野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

中国空母着艦試験

2012-11-29 06:30:10 | その他
        「艦載機離発着の中国空母」

【北京共同】「中国国営通信新華社と国営中央テレビは25日、中国海軍初の空母「遼寧」で艦載機「殲15」が着艦試験に成功したと伝えた。
       新華社電によると、海軍は「空母と艦載機の性能は良好で、設計上の要求を全て満たした」とコメント。
  
★今回、中国海軍が実施した空母への離陸と着艦を同時に成功させたことで、中国空母が予想よりかなり早いスピードで開発を進められており、
10年以上かかるとされる空母群の実践配備がかなり早く実現する可能性があるものと報道されている。
第二次世界大戦当時、日本も数隻の空母を保有していたが、今まで空母を持っていなかった中国が海洋国家を目指すのであれば、空母を保有するのは不自然な事ではない。
10数年以上前から中国の空母保有は予想されたことであり、「経済発展には貿易が必要、貿易には商船隊が必要、商船隊には海軍が必要」が中国海洋進出思想だ。
つまり経済発展のためのシーレーン確保は必然的に必要となってくる。

問題は中国空母が当面の日本国防の脅威になり得るかということだが、「海国防衛ジャーナル」を読むと状況が分かり易い。
「中国空母が地域の軍事バランスを劇的に変えたり、明日いきなりゲーム・チェンジャーになるようなことはありません。」
「一隻では常時稼働状態に置けません。地域周辺国にとって政治的・戦略的意味合いは少なくないかもしれませんが、
大規模なミサイル・システムや対潜戦(ASW)能力、早期警戒管制機(AWACS)を備えておらず、米原子力空母に歯が立たないのは言うまでもありません。
優秀な潜水艦を擁する我が国にとっても、1隻の空母を脅威に感じる必要はありません」
「固定翼・回転翼機による艦載機群が最低限の戦闘能力を獲得するまでにはさらに数年はかかるでしょう。」
として、当面は怯えず、みくびらずで、静観した方が良いとの見解だ。

★一方、経済大国になった中国と領土問題で争っている日本が、戦争する可能性は現時点では全くないようだが、本当にそうだろうか。
「戦争なんか起こるわけがない」と決め付けて、「まさか」と思うような不合理な行動も相手は敢えて行うかもしれないし、ただの脅しだと思っていたら、実は本気だった、
と言うような事例は日本と米国の戦争や英国とアルゼンチンとのフォークランド紛争など、合理性がなくとも戦争は歴史上発生してきた。
我々は戦争などしたくないし、戦争をするくらいなら、誰も住んでいない遠い小島などいらないと宣言すれば、それで未来永劫日本が平和で占領されずに済むだろうか。

平和を守るには兵力がいるし国民の覚悟も必要。そのための国の外交優先が必須だとわかるが、相手が敵対的なら戦争は起こりうる。
「戦争に発展しない」ために冷静な危機感が必要だと言う考えには賛成で、そのための防衛力整備は必要だと思う。

★やはり、日米同盟保持は必要だろう。
日本防衛費用という観点から日米同盟をみた「コストを試算! 日米同盟解体」は参考になる。
「在日米軍の機能を代替する直接経費だけで年間4兆2000億円だが、経済的な間接経費が20兆円にのぼると推定している。
 後者は日米同盟を破棄するとアメリカに敵性国家とみなされ、貿易や投資が途絶するという想定にもとづいており、それを日米同盟の機会費用と考えるべきかどうかは疑問だろう。
 しかし直接経費だけでも現在の在日米軍関係費4300億円の約10倍であり、しかもアメリカの核の傘を失う。
 独自に核武装するコストは、イギリスの例では年間3000億円程度だが、自衛隊の抑止力は米軍よりはるかに劣る。
 核弾頭をつくることはむずかしくないが、それを搭載した兵器を開発するには3~5年かかるという。
 日米同盟を解体して自主防衛する直接経費は不可能な額ではないが、現在の抑止力を維持できないので日米同盟は費用対効果が高い、というものだ。
 したがって当面は同盟の維持が経済的だが、それが独立国として望ましいかどうかは別の問題である。
 核戦争になった場合に、アメリカが自国が報復されるリスクをおかして日本を守ってくれる保証はない。」


