「カワサキZ50周年祭 ~明石から世界へ、Zの偉大なる足跡と未来~」と言うイベントが11月19日に開催される。
趣旨案内によると「今年カワサキZが誕生して50周年を迎えましたが、これに先立ち2019年にZの開発に深く関われた大槻幸雄氏が日本自動車殿堂入りを果たし、同じく2021年にZ1/Z2が歴史遺産車に選定されており喜びもひとしおです。そうした中、カワサキZの愛好者の皆様から、Z50周年の祝賀会を開催してほしいとのご要望を数多くいただきました」とある。
1972年に上市したZ1の開発には関わっていない私にも出席要請の案内があったが、この時期都合が悪く残念ながら参加できず。大槻さん、古谷さんの主催であれば何が何でも出席したかったので残念だ。しかし、その後、この会の当日の模様はライブ配信されるとあったので、早速ライブ配信の登録をした。
KAWASAKI Z 50th Anniversary Party - 2022.11.19. at Akashi in Japan
Z1は当時の二輪車事情からすれば画期的な二輪で、’72年に発売されたZ1が世界の二輪を代表する機種として君臨していく過程で、Z1の優秀性を市場にアピールすべくプロモーションが次々と計画され成功した。例えば、Z1が発売開始された翌’73年、デイトナスピードウエイでの24時間スピード記録挑戦したのも一例。その都度、Z1は驚嘆すべき性能を発揮し、主戦場だったアメリカ市場で、”Z1はパフォーマンスバイクの代名詞”となっていく。加えて、著名なチューナーによって更に性能向上され、過酷なレースにも耐え続けることで、持てるポテンシャルを如何なく発揮し、Z1の基本性能の優秀性と耐久信頼性を更に高め、「パフォーマンスバイクのZ1」の名を揺るぎないものとした。
今でも気に入っている写真の一つがこれ。
「’73 KAWASAKI-Z1 24時間 スピード記録挑戦時:デイトナ」
「Facebook 和田将宏さんの写真より転用: Kawasaki Z1 24 Hour Endurance Record at Daytona Motorspeedway 1973 with riders Masahiro Wada and Hurley Wilvert」
元カワサキロードレースワークスライダーの和田将宏さんがFacebookに投稿した貴重な写真だが、Z1が発売開始された翌’73年、デイトナスピードウエイでの24時間スピード記録挑戦時の写真とある。Z1の基本性能の優秀性と耐久信頼性を更に高め、「パフォーマンスバイク」の名を揺るぎないものとした。その過程中に実施されたのが、デイトナ24時間スピード記録。
販売して間もないZ1を、当時の「最も過酷なデイトナ24時間スピード記録に挑戦する」という、当時の先駆者達の自信と意気込みこそを、高く評価すべきではなかろうか。カワサキ単車事業の浮沈をかけた大勝負、カワサキの先駆者達の熱情と功績は見事と言う他ない。和田将宏さんは事もなげに当時の写真を投稿してくれたが、一見無謀と思える挑戦に挑むライダーの心意気にまずは驚嘆、そして無事成し遂げたライダーに乾杯だ。この写真から、先輩諸氏のZ1にかける思いがひしひしと伝わってくるし、優秀性において自信ある製品を如何に市場に認知して貰うのか、商品プロモーションの基本を、この写真は伝えている。つまり、ユーザーの心の奥にある心情に響かせ訴える効果の必然性。この意味をどう解釈するかは、其々の経験、思い、立位置によって異なる事は承知しているが、閉塞感を打破し抜け出る術、それは、「世の中をワクワクさせる仕掛け」ではないか。それにZ1は成功し続けた。
もう一例、Z1の優秀性の一端を示す別の貴重な一節があるので紹介したい。
その後のZ1は競争相手から常にマークされ、Z1がベンチマークとなっていくが、次の資料も、優秀な商品を開発し続けたチームが、如何にして開発したマシンの優秀性を市場に訴えたかの記録である。そのターゲットはZ1で、Z1の優秀性を認め、そして市場に訴求するやり方がZ1と類似なのが面白い。元スズキ二輪車設計責任者であった、横内悦夫さんが出身の宮崎で、宮崎日日新聞に連載した「
