが販売部門の経験があとで大いに生きたのである。その後大前さんは営業から企画に戻り、単車の事業本部長、川崎重工業の常務まで勤め上げたのである。

 

 

 

北村 敏

北村敏さんは、昭和34年入社、私の2年あと、最初は明石事務所の勤労からのスタートである。

何となく私ともご縁があって、私が広告宣伝課長から昭和42年に仙台事務所長に異動した後の広告宣伝課を引き受けてくれたのが北村敏さんなのである

その後、カワ販本社の企画部門から、川重の部品課に戻ったと思う。普通部品課などはあまりエリートは行かない部門のように思われがちだが、カワサキの二輪事業の部品課は、1960年代の後半に川重の自動出入装置を取り入れた先進的な自動的に部品の入庫取りだしのできる大倉庫田崎雅元さんが創り上げて、それまでの部品課から一転 華の部品課となっていた。その初代責任者桑畑禎文さん、2代目が田崎雅元さん、そして3代目が北村敏さんなのである。

そして上の表にあるように、昭和57年10月の人事では高橋企画室長、古谷企画部長、北村管理部長、そして大前太さんが生産企画担当で名前を連ねてくれて、カワサキの二輪事業の危機脱出の中枢メンバーだったのである。

上記の表に種子島経、カワ販とあるがドイツから戻って、カワ販に異動している。そしてドイツの後任に井川さんが異動しているのである。

北村さんは、その後は営業部門の責任者を長く務め、退職後高橋鐵郎さんが川重の理事以上のOB会相信会の会長当時はずっとその事務局長として支えたのである。

 

川崎芳夫

川崎さんは、昭和31年入社、私の1年前である。

川崎重工業の川崎は、東京の隣の川崎市からなどではなくて、鹿児島の『川崎正蔵さんがその創始者』なのだが、川崎芳夫さんはその曾孫 なのである。

殆ど表面には立つことなく静かなのだが、果たされた実績はなかなかなのである。

まず、昭和37年、38年の鈴鹿サーキットへのレース見学、翌年の青野ヶ原モトクロスの裏方に徹して二つを纏めて実現まで持って行ったのは、間違いなく川崎さんなのである。

商品企画でもあまり表面に名前はでないのだが、生産管理から技術部に移られてから商品企画部門をきっちりとした職制として纏めらえたのは川崎さんなのである。

東南アジアの視察調査団のメンバーのお一人でもあるし、その結果『市場開発プロジェクト室』が出来て私がそちらに移って出来てしまった企画室の穴を埋めて頂いたのが川崎さんである。

カワサキの場合、派手な目立つオモシロい人も多いのだが、川崎さんのように静かでじっくりと、ちゃんとした仕事をされる人望家もいるのである。

 

桑畑禎文

桑畑さんの入社は何年なのかよく解らないのだが、昭和30年以前であることは間違いない。そして多分大学院卒なのである。

この辺りの年次の方は、戦後の学制改革などで旧制、新制の高等学校などがあって、ややこしくて年次がよく解らないのである。

川崎の二輪関連でも、濱脇洋二、大槻幸雄、安藤佶郎、高橋宏、桑畑禎文さんなどこの辺りの年次の人は、みんなよく解らないのである。

それはともかく、桑畑さんはジェットエンジン部門から単車に来られて、創世期のカワサキの生産管理や、アメリカKMC, リンカーン工場、明石の部品倉庫などいろんなところにみんな絡まれているのである。

KMCと明石との関係がなかなか難しかった時代には、確かリンカー工場におられたりした。

私が営業部から国内に異動する直前にアメリカから戻られて高橋鐵郎事業部長とのコンビで営業部門や企画部門を纏められたのだが、その数年は半年ごとに職制変更があったりして、落ち着かない大変な時期だったのである。

私は仕事の上では、直接関係のあった時期は短いのだが、その後品証関係を担当され高橋本部長時代には技術本部を担当されたりしたのである。

冒頭の写真にあるこの酒心館での会合では、桑畑さんが間違いなく主宰者であり、幹事の役割を果たされていてすっかりお世話になっているのである。

 

高橋鐵郎さんを偲ぶ会  と言うことで集まったメンバーのご紹介をしたが、

今と違って二輪事業が川崎にとって全く新しい事業であったことから、みなさん、ホントに若い頃から事業の推進者のような役割を与えられたのである。

特に、桑畑さんなど何かずっと旗を振られていて、そんな桑畑さんからはこんな会の幹事などおやりになるイメージがどうしても湧かないのだが、現実は非常に丁寧な心配りの桑畑さんを見せて頂いているのである。

 

●カワサキの二輪事業と私―その1 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/5b28a7202c92e084c7df5f0632c1061c

●カワサキの二輪事業と私―その2http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/87a9e3fa841d6ad56654a7c1db9ec39b

●カワサキの二輪事業と私-その3   http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/db0f69c48e73631f572bf4e6dee220be

●カワサキの二輪事業と私-その4 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/7056cbe3357e995cff4b2a38fd7ab149

●カワサキの二輪事業と私-その5 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/4f03e9a2766e5131ec9c8c0143dacf66

●カワサキの二輪事業と私ーその6 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/bec3beebe6dc31dee51d81777ffda5af             

           

            

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庭の草を抜いてたら、羽化して地面に落ちたのか蝉が現れた。庭石から転落したが、自力で登ってきたら、また落ちた。もう一度登って、今度はすぐ飛び立った。

2016-07-24 06:58:19 | 日常生活、園芸、バラ

 

 

   

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小池百合子さん、 、築地の豊洲移転問題を避けてる と書かれていたが、現場視察に行ったらしい。 まず現場を見る、これはいい。奥多摩にも足を延ばしたとか・・

2016-07-22 14:23:17 | 発想$感想

★『築地の豊洲移転問題』 いろいろ意見があるらしい。正直、自分の意見を持っているわけではない。 

昨日初めてネットの上でいろいろ見て調べただけの話である。

 

最初はこんなニュースが流れていた。

  

 ムツカシイ問題だから、『避けたのかな』と正直思ったいたら、一転、現場視察を行ったようである。

そのあたりの身軽さは流石である。

 

  

 

 

  どうも、現場は移転に賛成なのか、反対なのか?

