平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




讃岐配流となった崇徳院は松山の津に到着しましたが、急なことで御所の
用意ができてなかったため、土地の豪族で讃岐国府に勤める役人であった
綾高遠(あやのたかとお)の松山の御堂を住まいにしました。綾氏は景行天皇の血を引く
日本武尊(やまとたけるのみこと)の皇子、武殻王(たけかいこおう)の
流れをくむ讃岐の古代豪族で、高遠はその一族と推測されています。

坂出市は東部および南部のほとんどは山地で、市街地は綾川の三角州にひらけています。
その大半は江戸時代には塩田がつくられ、その後埋め立てられているので、
海岸線はずっと北に伸び、昔の面影はありません。
綾川下流の右岸にある松山は、この川の堆積作用によって形成された地にあります。

その後、松山の御堂は綾川の洪水により流失し、あたりは田となっていましたが、
天保六年(1835)に高松藩第九代藩主松平頼恕(まつだいら よりひろ)が
場所を推定して整備し、雲井御所之碑を建てました。松平頼恕は尊王攘夷を強硬に
主張した水戸斉昭(なりあき)の兄にあたり、やはり尊王の志が厚い人物でした。

綾川に架かる新雲井橋。

崇徳院は都を懐かしんで雲井御所近くに流れる綾川を鴨川とよび、
今でも土地の人はこのあたりの綾川を鴨川とよんでいます。







雲井の御所跡は、綾川の土手を下りたところ、
遠くを山々に囲まれた田園地帯にあります。

地元の人が綾高遠の子孫の家だと教えてくれた立派な民家には、
綾○○という表札がかかっています。



綾家の東隣にある雲井の御所跡。





崇徳上皇の守り本尊の観世音を安置したものとして、土地の尊崇が厚い中川観音堂。
綾高遠の子孫、林田太次郎が宝永元年に奉納した鰐口(わにぐち)。

「この地は、保元の乱に敗れ讃岐に配流となられた崇徳上皇が、仮の御所として
過ごされた場所と伝えられ、天保六年(1835)高松藩主松平頼恕公により
雲井御所之碑が建立されている。保元の乱は平安時代の末、摂関家の藤原頼長と
忠通の争いと皇室である崇徳上皇と後白河天皇の争いが結びついて激しさを増し、
保元元年(1156)鳥羽法皇の死を契機として一挙に激化した争乱である。
結果は崇徳上皇側の大敗に終わり、上皇は讃岐に配流となった。当時三十八歳の
上皇は、国府の目代である綾高遠の館を御所とされたと伝えられている。
「綾北問尋抄」「白峰寺縁起」などでは、仮の御所で三年を過ごされながら、
都を懐かしく思い、その御所の柱に御詠歌を記されたとされ、その一首に、
ここもまた あらぬ雲井となりにけり  空行く月の影にまかせてと詠まれた歌から
雲井御所と名付け、この地は雲井の里という、と伝えられている。またこの里に
上皇が愛でた「うずら」を放たれたことから、この地は「うずらの里」とも呼ばれている。

雲井御所で約三年過ごされた上皇は、府中鼓ヶ丘木ノ丸殿に遷御され、
長寛二年(1164)八月 四十六歳の若さで崩御なされた。崩御の後、京都より御返勅が
あるまでの間、西庄の野沢井の水にお浸しし、同年九月に白峯で荼毘に付され御陵が築かれた。
時代を経て、雲井御所の所在が不明になっていたのを、江戸時代に松平頼恕公が
上皇の旧跡地として雲井御所の石碑を建立し、綾高遠の後裔とされる
綾繁次郎高近をこの地の見守り人とした。綾氏は石碑の前に大蘇鉄を二株植えたといわれ、
今も大蘇鉄が繁っている。 平成十三年十二月 坂出市教育委員会」(現地説明板)

松平頼恕はこの碑を建てる一方、現在の高松市円座町に住んでいた綾高遠の子孫を探し出して
ここに住まわせ、田地2ヘクタール(2万平方メートル)を与えて永代碑の見守りを命じました。
『アクセス』
「雲井御所跡」香川県坂出市林田町中川 JR坂出駅から車で約10分 
琴参バス王越線「雲井橋」下車徒歩約6分(バスの本数が少ないので、ご注意ください。)
琴参バス坂出営業所 ☎0877-46-2213
『参考資料』
「香川県の地名」平凡社、1989年 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年
 山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書、2014年 
郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8年
 県史37「香川県の歴史」山川出版社、1997年 「郷土資料事典 香川県」ゼンリン、1998年
「角川日本地名大辞典(37)」角川書店、昭和60年




コメント ( 4 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
綾の局 (揚羽蝶)
2016-07-14 19:53:32
 崇徳上皇の雲井御所での生活は、国府の庁官であった、綾高遠の御堂にて武士を集めて射芸を、楽しまれたり歌を詠まれたりして、3年間過ごされたようです。
上皇をお世話する高遠の娘の綾の局との間に皇子と皇女が、誕生したが、幼くして亡くなられたのは、さぞかし残念であったでしょう。
 
 
 
穏やかな日々を過ごされたようですね。 (sakura)
2016-07-15 09:29:44
讃岐に配流となった崇徳院は、激しい怒りに満ちた日々を過ごし、
死後は怨霊となって多くの災害や内乱をもたらし、
人々を恐怖に陥れたということになっています。
しかし地元の伝承や地誌では、必ずしもそのようになっていませんね。
 
 
 
崇徳院のお心 (生まれ変わり)
2017-12-16 14:26:04
すばらいいコメントを拝見いたしました。
お心の優しい崇徳院様が、最後の家族まで大切になさっていたお話がたくさん残っているように推察いたします。
崇徳院様は怨霊などではなく。心暖かいとてもお優しい、また間違ったことの嫌いな崇高なお方だと信じております。
歴史の真実が暴かれ怨霊に仕立て上げられたことが間違いであることを知る日が来ると信じております。
 
 
 
ご訪問ありがとうございます (sakura)
2017-12-16 15:19:11
生まれ変わりさま

歴史は勝者が次の時代の支配者となり、一般に勝者側によって記述されます。
その内容は勝者が正当化され、敗者の言い分は退けられます。
勝者にとって都合がいいように脚色され、時には、捏造されます。

「歴史の真実が暴かれ怨霊に仕立て上げられたことが
間違いであることを知る日が来ると信じております。」とお書きくださいましたが、
私も同じ気持ちです。

 
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