世の中の流れを変えよう」だ。個性豊かな技術者が多い二輪開発技術者が話る一節だから大いに説得力がある。下記は「世の中の流れを変えよう」の中から、文章の一節。
「昭和51(1976)年の・・・・以下略
マシンの速い・遅いは結局比べてどうかの話だ。・・・(略)テストの最終日は、夕方、私たちは一週間、3,200キロのテスト走行を終え、ロサンゼルスに戻った。翌朝、全員でミーティングを始めると、パフォーマンスバイクのことが話題になった。テスト走行の経過から見て、スズキGS750だと思ったのに、カワサキ900ccZ1がパフォーマンスバイクだという。この世の中で最も優れた速いバイクをパフォーマンスバイクと呼び、それがカワサキだというのである。」
「パフォーマンスバイクを考える上で、過去に私は貴重な体験をしている。
1972年10月、・・・・以下略 西ドイツでの走行テストが終わって、4人のヨーロッパのライダーたちとパフォーマンスバイクについて話し合ってみた。最初はまとまりのない話ばかりが続いたが、メンバーの一人が耐久レースの話を始めた。すると、みんな話に乗ってきた。耐久レースとは、24時間連続して走るという過酷なレースだ。中でも、フランスのル・マン24時間が有名である。」
「フランクフルトから南へ三十分ほど走ったヘッペンハイムだ。
まずはアウトバーン(高速道路)でテストしようということになった。この時代のアウトバーンはどこでも超高速で走ることができたからだ。時速200kmのスピードは、テストコースでは怖くないが、アウトバーンという混合交通の中では速度感がまったく異なり、恐怖さえ襲ってくる。橋などのわずかな路面の継ぎ目も、時速200kmともなると、大きな衝撃となって車体を突き上げる。これをきっかけに車体が左右に振られる。この挙動が増幅すれば、転倒という悲劇の二文字が待っている。一人乗りで問題ないことを確認した後、二人乗りでのテストに移った。ではなぜ、二人乗りで時速200kmもの高速テストを公道上で行わなければならないのか。答えは簡単で、数多いお客さまの中には、ほんのわずかだが、所有するオートバイにその能力があれば、時速200kmで二人乗りする人がいるからだ。私たち開発者が最初に考えなければならないのが、お客さまの安全を守ることなのである。」
「“安全で世界最速のパフォーマンスバイクを造ろう”が基本の発想だ。まずエンジンパワーが強力でなければいけない。半面、パフォーマンスバイクは、ただ速いだけでなく、乗り心地の面でもトップレベルでないといけない。大陸横断や縦断の相乗りロングツーリングで疲れの少ないものにする必要があるからだ。・・・(略)・・・ ’76年、カワサキZ1に対抗できる1000ccを造りたいとの要望が提案されていた。翌年の9月に、ほぽ目標通りのGS1000の最終試作車が完成。評価ライダー、その中には「スズキはパフォーマンスバイクではない」と言ったボブ・クレーマーもいた。例によって、ロサンゼルスをたち、サンフランシスコに向かう。ゴールデンゲートブリッジを渡り、レークタホで一泊。翌日カリフォルニア山脈の東を南下、国立公園ヨセミテの山間道で走行テストをした後、3泊4日の行動走行試験を終えた。バイクのことに詳しいボブ・クレーマーらに評価を求めると、「これは立派なパフォーマンスバイクだ」との答えを得た。次いで私は、GS1000を世界にアピールする手段を考えることにしたのである。」
以上はZ1をベンチマークとして開発されたGSX1000の話で、希有な設計者である横内悦夫さんの原文を多少端し折ってしまった事はお許し願いたいが、意図とするところは理解して頂きたい。今は良く知らないが、かってのAMAロードレースでは、どこのサーキットでもスズキのバイクが溢れ、スズキ主催のレースも開催され、スズキの草の根活動が成功し、米国市場で「パフォーマンスバイクといえばスズキのGSX」という時代があり、それは永く続いた、と記憶している。