野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

故郷、島原鉄道が経済誌に。

2022-10-19 06:20:03 | 故郷
18日の東洋経済ネット誌に「新幹線の恩恵ある?長崎を走る「島原鉄道」の現実」なる記事が投稿してあった。故郷島原半島を走る唯一の私鉄の鉄道”島原鉄道(島鉄)”の話題であるが、経済誌が田舎の鉄道を取り上げるのは珍しいので読んでみた。

 「西九州新幹線 かもめ」
要は、長崎まで新幹線(西九州新幹線 )が開通したので、さぞや島鉄の乗車客が増えるのではとの意見に島鉄の社長はやや懐疑的で、自助努力が必要でそうしてきたと言う。島原港から熊本港まで有明海を船で行けば最短30分程度。島原市からは長崎市よりも熊本市のほうが近い。遊びに行くときは長崎より規模が大きい熊本や博多に出る場合が多いそうで、例えば島原港から大牟田の三池港までの高速船を利用すれば博多はすぐそこにあるし、半島の多比良港と熊本の長州港等々を結ぶ複数の航路を考えれば、島原はその中心に位置するのだから、例えば熊本に拠点を置く九州産交との業務提携 がそうで、熊本から来た九州産交バスのツアー客専用で「しまてつカフェトレイン」なるが走っているそうだ。テレビCMに登場した島鉄・大三東駅も、以前は知る人ぞ知る駅だったそうだが、「しまてつカフェトレイン」をその駅で長時間停車させ、ホームで「幸せの黄色いハンカチ」を結ぶなどのイベントをするようにしてからメディアで取りあげられる機会が増え、「インスタ映え」のトレンドもあって、知名度が高まっていったという。更には、島原鉄道は2023年1月より、JR九州の豪華寝台列車「ななつ星in九州」のルートになると言う。

以前、このブログにも大三東駅(”おおみさき”と読む)を取り上げたことがある。マクドナルドの新しい商品のCMで、大三東駅のホームで女子高校生らしき四人組が海をバックにスイーツ を食べている風景だが、大昔、もう50~60年前の記憶にある風景と何ら変わらない風景に、故郷は今も時間が留まったままに感じたが、時空を楽しむには島原鉄道は最適な一つなんだと思う。
 
博多駅から特急かもめで1時間半少々、島原鉄道の起点諫早駅に到着する。改札口を出て、左端隅っこのホームにひっそりと島原鉄道線の黄色いディーゼルカーが乗客を待っている。JR長崎本線諫早駅から島原半島の中心地区島原まで走る島原鉄道で、半島の有明海沿いに走る私鉄の単線。諫早から島原に向かう道中、左手に有明海の遠浅がすぐ目の前に見え、右手が田んぼや畑。大三東駅は海岸沿いの駅で、こんな駅風景が諫早駅から島原まで続く。ホームの後ろに広がる遠浅の有明海は、日によって違う表情を見せて楽しく、開放的なこのホームでしばらく海を眺めるのも良し。この駅は、生家のある三会(みえ)駅から諫早方面の二つ前の駅で、急行が停車するので神戸に帰る際は、この大三東駅まで車(約15分程)で送って貰う。
   

また、2018年の2月15日放送された 「NHK 呑み鉄 島原鉄道」でも話題になった。俳優の六角 精児 さんが島原鉄道を紹介していた。 島原半島の名物食材、イイダコ、ガンバ(フグ)。ガンバはサッと湯通しして、氷水で身を引き締め、タレはダイダイ酢に薬味はニンニクの茎に梅干等を入れた思うが、皮の部分はコリコリして旨かった。田舎では 皿の絵柄が透けて見えるような「薄造り」は食ったことがない。だが何と言っても、ガンバ料理でこれは本当に旨いと思ったのは骨付きブツ切りの”がねだき”。から煎りしたガンバの肉厚の身を醤油、酒等に梅干しとニンニクで煮込んだ料理だが絶品。オコゼの吸い物も上品で旨いと思ったが、”がねだき”には遠く及ばないと記憶している。昔はガンバは安く、市内の漁師が自転車の荷台に積んで行商で回ってきた。それを一匹、近くの川でさばいてくれたが、今は目が飛び出すほど高いので食べないと言う。 また、米粒の入ったイイダコも旨い。昔は、イイダコも真蛸も、そしてタイラギも有明海の遠浅で普通に良く取れたが、護岸工事してから採れなくなったそうだ。こういう美味い素材も島原名物なので、是非紹介して貰いたいものだ。

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大三東駅 登場

2022-07-20 06:20:25 | 故郷
何気なく付けたテレビの広告に、故郷島原鉄道の大三東駅(”おおみさき”と読む)が出ていた。
マクドナルドの新しい商品のCMで、大三東駅のホームで女子高校生らしき四人組が海をバックにスイーツ を食べている風景だが、大昔、もう50~60年前の記憶にある風景と何ら変わらない風景に、故郷は今も時間が留まったままに感じた。
 

