野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

君子蘭、避寒終了

2019-02-27 06:17:30 | 
昨年の12月初めに、3鉢の君子蘭を外のベランダから二階の部屋の廊下、この場所は陽がよくあたり冬中暖かい場所に避寒させていた。
年も明け、まだ2月だが、昼間は外気温14度近辺まで暖かくなったので、再び外の二階ベランダのテラス下に出した。君子蘭をよく見ると、2月中旬ごろから花芽が伸びだしたこともあって、外に出す事にした。中鉢夫々に2~3個の株を植えているが、今、その内の2個の株に花芽がでている。外に出した後に、数か月ぶりに水をやる。
 

毎年、12月の、夜間の気温が急激に下がる前に、家の廊下に避寒させてきた。と言うのは、かなり以前、君子蘭を冬の寒い時期に外の軒下に置きっぱなしにしていたところ、寒さで葉っぱが水脹れになって葉が落ち、加えて猛暑時の置き場所にも失敗した。その後、葉が元のように再生し花が咲くまでに3~4年間かかった苦い経験がある。もう咲く事はないのかと諦めていたものが咲いた時は本当にほっとしたものだ。それに懲りて以来、冬の置き場所は二階の南側室内廊下、春に咲いた後の夏場は南側のツツジの根元が置き場所と決めている。こうすると、2月末に花芽が出て3月には咲き始める。

今年も、花が咲き始めると玄関わきに3鉢並べて置き、5月ごろには南側のツツジの下に移動する予定だ。
この場所は君子蘭に合っているのかよく育つ。君子蘭の下の空いている空間に、これも現在、部屋の中に避寒中の胡蝶蘭を置く予定にしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

庭の福寿草が咲いた

2019-02-25 06:16:48 | 
14日には咲く準備ができていた庭の福寿草。今日見ると花弁が開き始めている。
2月中旬の気温は10度近辺だったが、今週は少し暖かくなり、今日(24日)は11.5度。
風が吹かないと暖かい気候となった。
 
3個の花芽だと思っていたが、今日見ると花芽は4個出ている。一番早く咲く福寿草は毎年同じで、
性質強健で繁殖力も旺盛なる種類もあるらしいが、庭の福寿草はそうではなく、毎年、増えることなく4個だけ。
陽が昇るのも少し早くなり、連れて陽は徐々に長くなり、日差しも暖かくなって、空が一段と明るくなってきた。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春の花が咲き始める

2019-02-22 06:20:25 | 
今週は、外気温も10℃を少し超え、やや暖かい日が続いている。
外に出る際も、ウインドウブレーカーの下は一枚脱いで丁度いいぐらいになった。
庭のクルスマスローズが咲き始めている。クリスマスローズは下向きに咲き、咲き始めは葉っぱの下にあるので分りずらいが、
こうして開花して花弁が見え始めるころには、結構の花数となっている。
 
 

もう一点、何の花かは不明なるも、大鉢に一本だけにょきにょきと出てきた。
花弁一個の背丈は約5㎜ほどの青色の花弁が複数個、女房に聞いても、この花がここに出てきた理由を知らないと言う。
だれも植えたと言う記憶がない。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

KXの事例

2019-02-20 06:26:27 | 二輪事業
先日、レース活動の「参戦と撤退」を繰り返すのは、企業としてみると得策ではないと書いた。
つまり、トヨタの「レーシングカンパニー」が言う「レースに参戦に単にお金を使っているだけだと、景気が悪くなったときすぐにレースをやめろと言われたりするので、ここできちっとレースを事業体をして位置づけることで、レース事業体、ビジネスとしての収益をあげて、それをモータースポーツ活動や車両の開発に投下していくというサイクルを回していく」という考えは、全くその通りで、重要なんだと思う。

しかし、現実的には、二輪、四輪問わず、それまで綿々と続けてきた企業でも「ワークスレースチーム」から撤退することは、ままある。しかも、それは「レース活動こそ企業のDNAだ」と標榜している企業でさえもレース活動から撤退してしまう。二輪や四輪製造会社や販売会社にも色々事情があるから、レース界からの撤退は決して恥かしい事ではないと思うが、その理由を市場に発表せず、突然撤退する事があり、これは著しく評判が悪い。突然のレース撤退は、多くのファンや関係者がモータースポ―ツへの関心を削ぎ、加えてスポンサー、ライダー、メカニック等々と多くの関係者の失望と、引いては若者の二輪や四輪離れの起因へと繋がってしまう。