今、ユン・チアン著の「誰も知らなかった毛沢東」を読んでいるが、中国共産党の権力闘争たるや凄まじい。
公文書、毛沢東と接触した数百人もの中国国内外の人々へのインタビュー、関係各地の調査多くの参考文献や関係者とのインタビューを通じて纏められた、
この本「マオ」は、毛沢東と中国共産党の軌跡を読むうえで非常に面白い。しかし権力闘争の過程で中国国民7000万以上の犠牲者が出したことや、
毛沢東が核兵器による超大国化を達成するためなら中国人民の半分が死ぬことも求めていたと主張している等、今なお、その思想を持つ政権であることを考え併せると、
中国の行動志向を注視しておく必要性を改めて感じさせるものだ。

「誰も知らなかった毛沢東」を読みながら、艦載機離発着に成功した中国空母報道を目にすると嫌でも東アジア動向が気になってくる。



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LIME GREEN - Symbol of Challenge (続)

2012-11-28 06:20:04 | モータースポーツ
           

表記のKX125、どこかで見た記憶があった。カワサキワークスOBの立脇三樹夫選手がfacebookに投稿した動画だ。
’84全日本モトクロス選手権GPで、日本に来ていたアメリカカワサキのJ・ワード選手が走行したもの。

               「84全日本モトクロスGP.125.HEAT2」
       
ヒート2 レース結果:
 1.J・ワード  カワサキ
 2.R・レシーン ホンダ
 3.岡部 篤史  カワサキ
 4.立脇 三樹夫 カワサキ
'84年の全日本モトクロス選手権シリーズ結果は、岡部選手が総合2位、立脇選手が総合6位となった。
これ等もカワサキモトクロス歴史の一場面。
R・レシーンはその後、ホンダからカワサキに移籍し活躍。
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LIME GREEN - Symbol of Challenge

2012-11-27 06:30:06 | モータースポーツ
          「FB:「kawasaki racing」が投稿したKX」
「Winning Off-Road Bikes : LIME GREEN - Symbol of Challenge 「挑戦者の証」
年=52週、世界のどこかで行われているモトクロスの表彰台にライムグリーンのモトクロッサー、KXが登壇しない週末はない。
 常に独創的な新技術が投入され進化を続けるKXだが、その設計コンセプトは極めてシンプル。「勝つためのマシン」である
。」

そして、「カワサキは常に挑戦者として挑み続ける」の意味を川重HPに下記のように説明している。
カワサキはあえてその色を選ぶことで、自らが挑戦者であることを世に示した。誇り高き挑戦者の証し、ライムグリーンを身に纏い、カワサキレーサーたちは今日も挑み続ける。 カワサキの歴史は、挑戦の歴史である。 誰も成し遂げたことのない新たな技術を武器に、勝負に挑む。 常識に安住せず、失敗を恐れず、自ら考え切り開いた道を突き進む。 これこそがカワサキの使命。 そして、いつまでも変わらない価値。 誇り高き挑戦者の証し、ライムグリーンを身に纏い、 カワサキレーサーたちは今日も挑み続ける。」

「挑戦者の証」という言葉をよく理解できなかったので、思いつくままに考えてみた。
折しも大相撲九州場所、テレビ観戦していると挑戦と言う言葉をアナウンサーがたまたま使った。相撲の世界で、テレビで良く使われてい”挑戦する(チャンレンジする)という言葉”は、例えば前頭が大関や横綱と相まみえる場面でよく使われる。実力下位ランクの選手が負けて元々で勝ったら儲けものだと言うぐらいなもので、勝負の世界での挑戦者とは実力下位の選手を指す。横綱や大関が挑戦する言えば、誰もなしえていない記録に向かって勝負をかける場合に使われるようだ。

挑戦するというのは、下位選手ががむしゃらに勝負を挑む事、あるいは芸を極めた達人が未到の分野に挑戦することを言う。
だが、最初から勝ち目のない勝負に出るのはチャレンジとはいえず、逆に無謀と言うんだろうが、「チャンレジという言葉」や「一番になるんだ」という言葉の響きの良さが先行して、戦う場や戦略そして可能性を低く査定しがちになるのは、開発陣や承認側が意外と陥り易い罠でもある。そう言う事例を内外で何度も見て来た。


