野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

今年も今日で終わり

2016-12-31 08:06:48 | 日常生活
昨年末、こんな事を書いて年を終えた。

「毎朝6:00前に寝床から起き、午後10:00過ぎに寝床に入るのが日常。
午後11:00まで起きていることも稀にはあるが、その時は11時前後にはうつらうつらなっている事が殆ど。
昼寝はしない、だから寝つきは極めて良い。これがほぼ毎日の日課で、通年通してこの時間内で一日を活動する。
朝起きると、パソコンを立ち上げ、その間に洗顔や朝飯を食べ、朝飯と言ってもヨーグルトにフルグラを入れ、追加の食パン一枚。
朝飯の後、家事分担で自分の担当分を片付けると、パソコンでニュースを見る。一日置きに書くブログは朝一番のパソコン立ち上げ時に投稿する。
パソコンでニュース、関連HPやブログを見たり書いたりする時間は約2~3時間。一通りパソコンで時事ニュースを見た後、新聞を読む。
昼からの暖かい時間は運動で過ごし、毎年の健康診断でもさしたる問題もなく、こうして一年が過ぎる」

こうして見ると、今年の日常も昨年と全く一緒。毎日健康で何も変わらず過ごせる日常に感謝。
夕方、陽が西に傾きかけると、野々池貯水池の赤いサザンカの花が透けて艶めかしく、この風景を毎日見るが飽きない。



読者のみなさま、この一年読んでいただき有難うございます。
来年もまた一年、この調子で書き続けると思いますが、暇なときは本ブログにも訪問して頂ければ幸甚に思います。
それでは良いお年をお迎えください。
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「カワサキレーシングチーム」のワークステントの下で・・・その2

2016-12-30 08:10:06 | 二輪事業
   「カワサキレーシングチームのワークステント」
昔、全日本モトクロス選手権大会でのメーカーワークテントの下では、次年度のマシンはどうなるんだろう、どの位の戦闘力があるんだろうかとか、じっと目を凝らしている観客や競争相手の目が幾重も続く。ワークステントの下には、帆ロを被せたワークスマシンが数台。レースが近づくとワークスマシンがピットから出てくる。すると、観客もカメラマンもワークスマシンの後をぞろぞろと付いていく。ワークスチームのワークスマシンを、みんなワクワクしてワークステントの前で釘づけになって見ていた。ワークスライダーを、ワークスマシンを憧れの目で見ている子供達も沢山いた。80年代から90年代の全日本モトクロス選手権大会、そんな雰囲気が満ちていた。そんな時代も確かにあった。みんな何処に行ったんだろうと、そんな記憶をたどりながら、当ブログで書き記した事などを少しだけだが思いだし書いてみた、その続編。

★『カワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し、圧倒的なプレゼンスを誇った黄金期に何をしたのか』というフレーズで書いたことがある。「その後2年間、カワサキは善戦するも全日本チャンピオンを取れず、組織がこのままずるずると勝つ事の意味を忘れてしまう事を恐れた。と言うのは 竹沢選手がカワサキで250チャンピオンになったのは1976年、次のチャンピオン獲得は125の岡部選手の1985年、その間の9年間、カワサキはチャンピオンから遠ざかる。この9年間、勝ちたいと言う思いとは裏腹に思いを集大成して勝ちに繋げる意思はやや貧弱で、加えてこれを別に不思議と思わない環境にあった。その後、岡部選手が4年間チャンピオンを獲得し、組織は勝ち方を覚え、勝つことの意義を確認することができる時期にあったが、岡部選手に続く若手ライダーが育っておらず、このままでは、以前の9年間に戻ること、つまり暗黒の数年を過ごさざるを得ない危機感があった。これは一度でもチャンピオンを維持し続けたチームだけが持つ 何とも言い難い焦燥感であった。何としても勝ちたい。そこで熟慮した結論は外人ライダーとの契約だった。全日本選手権に外人ライダーを出場させるのは別にカワサキが最初ではない。カワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し、圧倒的なプレゼンスを誇った黄金期だったからこそ、カワサキはモトクロス市場のリーディングカンパニーとして行動を起こすべきと判断した。まず第1に勝てる可能性が高い事(勝ちレベルを苦心した)、次に高いレベルでマシン開発ができる事、そして競争させることで日本選手の技量を向上させることで全日本選手権を活性化させること等である」。ただ、懸念された事は勝つためだけに外人ライダーを走らせたと単純に捉えられてしまわないとか言うことだが、結果的にそれは杞憂だった。それは、「ダートスポーツ」FB の『砂煙の追憶』に書いてあるように、当時カワサキのワークスライダーで外人ライダーを抑えて何度も肉薄した走りをした、榎本正則選手が含蓄ある発言をしている。それには「彼らにしてみれば全日本で走るのは出稼ぎだったかもしれないが、彼らが思っている以上に結果として多くのものを残してくれたはず。受け継がずに過去のものにするのは、あまりにももったいない。育つものも育たない」とあった。

★  「JEFF MATIASEVICH」
カワサキの全日本モトクロス参戦史の中に、アメリカンライダーを起用した時期は2度ある。'92~'94年のエディ・ウォーレン、'95~'97年のジェフ・マタセビッチだ。この時期は、前述したようにカワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し時期に相当する。この経緯は「KAWASAKI DIRT CHRONICLES vol09」に記載されている。全日本選手権にアメリカンライダー採用する是非については異論があってしかるべきだが、しかし、これを機に日本人ライダーの技量は確実にUPしたことは事実だし、更に言えば、E・ウォーレンが全日本選手権から引退する最終戦の菅生で、当時のホンダファクトリーの東福寺選手が全ライダーを代表してウォーレンに感謝の挨拶をしてくれたことで、カワサキの選択が正解だったことが証明された。

アメリカの”JEFF MATIASEVICH(ジェフ・マタセビッチ)”をインタビューした記事が数年前のアメリカモトクロスネット誌「RacerX 」に投稿されたことある。
JEFF MATIASEVICHは、1988、1989年の全米125 West Supercross Championで、1998年にモトクロスレースから引退した。RacerX記者の「あなたのキャリアで突出したハイライトはなんですか?」との質問にこう答えている。「カワサキでレースに専念できたことが一番素晴らしい時代だった。特に1995'96'97と日本のカワサキワークスチームと契約し全日本のチャンピオンシップに勝ったことだ。 日本でレースに専念できた3年間は、私の経験したなかでも最高の時間だった。日本のサポート体制は最高だった。カワサキのワークスバイクは驚くほど素晴らしく、要求するものはなんでもカワサキはトライしてくれた。 他のカワサキワークスバイクより2年も先行する優れた仕様を開発してくれた。それは5年後量産移行する仕様だ。驚くほど素晴らしいバイクをカワサキは用意してくれた」「私は1986年にプロに転向し、1998年に引退した。この間、最高の契約条件は日本のカワサキとの契約だった。私のキャリアの中で最高の3年間だった」として、当時のカワサキ技術陣のワークスレース活動の考えを適切に説明している。