ところで、レースのワークスチームの「参戦と撤退」と言うフレーズで言うと、例えば、2010年に発行された「RACERS vol6」の"kawasaki GP Racers特集”に「参戦と撤退を繰り返すカワサキに未来はあるか」という記事があった。本記事によると、「'82年のKR500は他社の4秒落ちで撤退、X09はタイムが上がらずじまいで'93シーズン途中で撤退、'02年のZXRRは勝てる見込みもないままリーマンショックの金融危機に揉まれてGPから撤退した」とある。何れも特にハード面の失敗が途中撤退の大きな要因と思われるが、「他社は続けているのに、どうしてカワサキだけが参戦と撤退の歴史を繰り返して来たのか、その根源を分析しようと試みた。それは「小さい会社」ゆえだった」と、インタビューした編集長は書いている。「小さい会社」ゆえの悲哀が、ロードレース運営の存続にも影響し続けた歴史だと言うことらしい。また、一方、「モトクロス部隊がうらやましい」との記述も同じ本に書いてあった。

それは、「全日本モトクロスに行くと、今シーズンもカワサキワークスのテントが張られ、その中にファクトリーマシンがある。モトクロスにおけるファクトリー活動はここ30年以上途切れることはなかったと思う。ファクトリー活動によってKXの開発が進み、また活動によってカワサキのブランドイメージ向上し、結果KXが売れユーザー層も厚くなり、ファンは喜び、社員の士気も上がって、また新しい技術が投入されたファクトリーマシンが走り出す。そんな図式が連綿と続いている。翻ってロードはどうか。残念ながら、ファクトリーマシンを走らせて結果を残せばバイクが売れる時代ではなくなった。ならば、メーカーにとって、ロードレースに参戦する大義は何だろう」と、カワサキのモトクロスとロードレースを対比させながら所感を述べている。

カワサキのロードレースは指摘の如く「参戦と撤退」の繰り返しだったので、担当した技術者は、その度に唇をかみ涙を飲んできたと類推されるが、一方、記事にあるように、カワサキのモトクロスは1973年のKX登場以来、「カワサキモトクロスの歴史は”一度たりとも開発を中断することなく、一度たりとも生産を中断せず、一度たりともワークスレースを止めることのなかった歴史”」であり、常にこの中心にいたのが技術部の開発部隊で、この歴史は変えようがない事実だろう。

カワサキモトクロスレース活動が戦績を挙げ続けてきた歴史の一番の要因は、ファクトリーチームが技術部の開発チーム内に所属し量産車の開発をも一緒に担当してきた歴史にあるだろう。カワサキモトクロスのプレゼンスが次第に上昇してくると、常勝カワサキを維持し続ける必然性と責任に加え、いや負けるかもしれないという恐怖感が一緒になって自然と心中に沸き起こる。この恐怖感などは一度でもチャンピオンになった者でしか味わえないものだろうが、実際そうなってくる。負けると散々非難され、一方、少しでもチャンピオンを獲得し続けると「もうええで」とか、雑多な意見がそれとはなしに聞こえてくるものだ。これもカワサキモトクロスがその地位を確立したことを認める証左だと理解するも、レース参戦の意義が単に勝ち負けだけの話題になってしまう虚しさが漂ってくる。だから、レースを継続し続けねばならない環境を何がなんでも構築しておかねばと、そう考えてきた。

  当時の米国カワサキのモトクロスマシンの広告宣伝文句は「誰でもJeff Wardと同じマシンを購入でき、Jeff Wardと同じようにライディングすることができる」だった。カワサキのモトクロス開発組織は、えーと言うぐらい本当に小さな所帯だった。その中で持ち得る戦力で他社と互角に戦うために、カワサキ独自の戦略を立てた。それは、全日本選手権は次年度以降の量産車の先行開発に専念することだった。他社の先駆的な機構を横目に眺めながら羨ましくはあったけど、自社の立ち位置は守った。他社に劣る戦力は如何ともしようがないので、持った戦力をフルに活用し全日本でのカワサキのプレゼンスを明確にすること、それは量産車の先行開発に徹することだった。その思想の延長上にKXシリーズが完成し、60~500ccまでの品揃えが完成し(当時はカワサキだけだった)、その技術を活用してのKDX、KLXそして三輪や四輪バギー車を自組織内で開発し続けた。遠い昔の潤沢な資金などとは程遠い予算で、レース活動を継続し、成功させ、認知してもらうには量産KXを含むオフロード車の開発を広く手掛け事業経営に貢献すること。しかしそれは、技術者は複数の開発機種を同時進行せざるを得ず、ワークスライダーも量産車の開発に多くの時間を費やす事になって、開発担当に負担が重く圧し掛かってくるが、結果、モトクロスを中心とするオフロード車は販売の伸びとともに事業性がみるみる好転してくる。小さな排気量にも関わらず収益性は極めて高くなっていく。しかも工場ラインが閑散期に入る時期にKXやKDXのオフロード車を生産できるメリットは生産の平準化に絶大な効果があり、ライムグリーン一色のマシンが次々とラインオフする光景は壮観なものだった。
    