★ところで、チャレンジする場合の心がけとして傾聴に値すると思っている事柄の中からの抜粋。
 ■打倒ホンダ”のスローガンを掲げて,名車H1やZ1の開発責任者であった、大槻幸雄工学博士が講演でよく話される事として、 「「開発技術者は,“目標を必ず達成する”という強い意志と情熱をもって当たれば,どのように高い目標でも達成できる」を第一とせよとしているが、  その中でも、特に「技術的優位性・斬新性」については下記のように説明している。」
 「リスクを冒し開発目標を明確にできるだけ高く掲げ,「世界一」を目指す リスクとアドベンチャーとは全く異なる。  当然ながら,「リスクを冒す」必要が生じる。しかし「リスクを冒す」と「アドベンチャーをする」とは本質的に異なる。」
 「リスクとは,技術的なそれ相当の裏付けによる可能性があり,これに向かって挑戦することであり,後者は,好奇心が主になるもので、 技術的な裏付けによる可能性を検討することもなく, 盲目的に「徒労」するだけである。  系統的な研究の方法を頭に描いて,鋭い洞察力で,どの程度のリスクを冒しているかを冷静に認識し,勇敢に高い目標を設定して必死になって努力することが肝要である。技術的な洞察力が全くなく,根拠も無しにどんでもない目標を設定するのは,「リスク」ではなく「アドベンチャー」であり,まことに無責任であり許されない。」

 ■また、「失敗の本質」の中で指摘されたことではあるが、
 「「ゼロ戦」は日本の技術陣の独創というよりか、それまでに開発された固有技術を極限まで追求することによって生まれたイノベーションであると分析され評価されている。」  この分析は、戦時中に纏められた冨塚清著の「航空発動機」にも通じ、「制空権獲得という国家の生存目的に追求がある以上、最大の目的は「必勝」の追求である。具体的にいえば、公知の性能工夫の向上を図り、質を落とすことなく多量に生産すること。従って、新規の発明・考案の採用は十分なる実証による確認を得ずに採用すべきでは無い」とある。

★加えて、「大西宏のマーケティング・エッセンス」のなかで「最初から勝ち目のない勝負に出るのはチャレンジとはいえない 」として、下記がある。
「技術的に成熟してくると、市場での経験から得られた情報も豊富、ライバルの技術開発の今後のスケジュールまである程度予測できるようになります。不確実なことがあまりないために、リスクが低いように見え、経営の意思決定もしやすくなってきます。ただ落とし穴が待っています。技術が成熟してくると、どんどん海外ブランドからキャッチアップされてくるので、恐怖の価格の滑り台の世界にいやがおうでも、追い込まれてしまいます。技術や市場が成熟期を迎え、市場が赤字の血の海になっていくことが予見されている世界に突っ込んでいくのは、それはリスクを取った、賭けに出たというよりは、無謀な暴走だったのじゃないか、それは賭けにでたというよりも、自社の技術を過信し、成熟から逃れるイノベーションへの投資を行なうことを怠ったとしかいいようがないと感じます。」「長い歴史を俯瞰すれば、産業は栄枯盛衰の繰り返しというのが現実で、情報家電もそのひとつでしょう。その敗北を謙虚に学び、教訓として、次の稼ぎ頭となる産業に勇猛果敢にチャレンジしていく活力が日本にも残っていると信じたいものです。」

★これらの事象から言えるのは、レースマシンの開発は言うに及ばずどの分野の製品開発にも通じ、勝利するためと称して新規の発明や考案を盲信優先して走ることを諫めている。一方、KXが挑戦者と称していた時期は30数年前のことで、既に一定の評価を得、常に勝利者としての立ち位置にいるKXを今なお挑戦者と位置づける表現は適切なのだろうか。「挑戦者の証」の一例として挙がったKXを見ながらこんなことが思い浮かんだ。
 
★すこし逸れるが、神戸新聞にあったドイツAUDIの広告は心情的に訴えるものがある。
         
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雑感

2012-11-25 08:37:46 | その他
★安倍自民党総裁の「Facebook」のフィールド購読者が11万とあった。
私も購読者のひとりであるが、今の話題を分かり易く取上げ、誰でも理解しやすく解説してある。
コメントも付いているが、殆どが安倍総裁を支持するもので、支援者の生の意見を聞く場にもなっており、安倍総裁のどこが評価されているのかも理解しやすい。
ここ最近では『みのもんたの朝ズバ!』で、誤って安倍総裁の映像が流れたことについての抗議もTBSは公式サイトで謝罪したと流れる等、
国防軍発言のようにタカ派のイメージが先行するも、庶民的に受け入れやすい自民党に変化しつつあるようだ。

