雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキの二輪事業と私 その60 昭和64年・平成元年(1989)

2017-06-28 07:44:07 | 自分史

★昭和64年、この年で昭和は終わって新しい年号の平成となった。

私自身も前年10月1日から、カワサキオートバイ販売に3度目の出向となったのである。

昭和32年(1957)に川崎航空機に入り30年ちょっと、昭和36年以来一筋に二輪事業に携わっていたのだが、国内販社には二度の出向があって10数年間を第1線の末端市場と向き合ってのものだったので、マーケットを見る目というか態度は、明石工場育ちの方とはちょっと違った、独特のものが身についていたのである。

川崎航空機と川崎重工には3度の経験があるのだが、入社早々は償却計算のIBM化に明け暮れたし、単車では初めての本格的な広告宣伝やファクトリーレースなど新しい仕事ばかりだったし、東北の代理店営業も仙台に初めて事務所を作ったり、そのあとの大阪ではカワサキで初の特約店制度を立ち上げるなど、殆どが『引き継ぎのない新しい仕事』ばかりで、そんなことで身に付いたノウハウが、出向から戻った時には大いに役に立って国内販社からメーカーに逆出向したようなそんな感じのサラリーマン生活だったのである。

今回の国内カワ販出向は、カワサキの二輪事業も円高対策などいろいろとあって、国内市場の重要性が見直された時期でもあり、当時の事業本部長であり、カワサキオートバイ販売社長を兼務されていた高橋鐵郎さんからは、国内市場で400億円の売り上げと7万台の販売台数目標という途方もない課題を頂いてのものだったのである。

 

       

 

★ 当時の資料がこんなファイルにいっぱい残っている。

 『新しいカワサキの創造』 そして 副題として 『7万台の挑戦』と位置付けている。

 単なる数値目標ではなく、国内グループの『新しいイメージ創造』に取り組まない限り、単に数値目標だけを追っかけたのでは、7万台400億円などと言う大きな数値目標など実現しないと思ったのである。

結果的にはこんな高い目標も実現することになるのだが、これは単に頑張ったからとか、方策がよかったからではなくて、『』も大いにあるのだと思っている。

私自身は3回目の第1線なのだが、その3回とも商品にも運にも恵まれていたのである

 最初の実用車のカワサキ時代は、東北という当時のカワサキの最有力市場を任されたし、大阪に来たころは『中大型のスポーツ車』への転換の時期で、W1やZ2という商品に恵まれて特約店制度も実現したし、2度目の時は、あのFX400が出て、何もしないうちに10億近い累損の消去もできてしまったりしたのである。

そんないい商品に恵まれることが、非常に大きいのだが、3回目のこの時には ZEPHYR  が大きな要素になったのである。

その ZEPHYR  はこの年の5月末から発売されるのだが、当初はそんなに期待などされていなかった車なのである。その年のメインの車はシーズンの始まる3月に合わせて発売されるのが通例で、5月末発売などはそんなに期待などしていない普通の車ということなのである。

 

      

 

こんな  ZEPHYR  がどのようにして生まれたのか? 

実は私もホントのところはよく解っていなかったのだが、ごく最近田崎さんがこんな話をメールで送ってくれたのである。

 

私が帰国後、1987年4月~1989年6月までCP事業本部で仕事をしていた時の事だとおもいます。1989年7月には本社海外営業総括本部副本部長として東京勤務になり、12月にはKHIニューヨークの社長に就任しています。

 さてゼファー400 ですが、帰国後、製品がすべて先鋭化されていて、俺みたいな少し腹の出た熟年ライダーがもう一度乗ってみたいとおもうようなバイクはないのか?などと言っている中に、新聞や雑誌に同じような記事が出るようになった。

そんな時若い技術者が、こんなバイクをやらせて下さい、開発費は600万円で結構です。と申し出てきた。 つまらないバイクだとは思ったが、そんなに安くできるのなら、と背中を押した。ゼファーというネーミングはカワ販の提案であったがたまたま資生堂の男性化粧品のネーミングと重なり、プロ野球の球場の一等席にゼファーの名前が出るようになった。

カワ販の最初のオーダーは500台だったように思う。 急速に売れ始めたが、他社は、あんなものはそのうちに消える、と2年~3年程対抗車をださなかった。モーターショーで、他社の幹部がジーッと見つめてどうしても分からん、と呟いた、と云われている。 大変ラッキーな製品だったように思う。

大変ラッキーな製品』と田崎さんは言っているが、そんな商品を売ることになった私も『大変ラッキー』だったのである。

レーサーレプリカ全盛時で、とてもこんな車があれほど売れるとは、誰も考えなかったのである。

 

★それは兎も角、私自身はこの年は本当に頑張ったのである。

 前年度の10月に就任以来、まず最初にカワサキファクトリOB会を開催し『レースに強いカワサキの復活』をまず誓って、それ以降『新しいカワサキの創造』のための施策を矢継ぎ早に打ち出しているのである。

営業本部時代に手掛けた直入サーキットの建設承認も出て、経営基本方針と新しい価格体系は前年末までに全グループに徹底したのである。

      

 

1月には、新しいユーザー組織KAZEをスタートさせたが、JCBと組んでその対象は単に二輪のユーザーだけでなく広く一般社会の人たちまで広げたのである。そんな内容は、30年近く経った今でも生きていて、バイクにも乗らない84歳の私は今でもKAZE会員なのである。

4月にはKAZEのユーザー管理や、SPA直入の具体的な運営などを目的に、川崎グループで初めての末端一般社会を対象にしたソフト会社『ケイ・スポーツ・システム』を立ち上げて、グループの中に独特のノウハウの蓄積をめざしたのである。

この『ソフト会社』が果たした役割は大きくてこのソフト会社がなかったら、7万台の目標は達成できなかったと思っている。

4月にはSPA直入の建設着工が始まっているし、5月には、ZEPHYR が発売された。ZEPHYRはカワサキの新しいイメージだったので、『新しいイメージのZEPHYR広告』に小林くんなどが取り組んでくれたのである。

これは2年程後、CP事業本部の課長以上の集会で『カワサキの新しいイメージの創造』について話をした時の記録で、小林課長が広報について話したくだりである。

 

 

      

 

 7月には、鈴鹿8耐の前哨戦の4耐・6耐 に優勝しているし、

10月にはKHIの企画当時にスタートしたジェットスキーの国内販売も順調に推移しているのである。

同時に新しい販売網構想 ARK(Authorised & Reliable shop of Kawasaki) を立ち上げている。

     

 

★順調すぎる推移だったこの年だが、個人的に一番嬉しかったのは、前年度10月一番最初に取り組んだ『レースに強いカワサキの再現』がこの年の鈴鹿8耐シリーズで実現したことである。

7月23日の6時間耐久レースでは、北川・鶴田、藤坂・林とワンツーフィニッシュと結果を残した。

7月29日の日記には、『4耐ビート高橋が優勝、2週続けての優勝』と書かれている。高橋としか書いていないが先日ゴルフを一緒に回った 髙橋芳延さんだと思う。

8時間耐久レースには宗和・多田組は転倒棄権となったが、塚本・前田組が4位入賞を果たしているのである。

カワサキのレースの世界での復活は1年目にして、こんな結果に終わっていたのである。

 

★その鈴鹿8耐が7月30日だったのだが、8月2日には大庭社長に指示されて、川崎重工の全役員と関係会社社長会の社長さん70名を前に『カワサキの国内販売活動』について1時間ほどお話をさせて頂いたのだが、準備する日は7月31日1日だけという忙しさだった。

そのテーマは『新しいカワサキのイメージ創造』で主として、KAZEや、ソフト会社ケイ・スポーツ・システム・サーキットSPA直入などなど、川崎重工で育たれた方々にはすべてが『目新しい』ことばかりだったので、非常に話し易かったのである。この話は10日ほど前に、大庭社長から突如指示があったものだが、何か予定していた話が急にダメになってのピンチヒッターだったのである。

大庭さんが単車本部長時代に企画室長として支えたので、大体『大庭さんがどんなことを私に話させたいか』は想定できたので、この手の会議で話される講演とは全く『差別化した』大がかりな大人の紙芝居のような話をさせて頂いたのである。大庭社長が単車の知恵を川重全体の経営にも取り入れようとされていた時期だったのである。