博多駅から特急かもめで1時間半少々、島原鉄道の起点諫早駅に到着する。改札口を出て、左端隅っこのホームにひっそりと島原鉄道線に黄色いディーゼルカーが乗客を待っている。JR長崎本線諫早駅から島原半島の中心地区島原まで走る島原鉄道で、半島の有明海沿いに走る私鉄の単線。諫早から島原に向かう道中、左手に有明海の遠浅がすぐ目の前に見え、右手が田んぼや畑。大三東駅は海岸沿いの駅で、こんな駅風景が諫早駅から島原まで続く。ホームの後ろに広がる遠浅の有明海は、日によって違う表情を見せて楽しく、開放的なこのホームでしばらく海を眺めるのも良し。この駅は、生家のある三会(みえ)駅から諫早方面の二つ前の駅で、急行が停車するので神戸に帰る際は、この駅まで車(約15分程)で送って貰う。ちなみに、この大三東駅は写真家愛好の場所になっているらしい。
    
島鉄の車体ボディは黄色だが、車体の横に描かているのは「島原の子守歌」。爽快に走る鉄道ではなく、ガタゴトと車体を揺らしながらゆっくりと走り、ディーゼル車らしく音も賑やかで、半島の経済力を表現しているようにも見える、のんびりとした観光列車だ。黄色の車体色に変わる前、我々が知っているのは、赤色の線があったような記憶があるが、復古版で昔の赤色の車体カラーが登場したとあった。島原駅のまた一つ手前が三会(みえ)駅で、三会と島原間は約4㎞。実家は三会駅から諫早方面に海沿いに歩いて約15分弱の距離で有明海のすぐそばにある。島原高校への通学は毎日雨が降っても自転車通学だったので、当時のディーゼルカーには乗ったことはない。

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長崎土産、一口香、カステラ

2020-12-25 06:14:51 | 故郷
長崎土産、「カステラ」と「一口香」を貰った。
共に好きなお菓子なので、写真に撮ってブログを書こうと棚に一時置きしていたが、いつの間にか開封され一部食べられていた。
 「貰いもののカステラと一口香」
 「佳好帝良: 匠寛堂HP]
カステラの銘柄には「長崎菓寮 匠寛堂」製の「献上 五三焼「佳好帝良」」と書いてある。
聞いたことのない銘柄のカステラだ。調べてみると、かなり前の「秘密のケンミンSHOW「連続転勤ドラマ 辞令は突然に…長崎県編」」で紹介されたとある。更には、皇室をはじめ各宮家へ毎年献上される「献上五三焼 佳好帝良」で有名なお店だそうだ。”五三焼カステラ” も知らなかったので、調べると、作ることが非常に難しく、高度な職人技が必要となるカステラの最高峰だそうだ。極めつけはカステラを「佳好帝良」と書く。これも知らなかった。お茶を入れて一口食べて見た。食べた印象だが、カステラ の 美味しさは充分にあると思うが、カステラ本来の持つ、ふわっと柔らかく噛むと少しもっちりした食感、そしてしっとりした重たさ、これらの点で言えば、田舎で長年食べていた”福砂屋”のカステラの方がやや良いかなと感じた。なにせ、長年、しかも幼少の頃に食べた記憶、ふくよかで、ねっとりとした上質感のある味とザラメが美味しいのは福砂屋だと舌が記憶してしまっている。だから、何時までたっても、これがベースにあるのでどうしようもない。あくまで個人的な主観なんだが、福砂屋のカステラの底に付いたザラメは特に旨く、これを最後に舐める、何にもなかった大昔、これがカステラの旨さ基準だと覚えてしまっている。

 「一口香:茂木一〇香本家HP」
一口香、これも好きな長崎のお菓子。中が空洞で有名なお菓子。今回貰ったのはゴマが裏面(表面?)についていた。長崎名物のお菓子と言えば、カステラの次ぐらいに有名なのが「一口香」。福砂屋の「カステラ」などのブランド菓子と違い、ごく普通に食べられるお菓子で、饅頭のような外見のカリッとした焼き菓子だが、特徴的なのが中身が空洞。今回の製造元をみると、長崎市の「茂木一まる香本家」とあった。田舎でよく食べていた「一口香」はこの茂木さんの味に近く、すこし皮が固く、中は本当の中空で表皮がすこし窪んでいた。食べると、少しゴマの香りがしたように記憶しているので、田舎の島原で食べてものに近く、旨いものだった。これは良かった。
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思い出した

2020-10-28 06:31:34 | 故郷
26日のNHK「ファミリーヒストリー」は、東京の漫才コンビ爆笑問題・田中裕二のルーツを取り上げていた。
終わりまで見ていたが、この番組、家系の関係者、関係するお寺や親せきを訪ね、かなり詳細に対象者のルーツを調べているので結構面白い。

