野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

「KX40周年を祝う有志の会」・・・番外編(2)

2013-11-29 06:13:09 | 二輪事業
 「「KX40周年を祝う有志の会」・・番外編(2)」
Kawasaki Motors Corp.(KMC)R&D所長をしている横山さんが、KMCからのビデオレターを明石に送信した際、
'70年代のR&D関係者のメンバーが集合したので、その際の懐かしい写真をメイルしてくれた。記録しておこう。
当時から、技術部の出先機関である、KMC R&Dは日本の担当技術部と密接に連絡をとりながら
米国のロードレース&モトクロスワ-クスチームを運営していた。以下は横山さんからのメッセージからの転用。

   『初代R&Dメンバーの集合です。
          

    下の写真で自分がどこに写っているか指してもらいました。
    当時のR&D所長はシド斉藤さんとのことです。昨年にZ1リユニオンをKMCでおこないましたが、そこで初めてお会いしました。   
           「ランディー・ホール」
           「ブライアン・ファーンズワース」
           「ティム・スミス」

    ランディー・ホール(最上段写真)さんは、モトクロスというよりもロードレースを担当していた方でした。
    彼は今年のサンディエゴSXにて、初めてお会いしました。
    ノームに紹介されたとき一目で昔の集合写真に写っている人だとわかりました。

    この冷蔵庫は、もともとティム・スミスさん(初代レースチームマネージャー)の家にあったものらしいです。
    いまは、KMCのミュージアムに飾ってあります』
              
   
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「KX40周年を祝う有志の会」・・・番外編(1)

2013-11-28 06:10:02 | 二輪事業
 「「KX40周年を祝う有志の会」・・番外編(1)」

元カワサキワークライダー伊田井佐夫さんのブログ「KAMIKAZE130伊田井佐夫オフィシャルブログ」に
カワサキKX 40周年! KAWASAKI KX the 40th anniversary!」として、
「KX40周年を祝う有志の会」の模様を取上げていたので、私のブログにも記録しておこうと思う。
以下は伊田さんブログからの転用。


    『「カワサキKX誕生40周年を祝うパーティ」が、兵庫県西明石でおこなわれ、元ファクトリーライダーとして出席した。
     カミカゼは、20歳代だった1979年から4年間、カワサキファクトリーで明石に住んだ。ひたすらKXの開発テストとレースの4年間だった。    
     パーティでは、その当時の懐かしい関係者の方達と再会でき、感激だった。
 
       
       ↑ 左から 大津信さん、財部(たからべ)統郎さん。御2人とも今はリタイヤされたが、
         当時はカワサキ単車事業部の幹部で、契約時など色々お世話になった。
         (カミカゼの名札の字が・・・正しくは 伊田井佐夫 です。)

       
       ↑ 元ライダー陣、右から 花田茂樹、岡部篤史、立脇三樹夫 各氏談笑。

       
       ↑ 懐かしい再会は 川重OBの池内悟氏。転職して今は保険業だそうだ。

         
       ↑ 後ろは、当時『みかん山』で一緒にテストをしたブラッド・ラッキーがカミカゼにくれたFOXジャージで、
         これに名前とゼッケンを入れ、さらにサインしたものを、現在プロストックの貴島社長が所有する。

     会場では 『現役ライダー』と紹介され、諸先輩方から『ワールドVETで益々ガンバレ!』と激励をいただいた。ありがとうございます。


                
★(管理人追記)往年のカワサキワークスライダー:左より岡部篤史選手、立脇三樹夫選手、伊田井佐夫選手、野宮修一選手
          (中尾省吾さんのブログより借用)                                            
●岡部篤史 :カワサキワークス(’84~’92) ’85年125cc+’87年125cc+’88年125cc+’89年250ccチャンピオン 
●立脇三樹夫:カワサキワークス(’78~’86)
●伊田井佐夫:カワサキワークス(’81~’83) ホンダに移籍し ’86年125ccチャンピオン
●野宮修一 :カワサキワークス(’76~’83)
                         
                                                    
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「KX40周年を祝う有志の会」・・・その9

2013-11-27 06:10:39 | 二輪事業
 「「KX40周年を祝う有志の会」・・集合写真」

        