あとのパーティーでもいろんな方に褒めて頂いたし、この年通産省から来られた山田常務には『川重に来て初めて感動した』とまで言って頂いたのである。

この翌日8月2日には、6年前に建てた目標『KMCの累損消去』が実現しての祝賀会が当時の関係者を中心に元副社長の大西・山田さんもお招びして神戸の川崎山荘で開催されたりしたのである。

6年前とは様変わったカワサキの二輪事業の時代で、このあと国内市場も絶頂期を迎えてゆくのである。

順調すぎる国内市場担当の1年目だった。

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

 https://www.facebook.com/1126074024157186/

 

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若い人はスゴイな サニブラウン & 藤井四段

2017-06-27 06:15:19 | 発想$感想

★『若い人は安倍さんの支持率が高い』という不思議な感覚を持っているのだが、スポーツや、将棋の世界でも、ホントに常識を覆す『新しい次元』での活躍なのである。

 

まずは、陸上の100メートル決勝。

世界の中で短距離は日本人はダメだな』と思い込んでいた時期があって、当時は『期待できるのはマラソン』などと思っていたのだが、昨今の短距離界の素晴らしさは、まさに想定外である。

それも一人ではなくて、何人もの逸材が競い合っている。

マスコミも期待を込めて

桐生祥秀、山縣亮太、サニブラウン ハキーム、ケンブリッジ飛鳥、そして多田修平が加わり、日本史上最強の男子100m頂上決戦となっております!』 と報じていた。

 

雨の中、こんなスタートを切って

 

  

 

 こん結果だった。

 

  

 

 たった10秒の勝負だが、迫力満点だった。

 

 勝ったのは サニブラウン ハキーム 

 

   

 

 2位に入ったのは 多田修平

 

  

 

 そして3位は昨年の王者 ケンブリッジ飛鳥

 

  

 

 ホントにスゴイと思う。

 若いことはいい。

 世界陸上でも、東京オリンピックも、大いに期待できる種目に一変した。

 

 

 

 

★もう一人、将棋の藤井4段、こちらはまだ中学生なのに、プロ入り以来負けなしの連勝記録を伸ばしてきて、

 昨日は新記録の29連勝を目指して、増田四段と対戦、日本中の注目を集めた。

 

 朝のスタートの写真である。

 

  

 

 そして見事新記録の29連勝!!

 

  

 

 9時のNHKは約30分、特集のようなニュースを流した。

 そのニュースの様子を、少しだけ動画に・・

 

      https://www.youtube.com/watch?v=Pi7Z3LQh95M

 

 

  若い人の『可能性』は素晴らしい。

 

 

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支持者 フォロワー 雑感

2017-06-26 07:51:03 | 発想$感想

 ★ 今度の日曜日は東京都議選も。兵庫県の知事選も、三木でも市長選挙がある。

選挙には支持者がいて、実際に投票しないとダメである。

 昨日、『そこまで言って委員会』では、歴代総理の評価などをやっていた。そんな番組の中で、竹中平蔵さんが言っていた。

一度だけ国会議員選挙に出たことがあるが、あれはホントに変な気持ち、名前を書いたタスキを掛けて、名前を連呼して「自分は立派だ」と言わねばならない。あんなことは選挙にでも出ない限り経験できない。』と  確かにそうである。

 

★然し、かくいう私も、毎日ネットの世界では、支持者=フォロワーを増やすことに一生懸命なのである。

ブログは毎日500人以上が訪れるのでこれはちゃんと読んでくれている。然し、ツイターのフォロワー59万人もいるのだが、私のツイートを見てくれる人は何人いるのか解らぬのだが、『いいね』とチェックしてくれる人はホントに僅かなのである。

 

     

 昨日の瑞風の記事は150人もの『いいね』の反応があってこれは多いほうである。Facebook なども、トモダチは1000人を超えているのだが、アップした記事に『いいね』と反応してくれる人たちは100人を超えると多いほうである。

なかなか、人に具体的な行動を起こして貰うことは、ことほど左様に『ムツカシイ』ことなのである。

 

★そんなところに、ひょんなことから、4月の初めから『Instagram』を始めたのである。そして、すっかり『ハマって』しまっているのは、フォロワーの増え方も早いし、その反応が具体的に速くて多いからである。

選挙で言うなら、単なる支持者ではなくて、1票を投じてくれているのである。

 

 4月7日にスタートしてるので、まだ3ヶ月にも達していないのだが、昨日の夕方こんな状況になっている。

 

    

 

 フォロワーは、今朝は5500人を超えた。

ルールによって、フォロー数の限界が7500人だから、もうこれ以上フォローを増やすことはできないのである。

4月にスタートして、一度フォロー数は限界の7500人に達したのだが、その時のフォロワー約3500人だったのである。

それを一度フォロワーを20人ぐらいまで落として、それからもう一度増やし始めて、昨日2度目の7500人に達しているのである。

そして、Instagram もツイッターやFacebook と同じように、フォロワーからの『いいね』を頂けるのだが、その反応の速さと数が群を抜いているのである。

 

    

 

    https://www.instagram.com/rfuruya2/?hl=ja

多分明日からは、あちこちの写真に『1000を超すいいね』を頂けると確信しているのである。兎に角、写真の質さえ落とさなければ、1000人を超す人が『いいねをプッシュ』してくれることは間違いないので、これは大変なことなのである。

こんな反応の良さがInstagram の魅力ではある。

 

 

★ 選挙での支持者の投票ではないのだが、昨今『安倍内閣の支持率の減少』が話題だが、

 

  

  

 新聞社によって、こんなに数値が異なるのでは、ちょっと信じがたいのである。

 

   

 

 さらに、年代別に観ると、若い人の支持が圧倒的に高くて、50・60代が低いのである。

 それを取り上げたサンデーも二ングだが、旧いコメンテーターたちがこんなコメントを連発したので、『まさに老害』と一蹴されてしまったのである。

 関口宏「若い人か…安定を望まずに変化を求めろ!」
大宅映子「若い人は自分の利益ばかり!」
姜尚中「若者は想像力が働かない!瞬間風速しかみてない!」
大崎麻子「若い人は広い視野で政治を見ろ!」

若者の安倍内閣支持率が高いことに文句をいう
まさに老害…

 

どなたかが言ってたが、若者はいつの時代にも『体制』には反対する。

昭和の時代』に創り上げらてた発想や仕組みや、マスコミ自体も、官僚組織も、そんな旧体制には反対で、それを打破しようとする安倍さんを支持するのでは・・・

確かに、マスコミも新聞も、そこに登場するコメンテーターも旧すぎるのかなと思う。

 

 

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瑞風の旅

2017-06-25 07:00:59 | 発想$感想

★先日来『瑞風の旅』が話題である。

 贅沢な旅であることは間違いないが、申し込んでも抽選だという人気ぶりである。

 

         

 

      

 

   

 

       

 

 こんな資料が手元にあるということは、『資料請求』だけはしてみたのである。

1泊2日のコースでも一人27万円は、如何にも高い。

こんなのは、資料請求した時点で、大体結果は解っているのである。

独断で、家内にも一切相談せずに申し込んでしまったのである

相談などしたら、『やめとけ』というに決まっているからである。

ただし、一発勝負で、キャンセル待ちなどはせずに、当たらなければ諦める

当たればちょっと贅沢な旅だが、最近は旅行などする機会もないので、行って見るかと思っているのである。

 

★いろいろ考えたのだが、鉄道の旅などよほどのことがない限りする機会も少ない。

子どもの頃は、朝鮮京城にいて小学校3年生のころまでは、毎年夏冬、明石まで汽車と船の結構贅沢な旅をしていて展望車から見る景色を子供なりに楽しんだりしていたのだが、それ以降と言えば北海道に赴任してた最後の帰りを札幌から京都までの汽車の旅をしたぐらいなのである。

山陰も何度か行ったことはあるのだが、車ばかりが多いのである。

私自身は、修学旅行の経験がない。 小学校は戦時中・中学校時代は終戦後で修学旅行など考えられない世の中だったのである。

高校の時は修学旅行はあったのだが、その期間にちょうど山陰を回っての野球部の遠征があってその時京都から益田まで行って、試合をして帰りは山陽道を通って戻ってきたのだが、その時の山陰線の汽車は客車は何輌かで残りは貨物車輌だったのである。