ネット記事や新聞記事での安倍総裁発言は言葉尻を捉えている側面もままあるが、Facebook投稿発言は本人の真意をきちんと述べられている。
日銀に対する発言はハイパーインフレを懸念すると評論家からバッシングを受けたが、その後にそのような発言はしていないとFacebookで伝えられた。
今の日本で最も危惧すべき課題は経済問題であるが、政策の第一に「経済成長」を挙げた政治家は安倍総裁だけだった。
金融政策のみで日本は再生しないという意見はその通りで、強力な規制緩和が必要だ。小泉政権の官房長官だった安倍さんは当然理解しているはず。
しかし、安倍総裁が発言するたびに円安になり、株は上がる。市場が最も気にしているのは安倍総裁だという証左だろう。
たまたま円安傾向になる時期に一致しただけとの評論家の意見もあるが、小泉政権当時の120円近辺までになれば経済問題は一挙に解決する。
 

一方、ツイッターでは日本維新の会の橋下徹代表代行がさまざまな持論を述べ、そのツイッター発言が直接新聞・テレビに報じられることも増えた。
ツイッターでの支持者や反対意見を見るには、ツイッターをまとめたブログでしか見れないようだが、Facebookは投稿すると時間をおかずに誰でも見れる。
こうしてみると、政治家のFacebook活用の方が生の声を聞くという事に関しては優れている。


★ところで話しは変わるが、野々池貯水池北側の広場に、「サザンカ」が奇麗に咲いた。
野々池貯水池周りのツバキの開花は春から夏にかけて咲くので、今は殆どが蕾の状態。そんな中でサザンカの白地にピンクの花弁が美しい。
      
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秋の町内道筋

2012-11-23 06:31:54 | 野々池周辺

         「町内案内図:青色が野々池貯水池、オレンジ色は神戸市立出合小、緑は公園」

西明石駅側の21号線を通り、平野町印路へと続く道から左折し、神戸市立出合小学校に入る道筋が町内への入口。
この付近は明石川流域で、明石川が洪水で溢れた昔、この辺まで水が押し寄せて来たと聞いたことがある。
此処から坂を登っていくと、「神戸市立出合小」が左側に見えるが、この坂は自転車で登るには苦労するぐらいの斜度。
小学校の前、道路の右は「西山延命地蔵尊(室町時代からあったとされ、願いがよく叶えられるのというので遠くからのお参りもある)」を祭る堂がある。
坂を登り切る手前に、町内唯一の医院である「ふくだ医院」がある。其処を過ぎると、前が野々池貯水池。
11月中旬の頃は、出合小学校の桜が黄色や赤と一面に色づき朝日を浴びると輝いて見えた。
              

出合小の前に西山延命地蔵尊堂と出合丸山公園がある。
この公園は結構広いので野球やグランドゴルフに利用されるが、今の季節、桜が紅葉し静寂な場所でベンチに座り読書している人を見かける。
西山延命地蔵尊堂には参拝する人が後を絶たず線香の煙が漂っているが、問題となっていた迷惑路上駐車は最近は少なくなった。
延命地蔵尊と公園間にある桜も赤く染まった。
              

                                  

坂を登りきる手前の「ふくだ医院」を過ぎると、直ぐ左が野々池貯水池の土手。
此処の桜も赤く染まっていたが、落葉しかけている。
              

良く利用する郵便ポスト周辺には町内有志の人が管理する花壇。
朝早くから手入れしている方もいて、季節の花が何時も咲いている綺麗な場所だ。
              

一時間に一本のわりで通る神姫バス。朝夕の通勤客利用は結構あるようだが、西明石までの通勤に徒歩や自転車利用者も多い。
西明石駅まで早足で歩いて約30分、春や秋の季節には徒歩通勤がちょうど良い。
              

道路からたまたま見えた野々池貯水池の土手に咲いたリンドウの花。良く見ないと見つけることは困難だが、そーと咲かせて欲しいものだ。
そこから直ぐ近くにある中野公園では、来る12月3日が公園一斉清掃日。
そして、この道をまっすぐに行くと林崎掘割に行きつくが、掘割の周りも落葉樹木が紅葉し、この夏には暫く姿を見せなかった蛍が帰ってきた。
町内入口から林崎疎水まで道筋、町内のシンボル的存在の「西山延命地蔵尊」「野々池貯水池」「林崎疎水」で構成された田園の街、鳥のさえずりを聞きながら過ごすのもまた良し。
              