★「受け継がれていくカワサキイズム」
カワサキのモトクロスワークスチームに関係した有志が、2013年、「KX誕生40周年」の期に、往年の関係者を含む80名が参加する懇親会を開催した。その根本の考えは、1973年にデビュー以来、数多くの勝利とタイトルを獲得し続け、以来41年、”一度たりとも開発を中断することなく、一度たりとも生産を中断せず、一度たりともレースを止めることもなかった40周年”に集約できる。それは、KXに代表されるコンペティションモデルの宿命として、常に競争相手との戦いに勝つことで、技術力の優位性を保証してきた歴史である。カワサキは勝つことで技術力の優位性をユーザーに保証してきた経緯がある以上、手を緩めれば相手が勝ち我々は負け犬になるだけの世界。結果的に、”一度たりとも開発を中断することなく、一度たりとも生産を中断せず、一度たりともレースを止めることもなかった40周年”として、確かな事業性とともに多くのカワサキユーザーに約束を果たしてきたという自負であり、これが雑音にも気にせず開発とレースにまい進出来た理由。レースとは技術レベルの優劣を勝負として競争するものであり、過去、日本企業は極限のレースで勝つことで製品の優秀性をアピールし企業が発展してきた歴史だっだからこそ、カワサキはそれを忠実に守ってきた。
最も技術力を誇示できる場がレースである限り、その場で戦い、そして進化してきたのがKX開発担当者に植え込まれたDNAだから変えようがない」と言う、カワサキ担当者の発言記述がRACERS vol26にある。これが”カワサキのモトクロイズム”の原点だったと信じている。
   「’92年Team KAWASAKI USA」
    「向かって左から Jeff Matiasevich、Mike LaRocco、Jeff Ward、Mike Kiedrowski」

「 モータースポーツは○○社の原点であり、DNAであります」と公言している企業をよく聞く。とかく、レース参戦と言うと、何ぼ単車が売れるのかとか、どれだけ企業イメージが上がるのかとか、費用対効果はあるのかとか、色々な声があると聞いたこともあるが、レースに参戦し勝つことがホンダ、ヤマハのDNA、つまり遺伝子だったとすれば、妙に屁理屈をつけた議論は不要なんだろう。だから勝つためにはビックリするような予算を計上することも厭わないし、さる某会社のレース予算を20数年前に未確認情報だが聞いた時は、こんな企業と戦うのかと正直驚いたこともある。化け物企業と戦うのに如何なる戦略を考え勝算を見こむべきだろうかと考え続けた。

★カワサキモトクロス開発陣のOB会と言う有志の会がある。この会が、80名強が出席した、2013年の「有志によるKX40周年」を主催した仲間だ。
戦後、驚異的競争力で世界有数企業へと成長した浜松企業の代表、ホンダ、ヤマハ、スズキと競争せねばならない二輪技術の戦いの場で、彼らと競争しながら勝つと言う目的意識を強く共有してきた仲間達である。だから会社内によく見受けられる仲良しグループでもないし、嫌な仕事を相手に押しつけあって非難し合う事もない。この間、モトクロスとロードレースの人事交流も行われたので、当時のロードレース部門の最大行事だった、鈴鹿8耐もモトクロスグループが相当な部分を直接あるいは間接的に支援してきた時期もある。カワサキモトクロスの長い歴史からみれば、ある一時期を担当してきただけのメンバーであるが、次の世代に歴史を引き継ぐ役目も担ってきた。カワサキモトクロスの歴史を守りながら、世界中のモトクロスやオフロードの戦いの場で大活躍してきた時期もあれば、たまたま競争相手の後塵を浴びた時期もあるが、夫々の時期においても各人の業務を懸命に全うしてきた自負は夫々にある。レース担当とは、このブログでも何回となく述べてきたが、マシンを開発し販売移行したら仕事は終わりではない。カワサキマシンを購入してくれた顧客に満足して貰えること事、そして最終的にカワサキモトクロスを信頼して頂けること、これ等を責任をもって達成してきたメンバーでもある。

                ・・・・”Kawasaki let the good times roll”・・・・
(続)

                        
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「カワサキレーシングチーム」のワークステントの下で・・・その1

2016-12-29 06:23:44 | 二輪事業
  「カワサキレーシングチームのワークステント」
昔、全日本モトクロス選手権大会でのメーカーワークステントの下では、次年度のマシンはどうなるんだろう、どの位の戦闘力があるんだろうかとか、じっと目を凝らしている観客や競争相手の目が幾重も続く。ワークステントの下には、帆ロを被せたワークスマシンが数台。レースが近づくとワークスマシンがピットから出てくる。すると、観客もカメラマンもワークスマシンの後をぞろぞろと付いていく。ワークスチームのワークスマシンを、みんなワクワクしてワークステントの前で釘づけになって見ていた。ワークスライダーを、ワークスマシンを憧れの目で見ている子供達も沢山いた。80年代から90年代の全日本モトクロス選手権大会、そんな雰囲気が満ちていた。そんな時代も確かにあった。みんな何処に行ったんだろうと、そんな記憶をたどりながら、当ブログで書き記した事などを少しだけだが思いだし書いてみた。

★ カワサキのワークスチームは「カワサキレーシングチーム:Kawasaki Racing Team、KRT)」だ。KRTにスポンサーが付くと「○○カワサキ」と呼ぶ場合もある。
このチームに入りたくば、その前段の販社のチームグリーンメンバーに選出されねばならない。チームグリーンライダーの中からほん数名が川重二輪技術部のテストライダー契約になれる。テストライダーは毎日、技術部の整備現場に出勤し車の整備から教ぶ。体トレで体を作りながら耐久テストで技量向上を図り、場合によってはワークスライダーと一緒に走る機会もある。彼らは、全日本選手権レースではチームグリーンの一員として技術部から派遣され、自分等でマシン運搬車を運転しながらレースに参戦する。その間、ワークスライダーは飛行機移動。これ等がカワサキのワークスチームとテストライダー所謂チームグリーンライダーとの差であり、こうして若いライダー達はワークスライダーに憧れチャンピオンを目指した。
  「1973年、ここから始まった、チームカワサキワークス」 
カワサキモトクロスの歴史は、1967年~2011年の45年間で、最高峰部門250クラスのチャンピオン獲得数8回、同125クラスの獲得数13回、廃止になった90クラス3個を加えると計24個を数え、全日本モトクロス界において燦然たる実績を誇る(参考:ヤマハ=29個、ホンダ=21個、スズキ=19個)。他社と遜色のない成績を誇った、そんな時代がカワサキモトクロスの歴史にあった。更に加えれば、1963年当時、赤タンクのカワサキは青野ヶ原自衛隊駐屯地における兵庫主催の第1回モトクロス大会(観衆1万人)にて、1~6位までカワサキが独占したことである。当時単車事業部は赤字が続き事業見直しの議論が行われていたが、赤タンクの活躍でこのカワサキの技術を活かせば事業は軌道に乗せることができるとの判断が下された。KXの先輩が単車事業を救ってくれたのである。これは幾多の先輩たちが証言している、紛れもない事実。