幸いにも、アメリカの”Team Green”が確立した時期もあって、これ等はカワサキオフ車の追い風となり、カワサキオフ車の生産台数は他社を凌駕し№1の時期が数年に渡って何度もあった(他社の台数を調べる方法は幾つもある)。この開発と生産のサイクルラインを完成し収益性を向上させ維持し続けるために、ワークスレース参戦は必須だった。毎年、開発費やレース予算を含むKXビジネスの収益性を計算し、どのようにKXビジネスを展開するかを考えていた。この事情を本当に理解してくれたのが、当時企画部門の責任者だった故武本一郎部長で、「KXビジネスは儲かってるか」と電話で何時も気に掛けてもらった。これが、カワサキモトクロスビジネスの成功理由の一つでもある。結果、「カワサキのモトクロスは”一度たりとも開発を中断することなく、一度たりとも生産を中断せず、一度たりともワークスレース活動を止めることのなかった歴史”」として繋がっていた。
         
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あれから50年

2019-02-18 07:21:14 | その他
先日、会社の同期会案内のメイルが来た。
入社以来50年経ったので、集まろうという連絡だった。
入社したのは昭和44年で、それから50周年の記念宴会を、岐阜工場見学の後に長良川温泉の料理屋でやろうとの案内。

「川崎重工(株)HP」
1969年入社なので、会の名前は「69会」。入社試験を受けたのは旧川崎航空機工業(株)だが、翌年(1969年)の3社合併で川崎重工業(株)となった。入社希望はあくまで旧川崎航空機工業だったので、川崎航空機工業への思い入れは強く残っている。旧川崎航空機工業は当時、岐阜工場と明石工場がメインの工場で、岐阜工場では固定翼機、回転翼機(ヘリコプター)、飛翔体を主に開発・製造しており、明石工場は発動機、ジェットエンジンがメインで化繊や油圧ロボットも開発・製造していたと思う。同期は確か35名+だったと思うが、今回の案内先は33名で、記憶しているのにメイル先がないのが複数名いる。半数以上は岐阜滞在のままだが、その中には工学博士になったり、弁理士や社労士、出向先に転職、あるいは家業を継いだり、帰郷就職した先で社長になり、それが成功し本を書いたり海外に商売を広げたりとさまざまな同期が多士済々いる。

この会社に入社した理由は簡単で、学校の主任教授が旧川航で戦時中の戦闘機(キ60)の主任設計者だったこともあり推薦してもらった。確か5月頃に入社試験があり、直ぐに合格通知が来たので、あとは楽だった。当時の社員番号は岐阜と明石は工場ごとに別々に識別統一され、3社合併後も社員番号の変更はなかったので、社員番号をみれば何処に配属されたかは直ぐに分かる。この年、明石より岐阜工場に配属される大卒の数が多く、岐阜在住者を除けば、殆どが工場に隣接した三柿野寮に入寮した。68年以前の入社先輩はJR蘇原駅側の別の単身寮にいたので、三柿野寮入寮大卒は我々が初めてだったことあり、皆伸び伸びとして同期のまとまりも良かった。纏まりが良かったと言えば、同期でダンスパーティーやろうと、岐阜のホテルを貸し切って開催した。工場内の掲示板にポスターを作って案内を出すと、直ぐに人数は集まった。会社の掲示板にパーティのポスターを掲示したいと言うと、勤労は直ぐにOKの承認印を押してくれた時代だし、柳ヶ瀬にもよく行った。当時の退社時間は確か3時半(だったと思う?)が、夏はまだ陽も高く近くの那加のプールによく泳ぎに行ったものだ。

当時は米国製航空機の固定翼機や回転翼機をライセンス生産をしていたので、単身寮に行く迄の両側に米国のロッキードやボーイングからの出向者の芝生付き社宅数10戸あったと記憶している。工場の横は航空自衛隊実験航空隊の基地で、一時、離陸上空路の真下に住んでいた頃、F4EJのアフターバーナーの爆音には当初相当驚いたものだが、直ぐになれて、心地よい音に変わった。当時聞いた話しの一つに、明石工場で開発していた二輪レーサーが工場傍の直線路(結構長い)でテストしていたと聞いたこともある。