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舛ノ山 - 勝負出来る時間は20秒

2012-11-21 06:35:31 | スポーツ
     「前頭 舛ノ山」

舛ノ山という相撲取りのことを初めて知ったのはNHKの「アスリートの魂」という番組だった。
丸まるとした子供ぽっい顔立ちで、昇進すると自分の部屋を与えられるのだが、若い衆と一緒にいた方が落ちつくと大部屋の隅の囲いを自分の領域としていると言う。
そのテレビ番組でも一向に恰好良さが全く見られず大丈夫かなと思ったぐらいだ。
それで、気になって調べてみると’08年に三段目で七戦全勝して優勝し、’10年の九州場所で十両に昇進した。
一度十両に転落し再度前頭に復帰し、今場所に前頭4枚目までに昇進した。

九州場所で初めて舛ノ山の相撲をテレビで見た。
まさに童顔、上半身が丸みを帯びて、一般的な太ったあんこ型の相撲取りではなく、上半身筋肉が丸く付いた体格の相撲取りとの印象。
NHKの番組で、親方が「この子は、心臓が小さいから、早い相撲しか取れないんですよ」と言ってたので、何だろうと思って調べてみたら、
心臓に先天的疾患の疑いがあって、心臓の壁に穴が開いているために血液の循環が悪くなり、体に酸素を取り込みにくくなる病気だそうだ。
それで、運動すると息が上がるのが極端に早く、すぐに動けなくなり、体重180キロの舛ノ山の場合、活動できなくなるまでの時間は20秒。

更に泣けることに、現在日本で介護士をしている母親がフィリッピン人で母子家庭で育ち、フィリピンに住む母方の祖父母や10人の家族には、
「治安が悪いから」との理由で入門からずっと仕送りをしてきたそうだ。一時はフィリピンに住んでいたこともあって、自身も英語とフィリピン語に堪能。
心臓病にあえぎながら必死の勝負をしている姿に惚れ込んでしまうが、こんなに心臓が悪くても力士を続けていられると言うことにもびっくりした。
しかし、舛ノ山のド迫力の相撲は、病気というフィルターを通さずとも、心に響く。
こんな激しい相撲を取る力士が現れたら、ファンになるしかないだろう。
10日目、大関琴奨菊に勝って5勝5敗と五分に戻したが、勝利者インタビューでは息も絶え絶えに苦しそうだった。
初日痛めた左肩のテーピングが痛々しいが、テレビから離れるわけにはいかなくなった。・・・期待大の力士!

       

10月9日、13日の日経の「駆ける魂」記事は泣けるほどに面白いので借用した。
「境遇恨まず、土俵楽しむ 大相撲・舛ノ山」「治療は引退してから」と覚悟を決めている。
■勝負の世界に珍しい純粋さ
 話し上手ではないが、問いかけられれば相手の目を見てにこにこ笑う。勝負の世界には珍しいほどの純粋さだ。
 スタミナが乏しい原因である、心臓の疾患とも正面から向き合ってきた。自分の体が人と違うことには、幼い頃からうすうす気づいていたという。
 どんなスポーツをやってもすぐに疲れる。小学校の相撲クラブでは2番取っただけでへとへとになり、指導者に「どうしてこれくらいで息が上がるんだ」と叱られた。
「本当にきついんだけどな」と思いつつ、「みんなも同じくらい苦しいんだから」と自分に言い聞かせていた。
 15歳で角界入りしてから着実に番付を上げてきたが、昨年9月、息苦しさが悪化して病院へ行った。
最初は肺の疾患の可能性も指摘されたが、最終的に心房中隔欠損症の疑いと診断された。
 それでも身の不運を恨む気持ちは一切なかったという。「しょうがない。治療は引退してから。現役の間は今まで通りの速攻相撲を極めればいい」とすぐに覚悟を決めた。

■病気が相撲にプラスの部分も
 長い相撲の後、どんなに息が乱れて顔をしかめていても、悲壮感をあまり感じさせないのはそのせいだろう。
 ある日はガソリンのメーターになぞらえ、「今日は(スタミナの)ゲージが半分くらいになった」と周囲を笑わせる。
「(病気のために長い間動けないことが)突きの必死さにつながっているし、プラスになっている部分もある」と本気で語る。
 9歳で相撲を始めたのは体が大きかったのと、フィリピン出身の母、マリアが相撲好きだったから。
小学校では地元の相撲クラブで汗を流し、全国大会で3位になったこともある。

体重180キロの舛ノ山の場合、活動できなくなるまでの時間は20秒。
限界が近づくと、突きを繰り出す両手が重くなり、全身がだるくなる。「海で溺れているような苦しさ」を味わう。
土俵の上では相手の力士だけでなく時計の針とも戦う。だから、得意の押し相撲で早く決着をつけることに全てを懸ける。
立ち合いで頭からぶつかり、両手の突きを連打して一気に押しこむ。引き技もあまり使わず前に進む一本やりの相撲だ。