                                    
                                        2013年 11月16日
                              世話人:大津信 安井隆志 和田修 増田智 立脇三樹夫

               









                  
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「KX40周年を祝う有志の会」・・・その8

2013-11-26 06:11:21 | 二輪事業
 「「KX40周年を祝う有志の会」・・寄稿集⑦」

                       「社誌に載らなかった社史 (続編)」
                                              眞田 倬至(KYB(株)OB)
 
        
        平成18年版・役員OB文集に“社誌に載らなかった社史”を紹介し、その時の恩人に何時か再会したい思いを述べました。
        去る6月15日、永年の夢が実現したのが上掲の写真です。背景の建物は彼らの地元近くにある、16世紀に造られた
        古城です。41年ぶりの再会にはPettersson氏(私の右・手前)、奥様、二人の子供の夫婦と孫たち8人が、Strangunus
        (Swedenの首都、Stockholmから西に100km)で温かく私を迎えてくれました。 私の良き遊び相手だった坊や(写真
        右から2番目)も今や45歳です。彼も父親の血筋を継ぎ、Sweden MX125㏄のチャンピオンになったそうです。
    
        1972年、得意先から酷評を受けていたカヤバの2輪車用緩衝器に対し「世界一の商品を見つけ出せ!」と、上司から
        重い責任と種々の試作品を背負いながら世界を80数日間放浪。まだ粗削りのDe Carbon式ガスダンパーのポテンシャル
        を見出してくれたのが唯一、Pettersson氏(K社契約・元MX世界チャンピオン)だった。 これが契機となって2輪車用ガス
        ダンパーの開発が始まった。この後、数年の歳月と一切の妥協を許さない上司の指導、それに優秀で忍耐強い同僚たちに
        よって手が加えられ、先に商品化されていた4輪車用ガスダンパーとは似ても似つかぬ製品に仕上がった。究極の性能を
        要求されるレースマシンから始まり、高性能な2輪車にはガスダンパーが装着され今日に至っている。彼の一言がなければ
        2輪車用緩衝器事業の社史は別の運命を辿っていたと私は思う。
        今回、出掛ける前にKYB秘書室に私の計画を伝え、会社のロゴが入ったお土産と最近の会社概況冊子を携えPettersson
        氏にお渡しした。
        ご本人からは「プロライダーを引退してから初めて会う2輪車関係の珍客。このように自分を評価して頂き幸せだ」との言葉
        を頂いた。帰途、Stockholmから搭乗したAir Franceがなんと彼らの地元上空を通過、機長の粋な計らいに感謝しカメラに収
        めたのが下掲の写真である。
         

        私が会社に在職中、通算して19年間お世話になった海外の恩人や友人には、一昨年北米へ、昨年はインドネシア、今回
        は欧州へと自分なりのお礼行脚をし、ほっとした心境です。
        一方、前述の新製品開発の秘話に興味をもってくれたKYB・AC事業部・技術幹部の皆さんの依頼を受け、この8月初旬、
        私が関わった他の出来事も含め話をする機会がもてたことは幸いでした。話を聞いて頂いた方には「私の経験談は“社誌に
        載らなかった社史”だが、あなた方には是非“社誌に残る社史”を創りあげて欲しい」と言うことを結びの言葉としました。
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「KX40周年を祝う有志の会」・・・その7

2013-11-25 06:26:13 | 二輪事業
 「「KX40周年を祝う有志の会」・・寄稿集⑥」

                      「KX 40周年」
                                          和田 修
       カワサキが『KX』の開発を始めたのは1972年のことである。
       この年は社内組織も大きく変更になり、それまで開発は「技術部」、レース運営は「カワ販(現KMJ)」が
       主体であった「モトクロス」も「ロードレース」と一つの班にまとめられ、設計・開発からレース運営まで
       一貫したプロジェクト体制の『技術部 開発一班』が誕生した。と同時に量産車のキットパーツ開発を担当
       していた私も「開発一班」へ転籍となった。そこで開発を担当することになった最初の機種が『KX250』
       だった。