 もろ手を挙げての賛成ではなさそうである。

 

      

  移転の理由はこのようなことのようだが・・・

  反対の理由をこのように云ってるものもある。

 

   逆に、

    世界的観光地「築地」の豊洲移転を否定する3つの理由  とも言う。

  

 

  歴史的には、こんなことのようである。

 

    

 

 

 

★こんなムツカシイ問題を、総合的に判断して、結論を出すことを現場の知事さんは求められるのである。

 そういうときに、一番大事なのは『現場を知る』ことである。

 小池さんは、曲りなりにも、現場に行った。

そして「築地ブランド。江戸の胃袋のイメージを守ってきた地は、単に遺跡として残すわけにはいかない。豊洲移転、跡地の問題は都民のための都政ではなくなっている最たる例。しっかりと正面から取り上げて参りたい。結論を出して良かった、一歩立ち止まって良かったね、という結論を出したい」と誓った。

 関戸会長は「立候補者の方で、いらっしゃったのは小池さんが初めて。11月の移転はとてつもない作業。我々は本当は行きたくない。今日のお話を伺ったら、何とかなりそうかな、という気がする。都議会の面を考えても、小池さんがいいと思う」と期待した。

 と記事は、書かれているので、そのまま賛成ということでは、なさそうである。

 地元は、「本当は行きたくない」と言っているのである。

 

増田さんは、『移転賛成』の立場だろうから、現場には行きにくいのだろう。

鳥越さんのために出馬を断念した 宇都宮健児さんは確か、『移転反対』が公約だったと思うが、鳥越さんはどうなのだう。

 

 

   

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小池百合子 どんどんやるね! 今度は『応援歌』が出来た。 都政もこの調子でやれば『大東京改革も実現』する。なんだか独走状態になってきた。最後まで走り切れ!

2016-07-22 12:23:59 | 発想$感想

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カワサキの二輪事業と私  そのー6   ハレーのダンピング訴訟と国内構造対策

2016-07-22 10:00:29 | 自分史

 

★ 昭和53年(1978)になって、アメリカ市場でハーレーが、日本各社に対して、ダンピング訴訟を起こしたのである。日本4社がアメリカ市場を席巻しハーレー社の経営危機が言われていた時代である。

アメリカ市場中心で事業展開をしてきたカワサキは、アメリカ市場を担当するKMCの経営状態が即日本の事業本部の経営に大きな影響を与えたそんな時代、それまで堅調に発展を続けたKMCだったが、Zの時代も終わってオイルショックなどの影響も受けその経営が揺らぎだしたのである。

それに追い打ちをかけたのが『ハ-レーのダンピング訴訟』でこれに対応できなければ、カワサキの二輪事業の存立が危ないような状況に追い込まれたのである。

この『ダンピング対策』を担当したのが田崎雅元さん(後川重社長)で、当時の発動機事業本部は昭和53年春以来、企画室を中心にその対策案をいろいろ検討し、当時の川崎重工本社の財務部門もいろいろ協力したのだが、なかなかその成案を見なかったのである。

当時私は既に企画室を離れ、開発途上国のCKD事業を担当していたので、この問題には直接関与をしていなかったのである。

 

ダンピング』と言うのは、端的に云うと『安売り』だが、日本4メーカーが国内価格に比べて、アメリカ市場に『低価格』を設定することなど考えられないのだが、アメリカ独特のアメリカでの『流通経費率』以上は認めないという1点が、国内の多段階の流通経路による経費率の高さが『引っかかる要素』になってしまうのである。

特に当時のカワサキオートバイ販売は田中誠社長時代で苧野専務、加茂、清水屋常務など本社部門は川重の役員のような人たちで構成されていたし、川崎だけが他社3社に比べて1段階流通機構として多かったのである。

対策と言うのは、国内の流通経路対策だから、当時のカワサキオートバイ販売の構造対策なのだが、こんな大きな本社の人事対策も含めて、非常にややこしい対策が求められていたのは事実である。

本社財務や企画室のエリートたちが、いろいろ案を出すのだが、それがなかなか現状とマッチせずに半年が過ぎても成案を見るに至らず、9月になってしまったのである。

 

 

 

 これは、発動機事業本部から9月に常務会に上程した案に対して、当時の川重本社の児玉財務部長が自ら『見解』を書かれた『児玉メモ』である。 いま、こんな書類を持っているのは、多分間違いなく私だけである。殆どの方はその存在すらご存じないと思う。

この『児玉メモ』にも、発本が提出した『営研』と言う本田技研の技術研究所に対抗するような組織の問題が取り上げられていた。技術問題なら兎も角、日常問題が山積する販売会社には馴染まないのだが、そんな構造にでもしないと、経費率そのものが下がらないのだと思う。そのあたりの矛盾がどうもすっきりしないのである。

当時のカワ販は不良債権も現実に持っていて、それを営研などに持って行っても、解決などしないだろうと財務屋さんらしき指摘もあって、確かにその通りなのである。

そして、この問題がまたしても宙に浮いてしまった9月の後半、突然当時の発動機事業本部長の塚本碩春本部長に直接呼ばれて『カワ販問題』を担当するように指示されたのである。

 

★その問題対策に取り掛かるにあたって、一番最初に私がチェックしたのが、この『児玉メモ』なのである。

大企業の本社部門と言うのは、一種独特で、本社に上がってくるいろんな案件は形の上では社長や常務会、取締役会で承認されることになってはいるのだが、現実はここのスタッフたちが納得しなければ、いろんな案件は通ったりはしないのである。