入社当時は回転翼機のタービンエンジンからロータ間をつなぐ主駆動系担当課に所属し、当時ライセンス生産が始まろうとしていた観測用ヘリコプターの駆動系の国産化テストだったが、テスト基準に沿って毎日テストに明け暮れた。当時の回転翼機設計の最新の計算や基準、MILSPECに接する機会があったことは、その後の開発手法に大いに参考となった。特に、当時の疲労試験や疲労寿命の計算方法、応力集中式や表など、当然初めて見るものばかりだが、丁度そのころ、有限要素法の Nastran 解析プログラムが導入されつつあった時期だから半世紀前の昔の話しだ。折しも、1970年頃当時はベトナム戦争の真っ最中で、戦争から一時帰休のヘリの整備等、戦争の一部分を垣間見ることが出来たのは貴重な経験で、その他にも面白い話題を沢山記憶しているが、また紹介できる機会があればとしよう。

その後、単車事業やジェットエンジン事業の拡大に伴い、岐阜から明石に移動した。この頃、岐阜のバス事業が撤退したので、多くの技術者等が明石にやってきた。その少し昔、明石のヘリ(ベル47)が岐阜に移動したのと逆パターンだ。単車担当に異動した後も、数度、岐阜工場の旧友と接触する機会があった。一度目は73か74年頃、2サイクルスクエア4気筒水冷750のラジエターの冷却能力測定のために岐阜の風洞試験装置を借りた。ラジエーターの車速通過率の測定と二輪車の空気抵抗荷重の測定だ。ラジエーターフィン間に細いピトー管を内製して総圧と静圧を測定しフィン間の流速を、シュラウドの形状を変えながら測定するが、風洞の風速に限界があるので予測値もある。戦時中にも使用された風洞試験装置だと思うがよく整備されていた。次の機会は二輪ロードレーサーのカーボンファイバー製スイングアームの開発だった。ロードレースを担当する前なので直接の担当ではないが、当時の藤川技術部長の肝いりもあって、後輪ばね下荷重の軽減と剛性の影響を調べるために岐阜工場で炭素繊維スイングアームを試作していた。岐阜の炭素繊維の専門担当だったのが、同期のK君だったので一緒に研究会に立合う機会もあり、当時の炭素繊維の強度等を色々教えてもらった。炭素繊維の研究と設備については、岐阜工場の技術者は当時の世界第一級の技術を持っており、端から見ていて実に興味深いものがあったが、当時のロードレース部門では扱いきれず、従来のアルミ製に固守していた。今の最先端のロードレーサーが炭素繊維製部品を多用しつつあるのを見ると、途中で既発中止にしたのは実に勿体ない技術だったと思う(他社も、同時期、炭素繊維を研究していたようだ)。3回目は、岐阜工場の飛行課にアメダス情報を提供してもらったこと。1993年以降、ロードレースも担当するようになったが、その際も岐阜工場にお世話になった。鈴鹿8耐レースにおいて、勝てない理由に挙げられたものの一つに、当時契約していたタイヤの雨天時性能があった。雨が降るとミシュラン製のタイヤに比べて大きく劣るので勝てないと担当者は言う。しかも雨がいつ降るかも予測つかないので不安だと、鼻から負ける理由を挙げてくる。当時は、現在のような正確なアメダス情報は公開されておらず、必要な情報は高額で買わねばならなかった。色々と問い合わせていると、岐阜の飛行課(毎日の飛行計画立案に気象情報を入手していた)がその情報を持っていることが分った。飛行課は良く知っていたので、飛行課から時間毎に変化する詳細なアメダス情報を鈴鹿サーキットの事務所にFAXしてもらうことにした。鈴鹿もびっくりしただろうと思うが、送付されてくるたびにピットにアメダス情報を持ってきてくれた。その年は雨は全く降ることなかったので、貴重なデータを使う事もなかったが、その橋渡し交渉をしてくれたのも同期寮同室の、その後工学博士となったB君。それでも万が一の雨に備えて、雨天に強いとされるメーカーのレース用市販タイヤを別購入して備えたが、雨が降らず契約で揉めることもなかった。

マー色々思い出すこと多いが、もう50年も経つととっくに時効となった笑い話ばかりで、時の過ぎるのは早い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玄関わきの椿が一個