して、今回の対象者田中裕二のルーツは、戦国時代の九州の雄、佐賀の龍造寺隆信の家来だったそうで、龍造寺が島津と闘って戦死したあと、龍造寺軍は離散敗走し、その家来たちの一部は牢人(牢人とは主家を去って(あるいは失い)俸禄を失った者をいう)となって、同じ九州の福岡・小郡に移住、その地で成功し、小郡の発展に大いに寄与したと解説があった。これを聞いてピクッときたのが、龍造寺が陣地を構えたり戦死した場所で、生まれ故郷の直ぐ近くだ。その場所には戦場跡供養塔が立ち、高校通学時には何時も見ていた。龍造寺軍は佐賀から島原半島の神代(こうじろ)に上陸して三会(みえ)に進出し沖田畷(ウィキペディア)にて戦ったのだが、その三会は私の故郷で、そして、沖田畷の戦いで 龍造寺隆信が本陣を置いたのが、三会城。三会城跡の高台は昔、通学した中学校の近くにあったのでよく覚えている。
   「中央上の三会小学校に通い、中学は龍造寺本陣跡の直ぐ近く、隆信が戦死した沖田畷は高校通学時の途中にあった。実家は三会郵便局から歩いて直ぐの場所」

沖田畷の戦いは、薩摩の島津家と佐賀の龍造寺家の戦いで実質、九州の覇権争い。
  沖田畷の戦い
龍造寺が薩摩の島津と九州の覇権を争い、島原半島の領有権を巡って戦ったのが天正12年(1584年)、龍造寺隆信は兵5万8000(2万5000の説あり)の大軍を率いて、当時の島原の城主有馬晴信と島津義久軍8000と島原の沖田畷(おきたなわて)で戦った。

「沖田畷の戦い」をウキペディア等で調べてみると、こう書いてある。
「天正九年(1581)、北進を目指す島津氏は肥後の相良氏を降し、肥後に勢力を伸ばしてきた。これをみた肥前島原領主の有馬晴信は龍造寺氏を離れ島津家に誼を通じた。これを知った隆信は、自ら三万の大軍を率いて島原に上陸、有馬氏の居城・日野江城を目指した。有馬晴信は島津家に援軍要請を出した。
晴信からの援軍要請を受けた島津家中では、地理不案内の島原への派遣に対し否定的な意見を出す家臣が多かった。しかし、島津義久は「古来、武士は義をもって第一とする。当家を慕って一命を預けてきたものをなんで見殺しに出来ようか。」といい、島原への派兵を決定。派遣軍の総大将には末弟で、島津家一の戦上手といわれた島津家久が選ばれ、脇将として島津忠長・新納忠元・伊集院忠棟・川上忠堅ら精鋭三千が有馬氏救援に派遣された。
●沖田畷の敗戦
 そして、天正十二年(1584)、島津・有馬連合軍六千の兵と龍造寺氏の大軍が、沖田畷で対峙した。沖田畷の地は大軍を展開することが困難な場所で、寡勢をもって龍造寺軍を迎え撃つのに絶好の地として家久が予定戦場とした地でもあった。 沖田畷付近で龍造寺軍の先鋒部隊が島津軍と遭遇、龍造寺軍は島津軍が小勢なのを侮り、物見も出さずに攻めかかった。策を秘めた島津軍は、たいした抵抗もせず、ずるずると後退し、勢いに乗った龍造寺軍は一気に攻め立てようと沖田畷の畦道をひた進んだ。 家久は龍造寺軍が十分射程に入ったのを確認すると、一斉に銃弾を撃ちんだ。思わぬ銃弾の飛来に龍造寺軍は先陣が崩れ、退却しようにも後続の軍が次々と続いてくるため身動きがとれず、狭い道の中で大混乱に陥いった。 龍造寺軍の混乱ぶりを見きわめて、島津軍は一斉に抜刀し、三方から龍造寺軍に攻めかかった。隆信は、進展を見せない合戦に苛立ち、自らが前線に立ち指揮を取ろうとした。この時、島津家久の家臣・川上忠堅の放った鉄砲弾が隆信に命中、龍造寺隆信は呆気無く五十六才の生涯を閉じた。一方、寡勢をもって、勢いにのる龍造寺氏の大軍を撃ち破り大将まで討ち取った、島津家久の作戦による大勝利であった。これで島津氏にとって九州制覇への道が 大きく開けたのである」
コメント (2)
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2020-08-14 06:27:42 | 故郷
今年の盆の話題は、コロナ感染を恐れて都会から田舎への盆の墓参りを自粛してほしいと、複数の知事さんがコメントしている事。
当方、田舎は長崎県の島原で、現役の頃は盆に帰省することも多かったが、引っ込んでからは外に出ることは極端に少なくなった。ここ神戸に住んで、特別に盆に実施すべき行事もなく、盆に入る前に部屋の内外を掃除するぐらいだが、それも年取ってからさぼるようになった。で、テレビに流れる「精霊流し」を見ながら、ちょこっとの田舎の盆を思いだしてみた。

