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讃岐へ配流となった崇徳院は、保元元年(1156)7月23日、
草津湊から屋形船に乗り込み、淀川を下り大阪湾から瀬戸内海に出ました。
途中には、いろいろな名所旧跡がありますが、船からは移り行く外の景色を
眺めることもできず、警固の者から「ただ今須磨の関の沖を通っています。
あそこに淡路島が見えてきました。」という声だけをたよりに、
それぞれの地の故事に思いを馳せて心を慰めるうちに、院を乗せた船は
仁和寺を出発してから、11日目に松山の津(坂出市高屋町)に到着しました。
現在では、高松が四国の玄関口となり、高松港がよく使われますが、
当時、松山の津のあるあたりが大きな入り江になっていて、四国随一の良港でした。
現在の松山小学校付近からは、弥生時代の製塩土器などが発見されるなど、
古代には、海岸線が今よりも内陸まで入り込んでいたことが推測されています。
松山の津は、高屋と青海(おうみ)の境を流れる青海川の当時の河口にあったとされ、
中世までの河口は現在の河口より約2キロ内陸に入った地点、雄山の北東麓と
推定されています。松山の津は綾川の上流にある讃岐国府の港であり、四国の
玄関口のひとつでもあることから、かなりの賑わいを見せていたと考えられます。
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2つ並んだおむすび山、雌山(めんやま)と雄山(おんやま)の間を
さぬき浜街道が走っています。
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さぬき浜街道沿いのガソリンスタンド近くに、
松山の津の石碑と説明板が建っています。
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讃岐に流された崇徳院が最初に上陸したとされる場所です。
碑には、「崇徳天皇御着船地 松山津」と彫られています。
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松山の津(現地説明板)
崇徳天皇(1119~1164)は平安時代末期に在位された第75代の天皇でしたが、
当時は上皇(退位した天皇)が政治の実権を握る「院政」という
政治のやり方が行われており、崇徳天皇の在位中、白河上皇、鳥羽上皇という
強力な権力者のため、政界の中枢に地位を確立できませんでした。
また実子である重仁親王の皇位継承の望みも絶たれてしまい、
崇徳上皇は、鳥羽上皇、後白河天皇やその周囲に対し強い不満を抱いていました。
これに藤原摂関家の権力争いも加わり、京の都には不穏な空気が流れるようになっていました。
そして一一五六(保元)年七月、鳥羽上皇の崩御をきっかけに、
ついに戦闘行為へと発展します。(保元の乱)。
しかし戦い自体はあっけないもので、後白河天皇方の奇襲により、
一日で決着がついてしまいました。敗れた崇徳上皇は讃岐へ配流となり、
ここ松山の津に着いたとされています。津とは港のことであり、
当時の坂出地域の玄関口となる場所でした。その頃は今よりも海が内陸部まで迫っており、
この雄山の麓も海であったと考えられます。崇徳上皇はその後8年間を
坂出で過ごされましたが、結局京都に帰ることはできず、
一一六四(長寛二)年に崩御され、白峰で荼毘に付されました。
浜ちどり 跡はみやこへ かよへども 身は松山に 音(ね)をのみぞなく『保元物語』
この松山の津の石碑は、松山地区の郷土史である『続・松山史』の編纂を記念し、
昭和六十一年に建てられたものです。 平成二十三年九月二十七日 坂出市教育委員会
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車の往来が激しいさぬき浜街道と雌山。
『アクセス』
「松山の津の碑」坂出市高屋町
JR坂出駅から車で約15分
JR坂出駅から琴参バス王越線「高屋局前」下車 徒歩約7分
(バスは1時間に1本程度です。)
琴参バス坂出営業所 ☎0877-46-2213
『参考資料』
「香川県の地名」平凡社、1989年 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年
山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書、2014年
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年
坂出市にも松山があるのですね。ちょっと勘違いをしておりました。
崇徳院は親及び祖父の業の犠牲になった。後白河院も、決して権力にしがみつこう、兄崇徳院と争おうとは露にも思わなかったのでしょう。権力に集まる各貴族の思惑、それに従った清盛らの武士。
父と子、兄弟、一族が其々の思惑で骨肉の争いを続ける。それに信西ら僧侶が加担する、将に末法思想と相俟って保元記、平治物語、平家物語は語られて行きますよね。
崇徳上皇は、後白河天皇の兄でありその自負もあったと思うし文化人でもあり立派な人であったと思いますが、
藤原氏の政権争いに巻き込まれ、保元の乱では、敗北
してしまいました。後白河天皇についた清盛公にすれば
敵方であり、平家とすれば致し方ありませんでした。
sakura様のブログでわかるように、各地でおまつり
されているようなので、またお参りに行きたいと思います。
西行は讃岐に詣でて、「松山と申す所に、院おはしますけむ
御跡たずねけれども、かたもなければ」という
詞書のある歌を詠んでいますね。
四国には松のついた地名が多くありますが、
松山の津も松林がつづく海岸だったのでしょう。
後白河天皇即位の背景には、乳母の夫、敏腕の信西入道がいて、
彼の画策によって実現したのでしたね。
信西は鳥羽法皇の葬儀をとり仕切り、保元の乱では味方を勝利に導きます。
続く平治の乱は「保元物語」によると、崇徳院の怨霊が
引き起こしたと書かれています。保元の乱で政敵に
厳罰を下した信西は、平治の乱で殺害されてしまいました。
第1皇子の重仁親王の乳母だったため、宗子の息子頼盛は
崇徳上皇側につく可能性があったと考えられ、
清盛は宗子や頼盛との分裂を避けるため、様子を見ていたと思われます。
ところが、宗子は頼盛に「崇徳院方は負けるに違いない。
あなたは兄清盛にしっかりついていきなさい。」と助言したといわれています。
この宗子の判断が兄弟の分裂を防ぎ、
清盛は一門をまとめて後白河天皇方に参陣できたのでしたね。
京都にいらっしゃったらぜひ参拝なさってください。
800年の昔とでは海岸線も違うし航行技術も違うから当時の四国随一の良港に向かうのは当然ですね。
この坂出で8年を過ごされ崩御された…体を抜けた魂は一っ跳びに帰りたかった都に戻られたことでしょう。
『…悲惨な運命に翻弄された崇徳天皇は崩御後は人々を畏怖させる怨霊となった…』
安井金比羅宮も白峰神宮も何度もお参りしましたが、その霊験あらたかと言われるパワーは現代も生き続けているのでしょうか?
ひとつは生前偉大な能力をもっていた人物です。
例えば「万葉集」の歌人、柿本人麻呂は歌聖とあがめられ
奈良県、兵庫県、島根県の柿本神社の祭神となっています。
京都の安倍晴明神社には、安倍晴明が祀られています。
もうひとつは、その人が流罪になったり死刑になったりして、
怨念を残す形で死んだため祟りをなすと考えられた人の霊を祀ったものです。
保元の乱で讃岐に流された崇徳天皇がそうですし、
菅原道真も神として祀られています。
怨霊への恐れが神道信仰にとりこまれ、人々は祭神として祀ることで、
人間に危害を加えないよう祈願してきました。
一見悪神のように見えても、よい神に変えられると信じてきたのです。
荒ぶる神を恐れる一方で、頼りになる存在であるとされたのです。
それぞれの神社には、得意の分野の御利益があります。
それを知ってお願いすれば叶えてくれるはずです。