もう一度、現役時代の広告宣伝時代に、『鳥取の砂丘』の撮影に行ったのだが、その時も行きだけが汽車で、帰りは撮影に来ていたヘリに乗せて貰って戻ってきたので片道旅行だったのである。

私にとっては、そんな山陰の汽車の旅なのだが、若し当たったら1日目は城崎温泉を回遊して下関まで2日目は萩のまちを訪ねての京都廻り大阪着だが、ただ、それだけで27万円は如何にも高いが、それだけ取るのだからそれなりの内容はあるのだろうと、勝手に思っているのである。

若し、抽選に当たらなければ、『ご縁がなかった』と諦めることにしているのだが、結果は8月に解るそうである。

旅そのものは、今年の12月なのである。

 

まあ、家内と一緒に旅行するのも年齢から言えば、最後みたいなものだし、結婚50周年の年はたまたまだが、アメリカの娘のところに行っていたし、今年は55周年にもなるので、ちょっとの贅沢はいいのかなとも思っているのである。

ホントにひょんなことで、資料を取ったり申し込んだりしているのだが、『当たらなかったらそのあとどうするのかな』と思っている。

その時は、その時また、考えることにしよう。

  

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小池百合子さんと田崎さんと吉田さん

2017-06-23 10:06:36 | カワサキ単車の昔話

 ★世の中、社会的に地位の高い人を『エライ人』という。

私の周りにも社会的地位の高い人は沢山いて、川崎重工業の社長をした田崎雅元さんなどは、間違いなくその部類に入るのだろう。

 

   

 

  最近、その田崎さんから私のところに毎日のように情報が入る。

 私は過去の記録はふんだんに持っているのだが、実は写真は殆ど持っていない。

 その点、田崎さんは写真はいっぱい持っていて、いろいろと送ってくれるのである。

 この写真も、1986年だから大庭さんが単車の本部長時代、高橋さんは取締役、田崎さんはKMC社長だったが、川重の職位で言えば部長の頃である。その後大庭さんは社長に高橋さんはその副社長で支えたのである。

このお三人、みなさん、普通の人では真似られない『独特のもの』をお持ちだから、いいなと思っているのである。

一般に世間で『偉くなる』と、逆にいろいろと言われるのは仕方がないのだが、それ以上の『独特のもの』をお持ちならそれでいいのでは、と思っている。

 

★田崎さんが何を思ったのか、写真や情報をいろいろと送ってこられるのも一種独特で、完全にずっと昔の『私と田崎さんの関係』に戻ってしまっているのである。

それは兎も角、昨日から東京都議選が始まったが、自民党と対する一方の旗頭『小池百合子さんとのツーショット』の写真を送って来てくれたのである。

 

   

 

2004年、小池さんは環境大臣、田崎さんは社長の頃だろう。 東京兵庫県人会とある。

そういえば小池さん、関西学院大学中退して、アラビヤの大学に留学されたようである。

田崎さんは、こんなコメントをくれている。

小池百合子 東京都知事は、モーターサイクルのサポーターですが、若い時、カイロ留学中に川重の駐在員にお世話になった、と言っていました。』

 川重社長と大臣ならどちらが格上か知らぬが、『どんな人と会ってもも決して動じたりしない』のが田崎さんのいいところで、多分、この時も堂々と接したに違いないのである。そういう面では、日本人離れしていて、アメリカ人みたいなところがある。

ここで、『モーターサイクルのサポーターですが・・』と入っているのは、その当時どうだったかはもう一つ定かではないが、今は間違いなく小池さんは『モーターサイクル・サポーター』なのである。

 

  

 

 Facebook の吉田純一  https://www.facebook.com/junithi.yoshida?fref=ts のところに使われている写真である。

吉田純一さん、カワサキ出身である。 

それも川重ではなくて、カワサキオートバイ販売(現在のKMJ)の昭和42年度(1967)定期採用者である。 

私の周りで偉くなった人は沢山いるが、何と言ってもそのTOP は吉田純一さん、通称今でも『純ちゃん』で通っている吉田純一さんだと、私は思っている。

 

 今は こんな立派な全国組織になっている

     全国オートバイ協同組合連合会

 

     http://www.ajac.gr.jp/outline.php?id=4  だが、 

旧く大阪からスタートし、仲間を募り1県づつ組織を創って、今や全国組織に創り上げた。

 

長年勤めたその全国会長を昨年譲って、『一般社団法人 日本二輪車文化協会』を立ち上げたのである。

日本にまだ育っているとは言えない、『日本独特の二輪文化の創造』は壮大な夢だと思う。

 

   

 

 いろんな方たちが協働するようである。

 

彼の人柄だろうが、オートバイ議連に名を連ねる超党派先生がたと、『オトモダチ』のようなお付き合いだし、

『純ちゃん』が声を掛けると、あの忙しい東京都都知事の小池百合子さんが、やってこられるようである。

これはごく最近の東京都の会合の時のツーショットのようである。

 

   

 

  声を掛けたら『小池さんがやってくる』 

 これはなかなか、声を掛けるのも普通ではムツカシイし、声を掛けてたら『来てくれる』ところが吉田純一さんの実力である。

 

   

 

 純ちゃん 偉ぶらないのがいい。

人に頼むだけではなくて、頼まれたらホントに気さくに動くのである。

これはオートバイ神社の件で三木を訪ねてくれた吉田純一さん、昔の仲間達とうどん屋さんとの記念撮影、シャッターを押したのは私なのである。

日本二輪車文化協会の活動も何らかの形で、みんなが手伝えたらいいなと思っているのである。

オートバイ議連の先生がたや、小池百合子さんは手伝ってくれるのは間違いないので、

古巣のカワサキも田崎さんあたりも、手伝ってくれたらいいなと思っているし、私も何らかの形でお手伝いが出来たらいいなと思っている。

そんな忙しい吉田純一さんだが、毎日Facebook で繋がっているのが『ネットの世界の良さ』なのである。

 

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慶睦会 と 東日本OB会

2017-06-23 08:00:03 | カワサキワールド

★この何年かは出席していないのだが、

 カワサキの国内グループのOB会『慶睦会』の記念写真が送られてきた。

 

 懐かしい顔がいっぱいである。

 ただ、みんな年だけはちゃんと取ってるので、写真だけでは解らない人も何人かはいる。

 

   

 

 第24回とある。

  第1回の関西地区の『慶睦会の設立総会』は、1994年(平成6年)5月14日に、神戸ポートタワーホテルで約30人が集まって開催されたのである。

当時の田中誠さん、苧野豊秋さん、足立孝夫さんなど昔の上司の要望で、カワ販グループの設立40周年を記念して、OB会が結成されることになったのだが、そのご相談を担当させて頂いたのである。

この国内グループは、川崎航空機、メイハツ工業、メグロ、或は地方の代理店などの従業員だった人も、そしてカワサキオートバイ販売としての定期採用者もいるし、川航から出向して来て戻った人もいるし、販売店として独立した人もいる。

そして北海道から九州まで、日本国中に分散しているのである。

 

そのOB会に出席できる人の資格をどうすべきか?

どのような形のOB会にするのか、など苧野さん、足立さんなどと具体的に検討して決めて行ったのである。

大体、世間一般のOB会は、「定年で退職するときその会社にいた人」というのが一般的なのだが、そんなことにすると、このカワ販の場合は現実的でないので、

1.『その資格条件』としては『1日でもこの会社にいた人』は、どなたでも資格がある。

2.入会金・年会費などは管理が面倒なので一切取らない。

3.OB会は、地区ごとに幾つでも作ることができる。

4.OB会の会費は、当日の会費だけとする

 

ということにしてスタートしたので、関西地区、関東地区、九州地区、東北地区などにそれぞれOB会が出来て、出席したい人はどのOB会にも出席できるという、非常に自由なものだったのである。

例えば、退職して関西に住んでいる人も現役時代の勤めが例えば九州や東北だったら、そちらのOB会のほうに馴染みがあったりするので、スタート当時はあちこち掛け持ちで出席される方もあったのである。

関西の第1回の設立総会にも出席したが、『慶睦会』名付け親田中誠会長以下、のれん分け第1号の元近畿メイハツだった吉永オートサービスの吉永さんなど珍しい人が出席していたのである。

