崇徳上皇は鼓ヶ岡の木の丸殿(このまるでん)が完成したため、
雲井御所からそこへ移り、崩御までのおよそ6年を過ごすことになりました。
これまで上皇は綾高遠館の隣に住み、雲井御所での生活は
比較的自由で穏やかなものでしたが、木の丸殿は国府の裏手にあり、
国府の役人の監視も厳しかったはずです。これまでとは環境が大きく変わってしまい、
高遠の屋敷からも遠くなり、不自由な生活を強いられることになりました。
そのためか上皇は悲嘆にくれる毎日を送るようになったという。
時には、開法寺や綾川の土手などを散策することもあったのでしょうが、
いっそう仏道修行に打ち込むようになったのはこの頃です。
坂出市はかつて讃岐国府が置かれた地で、政治・文化の中心地として栄えていました。
JR讃岐府中駅西北方向の田園地帯の中に「讃岐国府跡」の石碑が建っています。
国府とは各国ごとに置かれた役所のことで、国司(県知事)らが政務を執る施設です。
国司の下には数百人もの役人が多くの役所の施設で働いたとされ、
国府はこれらが集まった官庁街、今でいう都道府県庁にあたります。
詳しい場所はまだ特定されていませんが、
国府につながりのある地名が多く残っていることから、
鼓ヶ岡神社の北東一帯、綾川までが讃岐国府跡と推定されています。
この辺りは古代には阿野郡甲知郷とよばれ、国府や南海道の
甲知(こうち)駅が置かれ、古くから讃岐国(香川県)の中心地でした。
讃岐国の中央を標す境石(堺石)。
境石から綾川を渡って国府跡へ。
綾川は讃岐国府近くを流れるためその名が都に聞こえ、藤原孝善(たかよし)は、
「霧晴れぬ 綾の川辺に 鳴く千鳥 声にや友の ゆく方を知る」と詠み『後拾遺集』
以後、歌の名所となりました。
(霧の晴れない視界の悪い綾川の川辺で鳴いている千鳥は、
姿が見えなくても友の鳴く声によってその居場所を知るのであろうか。)
国府の規模は、碑のある場所を中心に八町(約870㍍)四方だったと見られています。
綾北平野の南限にあって、三方を山で囲まれたこの地域は大化の改新による
律令制度によって讃岐国府の置かれたところである。
附近には、垣ノ内(国庁の区域)・張次(ちょうつぎ・諸帳簿を扱った役所)・
状次(じょうつぎ・書状を扱ったところ)・正倉(国庁の倉)・
印 鑰(いんやく・かぎの保管所)・聖堂(学問所)などの地名があり、
名国司菅原道真の事跡とともに讃岐国庁の姿を偲ばせ、
木ノ丸殿(擬古堂)・内裏泉・盌塚・菊塚など保元の乱によって讃岐に流された
崇徳天皇の悲しい遺跡は、保元の昔を物語る。また白鳳期建立の開法寺の塔礎石や
巨石墳新宮古墳・式内大社城山神社など古代~中世の遺跡も多く、
ここに訪れる人々を古代讃岐のロマンへ誘うところである。(現地説明板)
国府跡一帯は、近年宅地化が急速に進んでいるため、
発掘調査が継続して行われています。
讃岐国は大国に次ぐ上国で、国司として赴任した人々には、
紀夏井(きのなつい)や菅原道真、『和漢朗詠集』の編者
藤原公任(きんとう)など史上有名な人物も多くいます。
夏井は善政を行い、四年の任期が終えた時、百姓たちに望まれて
さらに二年任期を延長したといわれ、道真は五年間在任し、
大旱魃(かんばつ)の時、死装束を着て国府西にある城山(きやま)神社で、
七日間降雨を祈願し、雨を降らせ百姓たちを喜ばせたと伝えられています。
平安時代中頃になると、国司に任命されても現地に赴任しない
遙任(ようにん)が増え、代わりに目代と呼ばれる
代理人を現地へ派遣するなどしてその任にあてました。
京都の草津湊から崇徳上皇の船には、国司の藤原季行(すえゆき)が同行し
厳重な監視の下、松山の津へ到着しました。
遙任国司である季行は、讃岐へ赴任せず都に住んでいたのです。
鼓ヶ岡の傍には、白鳳時代から平安時代末期にかけて、国府とも強い関連性をもった