■親方に自ら連絡取って入門決める。
 「相撲取りになって自分が稼いで楽をさせたい」と、現地の中学校を卒業した後、知り合いだった千賀ノ浦親方(元関脇舛田山)に自ら連絡を取り、入門を決めた。
 2010年九州場所では十両に昇進。高安とともに平成生まれ初の関取になった。
新入幕の昨年秋場所は左足首を痛めて途中休場。十両に転落したが、今年の名古屋場所で幕内に復帰すると、2場所連続で勝ち越した。
 今も毎月の給料からフィリピンにいる母や祖父母の元に仕送りをしている。
「母も相撲取りになったことを喜んでくれる」と笑顔で話すその傍らでマゲを結ってくれるのは、部屋の床山として働く千晴だ。
 番付が上がるにつれ、体への負担は確実に増す。相手が強くなった影響もあるし「研究されている」とも感じる。
 それでも、自分が勝つことで喜んでくれる人がいる。今は土俵に上がるのが楽しい。

21歳と幕内では最年少ながらも、工夫した稽古で培った押しは十分通用するようになってきた。
2度目の幕内だった名古屋場所では11勝を挙げ、平成生まれで初の三賞となる敢闘賞を手に入れた。
自己最高位の前頭6枚目で迎えた秋場所も8勝で勝ち越し。平成生まれ初の三役も視界に入る。
若々しい相撲と戦い終えた後の苦悶(くもん)の表情。土俵に懸ける気持ちがストレートに見て取れる、今の角界では貴重な個性。このまま一気に「コイの滝登り」といけるかどうか。

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唖然とした

2012-11-20 06:31:16 | 野々池周辺
       「FBに投稿し評判だった、野々池貯水池のリンドウ
「野々池貯水池では予想もしない山野草と巡り合う事がある。・・・リンドウがそうだ。」と、11月11日のブログに紹介した。
10月30日頃に開花し、昨年のように一面にリンドウが咲くのを楽しみにしながらウォーキングしてきた。
11月になって次第に花の数が増えて、これから、昨年も咲いた別の場所のリンドウも咲くのを楽しみに眺めてきたのだが、一向に咲かない。
どうしたのだろうと思っていたが、原因が判った。・・・・「盗掘」されていたようだ。
10日程前にブログ用の写真を撮影した時のリンドウはビックリするほど綺麗で、野々池貯水池はリンドウも咲く良い処だと誇りさえあった。
ところが、今日リンドウの咲き具合を確認しに行ったら穴だらけ。
つい最近掘ったと思われる穴が10数カ所あり、リンドウの数も非常に少なくなっていたので多分盗掘されたのだろう。
綺麗な花を2,3個摘んで持ち帰るのはOK範囲だと思うが、根こそぎ掘って持ち帰られたら、根を張ることもなく、増える事もなく、もう二度と咲くことはない。
西明石駅から歩いて約30分の近い距離、野々池貯水池は神戸新聞やタウン情報誌にも紹介されるハイキングコースのルートでもあり、皆の心休まる場所である。
そんな場所からリンドウが消えつつある。

野々池貯水池に咲いたリンドウは野々池貯水池の季節を表す花で、野々池貯水池の草むらの中に咲いてこそ称賛される。
山野草の栽培には、温度、湿度、土壌等の条件が整った環境が必要で、一般自宅の庭などで簡単に栽培できるものでは多分ないと思う。
美しい野生の草花は公共の財産で、その美しさを将来にわたって継承していけるよう、一人ひとりがモラルとマナーをもって、野生植物の保護を心がけたいものだ。

今日は寂しい気持ちを抑えきれなかった。
  






踏み倒されたリンドウの花
閉じた花弁についた傷跡が痛々しい!
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野々池には食べられる実もなる・・・ザクロとグミ

2012-11-19 06:30:19 | 野々池周辺
「秋も深まった野々池貯水池」

11月中旬、気温もぐっと下がり、日中の外気温度は15度以下になって寒くなった。
それでも下着を一枚加えゴルフ用スポーツジャケットをはおってウォーキングすると汗ばむぐらいだ。
野々池貯水池には色んな草木が植えられているが、その中には食べられる果実をつける木もある。
今年はザクロとグミがなっていた。カリンも数本あり春には花をつけたけど今年は残念ながら実をつけずじまい。