ちなみに関東の第1回のOB会総会は同じ年の6月14日に加茂会長の下行われて遠く秋田から斎藤雄幸さんや岩手から久保君夫さんなど35人が集まって開催されていて、私は現役代表としてとしてどちらにも出席したので、その記録が残っているのである。

 

 ★24年の歳月が流れて、今は関西と東京だけになってしまったが、スタート時代の条件が、ちゃんと生きているのは、東京のOB会だけで、東京のほうは、メグロ・メイハツの方も、メイハツ時代の女子従業員の方も、販売店も、アメリカのKMCにいて、カワ販に関係あった人も出席されていた。 私にもお誘いがあったので、関西から何年振りかで出席したのである。

こんなブログに翌日アップしたので、ご覧になった方もおられるだろう。

  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/4616269a50ec62c765b9c74b8e09f024

 

   

 

 ★来年は25周年の記念総会になるので、東京の方からも、『ぜひ来年も』と言われているのだが、関西の『慶睦会』も現役時代いろいろ関係のあった荒木幸保さんが会長を務めておられるので、来年はぜひ出席したいと思っている。

もしできることなら、『慶睦会』の参加条件が、いつからか『入会金が必要』ということになってしまっているので、誰でも自由に出席できないのが問題なのである。

関西は地元だから、『1日でも国内グループにいた人』ということにすれば、倍ぐらいの人数は、すぐに集まるはずなのである。OBで販売店をやってる人だけでもいっぱいいるし、ぜひその辺を『ご考慮』頂けたらと思うのである。

来年は国内グループ設立65周年である

スタート当時はカワサキ自販という名前で、社長は川崎航空機の土崎専務が務めておられて、明石工場よりは一段格上の会社で、営業・生産連絡会議では明石工場の技術部や製造部の人はホントにピリピリしていたそんな会社だった。

当時は、トヨタ自販のほうがトヨタ自工より一段上だったのと同じで、特に珍しいことではなかったのである。

 

★是非、国内グループのOB会も、スタート時代の基本コンセプトに戻って、この歴史ある国内グループが賑々しく25周年総会が出来たらいいなと思っているのである。

 実は、来年3月には平井稔男さんが、第2回の『カワサキの想い出そして未来』をやると張りきっている。

 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/d87f61265097fbae2cb4375cb9257f61

 メンバーは多士済々なので、こんな感じになればいいなと思っている。

これには約150人を予定して、明石工場とポートピアホテルで開催すると言って、ホテルは既に抑ええているようである。

平井さん、今年は私と同じ84歳だが、平井さん一人入るだけで20人分ぐらい賑やかになる。

是非、『カワサキの想い出と未来』に負けないような、『慶睦会』であって欲しいと思っているのである。

 

 

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加計問題  雑感

2017-06-22 05:42:06 | 発想$感想

 ★世の中で騒がしい『加計問題』は、いろいろ入り組んでしまって何が問題なのか解らなくなってしまっている

よく解らないので、自分のためにこの問題を調べてみた。

 


岡山市の学校法人「加計学園」が獣医学部を愛媛県今治市に新設することを国が認めたのだが、この手続きをめぐって、加計学園理事長の友人である安倍首相、あるいは首相側近による不適切な関与があったのかどうか ということである


1 獣医学部設置をめぐる手続きで、安倍首相の便宜はあったのか
2 「総理のご意向」などとする文書の内容は正しいのか
3 和泉洋人首相補佐官、木曽功内閣官房参与は設置手続きをめぐって前川氏に「圧力」をかけたのか
4 獣医学部新設の応募資格が加計学園に有利になるよう、萩生田光一・官房副長官が条件修正に関与したのか

この4項目の疑問に対して、いろいろ言われているのである。

 

そもそもその経緯は、加計学園は、国の国家戦略特区に獣医学部の新設を申請し、2016年11月に認められて、開設は2018年4月の予定である。

申請については、国家戦略特区を担当する内閣府と、実際に学部の新設を認可する文部科学省が協議した。

『その国家戦略特区とは何か?』 を調べてみると、

国家戦略特別区域は、今までの特区と異なり総理が主導の特区であり、これまでの地方から国にお願いして国が上の立場から許可するというものとは大きく異なるものであり、第二次安倍政権が進める新しい経済特別区域構想のことで、地域を限定した大胆な規制緩和や税制面の優遇で民間投資を引き出し、“世界で一番ビジネスがしやすい環境”を創出するのが狙いだと言われている。

特区を、国を代表して特区担当大臣、地方を代表して知事や市長、民間を代表して企業の社長という国、地方、企業の3者統合本部でミニ独立政府の様に決められる主体性を持った新しい特区で、この特区を活用して岩盤規制に切り込みたいというコンセプト なのである。

岩盤規制とは、役所や業界団体などが改革に強く反対し、緩和や撤廃が容易にできない規制をいい、医療・農業・教育・雇用などの分野にみられる。この役所に当たるのが文科省で国家戦略特区を担当するのは内閣府だから、その仕組みから言っても、総理側からの意向があることは当然なのだが、それが不適切であったかどうかが問われているのである。

文科省が『獣医学部の新設』を簡単に認めるのなら、わざわざ国家戦略特区内にそれを作ったりはしないはずで、文部省に任せていたら、何時まで経ってもそれは実現しないのでこのプロジェクトが始まっているのだろう。

前川(元次官)さんは「現在の文科省が官邸、内閣官房、内閣府といった中枢からの意向、要請について逆らえない状況がある」などと明かしたりしているが、大企業でもよくあることで『本社の意向に逆らえない』などと言ったりするのだが、それを解決するのはその時点の次官であった前川さんのまさにご自身の仕事であって、退官してからいろいろ言うのはどうももう一つである。

いま言われている文書や、関係者の言い分などはホントは大した問題ではないのだが、そんな話ばかりが飛び歩くので余計にこの問題を解らなくしてしまっている。

 

★要は、安倍総理がこの問題に、『どれくらい絡んでいるのか?』そして『不適切なことがあったのか?』が問題なのである。

安倍首相は5月29日、参院本会議で「圧力が働いたことは一切ない」などと自らの便宜を否定した。一方で安倍首相は、翌30日の参院法務委員会で加計学園との関係を問われ、「当選した当初、数年間、監査のようなものを務め、1年間に14万円の報酬を受けたことがある」と明かしている。

ただ経緯として、2016年秋の時点では、加計学園のほか、京都産業大も獣医学部新設を目指していたが、条件の修正によって京都産業大は応募資格から外れたのだが、萩生田光一官房副長官の存在が急浮上する中、1枚の写真が注目を浴びている。

 

缶ビールを片手にくつろいだ表情を見せる安倍晋三首相と萩生田氏。その間にいるのは同学園の加計孝太郎理事長だ。

 2013年5月に安倍首相の河口湖畔の別荘で撮影された写真。首相(左端)と加計孝太郎氏(左から2人目)、萩生田氏(同3人目)が談笑しているように見える=萩生田氏のブログ「永田町見聞録」より©

 写真は2013年5月10日に萩生田氏のブログに投稿されて「GW最終日は青空のもと安倍総理とゴルフをご一緒した」と書かれている。

この写真を見る限り、3人は親しい間柄であることは間違いない。

萩生田さんは、加計学園の運営する千葉科学大で落選中に客員教授を務め、月10万円の報酬を得ていたし、衆院議員に返り咲いたあとも「名誉客員教授」を今も務めている。

 

一方、安倍首相も過去に同学園の役員を務め、年間14万円の報酬を得ていたし、千葉科学大の開学10周年式典では来賓としてスピーチ。「30年来の友人である私と加計さんはまさに腹心の友であると思っています」と述べている。交流は米国留学時代に始まり、学生という自由な身分でともに遊び、語り合った、そんな学生時代からのトモダチなのである。

世の中のいろんな事柄は、こんな繋がりでいろいろと進展するのはよくある話で、それ自体がどうということではない。

今回の事案を全体で捉えると、普通では役所や業界団体などの反対で実現しない案件を、国家戦略特区で内閣府が担当で推進するというのだから、安倍総理が賛成している案件であることは勿論で、そこに不正があったり、見返り報酬があったりすると問題だが、官邸側が推進の方向を取るのは当然なのである。

この案件の大きな流れをもっとマスコミは報道しないと、国民は全体の姿が理解できないのだと思う

こんな国家戦略特区という仕組みが創られる背景には、官僚の許認可特権意識関係業界との癒着や天下り等々、現在の日本政財界の構造自体に問題があり、当の前川さんもそんな天下り問題の責任を取って文科省を辞めているのである。