       ところで当時エンジン実験者の必需品と言えば「計算尺」「ストップウォッチ」(もちろんアナログ)と
       「方眼紙」だ。  今の世代では「なんでこんなものが・・?」と思うだろう。ベンチにエンジンをセットし、
       スロットルを全開にして回転数を合わせるだけで性能測定でき、性能カーブ、トルク、流量特性等々
       必要なデータを瞬時にして得ることが出来るご時世。
       しかし当時は500回転毎に動力計の針を読み、「計算尺」を使って「馬力、トルク」を計算していた。
       ストップウォッチ」はビューレットを流れるガソリンのタイムを測定していた。そのタイムを元に「計算尺」
       で燃費を求め、出た値を「方眼紙」にグラフにして、初めて「性能、トルク、燃費、消費率」が確認できる。
       ひとつのテスト結果が出るまで、いかに時間がかかっていたか容易に想像していただけると思う。
       「計算尺」から「卓上電卓」、燃費計が自動計測になり「ストップウォッチ」が不要に、「方眼紙」から
       「XYプロッター」に変わった時は「なんと便利になったものか!」と思った。 現在の「計測システム」は
       当時、我々の夢物語だった。

       このようなスタンスで『KX250』の開発を行っていたが、やはりそう簡単に性能は出てくれない。かなり苦労
       した。苦労した」と言えば、こんな出来事もあった。
       当時は「テストマフラー」から「実車マフラー」まで自分で制作していた。0.8mm厚の鉄板に2m程の長さのパス
       で関数表」で求めた長さを「扇型」にけがき、金切ばさみで裁断、それをテーパー状になった金型治具にあて、
       木ハンマーでたたき「テーパーコーン」にして、突き合わせ面をガス溶接して出来上がり。 しかしマフラーは
       寸法が異なる数種の「テーパーコーン」から出来ているので、よく頑張っても1日1本出来ればいいほうだった。
       これが実車マフラーとなるとさらに手ごわい。 「テストマフラー」はストレートでいいが、実車に合わせるため
       数カ所切断して切口を溶接で仮止めしながらの作業になる。
       中でも「エキパイ」が一番曲者、Rがきつく細かい寸法で数十カ所になる。さすがに実車マフラーは1日で出来
       なかった。

       やっとの思いで制作した5~6種類の「テストマフラー」を持って走行テストに、今は無き「みかん山」テストコー
       スで「竹沢正治」選手が走行テストを行った。しかし次年度のニューマシンとなる「KX」の試作車は彼との相性
       が悪く、なかなかいい評価が得られない。全日本選手権は「F11M」で参戦しており、このマシンとは相性がよく
       善戦してくれた。そのためエンジン位置を下げたものや、ステップ位置を変更した数種の「竹沢専用フレーム」
       を準備していた。 この時はエンジン位置を下げたフレームでテストを行った。
       STDマフラーの感触を確かめ、いよいよ最初のマフラーテスト。ところがコースインでギャップ通過時に「グシャ」
       と鈍い音。当時の「KX」は「F11M」から採用した「ダウンマフラー」である。おまけにエンジン位置を下げたフレ
       ームのためグランドクリアランスが少なく、見るとφ105の中筒部が「ペシャンコ」  しかもテスト前に!!!
       後のテストマフラーもピットに戻ってくると半分以上「ペシャンコ」・・・さすがに疲れた。
       これは、開発過程におけるほんの小さな一コマでしかない。この手の話はきりがない程ある。

       しかし、そんな「竹沢正治」選手もライディングフォームをかえ、マシンの開発も徐々に進み『KX』を自分の物に
       していった。  そして、1976年に後の『KX250』で全日本チャンピオンに輝いた・・・「竹沢正治」選手の努力の
       たまものだが、我々の努力も報われる瞬間だ。

       『KX』が誕生して40年、エンジンは「2サイクル」から「4サイクル」へ「キャブ」から「インジェクション」へと変わり、
       エンジン特性やフレーム、サスペンション性能も著しい進歩をとげた。
       しかし内容は日々進化してもモトクロスがある限り 『KX』のネーミングは今後も継承されるだろう。
       いや、継承すべきである。そんな記念すべき最初の『KX』開発に携われたことを、光栄に思っている。

