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「西行 月に恋する」三田誠広著…を読んだので (yukariko)
2016-06-30 11:39:03
しばらく源平の戦いが主になっていたので都の話は久しぶりな気がしました。先日図書館で西行特集がされていて、「西行」が目に留まり借り出しました。

「待賢門院璋子が時代を終わらせたということもできる。それを見守っている西行の心の内も…」と作者は創作ノートで語っていますが、白河院、鳥羽院、崇徳院、後白河と待賢門院璋子を西行の立場から見た時代を主に書かれています。
でもやはり崇徳院は悲劇の人ですね。
父・母の罪を生まれながら背負って生きる悲劇、それしか言いようがないです。
 
 
 
そうですね! (sakura)
2016-06-30 16:21:14
平安時代初めの平城天皇と嵯峨天皇の抗争(薬子の変)を最後に、
皇位が武力で争われたことはありませんでしたが、
保元の乱は皇位継承問題で兄と弟の対立が兵乱へと発展し、
この争いに参戦した武士がしだいに貴族をしのぐほどの力をつけ主導権を握っていきます。

西行の歌集には、歌に添えられた詞書が沢山あり、
歌集から西行の自伝のようなものが見えてきます。
西行は清盛と同い年、西行は23歳の時に出家、歌僧として諸国を行脚し、
多数の和歌を詠み後世に影響を与えています。
一方の清盛は出世街道をひた走り、栄華を極めた末に滅亡しましたね。
崇徳天皇は優れた歌人で、ひとつ違いの西行とは和歌を通じて親交があり、
歌の上だけでなく、身分の違いをこえて互いに親しい感情をいだいていました。

保元の乱で敗れた仁和寺の崇徳上皇の許へ、いち早く西行は馳せ参じています。
敵方に囲まれた仁和寺の上皇を訪ねることは、
身の危険をともないますが、それを承知で駆けつけたのです。

 
 
 
崇徳院1丁目、2丁目、3丁目とは凄い町名ですね。 (自閑)
2016-06-30 22:52:52
sakura様
松原神社の由来について、興味深く、楽しく拝見致しました。
崇徳院が実際立ち寄ったかどうかは、800年前の事なので、伝説でしか有りませんが、松原神社が海岸近くと云う事は、近世川の土砂が堆積した新たな土地に、崇徳院の名を命名した人々、町名変更の嵐の中も町名を守った人々がいて、今も松原神社の神事に残され、守り続ける人々がいると言うことに敬意を表します。
京都では、有り得ないと思いました。白峰神社にしろ、金井金比羅宮にしろ、誰もが崇徳院を祭り、慰撫する神社と知りつつ、祟り神の名をを忌む所が有るかと。サッカー神社でもなく、縁切り神社でも有りませんよね。
拙句
五月雨やかかることしも濡れつらむ
(西行の話題があったので、山家集の中の讃岐の崇徳院へ女房を通じて贈った歌。あさましやいかなるゆゑの報いにてかかる今年も有る世なるらむの本歌取りです。ホトトギス派からすると愚作中の愚作。雨、かかる、濡れは縁語ですもの。)
 
 
 
町名を守り続けて欲しいものです。 (sakura)
2016-07-02 08:20:07
自閑さま
5、6年前でしたか、NHK大河ドラマ「平清盛」の中で、
崇徳天皇がかなり大きく取りあげられ、井浦新さんが
崇徳天皇の狂気を演じられていました。

このドラマを見ていた尼崎に住む知人から、
近くに「崇徳院」という地名やバス停があると聞きました。

悲惨な運命に翻弄された崇徳天皇は、生前は無力でしたが、
崩御後は人々を畏怖させる怨霊となったとされ、
安井金比羅宮の縁切り・悪縁切り・物断ちのご利益の由来は、
祭神崇徳天皇のパワーからきているようです。

大江山で雨にあわれて風邪でもひかれましたか。
 
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