  
   「’89KX250SR:このワークスマシンが’90年、世界で初めて販売された量産ペリメータKXで、世界のペリメータフレームの先駆けとなる」
黄金時代は現代ではない。その時代には気がつかず後になって初めて「あの時代はすごかった。圧倒的プレゼンスがあった」と分かるものと定義すれば、カワサキワークスレース活動の歴史のなかで、最大に輝いていた時代、それは’87~’97年代だと言うことに疑いのない事実だろう。'85年から再び始まったカワサキレーシングチームの活躍は、まさにカワサキの時代であり、カワサキの黄金期だったと言ってよい。全日本選手権におけるカワサキのワークスレース活動にはモトクロスとロードレースがあるが、モトクロス活動の歴史と戦績はロードレースの活動実績を遥かに上回り、カワサキのワークスレース活動の歴史はモトクロスが中心だったと言っても過言ではないだろう。1967年~2011年の間、カワサキモトクロスに関与したワークス契約ライダーは開発主体ライダーを含め延べ140名強。加えて、メカニックそして設計や実験担当の開発陣を含む組織の連綿と続いた歴史がカワサキレーシングチームを構成し、世界のカワサキモトクロスレース活動の中心母体として先陣を走った。

2010年、雑誌”RACERS VOL6”にも記述されていたように、「全日本モトクロスに行くと、今シーズンもカワサキワークスのテントが張られ、その中にファクトリーマシンがある。モトクロスにおけるファクトリー活動はここ30年以上途切れることはなかったと思う。ファクトリー活動によってKXの開発が進み、また活動によってカワサキのブランドイメージが向上し、結果KXが売れユーザー層も厚くなり、ファンは喜び、社員の士気も上がって、また新しい技術が投入されたファクトリーマシンが走り出す。そんな構図が連綿とく続く」、それがカワサキのワークスレース活動だった。世界のカワサキモトクロスレース活動の中心に日本の開発部隊があり、そこから各地のワークチームにワークスマシンや情報を供給しながら戦った。世界各地のレースシーズンが終了すると、次年度レースに照準を合わせ、世界のワークスチームが合同テストに参加すべく日本にやってくる。その合同テストで決まったマシンが次年度のワークスマシンとなって、次々と各地に航空便で発送される。そこにはライダーとマシンの安全を願って「お守り」がついていた。そんな構図のカワサキモトクロスの歴史が何年も続いてきたが、そんな歴史も紆余曲折の結果に修正を加えながら構築したもので、数年でできたものではなかった。

★カワサキモトクロスレース活動が戦績を挙げ続けられた歴史の一番の要因は、ワークスチームが技術部の開発チーム内に所属し量産車の開発をも一緒に担当してきた歴史にあるだろう。カワサキモトクロスのプレゼンスが次第に上昇してくると、常勝カワサキを維持し続ける必然性と責任に加え、いや負けるかもしれないという恐怖感が一緒になって自然と心中に沸き起こる。この恐怖感などは一度でもチャンピオンチームになった者でしか味わえないものだろうが、実際そうなってくる。しかし一方、チャンピオンを獲得し続けると、社内を含め周辺から雑多な雑音がそれとはなしに聞こえてくるもので、例えばもうチャンピオンを目指さなくともいいだろうという声だ。これもカワサキモトクロスがその地位を確立したことを認める証左だと理解し納得してきたものの、当方が一休止すれば、敵がその席を占拠するだけのことで、尖閣と中国との関係と同じで負けると取り返すには相当な費用と労力を要する。それでもレースに勝つ事の難しさを理解し、レース活動を支持した当時の事業本部長には助けられた。

当時の米国カワサキのモトクロスマシンの広告宣伝文句は「誰でもJeff Wardと同じマシンを購入でき、Jeff Wardと同じようにライディングすることができる」。
カワサキのモトクロス開発組織は本当に小さな所帯だ。その中で持ち得る戦力で他社と互角に戦うために、カワサキ独自の戦略を立てた。それは、全日本選手権は次年度以降の量産車の先行開発に専念することだった。他社の先駆的な機構を横目に眺めながら羨ましくはあったけど、自社の立ち位置は守った。他社に劣る戦力は如何ともしようがないが、持った戦力をフルに活用し全日本でのカワサキのプレゼンスを明確にすること、それは量産車の先行開発に徹することだった。その思想の延長上にKXシリーズが完成し、60~500ccまでの品揃えが完成し(当時はカワサキだけだった)、その技術を活用してのKDX、KLXそして三輪や四輪バギー車を自組織内で開発した。昔のような潤沢な資金などとは程遠い予算で、レース活動を継続し、成功させ、認知してもらうには量産KXを含むオフロード車の開発を広く手掛け事業経営に貢献すること。その間、技術者は複数の開発機種を同時進行せざるを得ず、ワークスライダーも量産車の開発に多くの時間を費やす事になった。幸いにも、アメリカの”Team Green”組織への支援体制が確立した時期もあって、カワサキオフ車の追い風となり、カワサキオフ車の生産台数は他社を凌駕し№1の時期が数年に渡って何度もあった。この生産と開発ラインを完成し続けるために、全日本選手権レース参戦は必須だった。これが、カワサキモトクロスの成功理由の一つでもある。
これがカワサキモトクロスの”一度たりとも開発を中断することなく、一度たりとも生産を中断せず、一度たりともレースを止めることのなかった歴史”である。
         
モトクロスマシンの開発の難しさの一つに、量産車として社内基準を満たすだけではなく、毎年大なり小なり改良されてくる、次年度他社マシンと互角以上の戦闘力をもってレースの戦いに勝たねばならない事だ。一般のオンロード車が各社とも交互年度に上市されるに対し、レースマシンの宿命で一年開発を休止しようという考えは各社も持たない。負ければ売れない理由にされるだけで、よーいドンの戦いに勝たさねばならない。これが開発者に重く圧し掛かっている。