この問題を調べたお蔭で『国家戦略特別区域』が創られた経緯や、『岩盤規制』という意味がよく解ったのである。

 

 

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豊洲移転 と 築地市場

2017-06-21 07:13:13 | 発想$感想

 ★築地市場の豊洲移転は、昨年11月と決まっていたものを小池知事が『待った』をかけて、いろいろあったが『移転する』ことに決まったが、「将来的に築地に市場機能を持たせて再開発する」ことも残した案になったが、今朝の各紙の論調を見るとその殆どが評価していない。

 

   

 

 小池百合子知事の両立構想に専門家「素人考え」 批判相次ぐ

 将来的に築地と豊洲の双方に市場機能を持たせつつ、両立させるとした基本方針を公表した小池百合子知事。だが、専門家からは「素人考え」など厳しい指摘が相次いだ。

「市場の中心機能は卸と仲卸。それが一部だけ残ったところで物理的、経済的に市場は成り立たない」

 或は、こんな論調である。

 築地市場(東京都中央区)を豊洲市場(江東区)に移転する計画の延期表明から10カ月。移転問題に決着をつけるため、小池百合子知事が20日に開いた記者会見はわずか30分で打ち切られた。「豊洲への移転」をベースにしつつも、将来的に築地に市場機能を持たせて「再開発」するという独自案だが、都議選告示を間近に控え、豊洲移転派と築地再整備派の双方に配慮した「折衷案」とも言え、市場関係者からは「本当にできるのか」と知事の方針をいぶかる声が上がった。

 

    

 

 ★私は全くの素人で、殆ど何も解っていないので、全くの『カン』だけの判断だが、

 『小池さんの発想』もただ単に、『豊洲に移転』するよりは、大方1年も期間を延ばしたのだから、このように『言わざるを得なかった』面もあるのだろうが、マスコミもそんなに結論を急がずに、もう少し見守ってあげてもいいのではと思ったりもする。

 

専門家がダメだと言っているようだが、『専門家や業界の常識』はその殆どがオモシロくないのが一般的である。

小池知事のような素人の発想のほうが『新しい何か』を創造する可能性がある。

何となく『オモシロい』し『なにか新しい発想』があっていいと私が思うのは、

 

●小池さんも言っているが、『築地というブランド』とその『ネーミングの価値』を活かすという発想は『ソフト思考』でなかなかいい。 既にある『築地ブランド』を消してしまうのは勿体ない。

● 何よりもその立地がいい。銀座のすぐ隣なのである。こんないい立地の『築地の歴史』が消え失せてしまうのは惜しい。

 

  

 

● 最大の理由は、これは地方都市の話ではない。世界に通じる大東京のそれも銀座に隣接する『歴史ある築地』でのプロジェクトなのである。

● 新しい金も掛かるだろう。計画の詳細を言えと言われても今は無理だろう。 然し『基本コンセプト』さえ確りしていれば大丈夫である。予算も大東京の裕福な予算だから、それで破綻することもないだろう。『新しいプロジェクト』と考えたらいい話なのである。

 

なかなかいい、オモシロいプロジェクトだと思うのである。

根回しなしの小池流』がいいと思う。

リーダーとはこうでなくてはならない

新しい発想だから、具体的な計画などないのは当たり前である。

果たして5年後、どんな構想になっているのだろうか?

 

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やっと雨が降る

2017-06-20 16:35:41 | 日常生活、園芸、バラ

★いま6月20日の夕方である。

 今日はいろいろと朝からニュースで賑わった。

 

加計問題・森友学園・豊洲移転問題 みんな大きなニュースだし、各紙・各コメンテーターいろいろ賑々しいが、ホントにどれが正しいのか、よく解らない。

ものごと、いろんな立場から、見る角度によって同じことでも、こんなに違う。

もう少し、時間が経てば見えてくるのかも知れないが、いずれも『どれが正しいのか?』はなかなか答えは出ないのだと思う。

 

 

★そんな中で、明日の天気予報だけはまず間違いないだろう

 20日4時現在、こんな状況である。

 もう四国までは来てるから、関西に来るのも、夜にはやって来そうである。

 

 

    夜10時ごろからは、多分振り出すのだろう。

 真ん中の10~20ミリの雨雲がどこを通るかによる。

  

 

     

  

 兵庫県三木市の『明日の天気』を見るとこんな状況である。

 夜中の3時頃から、朝の9時ごろまでが『強雨』となっている。

 

   

 

ひどい降りのところもありそうだから、場所によっては、『水の被害』に注意しなくてはならないだろう。

私の住んでいる、この地区はなだらかな傾斜地だから、水だけは大丈夫である。

空梅雨』と言われていたが、『やっと雨が降る

 何か待ち遠しい気分なのがおかしい。

 

 

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カワサキの二輪事業と私 その59 昭和63年(1988)

2017-06-20 06:43:23 | 自分史

★ 昭和63年(1988)は実質『昭和の時代の終わりの年』である。

私自身の川崎重工業での勤めもこの年が最後で、私の川崎重工業でのサラリーマンとしての仕事は『昭和の時代』と共に終わったと言っていい。

ソウルオリンピックの年でもあって、川崎重工での最後の仕事は9月、『ソウルオリンピック』の開会式当日ハンガン(漢江)でのジェットスキーのデモンストレーションという華々しいものだったのである。

これは韓国のオリンピック委員会からの正式招待を受けたもので、日本・アメリカ・ヨーロッパ・オーストラリアの各地域の男女ジェットスキーチャンピオンを集めてのものだった。

宿舎も OLYMPIC FAMILY TOWN 内に用意して頂いての1週間だったのである。

 

     

 

  当時のJJSBA会長の苧野豊秋さんや、ジェットスキー担当してここまで育ててきた鶴谷将俊さんや、カワサキのジェットスキー世界展開を最初から手伝ってくれた福井昇くんなど沢山の方たちの協働だったのである。

私はその団長としての参加だったが、朝鮮京城は小学校時代の故郷であり、この滞在の間に昔の家も見つけたし、通った小学校も見ることができて本当に懐かしかったのである。

 

    

 

  オリンピック委員会から頂いた『記念の楯』である。

 

 

★この年のことを、企画室にいた田崎さんはこのように記している。

 

2月に直入町の岩井町長が来社、その後10月には後藤、町議会会長と、また11月には町会議員15人を連れて来社している。

 これは私も色濃く関係した、直入町対策で、後述する。

5月には、貴方が得意(?)のKT法(戦略思考開発カレッジ)が始まり、大庭本部長のスピーチの声が一段と大きくなった。

 KT法は、私が得意というよりは、大庭さんがホントに熱心だったのである。

 

6月頃から、米国IRS(国税局)の調査が、TRANSFER PRICE「移転価格]問題として日本に飛び火してきた。ダンピング問題でかなり詳細なコスト資料が提出されており、米国での利益は何処にいったのか!、長期間税金も納められない企業がなぜ存続しているのか!日本側の人員削減が出来ないために赤字を続けるのなら、そのコストは日本政府が負担すべきだ!米国国税局は日本の失業対策費は負担しない! という論理で、米国の同種同規模の会社を参考に,見なし課税をかける。日米租税条約で二重課税が不当であるというのなら、日本の国税局から還付して貰え! というのである。企業は誰かの利益のために活動している筈、銀行、下請け、などに利益が移転しているのでは?とまで言ってきた。まさに資本主義の論理であり、赤字でも市場から退出しない日本型経営を認めないというものである。

本件は日本の国税局を巻き込むことになるので、本社の森田課長(後のCP本部長)と堤さんが全面的に対応した。初めは、日本国税局は、「仕切り価格を我々が決めているわけではない」と冷たかったが、幸い国税局の中堅幹部が、ここは「米国の一方的な論理を認めるわけにはいかない」と男気を出して前面に出てくれるようになった。おそらく、やがて米国に進出している日本企業全体の問題になると感じていたのだと思う。解決には1989年末までかかったが、業界で初めてのADVANCED PRICING AGREEMENT(事前価格協定)という仕組みが、日米の国税局の承認のもとでつくられた。