野々池貯水池のウォーキングコースから見えるが、急な土手を少し下りるとザクロの木が一本ある。
夏の暑い時期、ザクロに数個の花が咲いているのを確認していたので、今年は何個の実が成るのか楽しみにしていた。
秋になり、ゴルフボールより少し大きめの果実が10個ほど実をつけ、熟した果実はパカット裂け深紅色の透明な多汁性の果肉の粒が無数に付いているのがみえた。
割れたザクロを取って食べてみると、ザクロの味がするも何せ小さいので種が殆どだが、さしてビックリするほどの味はなくむしろ酸っぱさだけが強かった。
それから一ヶ月過ぎ、誰も取ることもなく放置したままとなっている。
                        

                        
  
 
グミの実も赤くなってきたので一口食べてみた。
毎年、グミの実が赤く色づくと恐る恐る口に放り込んではペーッと吐き出すのだが、今年はなんとか食べれた。
まだ、渋さが少し舌の上に残り甘酸っぱさはあるも大分甘味のほうが出てきた。
野々池をウォーキングの途中、グミの近くまで降りて行って口に入れると、口の中には自然と唾が出てきて乾きが解消する。
                        

                        

不思議なものだと思うのだが、ザクロもグミも鳥がついばんでいるところを見たことがない。
近くにある柿の実など、熟すと上の方から順番に鳥が突くが、ザクロやグミには鳥が寄ってこない。
酸っぱさや渋さが残るものは嫌いなんだろう。
   
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往年のカワサキモトクロスワークスライダー (続)

2012-11-17 06:27:10 | モータースポーツ
16日のrfuruyaさんの「雑感日記」に、往年のカワサキモトクロスライダーがカワサキと契約に至った経緯等を説明して頂いた。その中では安井選手も取上げてもらったが、彼は名古屋出身で、名古屋の著名なモトクロスクラブ「クラブ太閤」に所属していたと思う。安井選手については、ブログ「野々池周辺散策」の「モトクロス黄金時代」の中でも取上げているので再投稿してみたい。

★書籍「モトクロス黄金時代」
       「モトクロス黄金時代の表紙を飾った2名のカワサキライダー」

「表紙は1972年の全日本モトクロス選手権第1戦谷田部大会で、ゼッケン9番はヤマハの瀬尾勝彦選手、そして、右のゼッケン28番の赤タンクがカワサキワークスライダー安井隆志選手。 その後の水色ジャケットがカワサキテストライダーの斉藤昇司選手でモトクロスのエキスパートジュニア時代との事。斉藤君は安井選手のメカではなく、セニアレースのスタート場面に偶然立ち寄った時の写真だそうだ。 これ等の情報はライダーの阪口君が教えてくれた。」

「安井君は、モトクロスの学士ワークスライダーとしてカワサキマシンでレース参戦し、その後、’73年に川重に入社した。 入社後一貫してモトクロスやロードレースの開発/レース運営の中枢で活動し、カワサキレースの歴史を実体験した数少ない貴重な人材である。カワサキが世界のトップを邁進していた時代や他社の後塵を浴びていた時代をともに経験し、つまりカワサキの欠点を最も 熟知している。 逆にいえば、どのような戦略そして組織にすればカワサキが勝てるかを肌で知った経験者だ。しかも加えて、世界の モトクロスフレームの基本となった、「ぺりメータフレーム」の開発責任者でもあり、優れた設計者でもある。ぺりメータフレーム構 造は現代の世界のモトクロスマシンの標準設計仕様となっている。」

「カワサキがBrad Lackeyと契約し世界モトクロス選手権参戦時、派遣技術者として大変な苦労を経験し、レースにおける支援体制の重要性、本社の役割のあり方を経験した。 ハードウェアの設計者でありながら、カワサキレーシングチームの監督として全日本選手権を駆け回るソフト活動も上手にかつ真剣に展開した多能な人。 ロードレース運営にも深く関与し、’93年からモトクロス開発陣がロードレース運営や開発も統合して見ることになった時期以来、ロードレース活動の中心人物でもあり続け、鈴鹿8耐でカワサキが初優勝し、その後もカワサキが8耐の表彰台を守り続けた時代の現場責任者でもある。カワサキが世界のレース界で最も輝いていた時代を含めて、中心にいた人物だ。このような人物がカワサキにいて活躍したからこそ、カワサキレースの歴史が守り続けられたと思う。」