そんなことなので、本社の頭脳のような『児玉部長』がどんなことを考えているのか?をまずチェックしたのである。

 

こんな対策案など仕組みの創造は私の専門分野で、すぐ具体的な大枠は私自身アタマに浮ぶのだが、その案が財務規約法律との整合性などについては、そのあたりの知識に詳しい専門家の分野なのである。私はめっきりその辺が弱いのでいつも自分の弱い部分を補ってくれるメンバーと協働することにしているのである。

このメモは5ページに亘っているのだが、確かにご指摘の通りのこともあるのだが、『現実には合わない』おかしなところも散見されて、そのあたりを考えながらの『私案を』10月から私独特のスタッフ、前田祐作くんなど財務に強いメンバーを集めて、私が創る『仕組みの財務的な整合性』をチェックしながら、1ヶ月ほどで仕上げて、当時は単車から本社の財務本部長に戻られていた堀川運平さんに説明に上がったのである。

堀川さんは、私の説明をさらーっとお聞きになって『古谷くんが1ヶ月も掛かって考えたのなら、その案に乗りましょう』と言って頂いて、この新カワ販構造計画案は、12月の常務会に上程され、そのまま承認されるのである。

 

   

 

 この概略図が、12月の常務会に提出されて、承認されたのだが、この時のカワ販本社は10数名に縮小し、経費率が上がる部品部門は別会社にして、従来カワ販本社におられた社長以下専務、常務など川重の役員クラスの方をみんな除けてしまったドラスチックなものだったのである。

そして川重営業担当部門との一体運営にしておけば、実際は北日本から九州までの現場担当の方たちが日常の営業活動は大丈夫やれると思ったのである。

当時のカワサキオートバイ販売100億円の売上従業員は400名のそこそこのグループだったが累損は10億円もあって問題グループであったことは事実である。

その最終案にそった新カワ販の小さな本社の組織案を12月末に、高橋鐵郎さんが当時の財務担当の大西副社長のところに持っていったら、『これは実際には誰が旗を振るのか?』と聞かれて『古谷です』と答えられたら『それなら古谷くんを常務に・・』と大西さんが仰って、当時私は46歳の川重の未だ課長だったのだが、総勢400名のカワ販グループを常務と言う肩書で引っ張ることになるのである。

形の上では、社長は塚本事業本部長副社長は単車事業部長の高橋鐵郎さんと、対外的には従来以上の人たちで世間対応をしたのだが、実務は当時課長の私が常務として、川重の営業部門在籍のまま兼務したのである。

  

 

★ 人間、半分は運かな と思っている。

特に成算ががあってこんな形にしたわけでもないのだが、昭和54年(1979)にはあの400FXが世に出たのである。

それまでにもW1 や、Z2などヒット商品も出たのだが、台数的には400㏄のFXとは売れる台数の桁が違ったのである。 放っておいてもどんどん売れて、バックオーダーも続き、バックオーダーが出ると、値引きは要らぬし、販促費も要らないのである。 

何もしなくても、車を特約店の店頭に届けさえすれば、右から左に売れたのである。そんな幸運も重なって、カワ販グループの累積損も、ほぼ2年で綺麗に消去されたのである。

 

この時期は、ホントに私が何をしたではなくて、ひとえに400FX サマ様 なのである。

二輪事業と言うか、量産事業は数が売れたら、その成果はめちゃめちゃ大きいのである

仮に10万円の粗利のある商品は、100台で1000万円、1000台で1億円、1万台も売れたら10億円になるのだが、これが逆になると10万円の値引きなど当たり前なのである。

『頑張ろう』とすると、この罠にはまってしまうのである

 二輪事業とは『いい仕組み』『いいネットワーク』を創って、頑張らずに遊んでいたら一番うまく行くのである。その仕組みの中の大きな要素が商品だから、商品開発が一つの『キー』であることは間違いないのだが、その商品を上手に使ってバックオーダーが切れないようにコントロールすることを、素人は忘れてしまうのである。

 

この時期2年間ほど、私は毎月課長の分際で、財務担当の大西副社長に国内グループの経営状況を直接報告することを義務付けられていたのだが、毎月経営状況は好転して、累損も消えてしまったのには大西さんもビックリされて『君は2年前に計画を出したときに、こうなることは解っていたのか?』などと仰るのだが、そんなことはこの時期は一切なくて、ひとえにFXのお蔭であったのである。

 

 

閑和休題

● この時期、私のような現役の若手が、カワ販グループと言う川崎重工業の関係子会社を担当することなど皆無で前例などないのである。川崎重工業の関係会社社長会と言うのがあって、年に数回、川崎重工業のトップメンバーとの会議とか懇親会があるのだが、大体関係会社の責任者は、川崎重工の元役員さんなどが務められていて、私のような現役はいないのである。

そんな会議に46歳の若さでただ一人出席し、60才以上の大先輩たちと一緒に会食などをしたりしたので、そんな経験は段々と『少々のことには動じない』厚かましさみたいなものも身に付いたのかも知れない。

この会議に出席していたら、ある時大西副社長が、『君はなぜ、ここにいるのか?』と不思議そうに仰るのだが、これは大西さんが私を『常務にしたこと』などすっかりお忘れで、その後は一課長からの月例報告として聞かれていたに違いないのである。カワ販の社長は塚本常務だから、塚本さんは川重の役員として出席されていたので、私が代わりに出席していたのである。

このほかにも、当時私は、かってのカワ販の社長以下重役さんたちは顧問のような形で、社内にはおられたので、毎日昼飯だけはご一緒していたのだが、これを見て当時の田崎雅元さんが、『古谷さんは、ようやるな。俺はそれは出来ないな』と感心してくれていたのである。

今現在は、ちょうどこの時期とちょうど逆で、83歳のおじんのくせして、20代、30代、40代の人たちともトモダチのようなお付き合いが出来ているのである。

 