            
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「KX40周年を祝う有志の会」・・・その6

2013-11-23 07:14:38 | 二輪事業
 「「KX40周年を祝う有志の会」・・寄稿集⑤」

                「KX発売40周年記念に当たっての思い出」
                                              的野 征治

        赤タンクのカワサキ時代は、レースに於いて山本・星野両選手を筆頭に名選手を擁して活躍していたし、
       小規模ではあったが市販もされていた。
       しかし、その後の世界的なモトクロスブームの始まりによりスズキ・ヤマハの2社が本格的な活動に入り、
       レースに於いても彼我の差が開き始めていた。 その後の市場規模の拡大により、当社としても本格的
       に参入することとなり、新しくモトクロス車開発専門の組織が発足、私も車体開発の一員として担当する
       ことになりました。
        当時はロータリーバルブE/G搭載のF81Mから、主流となっていたピストンバルブ方式採用のF11
       Mに切り替えている頃でした。このF11Mは72年レースシーズン初戦で、2階級特進を果たした竹沢
       選手が乗り、いきなり2位入賞の好結果を得、ポテンシャルの高さを証明しました。この後にリードバルブ
       の採用や、車体関係の改良を加えた、このマシン仕様が初代KX のベースとなりました。
        当時モトクロスの主流は欧州で、欧州のレースを席巻していたマシンが開発の目標となり、KXもその
       流れに沿ったものでしたが、アメリカでスーパークロスレースに使われるため耐久性の面での問題も多く
       発生し、より過酷な条件での開発テストが必要になってきました。当時国内のモトクロスコースは、レース
       時だけの特設コースが殆どであったため、本格的なテストコースの必要性に迫られていましたが、西神戸
       のミカン山がメインコースとして走れるようになって初めて安定したテストが出来るようになりました。
       テストで来日した、ペテルソンやハンセンもここでテストしたものです。
        当初はテスト基準も十分でなく、レースで性能確認する事が開発テストの重要な側面を持っていました。
       また、レース結果は販売に大きく影響するため、勝つ事を目標に、戦闘力が高く、軽量で耐久性に優れた
       マシンの開発が最大使命でしたが、開発規模が大きく、トップライダーを獲得できるメーカーが有利である
       事は言うまでもなく、劣勢な中で他社に対抗するには、常に新しいものに挑戦していくという雰囲気が開発
       者の中にあり、エネルギーとなっていました。
        初代KX以降、スズキ・ヤマハ・新しく参入したホンダに対して劣勢を強いられましたが、開発陣の弛まぬ
       努力で、‘76年には竹沢ライダーが250クラスの年間チャンピオンを獲得、漸く他社と肩を並べる所まで
       進歩しました。しかし、その後もレースに於いては苦渋をなめましたが、水冷エンジンへの移行や、KIPS
       の開発、サスのロングストローク化、ユニトラックサスの開発、ディスクブレーキの採用、ペリメーターフレ
       ームの開発、更に斬新なスタイリングの採用等、他社との熾烈な技術開発競争を勝ち抜き、対等に戦い、
       世界に誇れるKX車へと発展していきました。退職後10年、KXグループの一員であった事は誇りであり、
       当時の事が懐かしく思い出されます。

                
                      「KMCチームとの日米合同ワークスマシンテスト。
                      下段中央はJ・Ward、上段右端よりR・Turner、K・Howerton、
                      上段左端は立脇選手と日本側テストメンバー。J・Ward横が私」
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「KX40周年を祝う有志の会」・・・その5

2013-11-22 06:30:06 | 二輪事業
 「「KX40周年を祝う有志の会」・・寄稿集④」

                 「’70年代初期のUSA Motocross車開発抄録」
                                          2013年10月25日
                                          細居 久芳

       ‘71年秋、USでTrans-AM MX Seriesが開催された。欧州ではPost Season で賞金稼ぎの有力Rider達
       が大勢参戦した。Joel Rober, Roger DeCoster, Gaston Rahie, Adolf Weil, Pierre Karrsmaker, Peter
       Lumppu等々 錚々たる実力Rider が揃って来米した。当時は圧倒的に欧州Riders の力が上で、迎える
       USA Rider はBrad Lackey,Mark Blackwell等、世界的には全くの無名の若者が中心であった。
       Seriesの総合成績は、USAトップのBlackwell(後にSuzukiと契約)が16位、Lackeyが17位と記憶している。
       それでもUSではMXの人気は急上昇し、US向け2サイクルMotocrosserの開発が急務となった。
       Kawasaki Motors Corp.は72年のRider としてLackey と契約。KHIで単気筒450ccのエンジンを開発、KMC
       のR&Dで車体を設計し、US国内レースに参戦しながらKX450の開発を進めた。
                   