★次は、2011年10月の「ON ANY SANDA]をブログにのせた時の写真。
       「安井君と当時のメカニック和田さん」

昨年の10月だから、上記の表紙写真から39年後の安井君の写真。
全日本モトクロス選手権に参戦した当時のマシンと安井君本人(右)そしてマシン担当の和田修さん(左)。
実に良く似合うな。
安井君は今なおカワサキモータースポーツ戦略の中心にいる。

         
★カワサキモトクロスOB会メンバーの和田修さんはもうすぐ自由の身になるそうだ。
和田さんも、カワサキのモトクロスやロードレースの盛衰を肌で感じてきた数少ないカワサキの貴重な人材なんだが、次第にカワサキレースを支えた人々が少なくなってくる。だけど、和田修さんは自身のブログ「Sam'sダイアリー」を持っているので、貴重な意見を含めた面白い投稿記事を期待できるはず。

★本ブログでも何度となく取り上げてきたが、レースに勝つと言うことは大変難しい。
マシンが完成さえすれば、あるいはライダーを確保さえすれば、簡単に勝てるだろうという人達に何度となく説明してきたが、「勝つのは簡単なことではない」、と。たしかに単に競争相手に勝つだけのことだが、日本メーカー4社+αがそれぞれ勝つという目標は同じなので、当方が相手より相対的に強ければ勝てて、弱ければ負ける。勝つ確率は戦う土俵の選択と投資できる資源量そして如何なる戦略で戦うかで或る程度決まるが、これ等は企業経営と同じ。自社に運営経験が乏しい時期に、既存チームにレース運営を委託したり、他社の経験者を呼び込む術もあるが、成功した例は少ない。従って、戦いの過程で蓄積された人的知識・技能の伝承が最も必要なレース組織は自社内で教育し育て上げるべきであると思う。実戦経験者がどんどん少なくなっている現状、真剣に考えておくことだと思う。

そんな経験を積んできた数少ない人材が安井さんと和田さんである。



 
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往年のカワサキモトクロスワークスライダー 「写真2枚」

2012-11-15 06:20:23 | モータースポーツ
  

先日、「カワサキ全日本モトクロスチャンピオン」について書いたが、その時代々で活躍したカワサキが誇るべき選手の一部を紹介したい。

ところで、チャンピオンと言う栄誉は記録に残り何時如何なる時も称賛され、時間が経てば経つほど、「あの時のチャンピオン」として思い出され消える事はない。
カワサキレーシングチーム(Kawasaki Racing Team)モトクロス部門は、全日本モトクロス選手権制度が開催された1967年~2011年の45年間で、
最高峰部門250クラスのチャンピオン獲得数8回、同125クラスの獲得数13回、廃止になった90クラス3個を加えると計24個を数え、全日本モトクロス界において燦然たる実績を誇る。
カワサキレーシングチームはカワサキレース活動のチャンピオンの歴史を後輩達が引き継ぎ、そして次にバトンを渡していく。

★カワサキワークスライダー(その1):’71年のカワサキワークス
                  :左から安井隆志選手、山本隆選手、従野孝選手(「sam-wd3さんのブログ」より借用)」
                  

( )内はカワサキとの契約期間。
●山本隆 :カワサキワークス(’67~’71) '67年250cc+90cc+’68年250cc+’69年125ccチャンピオン 
●従野孝 :カワサキワークス(’69~’70)
●安井隆志:カワサキ社員(’73~ )

’67年に制度化されたMFJ初代チャンピオンはカワサキの山本隆選手だと前述ブログで書いたら、当の山本選手よりコメントを頂いた。
「当事者としてお礼かたがた何か一言と思って綴りました。
 頑張って走ったけれど、タイトルに届かなかった選手が沢山いる中で、運良くタイトル保持者になれば永遠に刻まれる栄誉に輝くことが出来ます!
 大勢の関係者の力とファンの声援で得られた幸運がこの様に何時までも残されることに感謝いたします。
 ワークスライダーはタイトル目指して更なる研鑚を願うばかりです。」

  
★カワサキワークスライダー(その2):岡部篤史選手、立脇三樹夫選手、伊田井佐夫選手、野宮修一選手(中尾省吾さんのブログより借用)
                  

●岡部篤史 :カワサキワークス(’84~’92) ’85年125cc+’87年125cc+’88年125cc+’89年250ccチャンピオン 
●立脇三樹夫:カワサキワークス(’78~’86)
●伊田井佐夫:カワサキワークス(’81~’83) ホンダに移籍し ’86年125ccチャンピオン
●野宮修一 :カワサキワークス(’76~’83)

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