 

会社の経営危機などいろいろあって、商品の販売好調程度で立ち直るのは、ある意味大したことはないのである。

ヒット商品や、経営努力ではどうしようもない段階になってしまったのが、例えば『シャープ』、 これくらいになるとどうしても『おカネの力』がなければ解決できないのである。

カワサキの二輪事業も、このあとすぐそれに近いレベルの危機に見舞われるのである。

 

 

● カワサキの二輪事業と私 ―その1  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/5b28a7202c92e084c7df5f0632c1061c

● カワサキの二輪事業と私 ―その2    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/87a9e3fa841d6ad56654a7c1db9ec39b

● カワサキの二輪事業と私 -その3    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/db0f69c48e73631f572bf4e6dee220be

● カワサキの二輪事業と私 -その4    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/7056cbe3357e995cff4b2a38fd7ab149

● カワサキの二輪事業と私 -その5     http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/4f03e9a2766e5131ec9c8c0143dacf66

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高橋鐵郎さんを偲ぶ会

2016-07-22 05:51:13 | カワサキワールド

★ 昨日は 高橋鐵郎さんを偲ぶ会 と言う名目で、灘の酒心館 にこんなメンバーが集まったのである.

 

この酒心館は、高橋鐵郎さんがお元気だった生前も、単車のメンバーたちが集まって、高橋さんを囲んで、定期的に昼から飲んでいたそんな場所である。

 

    

   これは昨日集まった8人。

  カワサキの単車の激動期支えたメンバーと言っていい。

  前列真ん中が、この会の主宰者桑畑禎文さん、左が北村敏さん、右が阿二眞三郎さん、

  後列は左から、井川清次さん、野田浩志さん、私、大前太さん、一番右は川崎芳夫さん。

  

  次回の 『カワサキ二輪事業と私』 の中で、それぞれの方のエピソードなど紹介してみたいので、ご期待ください。

 

   灘の酒心館の さかばやし  とは、こんなところだが昼から開いている。

 

   

 

  灘の旨い酒  福寿を飲んで語ろう と言う会は、高橋さんの生前は

 高橋鐵郎さんを中心に、田崎雅元さんや、柏木茂さんなども定期的に集まっていたのである。

高橋さんや、田崎さんが出席できなくなって、私はちょっと中断していたのだが、新しいメンバーが加わってまた続いていたらしい。

 

   

  福寿の生酒、 灘の蔵元でしか飲めない 味である。

 

 そんな 旨い酒を 昼から飲みながら、 いい時間が過ごせたのである。

 そんな飲み会と そのあとの様子を、動画に撮ってきたので、ご覧になると雰囲気がお分かりいただけると思う。

 

  

         https://www.youtube.com/watch?v=ZTJiK_v3WN8

 

  なかなか量り売りはしていないという 福寿の生酒を井川くんが買っていた。

  動画の中から切り取った写真だから、動画を見れば、この美人の ナマの声と講釈も聞けますよ。

 

    

  

 

   

 

  こちらは、ノーベル賞の授賞式の晩餐会 に出された 福寿のお酒

  なぜ、そんなことになったのか?  なぜ福寿が選ばれたのか? などなどについても、別のお嬢さんがその経緯を語っ  てくれている。

 

 

   

 

  こちらは、支配人の湊本さん

  お酒ならぬ ワインの ソムリエの資格をお持ちだとか。 その辺の講釈も聞いてきた。

 

 

  なかなかいい 昼のひととき でした。

  高橋さん、天国からご覧になってたでしょうか?

 

  

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我が家のブラックベリーです。ラズベリーかも知れません。買った時はラズベリーと書かれてました。

2016-07-21 07:43:36 | 発想$感想

        

 

  ずっと『ラズベリーだ』と思っています。園芸店で買った時、ラズベリーと名札が掛かっていました。

 アメリカの娘が、それは『ブラックベリーだ』としつこく言ってきます。

 

 『ブラックベリー』で検索すると、こんな場面が出てきました。

 

  

 

   やはり『ブラックベリー』かも知れません。

 

 

        『ラズベリー』で検索するとこんな写真が現れます。

 

    

 

     赤と黒があるようですが、写真は圧倒的に赤ばかりです。

 

     そんなに美味しくもないのですが、『目にいい』などと言いますので努力して食べています。

     果実酒 にすると綺麗なお酒になるのですが、今年は、ちょっと遅くなり過ぎました。

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問題解決しました

2016-07-21 06:34:01 | ネット、Twitter & Facebook

★私は毎日、結構ネットの世界と付き合っている。

ブログも、ツイッターもやるし、Facebook にもトモダチが多いので、みなさん『ネットに詳しい』と思っておられるようだが、案に相違して、ネットの技術的な問題は全く解っていないのである。

それなのに、Facebook などでは結構動画をアップしたりするのだが、そのためにはカメラで動画の素材を撮らねばならないのである。

だから、毎日結構な数の写真や動画の素材を撮って特に動画はその編集を楽しんだりしているのである。

 

ところが突然、一昨日撮った動画を『メモリーカード』からパソコンに取り込めなくなってしまったのである。

取り込めるのだが、下のようなコメントが現れるのである。

 

 

 

こんな日本語は読めても、意味がさっぱり解らないのである。

 

 

そして、メモリカードをパソコンに差し込むと

ドライブをスキャンしてください』と言う表示が現れるのである。

ドライブ が何のことか解らぬし、スキャンなどと言われても ちんぷんかんぷん なのでGoogle で検索してみたら、

 

 

  

 

  同じように解らぬ人がいるらしく、こんな質問が出てきたのである。

  その答えがコレである。

 

 

   

 ベストアンサーが メモリーが壊れている とあるのでカメラ屋に行って、いろいろ調べて、カードをチェックしてくれたら『大丈夫だ』と言うので、そのまま戻ってきて、動画を撮ってみたら、大丈夫だったのだが、今日動画を撮ったらまたダメなのである。