 こんな話は、この時期既に私は企画から営業に異動していて、全然知らなかった。田崎さんは技術屋だが、ダンピングの時もそうだったが、このような問題に非常に強く、また興味もお持ちである。逆に私はちょっと『苦手の分野』だから、企画に田崎さんが戻っていてよかったと思っている。

 

10月には、貴方のアレンジだとおもうが、山田さんも参加した「ファクトリーチームのOB会」があり「川崎神社の竣工式」もあった。他には本社営総の安川さんが、海南島プロジェクト(東洋のハワイ化)を持ち込んできたりしたが、実現しなかった。

 私は、10月1日からカワサキオートバイ販売の専務として国内販社に3度目の出向となっていて、その初仕事してやったのが、10月15日に芦屋の竹園旅館で一泊2日で行った『カワサキファクトリーチーム25周年記念OB会』なのである。

 

   

 

 カワサキのレースの祖 兵庫メグロの西海義治社長を真ん中に山田・高橋・苧野・中村・大槻・糠谷それに創世期のレースを支えた松尾勇さんが前列にいて、私と田崎さん、平井さんが2列目に、ライダーたちは、安良岡・山本・歳森・金谷・和田・岡部・梅津・星野・清原とまさに錚々たるメンバーが名を連ね、当時の現役チームのメンバーも参加しているのである。

安藤・百合草さんがアメリカで参加されていないが、カワサキのレースチームはこんなメンバーが支えたし、川崎の二輪事業も、川崎重工業もこんなメンバーが支えたとも言えるのである。

この写真は、二輪車新聞の衛藤誠さんが取材に来られて撮られたものである。

 

★この年2月、岩屋直入町長が来社と書かれているが、直入町問題は大変解決のムツカシイ問題が、長年に亘って続いていたのである。

直入町のテストコース問題は、旧く昭和49年(1974)にテストコース用地として購入し、農業振興地域の指定解除の条件として、雇用規模200名などが契約で義務付けられていたのだが、その後事業本部の経営状況はとてもテストコースなど建設できる状況ではなく、直入町と契約した諸条件が不履行になっていて、直入町長以下が年に何度も来社してムツカシイ交渉がずっと続いていたのである。

この問題の対策として、対策チームが創られ、モトクロス場を造るという計画案が既にあって検討が進められていたのだが、3月初旬にその件で柏木茂企画室長から、私に相談があったのだが、私は即座にモトクロス場ではなくて、一般ユーザーの走れる小型サーキット場の建設を提案したのである。

http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/302eb7f93186bbf17feb26eea5d4d54b

その過程の詳細は、このリンクの中に纏められている。

そんなに詳しく検討したわけではないのだが、モトクロス場ではもう一つニュース性がないし、コースの維持管理が結構面倒だし、何よりも、当時各メーカはレーサーレプリカ全盛期で高性能のクルマは売るのだが、ユーザーはそれを走らす場所がなく、峠にたむろして走ったりするので『峠族』などと呼ばれたりしていたのである。全国にある「サーキット」はレース仕様専用で当時は一般車は走らせてくれなかったし、メーカーの責務としても一般ユーザーが走れる小型サーキットを、創ればとふと思っただけである。

具体的な対策を検討するために、3月8日には岩崎茂樹ほかと中山サーキットの現地視察、3月11日にはそのコンセプトの高橋本部長の承認を取って、3月28日には直入町を訪ねて、直入町長に骨子を話して概ねの了解を取り、岩崎と二人で現地調査もして、4月には本社の単車担当阿二さんも誘って、中山サーキットや四国のサーキットの現状調査を行うと同時に

  

 

 4月12日には基本計画を組み、本社担当部門に説明、了解を得ているのである。

これが私自身の仕事のやり方で、『ムツカシイこと』は自ら起案し自ら動き、短時間で仕上げてしまうのである。こんな問題を部下にやらしたら倍の時間があってもとても実現などしないのである。

この直入サーキット計画は9月には、本社経営会議の承認を受け、年末までに大分県の許認可も得て翌年早々建設に取り掛かったのである。

 

★前述したとおり、この年の9月末でKHIでの勤務を終わり、10月からは新しい職場で、7万台販売目標と共に、『新しいカワサキ』という新しいブランドイメージの創造という壮大な課題にチャレンジすることになるのである。

単なる台数や売上高目標だけでなく、よりムツカシイ課題にチャレンジするために、最初にした仕事は『レースに強いワサキの復活』を大きな目標に掲げて、先輩方にもその決意を伝えるべくOB会をまず開催したし、この直入のサーキットも国内販社が買い上げてその主体運営を図る方向とし、そのための専門ソフト会社の設立構想や、今も続いているユーザークラブKAZEなどの基本構想なども矢継ぎ早に提言し、夫々川崎重工業の経営会議の承認を得ているのである。

当時の大庭浩社長が私の企画室長時代の本部長であったこともあってその信頼は厚く、川崎重工業としてはサーキットの創設もソフト会社の設立も、全く初めてのことだったのだが、何の問題もなく承認されたので、その後の事業展開にも大いに寄与することになるのである。

当時の『カワサキオートバイ販売の社長』は事業本部長の高橋鐵郎さんが兼務して頂いていて、事業本部の協力体制も万全であったと言えるのである。

そんな昭和63年(1988)であった。

 

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

 https://www.facebook.com/1126074024157186/

 

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Instagram 3ヶ月 

2017-06-19 08:12:46 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

 

★ これが 私の Instagram だが、Instagram に登録していない一般の方が見ることが見ることができるのだろうか?

 https://www.instagram.com/rfuruya2/?hl=ja

 このリンクを果たして登録していない人が見ることができるのだろうか?

 そんな単純なことがよく解っていない。

 

Instagram を実質的に始めたのは、4月7日だが、3ヶ月を過ぎて今では Instagram  結構なレベルに達している。

 

 

ブログ・ツイッター・Facebook をベースに、ネットの世界をこの10年生きてきた。

● ブログは、毎日500人から1000人ぐらいが訪れて、3000ページぐらいを見てくれる。

● Twitterのフォロワーは、60万人になろうとしている。

● Facebook も、ブログを転載するのを原則にしているが、毎日アップしている。

 

ネットの基本は『ネットはヨコ展開』だから、夫々をヨコに繋いでいるのが、特徴かな。

そんな11年目のネットの世界に、この4月から Instagram 加わった。

フォロー』や『フォロワー』があるのは、ツイッターによく似ているが、Instagram での『フォロワーの反応』は、ブログ・Twitter・Facebook などに比べて、各段に『早い』し『その数が多い』のがオモシロい。

その反応の『いいねの数』が最初は2桁台だったのに、3ヶ月目に入って 昨日は『500人の大台』に乗ったのである。

現役の頃、500人の方たちの前で喋ったことがあるが、『500人』とは、大変な人なのである。そんな大勢の方たちから『いいね』を頂いた。

Instagram の特徴は、一度『500の大台』に乗ると、写真の質が極端に落ちない限り、今後毎日どの写真にも『500人以上のいいね』が頂けることが、Facebook などと異なる点だろう。

 

★今までの推移を振り返ってみると

こんな桜の時期にスタートした。このころはまだ2桁の『いいね』だが、

 

   

 

  鯉のぼりが泳ぐ頃には、100から200になり

   

 

  ばらのシーズンの5月になると 200から300が普通になった

 

   

 

  そして、6月初め、鎌倉に遊びに行った頃には、400の『いいね』が届くようになった

 

  

 

   そして、400がふつうになり、昨日6月19日に 初めて500の『いいね』が届いたのである。

 

  

 

★たった3ヶ月でこんなことになったので、今後どんなことになるのかが楽しみである。

 私なりのやり方で、毎日閑に任せて、単純なことを繰り返している『継続の力』だろう。

 一度そのレベルに達したら、写真の質を落とさない限り、その数は増えても減ることはナイ。

 多分、そのうちに1000人になるだろう。

 毎日1枚の写真をアップするだけでいい。

 『自然と成長するものが好き』というコンセプトに合わせた写真を集めている。

 

 これが今朝の写真、すでに200以上の『いいね』が来ている。

 

 

 

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三木市長選  雑感

2017-06-19 05:55:04 | 発想$感想

★三木に移り住んで、もう40年数年にもなった。

人生で一番長く住んだまちになった

このうち約30年は、現役時代だったので、ホントに寝に帰ってくる町、文字通りの『ベッドタウン』だったのだが、

この十数年、薮本吉秀さんが市長になった頃からは『三木』を自分の住んでいるまちとして、確り見つめ直すようになった。

そのきっかけを作ってくれたのは薮本吉秀さんだし、そういう意味では感謝なのだが、その『三木市長薮本吉秀さん』については先日のブログでこのように、私の率直な想いをアップしている。