                                  「KX450のテスト風景」  
                           
        Prototype Machine では主にCalifornia南部のLocal Eventに参戦。規模は小さいながら、開発陣を伴っ
       た、言わば準Factory Teamということもあり、Rider の力量もあって、US国内では多くのレースで圧勝した。
       そして ’72年はLackey が500ccクラスでChampionになった。
               
                       「12月にCoto De Casaで行われたChampion 記念Party」


        いろいろ苦労話もあったが、開発に苦労は当たり前で、特筆すべきものはないが、今考えると、全く1から
       R & Dを立ち上げるのはやりがいのある苦労であった。場所を決め、人を雇い、設備を導入し、それに伴い
       また機械工や溶接工が必要となるなど、言葉の通じない中 やたらと動き回ったことはよく覚えている。
       更に、開発に絶対必要な動力計の設置も一苦労であった。予算を認めてもらい、機種選定、設置場所の工事、
       火災、騒音に対するSanta Ana市の許可取得等やることは盛沢山。最後にたった1台のDynoで全てのMCの
       出力計測をしなければならないことが大きな課題となった。計測するエンジンに合わせてベッドを作っていたの
       では、時間と金がかかりすぎる、シャシー動力計では、エンジン単体の計測が難しい、更に精度の問題もある。
       California州内のいろいろなチューニング屋等を回り、漸く車体そのものをエンジンベッドにしている例を見つけ
       、そのアイデアを戴き、改良して採用した。
                     
                                   「KMC R&D動力計」

        Episode と言えば、Indian Dunes で行われたあるLocal RaceでLackeyがKX450でスタートからフィニッシュ
       まで2速ギアーのみで走行、ぶっちぎりで優勝した。後でLackey 曰く、「今日はスタートとフィニッシュ以外
       ではClutch もSiftPedalも触らずに走った。Automatic Motorcycleに乗った気分。」
        Indian Dunesと言えば、良く我々がテストした場所で、テストの合間に自分でもよくコース走行を楽しんだ。
       ある日、比較バイクとして買ったHuskyに乗っていると、滅法早いSuzuki に何と3周で2回も抜かれた。
       Pitに行ってみると、500ccクラス世界Champion のRoger DeCoster がFactory Machine のテストをしている
       ところだった。DeCosterと一緒に走ったとは言えないだろうな、多分。
        更にIndian Dunes、亡くなった松本さんも何回かここに来られた。 運転せず、英語しゃべらず 酒も飲まずの
       松本さんとはどこへ行くのも一緒だった。毎日のように我が家で一緒に飯を食い、酒を飲まない彼の分まで飲
       んで調子が良いままに夜、氏をホテルまで送って行ったのも懐かしい思い出である。
            
                     「Indian DunesでのSnap 右は故松本さん、左は私」
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「KX40周年を祝う有志の会」・・・その4

2013-11-21 06:21:17 | 二輪事業
 「「KX40周年を祝う有志の会」・・寄稿集③」

                    「KX40周年記念 寄稿」
                                         伊吹 清孝
       世界GP参戦とスエーデン人ライダー達
        私が家の居間の飾棚には、スエーデン民芸品の木彫りの馬(ダラーナホース)を大切に飾っています。
       これは、1972年の秋にストックホルム市近郊のオーレ・ペテルソン氏の自宅を基地にKXを開発した
       現地プロジェクトの記念に貰った思い出の品です。
             