 

 そう言うことで、今日は『メモリーカード』を買いに行った。

私は、結構沢山写真や動画を撮るので、カードも32GBなのである。

もう2年以上も前に買ったので、どこで買ったのかも忘れていたのだが、いろんな種類があって同じ32GBでも2000円から、高いのは1万円以上もする。

メーカーもいろいろあってどれがいいのかも解らぬので、結局以前と同じものを3400円で買ってきた。

 

 こちらがその帰りに、店の中と近くで試しに撮った動画である。

 

 問題解決して、ホッとしているのである。

 

 

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組織票 雑感

2016-07-20 07:07:15 | 発想$感想

★ 参議院選挙が終わって、東京都知事選挙が始まった。

選挙権はないのだが、日本の首都東京のリーダーを決める選挙だから、それに相応しい人になって欲しい。

自民党の推す 増田寛也

野党の共産党から民進党が推す 鳥越俊太郎

崖から飛び降りた  小池百合子 

の3人の争いだが、選挙の時にいつも言われるのが、『組織票』と『不動票』である。

組織票』は、共産党とか、創価学会とか、労働組合 とか その他団体に属する人たちが投じる票なのだが、この人たちは『ご自身の意見』などあまりお持ちでないのかな? と思ってしまう。

不動票』とは、『無党派層』と言われる人たちで、選挙などには関心のない方もいるが、その時々『自分の意見』で自分がいいと思う人に投じる人たちのことなのだろう。

 

★自分自身のことについて言えば、私は、間違いなく『無党派層』である。

どちらかと言えば、右寄りかも知れぬが、共産党の方ともお付き合いがあるし、まさに自由なのである。

今回の東京都都知事選は、先日来、小池百合子さんを応援している。

 

その一番の理由は、東京都の自民党の都連の対応がどう考えてもおかしいし、東京都の膨大な予算に群がる『利権派集団』のような気がしてならないのである。

4年後には、東京オリンピックがある。この膨大な予算を、自分たちの思いのまま操れるそんな知事を選びたいのだと思う。

舛添さんが『せこいこと』で辞任をしたが、元々舛添さんを推したのは自民党だし、東京都議会なのである。今回の問題は都民の反発が大きすぎて、流石の都議連もかばいきれずに辞任に追いやったのだが、森さんなどは最後まで『舛添さんはよくやってる』とかばっていたのは、むしろ正直だなと思ったりした。

小池百合子さんは、森さんとは全然ダメな関係だと言われている。自民党の都議連も自分たちの思いのままに動いてくれる人を推薦したい気持ちは解るが、ちょっと今回はいろんな対応が露骨過ぎたきらいがある

 

なぜ『組織』で推すのか? 端的に云ってそれはその組織の『利権』のためだろう。

どこの国にも、人間社会、いろいろ組織はあって、当然その利益のために動くのだろうが、日本の場合はそれが見え見えで、ベースに『理念』がないのが特徴かと思う。

そのために末端の大衆がコケにされてしまうのである

 

大衆から集めた税金を、組織利権のために使われて、ある特定の人たちに分配されているという日本社会の構造は、東京都議連だけではなくて、小さな町の補助金でも同じ構造なのである

小池百合子さんは、そのホームページで、明確に『都民を意識』しているのである。

口先では『綺麗ごと』を並べるが、実際は『組織』のために動く、組織票に押された人たちは、どうかな?と思ってしまうのである。

 

  

 

★今や、『ネット社会』 である。

ソフトバンクの孫さんが、ネット関連の将来を見越して3兆を超す投資をしたのが話題になっている。

小池百合子さんを応援する』と選挙権もない兵庫県の私が言っているのだが、ネットの世界では、結構実質的な応援も出来るし、『その反応』も定かに見ることが出来るのである。

私の場合は、専ら ツイッターで応援しているのである。

     https://twitter.com/rfuruya1

 

私自身のフォロワーが50万人以上もいるので、東京にも相当数の人がいるだろう。ツイッターの仕組みには『リツイート』と言うのがあって『いい』と思った呟きは、共感する沢山の人が『リツイート』などしてくれるのである。

  

 

 このツイートは、現在で106人もの方が、『リツート』して拡散しているのである。多分 何票かの効果はあるのではと思ったりする。

私は、増田さんはダメだと思うが、やはり鳥越さんよりは、自民党に近い小池さんを当選させたいので、迷っている自民党支持者は『勝ち馬に乗るべし』は、私のホンネでもあるのである。

       

 

私の都知事候補の寸評だが、共感された方が、このようにツイートされていた。

小池百合子さん、アタマ一つリードだとか。

息切れせずに月末まで頑張ってほしい。 私もネットの世界で応援することに決めています。  

 

 この動画もなかなかオモシロい。 ほんとに沢山の方がご覧になっている。   

拡散されてどんどん増えてるが、今でも127000人の人が見ているのである。

 

 ネット社会は、『組織票』などより、大きな影響力を持っているのではなかろうか?

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4ヶ月に1度の血液検査。すべての項目で正常値、フェアウエイの真ん中を通っている。体重は80キロだが『メタボ』ではない。いつまで続かな?