 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/02bcaa2ff227460379280043a2db2caf

 

そこでも書いたように、

三木市長薮本吉秀さんは、『三木市長』という公人としては、『百害あって一利もない』ぐらいのひどさなのである。

 

広々とした自然豊かな、このまちはなかなかいい。

こんな自然の中で育った人たちも、なかなかいい。

新しいまちに移り住んできた人たちも、なかなか積極的でいい。

 

 

そんな三木市の市長選挙が行われる。

今回こそは、この三木のまちに『相応しい市長』となって欲しい。

 

   

 

 

うそつき市長はもういやだ

 と三原輝紀さんがこんなステッカーを作ったようだ。

『うそつき市長はもう嫌だ』これはホントによく 三木の市政を解っている人たちの 率直な声だと思う。

 
  三原輝紀さん、何年か前にひょんなことで繋がって、燦々と光り輝くような活動をというコンセプトの

  燦々SunSun   http://www.thegoodtimes.jp/sunsun/    のプロジェクトリーダーにもなってくれている。

 

  

 

  今回の 三木市長選挙にも 非常に熱心である。

 

  

 

  今度の候補、仲田さんとの ツーショット 

  お二人とも、その『笑顔がいい』

 

  今は対照的な 薮本吉秀さん、

  どう考えても、明るい三木のまち には似合わない。

 

 

               

 

 

  

 

 仲田さんをよく知ってるわけではないのだが、

 

 このまちの確かな未来を『考える』 という 仲田一彦さんに、私は一票を投じたいと思っている。

 

  

   

 

  10数年ぶりに、三木の市政も 明るく『よりいいまちに向かって』確りと歩みだすかも知れない。

  仲田一彦 さんに期待したいものである。

 

  

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なぜ 空梅雨なのか?

2017-06-18 05:56:55 | 発想$感想

 ★『九州から関東甲信の各地方が梅雨入りして1週間が過ぎたが、梅雨前線が高気圧の影響で北上せず、広い範囲で降水量が平年の50%未満という状況が続く。気象庁は梅雨の後半にあたる7月にはまとまった雨が降ると予想しているが、しばらくは少雨が続きそうだ。気象庁によると、東日本から西日本では4月下旬以降、高気圧に覆われて晴れる日が多かった。4月21日から6月13日までの降水量は、平年と比べ東京都心42%、名古屋市43%、徳島市44%、福岡市48%など、50%未満の地域も多い。』

 などと言われている。

Google で『なぜ空梅雨なのか?』 と検索すると、

 https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%80%E7%A9%BA%E6%A2%85%E9%9B%A8%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B&spf=1497678307125

 このようにいっぱい記事が並ぶ。

 

・・・・・ではなぜこのような「空梅雨」傾向が起こっているのでしょうか? この気象状況を握っているのは、フィリピン海域の異常気象にあるようです。
 
本来、梅雨の時期になりますと、偏西風が日本の遥か西でインド洋からの季節風等により北へ押し上げられ、ヒマラヤ山脈の緯度にまでに達します。このヒマラヤ山脈は偏西風の吹いている位置よりもさらに標高が高いため、偏西風はこの山脈で二手に分断されてしまいます。そしてその分断された偏西風が合流するのが、日本のオホーツク海付近であり、これによって梅雨の天候を作る要素の一つ「オホーツク海高気圧」が形成されます。
 
一方で太平洋の北側では、夏が近づくことで海水が強い日差しで温められ、対流が活発になるために、空気が下降する地点では優勢な高気圧ができます。この一つが日本の南東の海上から張り出す「太平洋高気圧」です。
 梅雨前線は、このオホーツク海高気圧と太平洋高気圧の境界にできます。これは、太平洋高気圧が温かい空気を持ちオホーツク海高気圧は冷たい空気を持ち、しかもどちらも湿った空気のために、境界では対流と共に雨雲が大量に作られるからです。
 
 
   
 
ところが、今年の5月から6月にかけては、これらの他にもう一つ、余計なお世話をしている要素が加わっているようなの日本の南西部には沖縄、そして台湾があり、さらに南へ下るとフィリピンの島々に達します。このフィリピンの周辺海域で今年は水温が例年以上に高い状態になっているそうで、ここでも対流が活発になっているそうなのです。台風3号もこれによって発生した熱帯低気圧の一つだそうです
すると、フィリピン海域ではあちこちで激しい上昇気流が発生し、熱い空気が上空に巻き上げられます。そして巻き上げられた空気は気温の低いところをめがけて進み、北上します。 ここで勘の鋭い方は、もうお分かりになられたのではないでしょうる「張本人」と言っても過言ではありません。南から上空を飛びやってきたフィリピン海域出身の空気は、北上しながら徐々に冷え、日本海のあたりまでくるとオホーツク海高気圧から吹き込む冷気の影響を受け、下降していきます。その結果、日本海は空気の溜まり場となって気圧が上がり、東西に長い「高圧帯」が形成されてしまったのです。しかもこの高圧帯は対流によって自然発生したものであるために持続性があります。この日本海にできた高圧帯のために、近畿以西および北陸から北の日本海側では6月にもかかわらず雨が降らないどころか、乾燥してカラカラになってしまっているのです。梅雨前線が消えてしまったのもこの高圧帯のせいと言ってよいでしょう。 
 
 
  
 
しかしこのまま梅雨明けになるのかと言えばとんでもない話です。梅雨明けは太平洋高気圧の張り出しによって「梅雨前線が北に押し上げられる」のが条件であり、今はその条件に全く当てはまりません。
 
現在の予報では、水曜日頃になるとようやく梅雨前線が本州付近に横たわると見られており、西日本で雨が降るものと予想されています。思えば、日本本土で梅雨が本格化するのは、沖縄で梅雨が明けた頃です。
また、空を見ておりますと、標高の高い山沿いでは夏らしく入道雲とみられる雲もありましたが、平地では「うろこ雲(巻積雲)」や「すじ雲」といった、主に春や秋に見られる雲が目立ちました。
 
 
そういった意味では、西日本や北陸以北については、「空梅雨」と言うよりは「長すぎる晩春」
すなわち梅雨入りがまだと言うべきなのかもしれません。 
 
 
★ 一応は読んでみたが、書いてあることがさっぱり理解できない。
 
 最後の一行 
 
「空梅雨」と言うよりは「長すぎる晩春」 すなわち 梅雨入りがまだ と言うべきなのかもしれません。 
 
 ということなら、よく解った。
 
 まだ梅雨入りして、いないのなら納得である。
 
 
 
 
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田崎さんが送ってくれた写真から

2017-06-17 07:18:12 | カワサキ単車の昔話

★私は、いろんな記録は持っているのだが、現役時代の写真は殆ど持っていない。

先日来、田崎雅元さんが、いろいろと写真をいっぱい送ってくれてるので、その中から旧いものを並べてみたい。

 

 

 

 まずこの写真、多分 MCFAJの富士の裾野の朝霧高原であった全日本モトクロスの写真ではないかと思う。

 山田熙明さん、当時は技術部長のころだが、髙橋鐵郎さんは解るが、田崎さんその間かな? メカニックの福田・藤森さん、など何となく解るがあとはよく解らない。井出哲哉さんと松本博さんかも知れない。

 

  

 

 これは鈴鹿アマチュア6時間耐久、カワサキが初めてレース監督大槻幸雄・副監督田崎雅元と監督を指名したレースで、ロードレースはこれが2度目、会社が認めたロードレースとしては初めてのレース、1962年6月13日。

その1ヶ月前の5月13日、鈴鹿ジュニアロードレースに、会社には内緒で初めてロードレースに出場し、山本隆がホンダに次いで3位入賞を果たしたので、一気にロードレース熱が盛り上がったのである。このレースにも、私と田崎さんは密接に関係しているのだが、現場には行っていない。3位入賞など『夢のまた夢』の話が現実となったのである。

カワサキが初めて鈴鹿を走った日     http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/8356d318b5dc414c15dd1b7488a09f63

 