             「木彫りの馬(ダラーナホース)」    「ペテルソン氏近影 2013年夏」

       1960年代後半には、二輪ロードレースGP界を日本メーカーが席巻しており、モトクロスGPの舞台に
       おいてもスズキとヤマハが輝かしい戦績を上げていました。
       カワサキは国内において市販改造車による赤タンク時代の実績はあったものの、1972年4月に本格的
       にモトクロス車の開発のための新組織(技術部開発1班)を立ち上げた当時は、先行二社との歴然とした
       技術的ギャップが存在していました。 赤タンク時代の星野、山本氏等スター選手は、既に引退していて、
       経験の少ない若手ライダーのみではマシン開発の方向性も掴みかねている状況でした。
       一挙に世界GPを戦えるマシンを開発することを目標において、開発ライダーとして評価の高かったスエー
       デン人オーレ・ペテルソン氏と契約を結びました。
        1972年秋、溶接部品と簡易治具を持ち込みペテルソン宅のガレージ内でフレームを製作して、テスト
       を繰り返しながら改良をするなどの大胆な試みを約1ヶ月かけて遂行しました。メンバーは、KHIから岩田、
       伊吹、藤原の3人、ペテルソン氏と弟(メカニック)の5人編成であり、加えてカヤバ社から眞田氏が参加し
       ました。                                    
        このプロジェクトによって技術的方向性を掴むことができて確かな成果が得られたと確信しています。
       また、ペテルソン氏のマシンへの細部にわたる適切なアドバイスと共に、実直で親切な人柄からモトクロス
       全般に関する多くのことを教えられました。
       その後、ハンセン(250cc)、ハマグレン(500 cc)の2選手によりヨーロッパGPに参戦し、短期間でまず
       まずの実績を残せるまでレベルを上げることができたのは、このスエーデンでのプロジェクトが土台になっ
       ていると考えます。 
        
               「Olle Pettersson、Stig Pettersson、Vic Iwata」

       ライムグリーンとチームグリーン
        約40年の実績に裏打ちされて、今やライムグリーンはカワサキのレースカラーに留まらず、カワサキの
       イメージカラーとしてもすっかり定着しています。 このカラーを採用するに当たって「葬式色で縁起が悪い」
       などとの否定的な意見もありましたが、実績のない当時においてもビジネスの戦略として正しい選択であっ
       たと確信しています。 最初のKXファクトリーマシンのカラーは、ライムグリーンではありませんでした。
       KXにライムグリーンを採用する前の短い期間ではありましたが、ファクトリーマシンをピンク色に塗って
       走らせていた時期があります。
       あの栄光の赤タンクの歴史がありながら、一時的にせよ「何故ピンクのカラーを使ったのか?」については
       少々説明の必要があると思います。
        カワサキが本格的にモトクロスレース活動を始めたのとほぼ同時期に、ホンダも2サイクルエンジンを搭載
       した初めてのモトクロス車を華々しく国内レースに投入してきました。 ホンダは、既に世界ロードレースで
       ホンダレッドをレースカラーとして使っていたので、当然の如くマシンを真っ赤に塗ってきました。
       カワサキが色合いの違う赤を使っても埋没してしまうことは明らかでした。 伝統ある赤タンクのイメージも
       少し残してという苦し紛れの選択としてショッキングピンクを使ってみようということになったのだと記憶
       しています。
       KMCが使っていたライムグリーンをカワサキの統一レースカラーとして決める前の一時の迷いの産物でした。
       それ以来、ライムグリーンは、カワサキの大きな財産となっています。
        KX40年の歴史に山谷はありましたが、永年にわたって活動を支えてきたもう一つの強い柱として「チ-ム
       グリーン」があります。  米国におけるモトクロスレース活動の中で日本人とアメリカ人が協力して生み、
       世界に広げて育ててきた独自の誇るべきシステムです。
       レースに限った事ではありませんが、ビジネスを強くする要素は、高いハードの技術と独創的で確かなソフト
       の両方が不可欠であることをKXの歴史を振り返り改めて認識させられます。
                         
                                         「KMC TEAM GREEN」
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「KX40周年を祝う有志の会」・・・その3