2019-02-16 06:22:32 | 
「玄関わきの椿」
今年の一月末時点では、まだかなり硬い蕾で、この様子では咲くのは3月と予想していた玄関わきの椿、気付くともう咲いていた。
玄関から車庫までの通リ道、必ず椿の蕾を確認していたが、固い蕾からピンクの花弁の先っぽがのぞく程度だった。
それが、裏の庭に行こうと何気なく見上げると、一個だけ開花している。
花弁の先っぽは少し茶色に変色しつつあるので、1週間前には多分、咲いていたのかもしれない。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花芽

2019-02-15 06:26:49 | 
2月も中旬、今週の気温は最高温度9度、朝は2~3度。
今日(14日)は朝から北風が少し吹いているので少し肌寒いが、陽が出ると春ももうすぐだと感じられる。
徐々に陽は長くなり、日差しも暖かくなって、空が一段と明るくなってきた。
昼間の気温が10度近くにもなると、庭が俄然元気になる。玄関の方に行くと、バベの樹の根元に福寿草の花芽が2個。
本当は3個の花芽が出ているはずだが、1個は花弁の先っぽが食べられているので、実質2個が花を咲かせる段取りとなった。
何故だが、毎年、福寿草の花芽は地中から少しだけ覗くようになると黄色の花弁の先っぽだけが虫に喰われる。
健全なのは毎年、一個だけ。これも毎年そうなので不思議に思っている。
 

今年、試しに小松菜の種を一月の寒い時期に撒いてみた。
有効期限が過ぎた小松菜の種が少しだけ残っていたので、捨てようかと思ったが、庭の空いている場所に撒いてみた。
何時なら秋口か春先にまくが、種の袋に暖かい地域は何時撒いても芽が出ると書いてあったので、本当かなと試しに撒いた。
すると、ちゃんと芽が出てきたものの、それからの成長が遅い。この状態から中々伸びない。
 

上記の写真はキヤノンの一眼レフで撮影した。
近接の撮影は、今迄使ってきたデジカメより、一眼レフの方が断然うまく撮れるようになってきた。少しの進歩あり。

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この意見は大いに納得

2019-02-13 07:25:52 | その他
昨年12月末、日本の二輪企業が社内カンパニーとして「レーシングカンパニー」を新設したとの報道があったので、どんな事業をするんだろうと興味があった。一方、モータースポーツを一つの事業体として考える、「レーシングカンパニー」と言う名の社内カンパニーは既に数年前、トヨタが組織化しているが、つい最近、そのカンパニー長へのインタビュー記事「トヨタが「国際レース」に力を入れる意外な理由」があった。記事を読むと、世界に冠たる四輪企業のモータースポーツは規模というか、その質向上のために金の掛け方が桁違いに大きいと感心することばかりだが、読み進めると、レースに取り組む基本的な考えには、事業規模にかかわらず、大いに納得という件(くだり)があった。それは、
「単にお金を使っているだけだと、景気が悪くなったときすぐに(レースを)やめろと言われたりするので、ここできちっと収益をあげて、それをモータースポーツ活動や車両の開発に投下していくというサイクルを回していく。それがTOYOTA GAZOO Racingの最終的な姿ですね。」とか、
また、こんなくだり、「トヨタ社長は、レースはドライバーズオリエンテッド。エンジニアが前に出るようなモータースポーツはありえないと言います。それはトヨタの昔のモータースポーツからしたらありえないことで(笑)。過去を悪く言うつもりはないですが、昔はやっぱりエンジニアオリエンテッドで、ドライバーは1つの道具でした。今はとにかくドライバーの言葉に耳を傾ける。そして現地現物でメカニック、エンジニア、ドライバーが一体となってクルマを仕上げていく。それが普通にできるようになったのは、この1~2年ですよ。それがWRCやWECでの優勝につながったと思います」と。

二輪や四輪製造にかかわる企業がモータースポーツに関与する理由は色々掲げられている。例えば、該当する二輪や四輪の性能のありったけを発揮してみて、その優劣を争うレース競技においてこそ本物の改良進歩が行われる、いわゆる、開発技術力の蓄積もそうだし、あるいはレース参戦による修羅場体験もそうだ。組織が大きくなると、自分は何もしなくても業績に影響しないような状況が各所に生まれがちで、大企業病が蔓延する。そうならないよう、社員をいかに修羅場に追い込んでいく、つまり人間力を鍛えるためだと答える経営者もいたり、またレース参戦の最大の目的は「必勝」の追求であると、色々ある。何れもしかりだが、レース参戦の目的が明確に示されていないと、レースは金を喰うので、社会や企業の経営環境によっては「参戦と撤退」を繰り返すことになって、その都度、折角蓄積した人材や門外不出の貴重なデータや経験が散失し、再び参戦する際にものすごく苦労することになる。経営的勘定で企業のレース活動を決断すべきだろう。そうしないと、レースに勝つ事を目的として多額の費用を掛ける競争相手に勝つことは困難であるし、レース担当者にも無益な負担が常に掛ってくるので、ますます負の連鎖となっていく事例も多い。