田舎の盆に帰省する大きな目的は墓参り。
盆の時ぐらいしか墓に行くことはないが、墓参りは13日の午前中、墓の掃除から始まる。墓地に水道を引く前、ずっと昔は、直ぐ近くの温泉神社の上り下り急な石段をフーフー言いながら、水を貰っては掃除していた。草むしりと落葉拾いが終了すると、翌日の墓参り時の提灯を吊るす木枠を墓の前に設定して13日は終り。14日は、夕方涼しくなってから2個の提灯と線香をもって墓に行き、火をつけた蝋燭を提灯に立て、その提灯を木枠に吊るす。暫くすると、隣近所の人が線香挙げに墓参りに来るので、挨拶しながら、暫く団らん。頃合いを見て、近所や親戚の墓に線香を挙げ、それが済むと自宅に帰る。これを15日も繰り返す。そして、夜になると酒盛りが始まる。今は、近所のスーパーで出来合いの肴を購入しているが、だいぶ前までは、全部家族の手作りだったので、母達の作業は大変だったろうと思う。

15日、その年に初盆の家があると、午前中の涼しい時間に精霊船の提灯飾りが待っている。
長崎同様に島原でも「精霊流し」を行う。島原地方では、町内の何処かに初盆の家があると、精霊流しが実施されてきた。8月15日が「精霊流し」なので、前日14日の精霊船作りから駆り出される。
 島原の「精霊流し」

竹と麦ワラで作った長さ約10m強の精霊船全面に島原独自の切子灯ろうを飾り付ける、独特の精霊流し。聞くと、もう大分前から麦藁の入手が困難となっており、この麦藁調達が一仕事らしい。14日午前中、精霊船作りはベテランの漁師さんが造り手の棟梁となって、分業で進む。今はどうか知らないが、約40年以前は、広い敷地の家の庭先を借りて涼しい木陰で酒を飲みながら作業だったと記憶している。明治の頃は、実家の庭(少し広い)を精霊船作りに提供していたらしく、当時実家が酒屋を営んでいた事もあり、酒は不自由しなかったとは、精霊船つくりの年寄りの昔話。精霊船造りは、炎天下汗だくの半日仕事だ。船の名前は「西方丸」。油紙に「西方丸」と書いた帆をかかげる。初盆の家には、近隣や親戚から贈られた灯篭が座敷一杯に天井から吊り下げられている。だいぶ前までは、丸提灯だったが、今は切子灯籠に変っていた。15日の昼前に、贈られた切子灯籠を車に積んで(数が多いので、これが大変な作業だ)、出来上がった精霊船に灯籠の飾り付けが始まる。切子灯籠なので、灯籠同士が絡まらないように、またお世話になった人の優先順序に従って、精霊船の先頭から順番に灯籠を取り付ける。まだ、日中の暑い盛りの作業で、飾る灯籠の順番を確認しつつ、ビッショリと付く汗を拭き取りながら、初盆の家の数に応じて、飾る灯籠の数を決める。初盆が一軒なら、船に飾る灯篭全部を初盆の家がだす、そのくらい切子灯篭を貰っていた。

担ぎ手は、近所や親類の若手が主に担当するが、兄弟で一番若いこともあり、担ぐことになった。集まる担ぎ人には、ビールが出されるので担ぐ前から疲れてしまう。町内会会長の合図で動くことになるが、結構の重さだ。担ぎ手の「ナマイドー(南無阿弥陀仏)」の掛け声の中、精霊流しの集合場所に行く途中、初盆の家で一度立ち止まり、また酒がでる。流し場までの道中、約1㎞ほどあるが、「ナマイドー」、「ナマイドー」と繰り返しながら進む。精霊船には初盆の家や近所の家から提供される盆の供物も一緒に積み込む。また、船の舳先から横に設置してある、竹製の線香立てに線香を立てる。以前は、丸提灯だったこともあり提灯のローソクに火が入ると、担いだ精霊船が大きく揺れるに伴い提灯も揺れる。運が悪いと、提灯に火がつくこともあったが、今の切子灯籠になってから担いでいても灯籠の揺れが少ないようだ。