★ある遠い昔、サスペンションメーカーKYBの事業部長が来社された。
モトクロスマシンに装着するサスペンションはマシンの総合性能に極めて大きな影響を持つ。当時、カワサキモトクロスマシンが市場から強く支持され、長く好評価を受け続けてきた大きな理由の一つは、サスペンション性能が優れていたからである。カワサキのサスペンション開発の経緯は、「KAWASAKI DIRT CHRONICLES」に説明されているが、その中にある、ユニトラックを構成する重要部品がサスペンションだ。「エンジンのトラクションをRサスで叩き出す」、エンジン性能をサスペンションが引き出す事も多く、開発組織が上手く回転していた。勿論、KXのエンジンは時代に先駆けた新機構を順次採用し高い評価を受けていたが、同時にサスペンションも市場から高い評価を得ていた。カワサキはサスペンション専門家を独自育成していたので、サス仕様を製造会社に一任することはなく、カワサキの固有技術としてサス開発技術を開発部内に蓄積出来ていた。

カヤバの新事業部長来社の目的は、KYBユーザー各社の意見を聞いて回ることだった。
他の二輪メーカーはサス担当会社へ苦情の山だったらしいが、カワサキはしなかった。理由は簡単。KYBの技術を高く評価していたから、そのままの意見を述べただけ。当時は、サスペンション、電装、気化器等の主機能部品メーカーを取り込んだ、「チームカワサキ」を構成していた時期でもあった。「チームカワサキ」がレース体制支援から量産に至る開発を共同分担していたので、互いのコミュニケーションも上手く機能していた。つまり、チームカワサキに対して部品メーカーのロイヤリティが極めて高かった時代でもあった。

当時、カワサキチーム最大の競争相手はホンダだが、サスペンションメーカーも同様にホンダ系列企業ショーワと熾烈な競争に晒されていたので、互いの利害が一致したこともあって、KYBサポート員もサーキットではカワサキのレースジャケットを着用し、チームカワサキの一員としてカワサキを勝たせる事、言い換えればりショーワに勝つ競争だった。だから、新規技術はカワサキチームに最初に持ちこまれレースに供与され、他社が使いたくとも数年待たされた事もあったと聞く。他ワークス企業から再三再四、KYBに文句が来たらしいが、当時、カワサキがレースに採用した新機構のサスペンションスペックはカワサキ専用だった。ある時、サスの競合メーカーからレースの全面的支援体制の申し入れがあったが、カワサキ担当者の回答は「NO」。理由は簡単で、「カワサキの競争相手と組んでいる部品メーカーとは組まない」と非常にシンプルな理由だった。レースや量産開発という目的を通じて、個人的にも強い信頼関係を築いていた。勿論、コスト意識も互いに共通認識があったのでやり易かった事も事実。

遠い昔の話なので今では冗談まがいに話せるが、当時は勝つために必死だった。それほどに完成車開発生産メーカーと主要部品メーカーとの繋がりは強固だった。というか、企業の繋がりよりも個々の人間関係の繋がりが強かったと思う。所詮、開発とは開発を担当する要員個人々の繋がりの強さで決定されるもの。そうしないと、相手に勝てない時代だった。

★モトクロスを中心とするオフロード車は販売の伸びとともに事業性がみるみる好転した。小さな排気量にも関わらず利益性は極めて高くなっていく。しかも工場ラインが閑散期に入る時期にオフロード車を生産できるメリットは生産の平準化に絶大な効果があり、ライムグリーン一色のマシンが次々とラインオフする光景は壮観なものだった。
                      

(その2へ)
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明石駅近辺

2016-12-28 06:28:28 | その他
  明石駅前、建築中の超高層マンションに隣接する公共設備がオープンしたと言うので見物に行ってきた。
従来、明石駅付近は旧態依然とした建物が多くかつ狭いこともあって、新幹線が停車する西明石駅やマンション群で埋まった大久保駅に比べ
開発が遅れ、銀行窓口を訪問するぐらいの、余程の用事がない限り行くことがなかった。でも、この超高層マンションは地上34階、地下2階、
高さは124mの規模を誇るだけのことはあって、建築中からずいぶんと遠い場所からでもニョキッとしたのっぽビルだけは目立って見えていた。
で、この高層マンション、聞くと、価格が最高価格 1 億 3000 万円超で、明石市内最高層・最高価格のタワーマンションだそうだが、それでも
平均倍率 4.2 倍、最高倍率は 23 倍で即日完売だったそうだ。入居開始は来年の3月。どんな人が買うんだろうと調べると、明石市居住の人が
50%を超えて、年齢はと言うと、30歳台の人が23%で多く、60歳以上の人が30%。職業は言うと、会社員 34.3%、オーナー経営者 14.9%、
会社役員 12.8%等だそうだ。傍に近づいてみると流石に高い。直ぐそばに明石の海が広がり、駅の向こうに明石城ありで、見晴らしは最高。
でも、海の傍の住居と言えば、昔住んだ経験から言うと、潮風がまともに吹き付けてくるし、台風が来ると猶更で、南海地震の恐れも危惧
されるから、住むのは勇気がいるが、それら以上に快適性が素晴らしいのだろうが、高くて買えない自分を棚に上げて余計ことを考えてしまった。

超高層マンションに隣接した公共設備(パピオス)は既に一部は解放され、商業店舗に加え、市役所窓口・図書館・子育て支援施設などの
公共施設が入居する予定だと、入口案内版にあった。訪問した日には、二階の公共広場でイベントライブ中で、複数の音楽家が演奏中。また、
広い広場では中東のランプ展示があった。夜になり一斉に明かりが灯ると、ランプの遠くに明石城の城壁が見え幻想的な雰囲気だろうなと思った。
 
 
 
                       

明石駅から二階の回廊を伝って、その足でパピオスの二階広場を通り、2号線上に架かった回廊は魚の棚まで続く。明石駅から雨にぬれず、
直接魚の棚まで行ける設計となっている。パピオスの三階は病院が開設され、一階は飲食街があったが、平日とあってか人影もまばら。
さて、この人の流れで、西明石や大久保から、また明石東部の垂水や舞子から人を呼べるんだろうか、今日行った印象では特に何も感ぜず。
結局、散策・探検に時間を費やし、目的の一つであった銀行窓口は閉まってしまった。

  

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「カワサキレーシングチーム」は消滅する?

