今年、2019年の鈴鹿8耐事前合同テストが6月3日から公開されている。
メディアが投稿する各チームの動きやタイムを見ながら、鈴鹿8耐といえば、こんな時代もあったな~と思い出した。
「’97年鈴鹿8耐 カワサキ・ストップ・ボート:花は桜、男は川崎」
いまでは想像すら出来ないが、こんな時代も確かにあった。'97年カワサキワークス8耐チームは3チームを出走させ、武石選手と梁選手が組んだ「ラッキーストライクカワサキ#2」がカワサキ勢最高位の3位となった。有名なアメリカの煙草メーカー「ラッキーストライク」のスポンサーを再び得て、カワサキワークス3チームの内2組を「ラッキーストライクカワサキ」で出走させた。「花は桜、男は川崎」のストップボードは当時の「カワサキレーシングチーム#7」の物で、カワサキロードレースが華々しく戦っていた時代だが、「男は川崎」と言っても、「ラッキーストライクカワサキ」の外人モデルがチームに花を添えた。当時、「ラッキーストライク」はカワサキとスズキをスポンサードしていたが、大広の担当者曰く、「カワサキさんに良い方のモデルを持ってきた」なんだそうだ。確かに群を抜いて目立っていた。当時のB&W(ラッキーストライクの販売元)の東京本社には何度も訪問した。当時の責任者から、彼らが思い描くカワサキブランドのイメージと何故彼らがカワサキをスポンサードするか等を教えてもらった。当初、カワサキワークスは「ラッキーストライクカワサキ」の2チームを出走させる予定だったが、数年来スポンサーロゴカラーばかりのカワサキに、やっぱりカワサキはライムグリーンだよねの一声で、急遽、「カワサキレーシングチーム」を結成し、カワサキワークスは3台のワークスマシンを出走させた。
’93年、カワサキが8耐に初めて優勝した、その年の初頭からカワサキのロードレースチームの技術部隊をも総括する立場で、レース現場から引退したのが’97年、その5年間、常に8耐表彰台を獲得し続けた。それ以前までは、カワサキワークスにとって8耐表彰台は随分と遠かったが、これを機に8耐の相手を常勝ホンダに焦点をあわせた時代へとなっていく。当時、日本の各二輪企業は、鈴鹿8耐の過酷なサバイバルレースを生き残る作戦上、2~4台の複数のワークスチームを構成し出走させていたので、出走総数70台のうちワークスチームは計2~3台だけの昨今の8耐と違って、計10チーム以上のワークスチームが参戦ししのぎを削る中、常に表彰台を確保できたのはひとえにチーム員のお陰だ。
8耐と言えば、6年前の2013年6月12日、こんなブログを書いていた。
「KAZEvol.84」
「「KAZE」vol.84に掲載された、鈴鹿8耐特集の写真の一部を紹介したい。鈴鹿8耐はスプリントレースとほぼ同等ラップタイムで8時間走り切る競争だが、燃料タンク容量の制限もあって、給油のために6~7回のピットインを要する。ピットイン、アウト前後のロス時間(とはいっても数10秒だが)と交換直後のタイヤは本来の性能を発揮しないので、給油時の周回タイムが若干遅くなる。それらも考慮しながら、8時間をミスなく誰よりも早くゴールしたチームが勝ち。勝つためには、ライダーの組合せは最も大事な要素だが、世界のトップライダー同士の組合せが必ずしも勝てるものではなく、組織の団結とチームワークを最も必要とする。とにかくミスせず、どのチームより速い周回タイムで、給油前後のタイムロスも少なく、8時間走行するには、優れた組織とマネージメントを作り上げることが大事。そうは言っても、梅雨が明け、連日35度を超す炎天下、生き物のようなタイヤ消耗を考慮しながら走るのは、テレビで観戦するとは大きく異なり、そう簡単な事では決してなかった。レース現場を支えるソフト部隊の活躍も重要で、ライダーの疲労回復や何時から雨が降る可能性があるかなど「ウェザーレポート」がない時代に他チームより早く情報を得る方法等、やるべきことは一杯あった。 日本の二輪企業はそれぞれ精鋭化した複数チーム作り上げて戦うので、各チームとも極度な緊張状態になる。
まさにサバイバル戦、だから、各企業のワークスチームは一台でも生き残らせるために、複数台のワークスチームを参戦させる必要があった。’97年8耐時、カワサキは3チームが参戦した。 話は変るが、面白いもので、チームにスポンサーがつかないと実力がないからだと嘆き、スポンサーが付いたらついたで、やっぱりカワサキはライムグリーンだよと言うのが上席の独り言。だから、スポンサーがついてもスポンサーに相談しながらライムグリーンを何処に入れるかを苦心した。で、’97年は、メインスポンサー「ラッキーストライクカワサキ」を2台設定し、3台目をライムグリーンの「kawasaki racing team」とした。ところが、3チームを組織化し8耐に参戦するのはいいが、ロードレースチームにはそれを充足するメカニックも技術員もいない。そこで、同じ組織内にあったモトクロス部隊から大挙して応援することになる。(当時某社は3~4チームほどを参戦させていたが、事務屋まで8耐のピットクルーに借り出したと直接聞いたことがある)」
「#1(クラッファ+柳川)、#2(武石+梁)、#7(ライマー+ボンテンピ)」・・「花は桜、男は川崎」・・「ラッキーストライクカワサキキャンペーンギャル」
(上左)#2チームのライダー交代:ストップボードを持ち、周辺整理を指示するメカニック長の和田修さん。(上右)武石から梁にライダー交代しGo指示の和田さん (下)#1チームのライダー交代:給油担当の三浦さん、前輪タイヤ交換担当の戎さん、後輪担当の今田さん、ボード担当の柳川さん、三浦さんの後方にMSの音頭さん、雨合羽はMXから応援の吉田さん(と思う)
(左)#1チーム給油作業中の三浦さん (右)予想周回等の計算は電装の川村さん
左端は走行直前のT・ライマーに注意説明の荒木さん、その後方にMX土橋さんとKazeギャルを挟んでMX田澤さん(現チームグリーンMX監督)
(左)最終走行中の#2 梁選手、 (右)手を合わせる相棒の武石選手とメカニック、後方脚立上は画面注視の安井さん
#2チーム:ゴール時ピットの藤田さん、黒川さん等 (右)表彰台の「ラッキーストライクカワサキ」の3人
(左)打ち上げ時のビール掛け:「ラッキーストライクチーム」監督の高田さん、中央後方に「kawasaki racing team」監督のMX土橋さん、右端にMXの土肥さんの顔 (右)武石選手と梁選手を祝福する私
★戦況を見つめる現場指揮官の安井さん