市役所で事前に決められた指定の洗切波止場に、地区の精霊船が集結する。
早く着いた順番に満潮時の海に流す。有明海は遠浅なので、満潮にならないと船は沖に出せない。精霊船の数は約10隻位だったと記憶しているが、洗切波止場に着くと既に暗くなり、着くと同時に爆竹が破裂する。爆竹は、精霊船が着くごとに鳴らされ、終了するまで続く。満潮になり潮が寄せてくると、レコーダーのマイクから読経が流れ、精霊船は岸辺を離れて、西方浄土に向けて静かな暗闇の海面に流される。海に入ると、漁師の船で沖合まで曳航し、暫くは沖合に止めるようだ。その後、精霊船は浜一か所に集められ燃やしてしまうと聞いた。自分が小さい時代は、地区ごと集めることはせず、町内毎の決めた場所から、若手が泳いで沖まで精霊船を連れだし、その後漁師の船で沖合まで引航していた。満潮から引潮にのって、精霊船は可なりの沖合まで流れ、熊本近くまで辿り着く船もあったようだ。夜の沖合に、何隻もの精霊船が灯籠に灯をつけたまま、漂流している姿は幻想的だ。満潮時の潮が打ち寄せる音と、海の砂には青く光る生物が波の動きに同調して動く様子は、まことに持って幽玄の世界だった。

大堤防ができた後、砂浜は無くなってしまったので、この光景はもう見れないが、以前は暫く船をそのまま漂流させていたので、翌日の満潮時には近くまで精霊船が何隻か流されてくる場合がある。これが、泳いで行ける場所にあるので、格好の遊び場だった。こうして盆は終る。
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九州、「大雨特別警報」

2020-07-08 06:17:52 | 故郷
ここ数日、梅雨前線が九州地方を中心に停滞し、九州地方は大雨洪水で大きな被害が出ている。
当方、神戸・明石地区は時折大雨がザ~と降る時もあるが、総じてうっとうしい梅雨空の気候に、部屋の中もじと~とする程度で、心配事と言えば、阪神・巨人戦中止を嘆く程度で至って能天気に過ごしている。

NHK
毎日、朝から、九州地方の被害状況をNHKや現地の新聞社・現地FBから流れる被害状況を眺めている。
九州は生まれ故郷なので、被害発生地域の名前は知っているのでビックリ仰天しながら、まるで映画を見るように驚いている。4日、記録的豪雨で熊本県南部を流れる1級河川・球磨川が氾濫し、流域の人吉市や球磨地方など広い範囲で浸水被害が出た。人吉市から車で20分程の距離にある錦町は女房の郷で、数キロの側面には球磨川が流れている。その近辺は絶滅危惧種になっているツクシイバラの原生地域でもある。FB「球磨川ツクシイバラ」から球磨川の増水状況が刻々と投稿されてくるので、随時状況はよくわかる。球磨川が氾濫し人吉市街が水に浸かっている場面がテレビに流れてきた。大きな被害が発生した場所は、球磨川と川辺川合流地域から下流地区の、人吉市街から八代に掛けての地域が大洪水の被害にあっている。で、錦町の女房の里に電話するも繋がらない。暫くたって再度電話すると、繋がった。人吉市街は水浸しになっているが、その上流は広い人吉盆地の繋がりで、球磨川幅は広く水の流れは緩い場所。人吉市・錦町全域に避難勧告が発令されたので一時避難していたが、小康状態になったので、一時帰宅すると自宅は床下浸水で済んだようだ。錦町は球磨川と川辺川の合流地点より更に上の地区なので、この程度で済んでよかった。

日本三大急流の一つといわれ「暴れ川」の異名を持つ1級河川・球磨川は過去にも度々洪水被害をもたらしている。治水などの理由で川辺川にダムを作る計画が進められたが、中止となった。だから、球磨川はもともと氾濫しやすい構造となっていたのが、今回はそのリスクが大きな規模で表面化してしまったようだ。普段の球磨川は熊本県南部の山間部を大きく蛇行しながら流れ、八代海に至るが、標高が高い山間部に源流があるため流れが速く、多くの支流が流れ込み流量も多いことから日本三大急流と呼ばれる。しかし、夏場の球磨川の水は青色から緑色で綺麗。アユ釣り場としても超有名で九州内外からの釣り人も多い場所で、大学のボート部の練習場所にもなっている川でもある。

で、人吉の状況をテレビで見て心配した私の生家島原から電話があり、「錦町は人吉の程の被害はなか、床下浸水ですんだと」と伝えての翌日、今度は梅雨前線が九州上方に移動し、福岡県・佐賀県・長崎県に「大雨特別警報」が発令された。NHKのテレビを見ながら洪水の発生地区の被害状況を確認すると、1時間に110ミリの猛烈な雨が降ったようで、長崎県では長崎市、諌早市、大村市等に大雨特別警報が発表された。島原市は大雨特別警報地区から外れている。それでも島原半島の中央にある雲仙岳の雨量は一時期50㎜/h近くになっていたので、かなりの雨が降ったはず。