2016-12-24 06:39:41 | 二輪事業
いやはやビックリした。22日、こんなフェイスブック記事が投稿されていた。

上記のFBコメントは、著名なモトクロス雑誌編集長が発信したFBで、今年まで「カワサキレーシングチーム(KRT)」に所属していた新井選手が、来年の2017年から、川崎重工の二輪技術部が運営していた「カワサキレーシングチーム(KRT)」を離れ、川重子会社の販売会社(KMJ)が運営する「チームグリーン」に移籍した後に、空席となった所謂「カワサキのワークスチーム:KRT」に米国カワサキのワークスライダーだった、マクグラスとビロポートが新加入する?と言う、冗談とも皮肉ともとれるコメントだ。KMJのチームグリーンと言えば、本来、国内の販売促進を主目的としてモータースポーツを活発化するための組織だ。販促に特化した活動を行ってきたチームに、なんで、今年までワークスチーム所属の、しかも今年度順位2位のワークスライダーが移籍するだろうかと当方も一瞬、迷った。加えて、KMJが運営するレースチームの名称、誰でも知っているぐらい有名な「チームグリーン」から、わざわざ取ってつけたような「カワサキチームグリーン」に変更する理由も意味も説明がないまま、これもわからない。

KMJが運営するレースチーム「チームグリーン」は国内では有名で、過去、優秀なライダー(川重・技術部が運営する「カワサキレーシングチーム」がテストライダー契約し、耐久テスト等で練習させ、レースはチームグリーンメンバーとして出場させた)を輩出し、都度、上位にある、「カワサキレーシングチーム」に送り込んできた、販売会社が運営するチームとしてはそれなりに国内では名をはせてきた。
それをわざわざ「カワサキチームグリーン」と名称変更するには、何か理由や魂胆があるに違いないと、それらしい情報を探してみるも、発信元のKMJからの説明がないまま、色々邪推されるような街の声も出てきた。例えば、あるネット記事のコメント欄には、「あれですよ、評判の悪い販売のイメージ戦略の一端を担わされた形ですよね」などともある。きちんとした説明がないだけに、こう言うコメントが飛び交う。数年前も、KMJのチームグリーンが8耐参戦すると発表した際も、「カワサキロードレースがワークス再開か?」と言う、まことしやかな記事が雑誌記事にでて、ユーザーや雑誌屋は一時困惑していた。「カワサキレーシングチーム」=ワークスチームが仮に8耐参戦してきたら、そのチームは「本物のワークスチーム参上」と言うのかと、一見笑い話のような話がカワサキのレース活動を良く知る雑誌記者から同時に流れ、苦笑してしまった。

いずれにしても、「カワサキチームグリーン」発足に伴い、従来、国内のレース活動の主流を担ってきた「カワサキレーシングチーム(KRT)」はどうなるのかの説明がカワサキから無い。かと言って、海外のカワサキレース活動をみると、米国では従来通り「Kawasaki Racing Team(KRT)」として活動すると発表され、同じく欧州でも世界スーパーバイク選手権と世界モトクロス選手権は「Kawasaki Racing Team(KRT)」が参戦するとあったので、「カワサキレーシングチーム(KRT)」と言うチーム名は存在しているのだ。海外、特に米国では「Kawasaki Racing Team(KRT)」がワークスチーム、「Team Green」はアマチャアライダーを支援する組織として存在し、市場では明確に区別して認識されており、その形態は遅れて発足した他社KTMやYAMAHAも同じ。

「Kawasaki Racing Team」は、カワサキのオフィシャルワークスチームの呼称であり、これ以上に強いチームはカワサキには存在しない。
「カワサキワークスチーム」は、ロードレースが1966年に活動開始し、モトクロスは1973年に組織化して、その歴史は他社のワークスチームに比べても遜色ない実績と歴史を育んできた。その歴史を担当したOBやOG達がしっかりと守り伝え、かつそれぞれの仕事に誇りをもって後輩に託してきた歴史がある(カワサキワークスロードレースは、1966年、日本GP(鈴鹿)でデビューした水冷ロータリーディスクバルブ直列2気筒125ccエンジンを搭載したワークスマシンが始まりで、技術部の大槻さんが監督だった(大槻さんに直接確認した)。モトクロスのワークス活動の始まりは1973年で、同じく百合草さんが初代監督。ちなみに”ワークスチームの定義”とは「2輪及び4輪の自動車等製造会社が、自己資金でレース参戦する場合に、そのチームを指す名称、つまりマシンを製造しているメーカーが直接チームを運営してレースに参戦する形態を言う」と定義している)。 こうしてみると、今年、2016年はカワサキのワークスチーム50周年で、記念すべき歴史の年。それゆえに、カワサキワークスの代名詞「カワサキレーシングチーム」という歴史あるチーム名称を使わない理由が見当たらない。

そんな歴史の中、カワサキのロードレースは紆余曲折の歴史で、例えば、2010年に発行された、「RACERS vol6」の"kawasaki GP Racers特集”に「参戦と撤退を繰り返すカワサキに未来はあるか」という記事がある。本著によると、'82年のKR500は他社の4秒落ちで撤退、X09はタイムが上がらずじまいで'93シーズン途中で撤退、'02年のZXRRは勝てる見込みもないままリーマンショックの金融危機に揉まれてGPから撤退した。何れも特にハード面の失敗が途中撤退の大きな要因であるが、「他社は続けているのに、どうしてカワサキだけが参戦と撤退の歴史を繰り返して来たのか、その根源を分析しようと試みた」と編集長は述べ、また、「モトクロス部隊がうらやましい」との記述もある。「全日本モトクロスに行くと、今シーズンもカワサキワークスのテントが張られ、その中にファクトリーマシンがある。モトクロスにおけるファクトリー活動はここ30年以上途切れることはなかったと思う。ファクトリー活動によってKXの開発が進み、また活動によってカワサキのブランドイメージ向上し、結果KXが売れユーザー層も厚くなり、ファンは喜び、社員の士気も上がって、また新しい技術が投入されたファクトリーマシンが走り出す。そんな図式が連綿と続いている。翻ってロードはどうか。残念ながら、ファクトリーマシンを走らせて結果を残せばバイクが売れる時代ではなくなった。ならば、メーカーにとって、ロードレースに参戦する大義は何だろう」と、カワサキのモトクロスとロードレースを対比させながら所感を述べている。カワサキのロードレースは撤退と参戦の繰り返しだったので、担当した技術者は、その度に唇をかみ涙を飲んできたと類推されるが、一方記事にあるように、カワサキのモトクロスは1973年のKX登場以来、「カワサキモトクロスの歴史は”一度たりとも開発を中断することなく、一度たりとも生産を中断せず、一度たりともレースを止めることのなかった歴史”」であり、常にこの中心にいたのが技術部の開発部隊で、この歴史の事実は変えようがない。


