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白峯寺は黄峯・白峯・赤峯・青峯・黒峯からなる五色台連峰の西端に位置する
白峰山(標高三七七m)の山頂北側にあります。
弘法大師空海を開祖とし、のち空海の甥にあたる智証大師円珍が山中の霊木を
千手観音像に刻み本尊としたと伝えられています。古くより霊山として
信仰されていましたが、寺名が広く知られるようになったのは、
崇徳上皇が鼓ヶ岡の御所で没し、寺の裏山に墓所が営まれて以後のことです。
讃岐では早くから崇徳上皇を慕う地元の有力者によって、上皇の供養が行われ、
鎌倉初期には、源頼朝が万基の石塔を奉納したことが寺伝に見えます。
再三火災にあい、室町時代には、管領細川氏の手によって堂宇の修理が行われ、
現在の建物は慶長4年(1599)に讃岐領主生駒親正が再建したものです。
江戸時代には、高松藩初代藩主松平頼重が寺領を寄せ寺の保護に努めました。
以後、松平氏の尊崇厚く寺殿の改修復興を行っています。
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白峯御陵石段下から白峯寺へと続く道
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御陵から青海神社へと下る参道は、西行の道として整備され、
道の両側には、西行・崇徳上皇などの歌碑がたち並んでいます。
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境内入口の七棟門は、左右に2棟の塀を連ねた
高麗形式の七つの棟をもつ珍しい堀重門です。
この門から参道を進むと正面に護摩堂があります。
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七棟門から左に進むと、後小松天皇から賜った勅額が架かる勅額門が建っています。
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勅額門の前方にあるケヤキの木は、玉章木とよばれています。
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勅額門は頓証寺(とんしょうじ)の随身門であり、左右に保元の乱で
崇徳上皇を守った源為義・為朝父子の武将像が置かれていました。
現在はお遍路さんの足の無事を祈る大わらじが掛けられています。
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勅額は模刻で、実物は宝物館に収蔵されており、
国の重要文化財に指定されています。
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頓証寺は、頓証寺殿とも呼ばれ、建久2年(1191)、崇徳上皇に近侍していた
阿闍利章実が鼓岡の木の丸殿を移建して上皇の霊を祀ったのが始まりとされ、
木の丸殿の跡地に、それに代わるものとして社を建てたのが鼓岡神社とも伝えています。
鎌倉・室町時代には白峯陵・頓証寺に対する崇敬が高まり、
頼朝は備中妹尾郷、後鳥羽院は丹波国栗村庄、備前国福岡庄を寄進しています。
現在の建物は頓証寺・勅額門とも高松藩主松平頼重再建といわれています。
京都御所紫宸殿の様式を模して庭前には、右近の橘と左近の桜が植えられています。
頓証寺の裏には崇徳上皇の御陵があります。
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頓証寺の前に立つ相模坊は、日本五天狗のひとつで讃岐では金比羅山の金剛坊、
八栗山の中条坊とともに讃岐三天狗といわれています。
謡曲『松山天狗』『雨月物語』等には崇徳上皇の守護神として登場します。
頓証寺の左手には白峯御陵遥拝所があり、傍らに西行法師石像があります。
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崇徳上皇御陵遥拝所
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濱千鳥あとは都にかよへども 身は松山に音をのみぞなく
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西行が白峯に詣で、負いを木に掛け祈り終わった時、
御廟が振動したと記されています。
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西行像は文政の頃に後人がこれを偲んで「西行腰掛石」と伝えられる
石上に安置したもので、 傍らにはサヌカイトに刻まれた西行の歌碑があります。
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よしや君 昔の玉の 床とても かゝらん後は 何にかはせん
『保元物語』には、白峯御陵に詣でた西行が鎮魂の歌を詠んだ物語が載せられています。
西行白峯詣でのことは、謡曲『松山天狗』『雨月物語』など
室町時代以後の文学の題材となっています。
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勅額門の手前から右に折れて石段を上ると、
本尊千手観音を祀る本堂や大師堂などの堂宇が並んでいます。
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大師堂
白峯寺は四国霊場八十八ヶ所の第八十一番札所で、
御詠歌は「霜さもく露白妙のてらのうち 御名を称ふる法のこゑごゑ」
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本堂
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白峯寺から車道に出て少し下ると、杉木立の中に二基の十三重石塔が石柵を巡らせています。
ともに国指定の重要文化財で、崇徳上皇の供養塔とされています。
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鎌倉時代中期と末期建立の十三重石塔で、東塔は弘安元年(1278)、
西塔は「元亨四年(1324)、金剛佛子」の造立銘があり、時期的な齟齬が生じますが、
源頼朝が建てた万基の供養塔の一部ともいわれています。
この塔の上方は塔ノ峯ともいい、無数の各種石塔が埋もれています。
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白峯寺からゆるやかな勾配の山道を一時間ほど下ると 高屋バス停に至ります。
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途中、瀬戸内海の雄大な景色が手に取るように望めます。
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現在は埋め立てられていますが、二つのおむすび山の麓には、
崇徳上皇が上陸した松山の津がありました。
白峯寺に残る古い絵図には、白峯の断崖に波が打ち寄せて、
松山の津という入り江を作っていた図柄が描かれ、当時はこの辺まで
瀬戸内海の青い海だったことを物語っています。
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高家神社まで下りるとバス停はもうすぐです。
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高屋バス停
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『アクセス』
「白峯寺」坂出市青海町
坂出駅から琴参バス王越線「高屋」下車2.5キロ 徒歩約1時間
『参考資料』
「香川県の地名」平凡社、1989年 「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年
日本古典文学大系31「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年
郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8年
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年
竹田恒泰「怨霊になった天皇」小学館文庫、2012年
というのが、あるのですね。その葉を懐中すれば、よい
便りがあるといわれ、若い男女には、殊に珍重されているとは、なんともロマンチックなお話ですね。
私も若くないですが、一枚欲しくなりました。
参拝の時にお寺の由来と共に崇徳上皇の御陵の話、怨霊の話、西行白峯詣でなど色々な物語や伝説がお寺の僧や他の信者にも教えられ、故郷への土産話として伝わり上皇への崇敬も一緒に広まっていった事でしょう。
このお寺に参拝することはおそらくないと思うので、絵地図を始め現地の詳しい説明とお写真を載せて下さり、それでお寺や御廟の有様がよく分かってありがたいです。
コメントを読ませていただいて、私も一枚もらってくればよかったと思います。
この伝説の舞台は白峯になったり上皇の最晩年の地・鼓岡になったりしていますが、
鼓岡の方がふさわしい気がします。いずれにしても、
上皇にとって都は懐かしい所だったようで、鼓岡辺りは
「なかずの里」とも呼ばれ、鴨川、醍醐、東山など京
そっくりの地名が寂しい配所生活を偲ばせます。
智証大師が本尊を刻んで白峯に置き、修行の道場としたのが白峯寺ですが、
上皇の葬儀や法要を行ったのがこの寺です。
生まれながらに暗い影を背負わされたばかりに、
上皇は悲しい生涯を送ることになりました。
かつて天皇の座にあったお方が、あれほど都を恋しがっておられたのに、
死してのちにも都に帰れないとは!
その人生が悲劇的であればあるほど、人々は同情し憐れみます。