2016-07-19 20:32:12 | 発想$感想

  血液検査の結果が出ました。

  特に気をつけているのでもないのですが、こんな体質に生んでくれた両親に感謝です。

 

    

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小池百合子さんの街頭演説です。 グリーンがどんどん増えてます。 そのうちに野球の応援席のようにグリーに染まるかも知れません。

2016-07-19 19:15:05 | 発想$感想

 

   

 

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ブログのタイトルがどれくらいの長さまで大丈夫なのか? ご存じですか? 今日までそんなこと考えたこともありませんでした。このこと今日、ブログでは私のお弟子さんの殿界寿子さんに教えて貰いました。

2016-07-19 18:52:08 | 発想$感想

ブログのタイトルは、100文字まではOK のようです。

 これは使えるかも知れません。

 使い方を考えてみたいと思います。

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WBC 野球の話題いっぱい

2016-07-19 06:16:27 | スポーツ

★昨日は野球のニュースいっぱいだった。

 久々に1番に復帰した イチローは、3安打して、3000本まであと6本となたt。

 写真判定でアウトとなったが、審判のジャッジはセーフ、若しそのままなら4安打だったのに・・・・

 

  

 

 

日ハムの大谷は、オールスターで1日目はホームラン競争で優勝したし、2戦目は、ホームランも打ったし、3安打して最優秀選手になった。

指の故障で投げれなかったが、ピッチャーの投球も見たかった。

 

  

 

  そんな大谷だが、来春にある第4回のWBCでは、侍ジャパンでも『二刀流』で行くらしい。

  楽しみである。

 

 

  

 

   

 

 

  そのWBCでは、こんなニュースである。

 イチローをはじめ、大リーグ選手の出場で、最強チーム編成を狙うらしい。

 

日本野球機構(NPB)は17日、日本代表が東京ドームで11月10-13日にメキシコ、オランダ両代表と強化試合を行うと発表した。来春の第4回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)での世界一奪還に向け、小久保裕紀監督は最強メンバーで臨む意思を表明。米大リーグでプレーする日本選手招集のため、8月に渡米し、2度の世界一を経験したマーリンズのイチロー外野手に7年ぶりとなる侍ジャパン入りを直談判する。

ドリームチーム結成へ、小久保監督が海を渡る。記者会見で熱い思いを打ち明けた。

 「本番に向けてメジャーリーガーを招集しようという考えはある。メジャーにいる選手には全員会う」

投手はシーズンの疲れなどを考慮し、WBC本番に間に合えばいいとの方針で11月は国内組が中心となるが、野手は「本番を想定」と最強布陣で臨む。具体名こそ明かさなかったが、指揮官の頭にはマーリンズ・イチローがいる。

 本球界に夢を与えている選手。打者としても侍に入る結果を残している」と侍でも二刀流として起用する青写真を描く。イチローと大谷、さらにヤクルト・山田が初めて“合体”すれば、迫力は格段に増す。

 WBC本番ではヤンキース・田中、レンジャーズ・ダルビッシュ、ドジャース・前田、マリナーズ・岩隈らも候補となる。世界一奪回に夢が広がる11月の強化試合。まずは、イチローの復帰が欠かせない。

 

 

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東京都知事選

2016-07-18 06:22:40 | 発想$感想

★東京都知事選は、未だ始まったばかりである。

投票権はないが、関心はあるので、いろんな情報を集めて追っかけている。

個人的には、小池百合子が勝てばいいなと思っている

 

別に、有力候補者3人を知っているわけでもないし、本当のところ誰がいいのかも解らないのだが、

私が、小池百合子を応援しようとしている訳は、いろいろあるのだが、並べてみるとこんな理由なのである。

 

● まずは、全国オートバイ協同組合連合会  http://www.ajac.gr.jp/ の会長吉田純一さんと近いというのが、一番である。

   

   オートバイ議連でいろいろ二輪がお世話になったから・・・

● 東京都の議員さん、特に今回の自民党の都連のやり方が汚いので、その『利権体質』にメスを入れるという『東京大改革』に1票なのである。

● 何故か、カワサキカラーの Green  がカラーなのもいい。

 

 具体的に応援できないかと、ネットベースでいろいろやっているが、幾らかは反応があるのがオモシロい。

 こちらは、各候補者のツイッターである。

 

  

 まず、増田寛也さん。

 これは『ネット初心者』お話にならない。 『これがネットの力ですね』とは、笑ってしまう。

 フォロワー1713人では、その辺の初心者並、とても実務能力があるとは思えない。

 この程度の情報発信力では、知事になっても『東京の良さ』など情報発信を期待するのは無理である。

 

 

  

 

  鳥越俊太郎はもっと、情報発信するのかと思っていたが、全く期待外れである。

  準備不足で、都政をどうしようかも、発信する中身がないのかも知れない。

  やりたいことが『がんの検査だとか・・』 国際都市、日本の首都東京が泣く。

  街頭演説も出来ないほど、体力がないのか?

  所詮は、テレビの前での『コメンテーター』なのかもしれない。

 

 

  

 

  ツイートの数が、圧倒的である。

  情報発信のツボを押さえている。 昨日だったか『八丈島』に行ったのはビックリした。

  それを追っかけた、島民よりも追っかけたマスコミのほうが多かったとか、なかなか戦略的である。

  組織は、ないはずなのに『人の集まり』はスゴイ。

  そのうちに野球の球場のように、Green 一色になるかも知れない。

 

  この3人を、私自身はツイッターでフォローし、情報発信されると、解るようになっている。

  その結果の私の  ツイッターである。

   https://twitter.com/rfuruya1

 

   圧倒的に小池百合子が多いのは、その発信量が多いのである。

 

   『東京都知事選 予想』で検索して、遊んでいたら、

   こんな予想に、出くわした。

 

   

 

   

  ホントにこんな結果になればいいのだが・・・・

  果たして、どうなるのだろうか?