そのテレビを見ながら、諫早大水害の恐ろしい記憶が蘇った。
wikipedia、諫早大水害」によると、1957年7月25日から28日にかけて、長崎県諫早市(島原から1時間弱の距離)を中心とした地域に発生した集中豪雨だが、私は小学生だったと思う。24時間降水量が1,109mmという驚異的な降水量を記録し、6時間降水量と12時間降水量では日本歴代最高記録を記録したと書いてある。ちょうど、夏休みに入ってすぐ、昼寝していると、猛烈な雨が降り続き一向に止む気配なし。その雨も半端な状態ではなく、結局、有明海沿いにある家は床上浸水の被害となった。後にも先も途轍もない水害だった。川の堤防が崩れ、すぐ近くにあった家の田んぼは流され、その復旧に相当時間がかかった。また、豪雨が治まり、すぐ下の潮の引いた遠浅の有明海に行くと、海岸に打ち上げられ死んでいた家畜類が数匹、そんな記憶がある。九州に住んでいると、毎年何らかの台風は通過するので別に驚きもしないが台風通過時の海の荒れようといったら半端ではない程怖い。堤防を乗り越え、海水が家の周りの畑に打ちあげてくる。今では、海岸に沿って大堤防が築かれているので、昔程はないにせよ、台風の通過道にあたると怖いもんだ。だが、神戸・明石に住んで、大震災の恐怖は味わったが、台風や水害の恐怖はここでは経験していない。が、あまり経験したくもない。
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島原、プラタモリ 

2020-03-16 06:23:07 | 故郷
14日のNHKブラタモリ「島原・天草~なぜキリシタンは250年も潜伏できた?~」を見た。
NHKの案内には「熊本県・天草と長崎県・島原。2018年「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界文化遺産に登録されたこの地域で、明治まで約250年もの長いあいだ「潜伏キリシタン」が信仰を守り続けることが出来た秘密を探る▽キリシタンの知恵を探して崎津の町を歩く!」とある。

番組での、熊本県天草島の隠れキリシタンが250年の長きわたり何故生き延びることが可能だったかの説明では、隠れキリシタンは村と共存しながら生き延びてきたことが要因の一つだとあった。天草の後、船はすぐ近くの島原半島「島原・天草一揆」の最終激戦地となった原城跡近くに到着。幕府軍約12万(NHKの解説はそうだった?)に対し原城に立てこもる約3万7千のキリシタンとの戦いで、キリシタンが約4ヶ月に渡り戦えた要因の一つが、原城内にある水が湧く池の存在が大きいと解説があった。その池は原城の海の近傍にある。原城周辺は、かって約9万年前の阿蘇山の大爆発の際に発生した火砕流(阿蘇から原城迄の距離約97.4㎞(グーグルマップ))の堆積から湧き水ができたと解説があった。聞いていて、火砕流と湧き水発生の関係が今一つ理解できなかった。
  
  
阿蘇の巨大噴火によって発生した火砕流が有明海で冷やされながら原城近辺まで到着したとを初めて知ったが、これには大いに驚いた。
   「番組で紹介されていた阿蘇の大爆発で発生した火砕流の流れ」

湧き水と言えば、原城から北方、島原半島の中心、島原は湧き水で有名な場所。
島原市には70ヵ所を超える湧水地があるが、湧き水発生要因の一つが1792年の島原半島中央にある普賢岳噴火とその前にある眉山の大崩壊による偶発地震で誘発された事は有名。眉山崩壊直前の地殻変動によってできた地割れ部分から湧き水がでたという。島原の市街地の地下は火山灰層などが蓄積した難透水層と、水を通しやすい砂れき層が交互に重なった帯水層になっているので、それが雨水を吸い込み、地下水を作り出しやすい状態となっていると聞いたことがある。しかし、原城地区は9万年前の阿蘇の大火砕流の堆積によって発生したとNHKの解説にあったが、原城内の池の湧き水と島原の湧き水発生要因とはどのように違うんだろうかよく理解できなかった。

原城と言えば、同じNHKの「英雄たちの選択」でも「島原の乱 」を過去、取り上げている。
当時のNHKの番組説明によると、「日本史上最大のキリシタン一揆、島原の乱。今も、原城からは、おびただしい数の人骨が見つかっている。その後の歴史を変えた天草四郎と松平信綱の命がけの対決・島原の乱に迫る。日本史上最大のキリシタン一揆、島原の乱。天草四郎のもと蜂起した一揆軍約37,000人が立て籠もった原城」。そのテレビ番組を見た際の印象を、本ブログに書いたこともあるので再投稿してみたい。

私は九州を出て、生まれ故郷は島原だと言うと、何故だか天草と混同されることが多く、九州外では島原も天草も一緒にみられているようだった。実際は、島原は肥前長崎に属し、天草は肥後に属するから全く関係ないけれど、島原の乱発生と同時期、天草地方にもキリシタン一揆が多発し、これらが一色単にされ「島原・天草の乱」としてまとめられた事で、島原も天草も同じと混同して覚えられていたのかもしれない。あるいは「島原の乱」の首謀者天草四郎による「天草」の名前の影響があったのだろうが、何れにして島原と天草は言葉も習慣も違う。