例えば、「参戦と撤退」を繰り返すと、その度に再びゼロからのテイクオフとなるので多大な費用がかかる割に勝利するまでに相当な時間が必要となり、勝てないと次第に開発陣の意思が萎えてしまうこともあって、益々レース費用は増加する一方で、勝てないサイクルにはまってしまう。手っ取り早くレースに勝てる体制を求め、外部のレースチーム屋にマシンを無償で貸与しサポート要員を派遣する委託方法もあるが、そうなると、スポンサーも、メカニックも、ライダーも、皆チームオーナーに帰属し、企業は単なる御用聞きに終始してしまう、「ピストンは足りてますか」「予算はどうですか」となる。そのうち、勝てば委託したチームの力、負ければマシンが悪いからとなって、多大なレース予算を委託する割には、本来得られるべき貴重な経験やノウハウは外部チームや団体・個人に散逸し、企業に残らないことになる。

また、こんな事例もありうる。レース参戦が決まると、往々にして「レース参戦するなら勝って当たり前だろう」とか「何故勝てないんだ」言う声が聞こえてくる。別に不思議なことでも何でも無く、素直な発言だろうと思う。その声は、モータースポーツを一度も担当していないか、あるいは遊びでレースをやった経験のある人から聞こえてくることの方が多い。レース界は単なる設計開発作業と異なり、色んな職種の人が社内人脈との絡みもあって複雑なので、泥臭い人間模様が一般的にはある。下位の企業が収益トップの大企業に何故勝てないんだとの質問と同じ言質なんだが、回答するのに窮することがある。資金力や技術力の蓄積そして経験値をもった企業が参戦目的を明確にして戦えば、同じ戦場で下位企業が勝つのは至難の事。昔はどうか知らないが、現在のモータースポーツ界ではレース戦績と掛ける資金力は比例するので、資金力のない弱小企業が勝つには、戦う土俵を選ばないと、何時もトップ企業の後塵を浴び、引き立て役を担う事になる。大東亜戦争と同じで、その場の空気とか精神力だけではレースに勝てない。

結局、トヨタの前述の如く、「ここできちっと収益をあげて、それをモータースポーツ活動や車両の開発に投下していくというサイクルを回していく」これが最も重要要件だと思う。モータースポーツを事業として捉え、レ―スを通じて最先端の技術を開発し収益性の高い市販車として販売することで、顧客に絶対的な品質と信頼性の高いマシンを提供し続けるサイクルが構築すれば、景気が悪くなったと言う理由とかでモータースポーツから撤退せねばらぬ理由がなくなる。ましてやモータースポーツは単に技術屋がレースを担当すると言う内輪のルーティングでは既になく、二輪や四輪を購入する購買層のみならず車を購入しない層を巻きこんだ、またモータースポーツに加わる多くのファンを巻きこんだ社会の公器となっているので、相当な理由がない限り、企業側の論理だけで止めるわけにはいかなくなっている。だからこそ、レース事業体としてきちっと収益をあげて、それをモータースポーツ活動や車両の開発に投下していくというサイクルを回すとする考えは極めて大事だと思う。

こうして考えてみると、モータースポーツに限ることではないが、一種の戦いのなかで蓄積された人的・物的な知識・技能の伝承が最も必要な運営組織は経験的に企業グループ内で実質運営されるべきであり、レース運営を外部団体に委託すること等は組織技術ソフトウェアの蓄積から言えば絶対に避けるべき事であろう。何時も、こう思う。
『技術レベルの高さの優劣を、勝負として競争するのがレースであり、過去、日本企業はレースで勝つことで優秀性をアピールし企業自体が発展してきた歴史がある。二輪ユーザーが求めるものは多様化しつつあるが、最も技術力を誇示できる場がレースであることは現在も何等変わらない。更に加えるなら、書籍「失敗の本質」では、技術には兵器体系というハードウェアのみならず、組織が蓄積した知識・技能等のソフトウェアの体系の構築が必要と指摘している。組織の知識・技能は、軍事組織でいえば、組織が蓄積してきた戦闘に関するノウハウと言っても良い。組織としての行動は個人間の相互作用から生まれてくるとある。この指摘から言えば、戦いのなかで蓄積された人的・物的な知識・技能の伝承が最も必要なレース運営組織は経験的に企業グループ内で実質運営されるべきであり、レース運営を外部団体に委託すること等は組織技術ソフトウェアの蓄積から言えば絶対に避けるべき事であろう』
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これは聞くに堪えない