  こんなニュースも流れて、小池百合子が一歩リードとか・・

 

  都知事選 3候補による混戦、9割が「関心」 電話世論調査

フジテレビ系(FNN) 7月17日(日)18時17分配信

フジテレビが、16日と17日の2日間行った東京都知事選挙に関する電話世論調査によると、鳥越 俊太郎氏、増田寛也氏、小池 百合子氏の3候補による混戦となっている。
調査によると、現時点では、小池氏が1歩リードしていて、民進・共産・社民・生活の党推薦の鳥越氏、自民・公明党と日本のこころ推薦の増田氏が追う展開となっている。
しかし、まだ誰に投票するか、「決めていない」と答えた人が、4割を超えていて、予断を許さない、混戦状況が続いている。
また、自民党の支持層が、小池氏と増田氏に割れる状況になっている。
一方、都知事選に、「大いに関心がある(52.5%)」、「ある程度関心がある(40.9%)」との答えは、9割を超え、関心の高さがうかがえる。

 

 

 

   

 

 

 

月末まで楽しみである。  

 

 

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カワサキの二輪事業と私 そのー5  高橋鐵郎さんと私

2016-07-17 07:29:10 | 自分史

★  前回にこんなことを書いている。

突如『カワサキの二輪事業と私』と言う自分史を書きだしたのは、カワサキの二輪事業の歴史そのものといってもいい高橋鐵郎さんが、この6月に亡くなられて、その記録を正確に残しておくべきだと思ったからなのである。ご縁があって高橋さんとは40年間ずっと一緒に歩いたのである。『カワサキの二輪事業と私』は『高橋鐵郎さんと私』と言う自分史なのでもある。

 

カワサキの歴史は、昭和36年明石工場で単車の一貫生産が始まった時からだとされているが、それまでは明発工業にエンジンを供給していて、それが『メイハツ』として販売されていたのである。その明発とメグロを川崎航空機が吸収して『二輪車事業』に本格的に参入することになったのだが、その最初の時期から、高橋鐵郎さんも私も、高橋さんはジェットエンジンから、私は当時の明石事務所からそれぞれ単車の生産と営業に異動しているのである。

 

昭和36年の夏、鈴鹿サーキットが完成して、11月に日本で初めてのロードレースが開催されたのだが、そのロードレース観戦にバスを仕立てて、当時の高橋鐵郎さんたち製造部の人たちが『ロードレース観戦』を行ったのである。

このレースの250、350の優勝者はいずれもヤマハに乗った三橋実片山義美で、お二人ともその後のカワサキのレースチームに色濃く関係されたのも何かのご縁を感じるのである。

このレースを見て、製造部のメンバーたちは、レースに燃え上がり、翌年6月の『青野ヶ原モトクロス』に当時の市販車125ccB8を改造して出場し、1位から6位までを独占したのだが、あくまでも製造部の有志達での参戦で、正式に会社が認めたものではなかったのである。

 

 

  神戸のカワサキワールドに飾られている写真で、左から二人目が当日レースの現場で指揮を取られた高橋鐵郎さんである。ちなみに、当時の鈴鹿レース観戦や、青野ヶ原のモトクロスなどの旗を振っておられたのが、一番左の中村治道さんである。

 

★この時期カワサキは二輪事業に参入したものの、125ccB7がフレームのクレームで返品が続き、営業に異動した私は毎日返品される単車の物品税の戻入手続きが主たる業務であったような状況で、この事業を続けるべきかどうか、日本能率協会大掛かりな調査をしている最中だったのである。

その日能の判断は、『この事業続けるべし』となったのだが、その判断の中の大きな要素に、『青野ヶ原のレース完勝』に沸く現場の人たちの活気があったのである。

 

 

★若し昭和36年に、鈴鹿サーキットが出来ていなかったら、『カワサキの二輪事業』もなかったのかも知れない。

そして、その翌年の『青野ヶ原モトクロス』で1位から6位独占の快挙がなかったら、『カワサキの二輪事業』は続けていなかったかも知れない。

青野ヶ原の快挙は、カワサキのマシンが速かったのでも、ライダーがよかったのでもない。 当日は雨が降って、レース場は大きな水溜りが出来て、カワサキ以外のマシンはみんな水で止まってしまったのである。そういう意味では『カワサキチームは完全な水対策が出来ていた』と言うのは、その当日はヤマハで出場した山本隆くんの言である。

鈴鹿サーキットへのレース観戦』も『青野ヶ原のモトクロス』もその仕掛け人は兵庫メグロの西海義治社長なのである。 

そんな西海さんのことをちょっと。

 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/776f07bedfe3653cafd5e4ca06bcd6db 

 

 

★昭和37年1月、日能の市場調査の結論も『二輪事業やるべし』の判断が出て、単車事業部が出来て『二輪事業の本格的なスタート』となり、日能が事業の本格的なスタート条件の一つにした『広告宣伝課』が出来て『ファクトリレース運営』も『広告宣伝課』も私が担当することとなり、その広告宣伝費として川崎航空機本社が開発費として1億2000万円を3年間、予算付与してくれたのである。

事業本部の売上高が10億円にも達していない時期で、私の年俸が40万円ぐらいであった時代の1億2000万円は非常に膨大な予算だったのである。

 そんなこともあって、高橋鐵郎さんとも、レース委員会の仲間として繋がったのである。

当時のレース委員会のメンバーは技術部からは、山田熙明、大槻幸雄、安藤佶郎、製造関係からは中村治道、高橋鐵郎、田崎雅元、営業からは苧野豊秋という錚々たるメンバーで、後川崎重工業の社長、副社長をされた方が3人もいるのである。私はその事務局を務めていたのである。

 

高橋鐵郎さんの経歴を私が覚えている範囲で並べてみると、

● 戦前は海軍兵学校の3回生の時に終戦

● 横浜国立大学を卒業後、戦後中断していた川崎航空機ではなく川崎機械の高槻工場に入社

● 昭和27年 川崎航空機再開で明石工場ジェットエンジン部門

● 昭和36年 単車事業部製造部 (この時期レース委員会委員で創世記のレースに関係された)

● 昭和44年 カワサキオートバイ販売の販売促進関係に出向、営業部門を経験、マーケッテング・マインドを

● 昭和46年 川崎重工業 発動機事業本部技術本部長に復帰

● 昭和51年 技術本部長のまま『開発市場プロジェクト室』室長を兼務         (企画課長)