「島原の乱」後、江戸幕府は「キリシタン禁教令」を発令し、表向きは全面的にキリシタン信仰を否定し多くの信者を処刑する迫害を行ったが、実際は隠れキリシタンとして生き残っていた。役人は色んな理由をつけて裏では容認していたようだ。島原地方には、「隠れキリシタン」に纏わる墓は多く存在しており、それは身近にもあった。例えば、田舎の実家の菩提寺は禅宗曹洞宗の「晴雲寺」だが、ここにもある。当時、「禁教令」の発令によってキリシタンの捜査や摘発、強制改宗政策が実施され、キリシタンは強制宗門替えを強要されたが、その受け皿の一つを担当したのが晴雲寺だったらしいと聞いたことがある。だからかどうか別にして、この寺の山門をくぐって右奥に「隠れキリシタンの墓」があり、裏に回ってみると十字が石に刻んである。法事で寺へ行き度に何度も見たが、今ではガラス箱内に収めてあるそうだ。

もうひとつ、現存していないので記憶の範囲内でしかないが、実家の近くに島原鉄道が走っている。小中学校時、その鉄道傍を歩いて通学していたが、鉄道沿いに小さい石の地蔵があって、それにも十字が切ってあったと記憶がある。だいぶ前、法事で帰省した際、その話を肴にして兄弟で酒を飲んだが、鉄道の直ぐ傍に国道が出来た際、無くなってしまったようで、記憶の範囲でしかない。

ところで、島原の乱では一揆軍は37、000人、攻める幕府軍は約13万と言われている。あんな狭い所に両軍合わせて約17万人(ウキペディアではそうなっている)(ちなみに、島原半島の中心、島原市の現在の人口は約4.6万人)が集結したとなると信じがたいが、一揆軍は敗北後、老若男女全員殺されたので、その後の島原は実働労働力が不足した。乱制圧後、この地に移住させられたのが四国等からの住民で、移住してきた四国の人たちの食べ物一つに、ケンミンショーでも紹介された「イギリス」という、今では島原の有名な郷土料理がある。喰ってもあまり美味し料理では決してないが、遠潮の有明海でとれる海藻を基本に作った料理だ。
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一口香

2020-01-29 06:27:18 | 故郷
近くの生協で九州物産の販売をしていたのでめぼしいものがないかと暫らく眺めていたが、「一口香(いっこっこう)」が展示してあったので買った。「一口香」は長崎名物、故郷島原でも生産販売していたので、何度も食べたことがある。生協のフロアーには、他にも「黒棒」や「 兵六餅」「ボンタンアメ」「からいも飴」などの好物が並んでいたが、やはり先に手が出るのは「一口香」。

「買ってすぐに半分無くなった一口香」
長崎名物のお菓子と言えば、カステラの次ぐらいに有名なのが「一口香」。福砂屋の「カステラ」などのブランド菓子と違い、極普通に食べられるお菓子で、饅頭のような外見のカリッとした焼き菓子だが、特徴的なのが中身が空洞。今回の製造元をみると、雲仙市の国見町(昔の多比良町)の菓子屋(牧瀬製菓)製造の製品とある。食べてみると、田舎の島原で食べていたものと少し違う。8個入り200円。記憶では大体が10個入り200円だったように覚えているので少し高い。国見町と言えば有名なサッカー選手を輩出した国見高校の地元だが、直径約6.5cmと中くらいの大きさで、外形は平たいけど肉厚で中は本当の中空ではなく食感はソフト。ショウガ味がした。島原で食べていたものは、もうすこし皮が固く、中は本当の中空で表皮がすこし窪んでいた。食べると、少しゴマの香りがしたように記憶している。どちらが美味いかは、食べた記憶だけだけど、どちらも旨い。が、食べた食感と味が少し違うが、好みを言えば中が中空の方が良いかなと言う範囲。

早い話、どうでも良いことなんだが、この時期、生協西明石の展示場ではチョコレートの占拠率が高くなっている。しかし店を見ていると、チョコレートより九州の菓子を見ている買い物客が多い。北海道物産展だと六花亭のチョコに手が出るし、九州物産では大昔、小さい頃に食べた100円前後のお菓子をついつい買う羽目になる。そうは言っても、近くのスーパーでは九州か北海道の物産展が多く他は見ることも少なく、時には名古屋物産の「青柳ういろう」や「あわ雪」も食べて見たい。
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えーっ!

