コメント
 
 
 
木の丸殿は昔から有名だったのですね (自閑)
2016-07-29 05:20:37
平家物語の百二十句本の五節の沙汰や高野本の緒還に「内裏は山のなかなれば、かの木の丸殿もかくやとおぼえて」と引用されている木の丸殿の元は鴨長明の方丈記ですが、その元をただせば、新古今和歌集や俊頼髄脳の天智天皇御製「朝倉や木の丸殿に我が居れば」に行き当たると思っておりましたが、蓮如の朝倉やの歌は明らかに天智天皇歌の本歌取りですので、当時から有名な歌だった事が分かりました。感謝申し上げます。
心の中では思っても、下々の者から御殿を粗末な宮殿と呼ぶ事は畏れ多いので、命名は崇徳院本人かと存じます。
つまり、崇徳院も天智天皇歌を知っていたと言うことになるかと。
 
 
 
崇徳院説話 (sakura)
2016-07-29 09:01:52
自閑さま、その通りです。
蓮如の配所訪問(未遂ですが)の話は、「保元物語」、
鴨長明の「発心集・第6・宝日上人、和歌を詠じて行とする事
 蓮如、讃州崇徳院の御所に参る事」や「古事談」にも載っています。

木の丸殿と命名したのが崇徳院本人かどうかは、私にはわかりませんが、
院は和歌に優れていた方ですから、天智天皇の歌はご存知だったでしょう。

院の生前、鼓岡を訪問した蓮如や平康頼の説話から、
木の丸殿や写経、経沈めの様子が知れます。
また角田文衛氏は「山家集」の詞書から、寂然も讃岐の配所に院を訪ねたとしておられます。
 
 
 
発心集を読みました (自閑)
2016-07-30 17:17:07
sakura様
図書館で発心集を読みました。ご教授頂き感謝申し上げます。
方丈記無名抄を読みながら、発心集を読んでいないのは可笑しいかと存じますが、この二冊だけで、調べる事が多々有りすぎて発心集まで手が回らないのが実情です。
この結縁により極楽往生するかも。
 
 
 
百人一首 (揚羽蝶)
2016-07-30 22:50:30
 怨霊として語られるようになってしまった、崇徳院ですが、瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ の歌は現世では結ばれなかった恋人たちも来世では結ばれましょう。という意味で、崇徳院が、いつ誰を想って詠んだのか、気になります。
とてもロマンチックな方だったと思います。
 
 
 
自閑さま (sakura)
2016-07-31 07:44:47
早速ありがとうございます。
自閑さまは守備範囲がとても広いですから、
「調べる事が多々有りすぎて」ごもっともです。

寂然が崇徳院の配所を訪ねたのは、詠み交わした和歌からも
崇徳院との関係からも確かですが、
朝倉や…の蓮如は、「保元物語」諸本によって
名前が違いますしどうなのでしょう。


 
 
 
揚羽蝶さま (sakura)
2016-07-31 07:48:37
いつもコメントありがとうございます。
1141年、鳥羽上皇は崇徳天皇を譲位させ、近衛天皇を即位させています。
この歌は天皇が退位されてまもなくの頃の歌です。
いつ誰を想ってお詠みになったのか、私も気になりますがわかりません。

激しい恋の歌、崇徳院はとてもロマンチックな方だったようですね。
保元の乱が起こったのが保元元年(1156年)ですから、
院が讃岐に流されたのはこの歌を詠まれてから15、6年ほど後のことです。

二つに別れた急流がやがて一つになって、きっとまた逢うことができるであろう。というのを
院の生涯と重ね合わせて、「院の皇統がいつか日の目を
見ることを切に願っておられたことを暗示している。」と
解釈する研究者もいらっしゃるようです。
 
 
 
「割れても末に…」は恋の歌の形を取っているけれど…の方を思いますね。 (yukariko)
2016-08-01 16:56:16
源氏物語の「須磨」でしたか、都から宰相の中将(頭の中将)が源氏に会いに来て二人大いに懐かしんでは涙を落した…所がありますね。

海の果ての淋しい粗末な御所まで懐かしい人々がはるばるやってきてくれても、逢っての喜びの後でいずれは都へ帰ってしまう。
自分が帰ることを許されない都へ、と思うと逢いたくもなくなったのかなとも思いました。
時鳥の声でさえ聴きたくないと思われるほどの絶望の気持ちで6年は長かった事でしょう。
 
 
 
自閑さま (sakura)
2016-08-02 08:40:48
蓮如の配所訪問の話は、「保元物語」、鴨長明の
「発心集・第6・宝日上人、和歌を詠じて行とする事
 蓮如、讃州崇徳院の御所に参る事」や「古事談」にも載っています。

「古事談」を「十訓抄」に訂正させてください。
よろしくお願いいたします。
 
 
 
Yukarikoさま (sakura)
2016-08-02 08:45:41
Yukarikoさま
今は宰相となっていた頭中将が、須磨の源氏を訪ねたのでしたね。
「故郷をいづれの春か行きて見むうらやましきはかへるかりがね」

「あかなくにかりの常世を立ち別れ花のみやこに道やまどはむ 」

崇徳院の配所を訪ねてきた寂然と蓮誉を次の記事に載せます。
また見てやってください。
 
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