● 昭和52年 営業本部長 CKDだけでなくヨーロッパも担当              (企画課長)

● 昭和53年 発動機事業本部を単車と発動機に分割し、単車事業部長、管理部長を兼務  (管理課長)

● 昭和54年 カワサキオートバイ販売副社長を兼務                  (常務取締役)

● 昭和56年 アメリカKMC会長 KMCが大赤字で二輪事業の危機ということで、田崎雅元社長と共に

● 昭和57年 10月 単車事業本部企画室長で復帰、その後事副本部長         (企画部長)

● 昭和61年 単車事業本部長に昇格、 川崎重工取締役、               (企画室長)

● 昭和63年 カワサキオートバイ販売社長を兼務                   (専務取締役)

                              (         )は、その時点での私自身の役職である。

● 1990年代  

 川崎重工の常務、専務、副社長歴任されたが、二輪関連のほか、建設機械関係にも尽力された。その間ずっとカワサキ・モータース・ジャパンの社長を兼務、

● 2000年代  200年代に入り、川崎重工業の理事以上のOB会である 相信会 の会長を長く務められていたのだが、それも体調を崩されて何年か前に譲られたのである。

 

★ このような経歴で、上記の期間のうち緑色に表示した期間が、高橋鐵郎さんを私が支えた期間なのである。私自身も1997年まで、国内市場の責任者を務めたのだが、サラリーマン最後の2年間は当時高橋さんが傾注されていた建機事業部の再建に関連して、『北海道川重建機』と言う名前は子会社のようだが自前の優良会社の社長を高橋さんの要請を受けてお引き受けして私の会社勤めは終わっている。

このようにその殆どの時期を、文字通りカワサキの二輪事業の中枢を歩かれた高橋鐵郎さんと一緒に歩いたので、『カワサキの二輪事業と私』と言う自分史は、換言すると『高橋鐵郎さんと私』の自分史なのである。

このような 順風満帆 のような会社の経歴をお持ちの高橋鐵郎さんなのだが、会社での仕事の実質的な終わりの時期があったのである。

それは昭和56年(1981)表面上の理由は、アメリカのKMCの危機でこれはカワサキの二輪事業の成否に関わる問題だからという理由で、単車事業部長からKMCの会長に赴任されたのである。

この時期、本当にアメリカは大変だったのである。KMCの赤字は100億円に近く、川重の本社財務が懸命に本格的に取り組んでいた時期だが、対策した年も赤字は止まらず、川重全体が無配となり苦慮していた時代があったのである、

その昭和57年の7月、当時のこの問題の本社責任者であった山田専務に呼び出されて、『私見』を聞かれたのだが、『大丈夫、解決できます』とお答えしたら、『では、お前が企画をやれ』と仰るのである。

私が引き受ける条件として『高橋鐵郎さんを企画室長で戻してください』とお願いしたら、山田さんは即座に『それはダメだ。本社の連中がうんと言わぬ』と仰るのである。この一言で、私は高橋さんのKMC会長人事は、帰る場所のない最後の職位だと解ったのである。

なぜ本社の人たちがそう言うのか? その理由は私にはよく解っている。なかなか会社のなかでの人間関係は難しいのである。

 

然し、そんなことは言っておれないのである。

私自身、どのようにすれば赤字が止まるのか?と言う手立てはよく解っているのだが、それは二輪事業と言う大きな経営の仕組みを変えなければならないのである。 その手立ては解っていても、それを全軍に指揮する人がいなければそれは実現しないのである

絵は描けても、成りたての新任部長ではその旗は降れないし、それは事業部で高橋鐵郎さん以外には見当たらないのである

執拗に山田さんにお願いしたら、その後高橋鐵郎さんの企画室長としての事業本部復帰が決まり、半年後本社から大庭浩さんが再建屋として単車事業本部長に来られて高橋鐵郎副本部長と組まれたコンビは絶妙で、あれだけ大問題であったカワサキの二輪事業の危機は2年ほどで解決し、大庭さんは本社に副社長に昇格して戻られるのである。

 

私のこんな一言を山田さんが無視されていたら、多分このようにな展開にはなっていないと思う。当時の一新任部長の提言に耳を傾けて周囲を説得して頂いた山田副社長のいい判断だったと思っている。

 

このあと高橋さんが単車事業本部長となり発動機部門との併合もあってCP(Consumer Prrduct)事業本部と改称し、カワサキオートバイ販売も、カワサキモータース・ジャパンと改称した1990年前半は、カワサキの二輪事業の最盛期であったかも知れない。

国内市場ではZEPYREが売れ、ジェットスキーも7000台近くが売れて、『国内7万台の目標』を達成し、業界では『一強3弱』と言われたり、ホンダの仲のよかった佐藤英明さんからは『カワサキに10年遅れた』と言わしめた時代なのである。

カワサキモータース・ジャパンと社名改名したころの高橋さんと私である。長いお付き合いではあるが、ツーショットの写真は、これしかない。

 

  

 

カワサキの二輪事業 は間違いなく、高橋鐵郎さんと共に40年間を歩んだと言っていいのである。その40年間、ご縁があって、私はずっと高橋さんを支えるポジションにいたのである。

そんな高橋鐵郎さんも、もうおられないのである。

この7月21日には、関係の深かった有志が集まって、灘の酒蔵で『高橋鐵郎さんを偲ぶ会』を行おうとしているのである。

 

 

● カワサキの二輪事業と私 ―その1  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/5b28a7202c92e084c7df5f0632c1061c

● カワサキの二輪事業と私 ―その2    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/87a9e3fa841d6ad56654a7c1db9ec39b

● カワサキの二輪事業と私 -その3    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/db0f69c48e73631f572bf4e6dee220be

● カワサキの二輪事業と私 -その4 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/7056cbe3357e995cff4b2a38fd7ab149

 

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