2019-02-11 07:32:54 | その他
9日の産経ニュースに「「天皇が手を握り謝罪すべき」 慰安婦問題で韓国国会議長 米メディアのインタビューで」とあった。これには本当にびっくりした。

韓国の慰安婦問題は、元はと言えば、2012年に投稿された池田信夫ブログ「慰安婦問題の「主犯」は福島瑞穂弁護士」によると、そもそも問題の発端は吉田清治のフィクションで、これが全くの嘘(本人も嘘と認めた)で、この話を聞いて賠償金を取ろうと画策したのが社民党の福島瑞穂弁護士だと書いてある。つまり、「要するに戦争をネタにもうけようとたくらんだ旧軍人が「軍の性奴隷」という猟奇的な話をでっち上げ、それを政治的に利用しようとした日本の弁護士が韓国人をけしかけ、朝日新聞がそれに乗せられたという構図だ。したがって主犯は福島氏で、朝日は問題を拡大した共犯である」と、「この騒動で福島氏は「人権派弁護士」としてマスコミにデビューし、国会議員にもなったが、彼女のおかげで日韓関係はめちゃくちゃになった。今回の慰安婦騒動に彼女が沈黙を守っているのは、ここまで嘘がばれてしまうと取り繕いようがないからだろう。朝日新聞とともに彼女にも説明責任がある。国会で説明すべきだ」としている。その後公表された、ウキペディア「朝日新聞の慰安婦報道問題」にも、また当の朝日新聞は「記事を訂正、おわびしご説明します 朝日新聞社、慰安婦報道、第三者委報告書」に謝罪文を掲載し、慰安婦問題はフィクションであったとされた。

同じく、池田信夫のツィッターに「秦氏の本によると、慰安婦訴訟の原告だった文玉珠は3年で25000円(今なら1億円以上)の貯金をしたが、軍票が紙屑になったので返せというのが当初の訴訟だった。しかし一審で負けたので「強制連行」で脅すことにした」として、当時の慰安婦の月収は今でいうと200万円ぐらい。「強制連行」してきた労働者にそんな賃金を払うはずがない。旧陸軍の年俸6600円(大将)、二等兵月13円。昭和10年代後半で、戦地で月収400円の従軍慰安婦は将官の収入。韓国の慰安婦募集ビラ(韓国政府のウェブサイトにあったが削除された)によれば「月収300円以上」で、これは今の物価で150万円ぐらい。こんな高給の「強制労働者」がいるだろうかも書いてあった。

戦争と言う極限状態で、若い兵隊の性問題解決のための慰安所は必要で、世界中の何処にもあった言うのは事実だと思うが、軍隊が朝鮮人等を強制的に連れてきて慰安所に押し込んだと言う事実は無いとするのは、色々読んでみたが多分そうだと思う。だから、今もなお、当の韓国の国会議長までもが、韓国の慰安婦を取り上げ、日本の天皇に謝罪せよとは、不可解で如何なものかと、聞くに堪えなかった。   


韓国では、「日本帝国主義が韓国に対して如何に酷いことをしたかを徹底的に頭に叩き込まれると言う。強固な民族主義を背景にした教育制度で、国連から人種差別につながるから止めよと勧告をされる程徹底されているそうだ。何かといえば「日帝36年」がすぐ取り上げられ、我々の歴史は受難に耐え続けた恨(はん)の歴史だったと。その時代に教育が普及し、ハングルが定着し、生活水準も上がり人口が増えたことなど、併合されたことによる恩恵は何処かに消え、「日韓基本条約」で戦後処理は済んで、韓国の国内問題であるのも関わらず、そうした徹底した反日教育をしている」と、韓国出身の呉善花等の共書、「日本人は中国人・韓国人と根本的に違う」と言う本に書いてあった。執拗な日本たたきの徹底した反日教育が国是だから、そう簡単に変わることができるはずもなく、ごたごた続きに付き合わされると言う、本当に厄介な国だと思っていたが、加えて、今回の韓国国会議長が「日本の天皇は慰安婦に頭を下げるべし」とするは著しく度を超している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