何時も、こう思う。
『技術レベルの高さの優劣を、勝負として競争するのがレースであり、過去、日本企業はレースで勝つことで優秀性をアピールし企業自体が発展してきた歴史がある。二輪ユーザーが求めるものは多様化しつつあるが、最も技術力を誇示できる場がレースであることは現在も何等変わらない。更に加えるなら、書籍「失敗の本質」では、技術には兵器体系というハードウェアのみならず、組織が蓄積した知識・技能等のソフトウェアの体系の構築が必要と指摘している。組織の知識・技能は、軍事組織でいえば、組織が蓄積してきた戦闘に関するノウハウと言っても良い。組織としての行動は個人間の相互作用から生まれてくるとある。この指摘から言えば、戦いのなかで蓄積された人的・物的な知識・技能の伝承が最も必要なレース運営組織は経験的に企業グループ内で実質運営されるべきであり、レース運営を外部団体に委託すること等は組織技術ソフトウェアの蓄積から言えば絶対に避けるべき事であろう』

全日本選手権で、近年、他社がワークス活動から撤退した後も、技術開発のためには全日本選手権参戦が必須条件であると固くなに守ってきた技術部のワークスレース活動「カワサキレーシングチーム」だが、つい最近、競合他社が再びワークス活動を再開した理由として挙げたのが、「マシン開発のために全日本に参戦する」と明確にメディアに公表してきた事実を見るに、これはカワサキの技術部が長年守り続けたレース参戦目的の歴史は正しかったという証左になろう。ライダー技量の低さから世界のレースの戦いから一人蚊帳の外にある全日本のレース界が、唯一存在できる可能性があるとすれば、それはマシンの開発である。このレース参戦目的の歴史を毅然として守り続けてきたカワサキの技術陣が、まだそうだとは発表無いが、もし仮に、全日本選手権から「カワサキレーシングチーム」を放棄したとすれば、いかにも残念至極で、「カワサキレーシングチーム」と言う名前はカワサキワークス(別の言葉で言えばカワサキの技術力)のアイデンティティを表す最たるものだけに、関係OBの一人として居た堪れなくなった。それは、長くレースを取材してきた雑誌編集長達も同じ思いであろうし、それが冒頭のFB投稿になったと推測される。
                                   








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ブログを書くという作業

2016-12-23 06:38:06 | 日常生活
もう12月も残り1週間。この一週間は暖かい日が続き、今日(22日)朝の気温は14度。先週など3,4度の日もあったので、その差は10度。
この一年、本当にあっという間に過ぎた。毎日何をせねばならぬと言う特段の用事もないが、こうして毎日が過ぎる。ブログを書き始めてもう5年と10ヶ月程になる。良く続いたと思う反面、これがなかったら何を考えて毎日を過ごしたろうと思うと、自分の考えたことをブログに書き記す作業は重要な日課であり続けた。ブログを書かない日、何も考えない日が続いたとすれば、こんなに健康でいられるはずもないと思っている。ブログを書く作業は、重い腰を上げパソコンに向かい書き出すまでに、本を読み、ネットの最新情報を自分なりに解釈して書き始める作業へと続くので、自分にとっては大切な作業である。一通り書き終え、野々池でウォーキングしている最中も、頭の中では書いたブログを自分なりに添削しながら、部屋に戻って書き直す事も今迄何度もあった。

ブログ書き始めのきっかけは2010年12月。当時、モトクロス開発部門のOB会が西明石のキャッスルプラザの地下一階中華料理「金龍閣」で開催された時に始まる。現役の頃、モトクロス開発グループの懇親会場として良く利用してきた金龍閣で、旧友達と年一度の旨い酒を飲んでいた時、隣に座っていた旧友の和田さんが出てきた料理を写真に撮るので不思議に思っていたら、左隣に座っていた元ライダーの坂口君が、「和田さんはブログを発信しているんです」と教えてくれた。それを聞いてビックリで、こんな近くにブロガーがいるのかと羨ましかった。自分のブログを始めるまでは、他人の情報を見ているだけで自分から情報を発信する事などは全くなかった。自分で興味ある情報を検索はするもののアチコチ飛ばし飛ばしの読み方というより使い方だけで、何となく眺めていただけだった。波長の会う論説家やアナリストは「お気に入り」に入れており、何か事象が発生した時の解説には役に立つ。また、知りあいも当然「お気に入り」の仲間なので、極力見るようにしていた。こうして他人が発信するブログや記事を読むことは度々あっても、自分の近くにブログの発信人がいるなどとは思いもしなかった。

その時、ブログを発信してみようと思い立ち色々調べてみたものの自信がなく日にちばかりが経った4月始めに、自分なりにトライするも上手くいかず、結局、和田さんに教えを請うて、恐る恐る2011年の4月に自分のブログを初めて発信してみた。誰か読んでくれる人がいないのも寂しいので、現役の頃の知り合い20人ほどにメイルして、「ブログをはじめました」と連絡した。それ以降、一日置きに発信し続け、一番多い時のアクセス数は800強だったが、これは多分、どなたかFBやツイッターで当ブログを紹介して頂いたのだろう。それ以降も500前後ほどの日も続いたが、今はその半分程度のアクセス数。別にアクセス数の増加を期待して投稿しているわけでもないので、読んでいただける読者が存在して頂けるだけで満足している。

書き始めた当初、文章を少しでも読み易くしたいと思ったが、相変わらずの堅い内容でこの5年間は過ぎた。
書き始めるとクドクドと長文になりがちな流れを、バサッと切って纏める手法も少し要領を得て、意外と早く出来上がることもある一方、話題を全く思いつかず、明日のブログをどうしようと思い悩む事もしばしばある。もっと素直に書けないものかと思うが、性格がそうなので書いては修正したり、また野々池周辺をウォーキングしながらハッと気づくこともありでブログ立上げ初期から現在まで力量は依然成長せずのまま。

