コメント
 
 
 
坂出市にも松山があるのですね (自閑)
2016-07-04 20:58:20
sakura様
坂出市にも松山があるのですね。ちょっと勘違いをしておりました。
崇徳院は親及び祖父の業の犠牲になった。後白河院も、決して権力にしがみつこう、兄崇徳院と争おうとは露にも思わなかったのでしょう。権力に集まる各貴族の思惑、それに従った清盛らの武士。
父と子、兄弟、一族が其々の思惑で骨肉の争いを続ける。それに信西ら僧侶が加担する、将に末法思想と相俟って保元記、平治物語、平家物語は語られて行きますよね。
 
 
 
讃岐までお疲れ様でした。 (揚羽蝶)
2016-07-05 00:26:49
 暑い中、讃岐までお疲れ様でした。
崇徳上皇は、後白河天皇の兄でありその自負もあったと思うし文化人でもあり立派な人であったと思いますが、
藤原氏の政権争いに巻き込まれ、保元の乱では、敗北
してしまいました。後白河天皇についた清盛公にすれば
敵方であり、平家とすれば致し方ありませんでした。
sakura様のブログでわかるように、各地でおまつり
されているようなので、またお参りに行きたいと思います。
 
 
 
自閑さま (sakura)
2016-07-05 09:33:15
松山は西行の歌からでしょうか。
西行は讃岐に詣でて、「松山と申す所に、院おはしますけむ
御跡たずねけれども、かたもなければ」という
詞書のある歌を詠んでいますね。
四国には松のついた地名が多くありますが、
松山の津も松林がつづく海岸だったのでしょう。

後白河天皇即位の背景には、乳母の夫、敏腕の信西入道がいて、
彼の画策によって実現したのでしたね。
信西は鳥羽法皇の葬儀をとり仕切り、保元の乱では味方を勝利に導きます。
続く平治の乱は「保元物語」によると、崇徳院の怨霊が
引き起こしたと書かれています。保元の乱で政敵に
厳罰を下した信西は、平治の乱で殺害されてしまいました。
 
 
 
揚羽蝶さま (sakura)
2016-07-05 09:37:01
保元の乱で平家は継母の宗子(池禅尼)が、崇徳上皇の
第1皇子の重仁親王の乳母だったため、宗子の息子頼盛は
崇徳上皇側につく可能性があったと考えられ、
清盛は宗子や頼盛との分裂を避けるため、様子を見ていたと思われます。

ところが、宗子は頼盛に「崇徳院方は負けるに違いない。
あなたは兄清盛にしっかりついていきなさい。」と助言したといわれています。
この宗子の判断が兄弟の分裂を防ぎ、
清盛は一門をまとめて後白河天皇方に参陣できたのでしたね。
京都にいらっしゃったらぜひ参拝なさってください。
 
 
 
最初読ませてもらった時は「松山」…?と思いました。 (yukariko)
2016-07-05 19:09:55
松山港は坂出の近くなのですね。
800年の昔とでは海岸線も違うし航行技術も違うから当時の四国随一の良港に向かうのは当然ですね。
この坂出で8年を過ごされ崩御された…体を抜けた魂は一っ跳びに帰りたかった都に戻られたことでしょう。

『…悲惨な運命に翻弄された崇徳天皇は崩御後は人々を畏怖させる怨霊となった…』

安井金比羅宮も白峰神宮も何度もお参りしましたが、その霊験あらたかと言われるパワーは現代も生き続けているのでしょうか?
 
 
 
日本の神様 (sakura)
2016-07-07 11:15:08
神となって祀られている実在の人物には、二つの系統があります。
ひとつは生前偉大な能力をもっていた人物です。
例えば「万葉集」の歌人、柿本人麻呂は歌聖とあがめられ
奈良県、兵庫県、島根県の柿本神社の祭神となっています。
京都の安倍晴明神社には、安倍晴明が祀られています。

もうひとつは、その人が流罪になったり死刑になったりして、
怨念を残す形で死んだため祟りをなすと考えられた人の霊を祀ったものです。
保元の乱で讃岐に流された崇徳天皇がそうですし、
菅原道真も神として祀られています。
怨霊への恐れが神道信仰にとりこまれ、人々は祭神として祀ることで、
人間に危害を加えないよう祈願してきました。
一見悪神のように見えても、よい神に変えられると信じてきたのです。
荒ぶる神を恐れる一方で、頼りになる存在であるとされたのです。

それぞれの神社には、得意の分野の御利益があります。
それを知ってお願いすれば叶えてくれるはずです。
 
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