巨刹開法寺(かいほうじ)がありました。今は開法寺というため池となり、
時に古瓦が発掘される程度でしたが、平成11年から同20年にかけて行われた
周辺の発掘調査により僧坊や講堂、廻廊のものと思われる礎石も見つかり、
寺院内の大まかな建物の配置がわかりつつあります。
またため池のほとりには、この寺の塔跡(県史跡)が残っています。
土壇の上に自然石の礎石が並び、その中央に直径80㌢の柱穴底に、
径50㌢ほどの舎利孔をもつ心礎があります。平安時代前期、
国司を務めた菅原道真の漢詩集『菅家文草(かんけぶんそう)』の中には、
国府周辺を詠んだ詩が収められ、松山の海辺に官舎の別館が
軒を並べていたことなど、当時の府内や松山津の様子が知られます。
その巻三の「客舎冬夜(きゃくしゃとうや)」という詩に「開法寺」という名が見え、
「開法寺は府衙の西に在り」などと書き残されています。
この一文が、讃岐国府の位置を決める重要な手がかりとされています。
『アクセス』
「讃岐国府跡の碑」坂出市府中町 讃岐府中駅から徒歩約16分
『参考資料』
「香川県の地名」平凡社、1989年
「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 「郷土資料事典 香川県」ゼンリン、1998年
郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8年
新たに御所を新築されても、より窮屈で暮らしにくくなって、この僻地に置かれたまま、年老いて死ぬまで放置されるのかもと疑心暗鬼にかられる日々であったことだろうと思います。
そりゃ仏道修行に明け暮れもしますね。
演じた井浦 新さんの、イメージがあり鬼気迫る演技には、おどろおどろしいものがありました。やはり無念の死を遂げられたため、後に怨霊となって恐れられました。
ここ讃岐の地で、菅原道真公も五年間在任されたとは、何か不思議な縁を感じます。
また平家都落ち後の拠点となった屋島にも近いですね。
「崇徳上皇ゆかりの地 四国讃岐坂出市」HPには、次のように書かれています。
「崇徳上皇は雲井御所(坂出市林田町)から、鼓岡(同市府中町)に移られました。
この区間およそ4kmで、車で15分程の距離ですが、
当時は移動に2日程かかっています。
これは、五色台(山)と城山の間に山があった為で、
古い文献にこの山の土を埋め立てに使ったと記されています?」
そうだとすると、これまで綾高遠の隣に住み、
綾家は一家をあげて上皇に何かと気を配っていましたから、
寂しいながらも気が紛れたでしょうが、ここは遠すぎます。
右大臣にまで上り詰めた道真の怨霊伝説も有名ですね。
日本三大怨霊といわれ、人々に恐れられた三人の内、
二人までがこの地に縁があったのですね。
お察しの通り、讃岐府中は高松市の屋島に近いです。
予讃線坂出駅―八十場(やそば)駅―鴨川駅―讃岐府中駅―国分駅(高松市)
こんな位置関係です。
崇徳上皇役の井浦新さんは、もともと上皇が好きだったので、
プロデューサーからこの配役の話があった時、「どうして選んでくれたのですか。
以前、僕が上皇に興味があると話しましたか?」と聞いたというエピソードがあります。
この役はセリフが少ないため、難しかったと思いますが、
ファンと仰るだけあって鬼気迫る演技を見せてくれましたね。
監視の目が一段と厳しくなった木の丸殿で崇徳院の後悔に苛まれた日々を思うと仏道に専念していた事が頷けます。
また、この地で髪も爪も切らず都を恨んで、特に実の弟の後白河院を恨んで、後の怨霊と化したのですよね。
古代の松山の津、讃岐を知る手掛かりになっています。
偉大な先人です。
鳥羽草津から上皇に同行した讃岐国司藤原季行や
讃岐まで供をした上皇の乳母子、兵衛尉能宗辺りから漏れ、
出発の際の上皇嘆きの場面は、都の話題になったようです。