むしろ、初期のブログを読み返してみると、初期の文章の方がより面白く書けており、世間にもっと刺激的な事が多かったのだろう。
野々池周辺風景の移り変わりは毎年同じ繰り返しで、春になれば野に花が咲き、椿も咲いて、次は桜、夏の前には伸びた草を一斉に刈り払い、清々しい風景に変わる事も、毎年同じことの繰り返しだけど、それにつれて気持ちも変わる。要は、その時に、期せずして自分と同じ思いの事象や現象などに巡り合えば、頭に浮かんだことをすぐにパソコンを打つ指先に反応しさらさらと書ける。日頃からこうではないかと考えていた記事に巡り合った場合も、直感的に頭の中に言葉が出て、その直感の源流には自分の基本的な考えがあるからだろうか、その延長上でブログを書くので特段に苦にならない。でも、思ったことを書けるの良いが、読み返して反省することが多く、まさに酒を飲みすぎたときに似た反省で赤面すること多い。「てにおは」もさることながら、席を外し時間をおいて再度読み返すと、なんでこんな長ったらしい文章になったのか、と自分の見識の無さと熟慮の足りなさを反省することしきり。かといって、一度書いたものを全部消す勇気もなく、無用に長ったらしい文章をバサーッともできず、結局中途半端になる。女房は「書く事がよくあるもんだ」と言うが、今だって、両手の指を使って頭に浮かんことをさっとかけるので、その点においては、まだまだ健康なんだと自分なりに納得している。

こうして、自分一人で考えている限りは、その状態は維持されたままだが、「考え」をブログに書くことで自分自身が変わることもできる。時々外部からのコメントが投稿されると、自分本位の独善的なブログを書いた事に反省することも間々あるも、田舎の親戚から「この記事は面白かった」とか、「今度はこれを書いてくれるだろうと話題にしている」とかを聞くと止めるわけにはいかない。

こうして毎年、年末に反省しながらも翌日は反省したこともすっかり忘れ、自分本位のブログをまた書いている。
 
 「12月初めまで咲いていた野々池のリンドウ。次の野々池は椿の季節」

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古民家と絨毯

2016-12-21 06:10:29 | その他
   最近、古民家の有効活用と言う言葉が新聞やネット上に頻繁に出ている。
古民家をリノベーションしませんかとか、古民家を活用したお茶屋さんとか、リノーベションの良さを謳うパンフレットもよく出てくる。
古いだけの日本家屋ではないかと思ってしまうが、最近、古民家でペルシャ絨毯やギャッベの展示会案内があったので行ってきた。
明石市魚住町にある古民家をうまく活用した建築設計事務所「もやい建築事務所」で開催されていた。で、行ってみてビックり。
月日の経った家屋独特の良さを生かした質素な花飾りをした純然たる昔風の佇まいだが、気持ちが凄く落ち着くので違和感なし。
曰く、「古民家プロジェクトと美しき絨毯」で、「自然素材で心地よい空間と暮らしに調和する絨毯」だそうだ。
古民家リノベーションの特徴も”自然との調和”だから、ペルシャ絨毯やギャッベも天然素材でできた自然素材だから調和するとある。

で、早速入り口の引き戸を開け、ギャッベが敷いてある玄関を通ると、ペルシャ絨毯と長椅子にかかった大きなギャッベが目に入る。
(キャッべとは目が粗くて毛足が長い絨毯を意味し、イラン遊牧民の手織り絨毯の略称で、もともとは遊牧民たちのベッドとして使用するために、
 ふかふかに織られている。だからか冬ぽかぽかと暖かく夏さらっとして涼しいんだそうだ)
   

廊下や畳に一面に敷き詰められたペルシャ絨毯とギャッベ。
   
   
   

壁に掛けられていたペルシャ絨毯 。絹製で網目は非常に細かく値段をみてびっくり。
表面は滑らか滑々で、まさに美術品の類に相当する絨毯だそうだが、こんな絨毯を家に敷きしめる日本家屋もあると言うんだから豪華だ。
遠い中東イランのペルシャ絨毯が畳の部屋に違和感全くなく、すんなりと溶け込んでいるのが素晴らしく、これが自然の調和なんだろう。
   
ギャッベとペルシャ絨毯の古き良きものが、古民家の空間に不思議と馴染み、良い調和を見せていた。まるで、ギャッベやペルシャ絨毯の
ために誂えたとさえ思えるほどの古民家での至福の空間だった。
   


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Kawasaki let the good times roll.

2016-12-19 06:24:43 | 二輪事業
   KAWASAKI’S SUPERCROSSMAS PARTY
12月17日の「RacerX online.com」に良い写真が投稿してあった。これは動画でライブ放送されたものをRacerXネット誌が再編集したもの。
参加したカワサキモトクロス新旧ライダーは、Monster Energy Kawasaki riders のEli TomacJosh Grant、そして250㏄クラスを担当する、Monster Energy/Pro Circuit Kawasaki (Joey Savatgy, Justin Hill, Austin Forkner, and Adam Cianciarulo)からJustin Hill(他のメンバーはフロリダ)。加えて、カワサキの大スター Jeff Ward Ron LechienJeff MatiasevichRyan Villopoto Jeremy McGrathの各選手。カワサキの米国本社が6月に新しい建屋に移転した後、創設50周年記念に合わた色んなイベントが開催されているが、この12月に開催されたのが、2017年米国カワサキモトクロスワークスチームの紹介と会社従業員のクリスマスパーティーを兼ねたイベントで、その模様がこれ!現役のモトクロススター達と往年の大スター達がカワサキの従業員家族達と一緒に楽しんだパーティ、楽しそうに見える。
最後に、RacerXネット誌はカワサキをこう結んだ。・・・・”Kawasaki let the good times roll”・・・・
 ・・・『Kawasaki に出会う人たちがハッピーになるような活動をKawasakiは展開し続けます』・・・
このカンパニーロゴはカワサキを端的に表すのに最も象徴的なもので、40年以上も続いているカワサキ二輪の基本理念だが、今尚、米国の末端で生き続けている。その理由は簡単で、カワサキを表す言葉としては最適だとRacerXの記者も知っているからだと思う。

こんなイベントを日本のカワサキファンやカワサキモトクロスファンにも是非提供して欲しいと切に願っているし、こうありたいものだ。
     
  
  
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色んな意見もある。

2016-12-17 06:28:49 | その他
12月も中旬、朝の温度はめっきり下がり、今日(16日)の朝の気温は3度で、最近は0度になる事すらある。
外で吐く息も白くなり、いよいよ寒くなったと感じる季節の到来に、ここ一週間ほどで気になった話題を思いだしながら書いてみた。息をするで即思いだしたのが、民進党の蓮舫代表が国会の党首討論で「息をするように嘘をつく」という言葉を持ち出した事。すると、ネット上に、「お前が言うな」と多くの意見が投稿された。蓮舫代表は自分の二重国籍問題で15日にも発言しているが、すると即、台湾在住のブロガーが「蓮舫の発言は嘘、台湾の法律ではこうなっている」と投稿していた。民進党は何故か世間の信頼を欠く発言が最近特に多いなと感じられる好例。それはそうと、西の方見えた今朝の月はめっぽう大きく白く輝いて見えたのは何故。