2013-11-20 06:16:50 | 二輪事業
 「「KX40周年を祝う有志の会」・・寄稿集②」

                     「若かりし頃を顧みる」
                                          上月 忠夫

        小生いささか年をとりすぎたのと、略36年前の昔の事でもあり記憶が曖昧になっていますが、
       少しずつ気憶を辿りながら書いてみたいと思います。
        レースを担当したのが、1975年初頭から1978年の春までの3年3ヵ月でありました。
       その期間で新規開発しましたエンジンを搭載し、車体も一新したKX125の量産化を行いました。
        ‘77年後半から生産され’78年モデルとして販売されましたが、この製品の生産直前にエン
       ジンに大きな不具合が発生し、その対策で連日連夜四苦八苦であった苦い記憶があります。
        市販のモトクロス車はレース活動と連動したものでありますので、レース活動で技術を追求し、
       レース出場で優れた成績を残し製品化へと繫げます。競合各社共レースで優れた成績を目指して
       おりますので、先頭をきることは容易なことではありません。技術的―マシン、ライダー、レース
       運営―に完璧でなければならないのは言うまでもありませんが、熱意と努力と時間管理に加え
       多分に運が左右するものと言えます。
        その上に必要なのは発想だと信じます。脈々と引き継がれた経験の垂直思考と同時にそれ以上
       に豊かで自由な発想の転換があって、目的の達成を手にすることが出来るのであります。
       ‘75年から’78年までの個々の事柄は、真に苦労と我慢のなかで頑張り優秀な実績を成し遂げ
       た当時の仲間の話に委ねたいと思います。また皆さまと雑談できるこの機会に消えつつある昔を
       呼び戻すことが出来れば幸いに存じます。
       (補追) ‘76年全日本モトクロス選手権250ccチャンピオン:竹沢正治
           ‘76年AMA Supercross チャンピオン:Jimmy Weinert

           
                  (‘77年竹沢選手マシン:ダートクール2001 No.1より)
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「KX40周年を祝う有志の会」・・・その2

2013-11-19 06:22:35 | 二輪事業
 「「KX40周年を祝う有志の会」・・寄稿集①」

                     「KX40周年にあたっての思い出」
                                              百合草三佐雄

     第1回全日本モトクロス大会が行われたのは1958年4月、大阪府下信太山自衛隊演習地内で開催された。
    カワサキがオートバイ事業に進出したのが’60年だからまだカワサキ車は参加していないが、メイハツ車は
    参加していたかもしれない。
     ’62年の第6回全日本では三吉選手が2位に入り、カワサキ初の入賞となった。短期間に開発できたのは
    設計の松本さん、実験の宗村さん、メイハツから来た堤さん、それにモトクロスの名物おやじ松尾さんによる
    ところ大であった。赤タンクカワサキの名声の出発は青野ヶ原自衛隊駐屯地において兵庫主催の第1回モトク
    ロス大会(観衆1万人)にて、1~6位までカワサキが独占したことである。
    当時単車事業部は赤字が続き事業見直しの議論が行われていたが、赤タンクの活躍でこのカワサキの技術を
    活かせば事業は軌道に乗せることができるとの判断が下された。KXの先輩が事業を救ってくれたのである。
     KXが’73年に生まれ、その時期のレース監督となった。平井さん率いる神戸スーパースポーツの竹沢選手が
    各地のレースで好成績をあげ、KXも順調なスタートを切った。KXが生まれる前には三橋、星野,海津、山本、
    歳森選手らの活躍があった。KXが誕生した頃は世界モトクロスの主流はヨーロッパ勢であった。
    アムステルダムを拠点として岩田さんが駐在し、開発ライダーにペテルソン、レースで勝つためにハンセンと
    契約しヨーロッパ各地のレースに参戦し、KXの開発を行った。
     ’76年KMCに駐在したが、各レース場はスズキ、ヤマハのオンパレードでKXの姿は殆ど見られなかった。
    そこで、販売店の支援費として営業で使っていた費用をR&Dに移管してもらい、チームグリーンを創設した。
    ピート堤さんを長としてジョーダンを補佐とし、レースにおける代理店の支援を行った。
    これが当たって、各地でカワサキが驚異的な活躍をすることとなった。
    例えば、’89年(年間)のラスベガスWorld Mini GPではKXのEntriesが43%、KXのWinsが71%また
    Ponca CityのNMA FinalsではKXのEntriesが46%、Winsが76%と驚異的な成績である。
    これらの成績も明石の開発部隊の研鑽の賜物であり、チームワークの業績である。
    AMAのチャンピオンとなったジェフ・ワードが時の大統領レーガンから表彰されたのも思い出の一つである。
                           参考資料)小関和夫著「カワサキ モーターサイクルズ ストーリー」三樹書房
               「J.Wardと私」
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