この6時間耐久レースには、3台のマシンで、加藤・飯原のテストライダーチーム、岡部・梅津のカワサキコンバット、歳森・金谷の神戸木の実クラブの3チームで出場した。

山本隆は、1か月前のジュニア・ロードレースに出場したので、『アマチュア』の資格がなかったのである。そんなことで歳森康師が急遽連れてきたのが金谷秀夫で、金谷はこれがカワサキの初めてのレースである。

多分、一番手前が歳森康師、真ん中が岡部能夫、一番右は加藤か、飯原だと思う。途中歳森・金谷組も、加藤・飯原組もトップに立ったりしたのだが、両者とも転倒、岡部は1周目トップグループでスタートしたのに、『スプーン・カーブ』に水があってトップグループが何台か転倒などと言う派手なレースだった。

カワサキも、スズキも、ヤマハも当時のモトクロスライダーがいっぱい出場していた。

 

 

    

 

カワサキのアメリカ市場・開拓当時、そのリーダーの浜脇洋二さんが名付けた『7人の侍』がいたと言われている。

そのうちの6人が揃って写っている、貴重な写真である。

田崎さんがアメリカに渡ったのは、『鈴鹿6時間耐久レース』のあった年の8月、その年大槻さんもドイツ留学が決まって、8月10日にレースチームで二人の送別会をやっている。

浜脇さんの本によるとブラジル市場調査の帰り、アメリカによって、アメリカには二輪の市場があると思ったのは1964年3月のことで、ここからアメリカ市場開発が始まっているのである。

この時点ではすでに、川崎航空機では単車再建の方針が決定して、広告宣伝課なども創られ、私はそれを担当したりしているのだが、市場は国内だけだったのである。浜脇さんは社内でアメリカ市場への進出を提案し9月に本社企画から輸出課長となっている。

アメリカ市場の開拓は、ここから始まっているのである。浜脇さんがまずアメリカに連れて行ったのは企画に一緒にいた渡辺くんだと思う。彼は私の大学の後輩なので、『アメリカに行きます』と挨拶に来てくれた。

そして、その次にメンバーに加わったのは、トーハツにいてアメリカ市場にいた杉沼浩さんで、濱脇さんがどこからか見つけてきたのだと思う。これが1964年の末か65年の初めだと思う。

私も国内のことはきっちりと記憶があるのだが、アメリカの話は、何となくしか解っていなかったのに、ごく最近田崎さんがいろんな話や写真を送ってくれるので、時系列に改めて整理できることになったのである。

田崎さんがアメリカに行ったのは、明石工場としては第1号で、その任務はサービス・エンジニアだったという。それが1965年9月でその赴任地はシカゴだったのである。そして、サービスをやるには部品はMUSTということで、シカゴに部品会社を立ち上げることを提言し、それがAKMとしてできたのは1966年のことで、そのために部品の担当者の黒田くんをアメリカに呼び、会社の経理をやるために、私と同期の久保勝平くんが、アメリカに渡り、さらに明石から種子島経さんが加わって『7人の侍』となったのだろう。

この部品会社AKMが、後の販売会社KMCの母体になっているのである。

 

 

 これは1973年とあり、岩城さんも顧問となっておられるが、KMCの初代社長は当時の川崎航空機常務であった岩城良三さんだった。 そして右端は、7人の侍の一人で、上の写真には抜けている杉沼浩さんなのである。

 

 田崎さんからの写真、他にもいっぱいある。

 

  

 これはIKS20周年 ということであれば、多分89年以降だろう。IKSには直接関係のない、私がいるのはよく解らないが、ひょっとしたら記念講演のスピーカーとして呼ばれた時だったのかも知れない。

左から3番目が山田晴二さん、この時はIKS社長だが、濱脇さんの次のKMC社長でもある。私の右は同期の鈴木啓司さん当時はIKSにいたと思う。後列のメンバーも、皆さん懐かしい顔ぶれである。

 

 

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プロ野球 ベストナイン  雑感

2017-06-16 06:40:29 | 発想$感想

 

★長嶋茂雄が選んだ『プロ野球ベストナイン』という記事が載っていた。

  https://www.j-cast.com/2017/01/10287686.html?p=all

 

      

 

イチロー、山本浩二、松井秀喜の外野手を手始めに、一塁・王貞治、二塁・高木守道、遊撃・広岡達朗、捕手・野村克也、投手・金田正一の順に披露。

最後に残った自らの守備位置の三塁はあえて、西鉄で活躍した強打者の中西太を選んだ。

 

 とある。

 

イチロー・松井秀喜を除いては、昔の選手ばかりで私自身の年代の方も多いし、そのスター性については、異論をさしはさむ余地もないのだが、ホントにベストナインか? と言われるとなかなかムツカシイ面もある。

野球でも、水泳でも、サッカーでも昨今の日本のスポーツのレベルは、昔に比べて格段の差があって、水泳のようにタイムが出るものは、その差は歴然とするのだが、野球などの評価は、もう一つよく解らないのである。

この中で、イチロー・松井秀喜は、大リーグでもその実力を認めらて世界に通じる実力だから問題ないだろう。その他では金田正一は飛びぬけていて今でもやはりナンバーワンだと言えるのだろう。

 

私は1933年の生まれなのだが、1932年が広岡33年に金田・中西 野村35年、長嶋36年と同じ年代の選手が並んでいて、広岡・長嶋・王が巨人に入団したころは、明石球場で春季キャンプをやってたので入団当時の3人をこの目で見て、当時の実力は何となく解っている。

広岡の守備は当時から華やかだったが、ショートの守備だけで言うなら、今の現役ショートは当時の広岡・吉田クラスはザラにいて、今の現役諸君のほうが格段上手いのではと思ってしまうのである。

 

    

 

広岡と並び称された吉田義男さんは京都山城高校なのだが、夏の甲子園のあと1950年、豊岡市の市政発足記念に京都山城高校。米子東高校・明石高校が招待されて試合をしたりしているのである。

 

         

 

 金田正一も同年代で、国鉄スワローズに入団したころは、伯父の楠見幸信が総監督をしていて、甲子園の家族切符など貰っていたのだが、一度だけ入団1年生の金田正一が球場の入口までその切符を届けてくれたことがある。特に話もしなかったが、めちゃくちゃ背が高いなと感じたのを覚えている。

金田は1950年3月、3年生になる直前の時点で、設立されたばかりの国鉄スワローズにスカウトされ、3年夏の予選で敗退するとすぐに高校を中退し、シーズン途中に国鉄へ入団』とあるので、多分入団早々のことで、私は高校3年生だったと思う。

金田はその後何度も球場でそのプレイを見たのだが、一番印象に残っているのは。『体の柔軟性』で相撲取りのようなまた割をウオーミングアップの時に楽々とこなしていた。

今でこそ、スポーツ選手のストレッチは常識だが、当時そんなことができる野球選手は、見たことがなかったのである。

 

打撃で言うと、当時、巨人がキャンプを張った明石球場も、甲子園球場も当時の打撃力では球場が広すぎて、ラッキーゾーンがあって、今の球場のフェンス(当時は旧フェンスと言ったりしてたが)を超える打球は珍しかったのである。

巨人の練習を見ていても、ラッキーゾーン越えは兎も角、旧フェンス越えは珍しかったのである。最近は高校生でも軽々と越えてしまうのである。私は、高校の時も大学でも、ラッキーゾーンのあった明石球場で練習していたのだが、旧フェンス越えなど、考えられないことだった。

 

     

 

 王も長嶋も野村も、大選手であることは間違いないのだが、当時の実力が今のプロ野球の選手たちより、上を行ってるかどうかは、よく解らない。

 

    

 

 逆に、今の現役選手は、スマートすぎて、昔の選手のような『迫力』がないのは確かである。

 

 

       

 

 そんな中で、この二人は、やはり別格かな と思う。

 金田正一 を加えてこの3人が実力的には、とび抜けているように思うのだが・・・

 果たして、ホントはどうなのだろう。

 

 記事はこんな言葉で結ばれている。

察するに、長嶋氏は自らが監督としてこのメンバーで日本代表を編成し、大リーグ選抜軍と試合をしたいのだろう、と思う。野球を語る長嶋氏はさすがに魅力がある。騒ぎになるのかどうかはこれからだが、長嶋氏のお説に表だって異議を唱える野球人はいないと思われる。長嶋茂雄はそういう存在なのだ。

 

 

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