12月11日放送のサンデーモーニングスポーツコーナーに、出演していた日本柔道の鈴木桂治国士舘大学監督がこんな話をしていた。
王選手を育てた荒川コーチの死去についてのコメントだが、「先輩諸氏の活躍と伝統を受け継ぎ、そういう指導を勉強したい。指導者として、これからの将来の人達にも伝えていきたい」との趣旨発言であったと思う。ほんの数年前、日本柔道界は勝ちに恵まれず、その指導法が議論され、また不正経理問題で世論の非難を浴びた組織だが、今や完全に立ち直り、鈴木監督の発言も自信に満ちていたように感じた。メインコメンテイターの張本さんも「こういう指導者はもう出てこないでしょうね。一心不乱、すごい練習をやらせてました」と、死去した荒川さんを偲んでいた。聞きながら、成功した一流のスポーツ選手は今なお先輩諸氏に対する敬愛の念を何時までも持ち続けているんだと感心したものだ。

これを聞きながら、こんな記事を思いだした。「リクルートよ。我々OBやOGが恥ずかしくて外を歩けない」と言うもの。
我々OBやOGが恥ずかしくて外を歩けない。「ギャザリー」をいますぐやめてくれ」で、リクルートはDeNA事件で大量に記事を削除して悪名を馳せたと同じようなギャザリーというのをやっていて、著作権侵害についてのリクルートの解釈、説明が全く理解できないと言うもの。リクルートのキュレーションに写真パクられてクレーム入れたら「引用なんで法的に問題ない」としながら、「リクルートが著作権を有するコンテンツを他社が無断で転載することは リクルートとしては許容しておりません」とも回答していること。この返答にネット上に辛辣なリクルート批判が巻き起こり、こんな返答しかできないリクルートの現役が恥ずかしく「OB、OGとして切に願います。我々に恥ずかしい思いをさせてくれるな」とあった。

色んな意見があるなーと感心しながら、みんなリタイヤしても一生懸命だった過去の仕事には愛着も誇りがあるんだと思いながら、つい先日、当ブログにも何処からかコメントが来た事を思いだした。それはある一部上場の株主と称する人物からの投稿だ。一読し意味不明な差出人氏名不詳のコメントなど通常は無視して消去するのだが、先方もコメントを投稿した事実が欲しいのかも知れないと邪推し、コメントをのせわざわざ返答まで書いた。当ブログが株価に毀損を与える程上等かと一瞬考えたが、内容は「サラリーマンOBはブログにて給与を得て仕事したプロセスを語る人がいます。本社の人は過去の人と思っていても、本人は懐かしがってレース担当時代のことを公表している。そして、企業秘密は昔も今も同じです。給料をもらってした仕事のプロセスは企業に属します」とあった。本社はリタイヤした人を過去の人として一見無視しているかのように見えるし、また過去の人と思うなら何も青筋を立てることもなかろうと思いながらも、論理矛盾の筋内容で理解するに時間が掛かったが、つまり余計なこと(色んな解釈在り)を書くなと脅しているようにも解釈できる文章にも感じられた。株主と称するなら判例や事例等をきちんと勉強して書いているのかも疑わしく感じられる内容でもあった。何を言わんとしたいのか不明なるも、今やグローバルな世界に、人の移動も活発に動くことで、ある面ノウハウも自由に行き来している時代に、しかも不正の内部告発者が不利益な扱いを受けないよう守る保護の対象に退職者を加える法令ができる時代となっているのに、面白い考えもあるもんだと一つ賢くなった。

それはさておき、プーチン大統領が日本を訪問し安倍首相の地元、山口県長門市で会談を行った。昨日のテレビは日ロ交渉の行方を盛んに報道しているので、興味深く見た。で、ウィキペディアの北方領土問題を再度読んで勉強してみた。北方4島は第二次世界大戦終了前後、ロシヤが占領したものだが、戦争過程で占領したものだけに話し合いだけで簡単に片付くとは思えない。神戸新聞を読んでいると、当時の移住してきたロシア人も「こんな劣悪な島なら日本に返還されたがまし」とあったが、ロシア政府の大規模開発でロシア島民の帰属意識も飛躍的に変わったとある。安部首相とプーチン大統領の共同記者会見で話が出た「特別な制度」について、今日のBSフジプライムニュースには北方問題に詳しい鈴木宗男さんが出演するとあるので注目している。








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西明石駅前のイルミネーションは、2016年はないの?

2016-12-16 06:21:18 | その他
先日、西明石駅に迎えに行った際、そろそろだと西明石駅在来線ロータリーのイルミネーションを見に行った。
今の時期だとすでに屋台の骨組みが終了し点灯式も済んだ頃だと期待したが、ところが、その骨組みがない。
噂では今年は中止らしいと聞いたので、念のため明石観光協会に確認すると、本当だった。
中止の理由は聞かなかったが、来年は計画したいという事らしく、今年だけが中止のようだ。
神戸ルミナエの豪華さと圧倒性には比較する方が無理なぐらい本当に小さなイルミネーションだったが
中止と聞くと寂しいものだ。でも西明石駅のそれは心がほっとするものがあった。
西明石駅のイルミネーションが点灯する、この時間帯だけは、在来線側が新幹線側に比べ存在感があって
周辺を一挙に暖かくしていた。イルミネーション回りはタクシー乗り場で、居酒屋も多い。
だから忘年会帰りの駅までの帰り道、イルミネーションの明りがほっとする瞬間になっていたのだろう。
忘年会の帰り道だと思うが、数人が寄って記念撮影をしている場面をよく見た。

さて、最近の西明石駅のイルミネーションで、最もよく出来ていると思ったのが、2013年のもの。
  「2013年」
来年は、もっと晴れやかな明るい西明石のイルミネーションを期待したい。

と、ここまで書いて今朝(15日)の神戸新聞を見ると、西明石のイルミネーションとの紹介記事がある。
そんな馬鹿なと読んでみると、同じ西明石駅でも南側海側のロータリーだった。記事には、
「高さ約8メートルのクリスマスイルミネーションが、JR西明石駅南側のロータリーで輝いている。地元商店街の恒例の取り組みで、
 寒さが増していく冬の夜に温かな光を届けている。 駅前を明るくし、にぎわいづくりにつなげようと、同駅南側の商店でつくる
 西明石南商店街事業協同組合が、電飾の補充や交換を重ねながら、 10年ほど前から実施。今年は11月25日に点灯を始めた」
・・・これは知らなかった。
  「神戸新聞 NXET」


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