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崇徳上皇が亡くなられた理由にも… (yukariko)
2016-08-10 12:43:54
粗末で厳しい監視の下での暮らしの末に亡くなられ遺骸も都に帰さず白峰に葬るという惨い扱いは道真同様『悪霊となって恨みを晴らさん』と言われたという伝説にもなりますね。
殺害説も衰弱・狂死説も『かもしれない』と思えます。

怨霊を憚って坂出の「白峰山陵」から移され、白峰神宮でお祀りされたのは明治になってからとの事ですから
政変で敗れた人間に対する扱いの惨さは政権側の近親憎悪でよけい増幅されたのでしょうか?

重仁親王の墓や崇徳天皇の皇子(綾顕末)の墓があるのも初めて知りました。何となくほっとしたりして。
 
 
 
暗殺説もあるのですか。 (揚羽蝶)
2016-08-10 17:47:16
 暑い日が続きますが、皆さまご自愛下さいませ。
さて、崇徳上皇の死因には暗殺説もあるのは、知りませんでした。首謀者が二条天皇という事ですが、私としては、若くして急死された二条天皇より崇徳上皇がせっかく書かれた写本を、送り返した日本一の大天狗と頼朝に言わしめた、かの後白河院があやしいと思います。
色々推察してみるのも面白いと思います。
いずれにしても崇徳上皇にとっては、口惜しい事だったと思います。
 
 
 
Yukarikoさま (sakura)
2016-08-11 10:15:23
保元の乱後、崇徳上皇に対する後白河天皇の扱いは、
非常に過酷なものでしたが、これには理由があるのです。

天皇の器ではないといわれていた後白河ですが、鳥羽は
近衛天皇の後に
二条天皇の中継ぎとして後白河を皇位につけました。
美福門院・忠通の強い後押しがあったのです。

崇徳上皇は重仁をつけたかったのですが、かなわず傍系に追いやられます。

後白河天皇にしてみれば、王家嫡流で重仁という有力な皇子をもつ崇徳が、
もし二条天皇が亡くなるという非常事態が起こった場合、
崇徳が院政を行う可能性があったのです。乱後、崇徳は
すぐ出家していますが、出家していても院政は可能です。
偶然、皇位につき、不安定な存在であった後白河天皇にしてみれば、
崇徳を完全に抹殺したかったのです。

重仁親王の伝説は、讃岐の人たちが親王を何とかご両親に会わせてあげたいと、
作られたものなのかもしれません。この伝説が本当であれば、
親王はご両親に会えたということになります。
 
 
 
揚羽蝶さま (sakura)
2016-08-11 10:33:27
コメント並びにお見舞いありがとうございます。
揚羽蝶さまもお大切になさってください。

「保元物語」によると、朝廷は崇徳上皇の動向が気になり、
平康頼を派遣して上皇の様子を探らせています。康頼が見ると、
上皇は柿の衣、長頭巾という山伏姿で、血で誓いの文を
書き添えた五部大乗経を海底に沈めたというのです。

都に帰った康頼は「上皇は生きながら天狗になられた。」と報告します。
都では、それが上皇の魔王伝説、天狗伝説、怨霊伝説に発展していきます。
実は都に送られた上皇自筆の五部大乗経は、送り返されずに
仁和寺の上皇の第2皇子、元性法印のところにあったのですが。

これまで上皇に対する後白河の仕打ちはあまりに残酷でしたし、
平康頼は後白河の側近ですから、上皇暗殺の背後に後白河がいたとも考えられますが、
二条天皇は崇徳上皇が崩御された後、上皇の遺体が一時、
安置された地に上皇を祭神とする白峰宮(天皇寺)を建てるよう勅を下しています。
このことを踏まえて作られた二条天皇が命じたという
暗殺伝説ではないでしょうか。
 
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