2019-12-16 06:20:01 | 故郷
12月12日の日経に、「三菱重工、長崎の主力造船所を売却 業界再編が加速」として、三菱重工業は長崎造船所を売却すると報道があった。日本の造船業は中国や韓国との価格競争に太刀打ちできず、多くの造船所が再編の渦中にあることぐらいは知っているが、まさか、三菱の長崎造船所が売却の対象になっているほど悪いとは、大いにびっくりした。三菱の長崎造船所は三菱の創業の地でもあり、戦艦武蔵を建造した、長崎県人が誇りにしてきた場所だけに、「えーっ」と唸ってしまった。

この話は、2014年の12月23日の日経にも、「三菱重工、国内造船と連携探る 」とあったので、動向は気にして新聞を読んできた。5年前には、長崎造船所の造船事業を分社化する計画にあるとのことだった。当時、話題となっていたのが三菱の大型客船の設計変更などで多額の損失が発生するなか、防衛部門を残して民間向け造船部門を切り離し収益性の向上を図ると記録している。

長崎といえば長崎造船所、かって三菱の中心骨であり、長崎造船所出身者が三菱の社長への道だった場所。そこから三菱造船の名が消えるかもしれないと、長崎県出身者としては憧れの造船所でもあったので、FB「Nagasaki365」にあった、落日の長崎造船所造船ドックの写真が寂しそうに写っていたのを記憶している。まさか造船所を売却するとは思いもしなかった。
2014年、三菱長崎造船所ドックFB「Nagasaki365」
  「FB Nagasaki365」」

日経にはこう書いている。
「三菱重工業は創業の地である長崎市内に持つ2つの造船所のうち、主力の香焼(こうやぎ)工場を売却する。造船で国内3位の大島造船所(長崎県西海市)に売却する方向で、売却額を含めて調整中だ。三菱重工は液化天然ガス(LNG)など大型資源運搬船の建造から実質的に撤退する。造船業界では中国・韓国勢が統合に動いており、国内でも業界再編が加速する。(略)三菱重工は18年の建造量で80万総トンと国内4位(単体ベース)。商船部門の事業売上高は約1000億円だ。

売却する香焼工場は1972年に本工場(長崎市)の近隣に開設した。1200トンの超大型クレーンを1本、600トンのクレーンを2本持ち、ドックの長さは1キロメートルと国内最大級の規模を誇る。近年は付加価値の高いLNGなど大型資源船に特化してきたが、LNG船は9月を最後に生産が途絶えている。香焼工場の売却後は防衛省向けの護衛艦が中心の本工場と、フェリー建造の下関造船所(山口県下関市)の2工場に注力する。競争力のある船種に絞り込み事業を大幅に縮小する。

買い手の大島造船所は長崎に本社工場を持つオーナー系企業。鉄鉱石や石炭を運ぶばら積み船の建造に特化している。17年には三菱重工と提携した。香焼工場を含めた2拠点で生産を効率化し、中韓勢に対抗するとみられる。環境規制に対応し、三菱重工の持つ技能者や環境関連技術を取り込み、建造船の高機能化を図る狙いもあるようだ」
     「日経」
  、
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 島原鉄道

2019-06-24 06:18:52 | 故郷
6月22日のFB”Nagasaki365”に投稿してあった、「島鉄に乗る」の写真。
 
博多駅から特急かもめで1時間半少々、島原鉄道の起点諫早駅に到着する。改札口を出て、左端隅っこのホームにひっそりと島原鉄道線に黄色いディーゼルカーが乗客を待っている。JR長崎本線諫早駅から島原半島の中心地区島原まで走る島原鉄道で、半島の有明海沿いに走る私鉄の単線。諫早から島原に向かう道中、左手に有明海の遠浅がすぐ目の前に見え、右手が田んぼや畑。上の写真は、海岸沿いの駅で、こんな駅風景が諫早駅から島原まで続く。ホームの後ろに広がる遠浅の有明海は、日によって違う表情を見せて楽しく、開放的なこのホームでしばらく海を眺めるのも良し。
例えば、下記写真は島原鉄道HPにある大三東(おおみさき)駅。この駅は、生家のある三会(みえ)駅から諫早方面の二つ前の駅で、急行が停車するので神戸に帰る際は、この駅まで車(約15分程)送って貰う。この大三東駅は写真家愛好の場所になっているらしい。
   大三東駅

島鉄の車体ボディは黄色だが、車体の横に描かているのは「島原の子守歌」。爽快に走る鉄道ではなく、ガタゴトと車体を揺らしながらゆっくりと走り、ディーゼル車らしく音も賑やかで、半島の経済力を表現しているようにも見える、のんびりとした観光列車だ。黄色の車体色に変わる前、我々が知っているのは、赤色の線があったような記憶があるが、今、復古版で昔の赤色の車体カラーが登場したとあった。島原駅のまた一つ手前が三会(みえ)駅で、三会と島原間は約4㎞。実家は三会駅から諫早方面に海沿いに歩いて約15分弱の距離で有明海のすぐそばにある。島原高校への通学は毎日雨が降っても自転車通学だったので、当時のディーゼルカーには乗ったことはない。
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