方言っていいな

2019-02-08 06:29:52 | 故郷
2019年のNHK大河ドラマ「韋駄天」の主役は熊本出身の金栗四三さんなので、毎回見ている。
そこで気になっているのが主役等が話す熊本弁で、何となく違和感あり。どんな違和感かと言うと、アクセントが違う気がするし、熊本では「こんな言葉は使わなかった?」と思うのだが。九州を出てから、今は関西の神戸・明石に住んでいる期間の方が長くなったので、今の熊本弁は知らないが、何となくだが違和感をもった。大河ドラマは、多分、その道の専門家が指導しているので、大まかには間違いないのだろうけど、ちょっと違うなと思いながらも、それ以上に物語は面白いので、毎週見ている。昨年の「西郷どん」の時は、鹿児島弁を話した経験もないので、テレビを聞く範囲では、普通に話す言葉に近いので、そんなものかなーと素直に聞き取れた。だけど昔、熊本に住んでいた頃に聞いた鹿児島弁はそんなものではなかった。九州のあちこちから来た学生の言葉は違和感なく理解できるが、鹿児島弁だけは、鹿児島の鶴丸出身同志が話す鹿児島弁は全く理解できなかった、と言うより、なんてしゃベているのか全く聞き取れなかった。だから、「西郷どん」の薩摩弁は、鹿児島で普通に話される会話を知らないだけに、しかも標準語に近いアクセントに近く聞こえたので理解できた。それに比べれば、「韋駄天」の熊本弁は理解出来るだけに、熊本の話し言葉を何度も聞いてきただけに、「韋駄天」での会話の抑揚には何とは無しに違和感を感じてしまう。

何故、熊本弁の事を書いているかと言うと、先日、何とは無しに読んだブログに、熊本弁、正確に言うと、球磨弁が書いてあった。例えば、「奥さんの言いなっごとしなっせ、そっが間違いなかですばい、そしてありがとうねって、言葉に出して言いならんばー」とか「うちのじいさんがそいば言わんとですたーい」とか「例え何年かに一度でよかで言うてくるれば、女は「なんでんしてやらんばて思うとですばい。ご主人もそぎゃんしなっせ」」とあった。これに抑揚をつけたイントネーションが頭に浮かぶので素直に理解できる。女房は熊本の人吉出身なので、田舎と電話しているのを聞くと、ここまでくだけた話ではないが、こんな感じだ。で、熊本で普通に話しされていた抑揚を知っているだけに、「韋駄天」の訛りはすこし違和感ありと感じる。 

私の生れ故郷は長崎県の島原市。神戸に暮す期間の方が長くなったので、もう話すことは殆どなくなった島原弁(サシスセソの発音が難しい)だが、生まれた時から耳に聞き話した言葉を、今すぐに話せと言われても出来ないが聞き取ることはできるので、これに抑揚をつけて田舎の訛りに出会うと妙に親近感を感じてしまう。長崎も島原も昔は同じ肥前国なので同じ言語帯なんだろうけど、現実に話されている言葉とアクセントは少し違う。神戸や明石に長く住んでいても神戸と播州地域との話し言葉の相違点は聞き分けられないが、だけど長崎と島原とは聞き分けられる。島原の言葉はと言うと、長崎への原爆投下を「しょんなか」と発言した元自民党の久間防衛相は島原半島の南にある加津佐町(雲仙市)の出身だから、聞いていると、彼が話す言葉とアクセントがどちらと言えば島原で一般的に離された言葉なので非常に親近感があった。

それはそうと、思い出しついでに、かなりかなり前のトヨタパッソのCMに、長崎県出身の主役が方言で話すCMがあった。
そこで話される長崎の方言が面白い。長崎のうた、「でんでらりゅうば」と言うものだが、この歌は長崎銘菓「文明堂のカステラ総本店」のローカルCMにも使用されたり、長崎県出身の歌手さだまさし さんの「がんばらんば」という曲の中にも織り込まれていたらしい。
いいなCM トヨタ パッソ 仲里依紗 川口春奈 「でんでらりゅば」篇
     』
 長崎のうた、「でんでらりゅうば」歌詞とその意味」
  でんでらりゅーばー(出て行けるなら)
  でてくるばってん(出ていきますが)
  でんでられーけん(出ようとしても 出られないから)
  でてこんけん(出て行きません)
  こんこられんけん(行こうとしても行けないから)
  こられられんけん(行くことができないから)
  こーんこん(行かない、行かない)
・・「とっとっと」、「とっとっとよ」(写真を撮っているのか)、(撮っているよ)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする