平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 






JR四国坂出駅前。



坂出駅前から青海(おうみ)行きのバスに乗り、高家神社と青海神社をたずねます。

都からの指示で、崇徳上皇の遺骸は白峰山へ葬ることになり、
長寛2
年(1164)9月16日、葬送の列は八十場の清水を出発しました。途中、
高屋村まで来たとき、にわかに風雨雷鳴があり、しばらく棺を台石の上に置くと、
その石に棺から血が流れ出たため村人は畏れ、葬式を終えてから境内に石を納め、
上皇の神霊を合祀しました。以来、高屋村の氏神である高家神社は
血の宮ともよばれ、棺の台石はいまも境内に保存されています。
棺から血がこぼれでたということは、暗殺を示唆しているようにも思われます。

高屋バス停(青海バス停の3つ手前)から、新四国曼荼羅霊場第14番
観音寺の案内板を目印に進みます。高家神社は白峰山の上り口にあたり、
御陵は左手の道を辿った山上にあります。



高家神社の祭神は、天道根命(アメノミチネノミコト)
崇徳天皇 待賢門院の三柱です。





山門を入ると手水舎、拝殿があります。

台石は拝殿背後に安置されています。

高家神社からは、二つ並んだおむすび山、
雄山(おんやま)と雌山(めんやま)が間近に見えます。
かつてこの山の東麓には、四方を打ちつけた屋形船で
護送されてきた崇徳上皇が上陸した松山の津がありました。

9月18日戌の刻(午後8時ごろ)、遺体は白峰山の西、稚児ヶ嶽で荼毘に付されましたが、
魂は都に帰りたかったのか、火葬の煙は天にのぼらず、都の方になびき、
かたまりとなって動かなかったといいます。これを見た当時の春日神社神官
福家安明が煙の下りたところに社を建て、上皇とその生母待賢門院の霊を
祭祀したのが青海神社の始まりとされ、その後、この社は青海村の氏神として
村人に手厚く祀られています。社は稚児ヶ嶽の麓にあり、煙の宮ともよばれ、
西行法師の道のスタート地点にもなっています。遺骨は白峯寺の近くに
埋葬されましたが、御陵は石を積んだだけの粗末なものだったようです。


青海バス停から白峰山麓にある青海神社をめざします。

鳥居が遠くに見えます。











平成11年「西行白峯のみち」(遊歩道整備促進協議会)発足
平成16年1月竣工 会長鎌田正隆



青海神社拝殿。

うたたねは萩ふく風におどろけど 長き夢路ぞさむる時なき 崇徳院(新古今1804)
(うたたねは萩を吹く風の音にはっと目覚めたけれども、
長い夢のような迷いの世界からは覚めるときがないよ。)


崇徳天皇は悲劇の帝でした。白河上皇の意向により五歳で即位しましたが、
最大の後ろ盾であった上皇が崩御し、父鳥羽院が院政を始めると情勢は一変しました。
鳥羽院は美福門院との間に儲けた体仁(なりひと)親王を天皇にするため、
祖父(白河上皇)の子と噂のある崇徳天皇に強く譲位を迫りました。
その近衛天皇が若くして死去するや呪詛の疑いをかけられ、わが子重仁親王の
即位を望む崇徳上皇の願いは無視され、皇位は弟の後白河天皇に移り、
皇太子にはその皇子守仁親王(二条天皇)が立ちました。

崇徳上皇は今様に熱中し、即位の器とはほど遠い29歳にもなった弟の
雅仁(まさひと)親王がまさか天皇になるとは思ってもいませんでしたし、
鳥羽院の第4皇子として誕生した後白河天皇にしてみれば、
期待もしなかった天皇の座が転がり込んできたことになります。
28年にわたり院政を展開した鳥羽院が崩御すると、崇徳上皇と
同母弟後白河天皇の決裂は決定的となり、追い詰められた上皇は
兵を挙げるも失敗し、讃岐配流という厳しい措置となり、
二度と都の土を踏むことなく不遇の生涯を閉じました。

わが子を天皇にしたいと弟と争って敗れた崇徳院。
荼毘に付され、長い悪夢から覚めることができたのでしょうか。
『アクセス』
「高家神社」坂出市高屋町878 坂出駅からバスで約20
琴参バス王越線「高屋」下車徒歩約8
「青海神社」坂出市青海町759 坂出駅からバスで約30
琴参バス王越線「青海」下車徒歩約15

平成28年3月、坂出駅前から「青海」行のバスに乗り、
青海神社から西行法師の道を辿り、御陵と白峯寺を参拝し、
帰りは白峯寺から高家神社まで下り、
バス停「高屋」から坂出駅行のバスに乗りました。
(バスの本数が少ないのでご注意ください。
坂出駅か観光センターで、バスの時刻表やレンタサイクル、
乗合タクシー情報などが満載の小冊子
「坂出市公共交通マップ」がいただけます。)
『参考資料』
郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8 
 元木泰雄「保元平治の乱を読みなおす」日本放送出版協会、
2004
 
「香川県の地名」平凡社、1989年 「郷土資料事典 香川県」ゼンリン、1998
 新潮日本古典集成「新古今和歌集」(下)新潮社 、昭和63年
 久保田淳「新古今和歌集 全注釈六」角川学芸出版、平成24





コメント ( 6 ) | Trackback (  )


« 崇徳院ゆかり... 崇徳院ゆかり... »
 
コメント
 
 
 
天皇の御陵 (揚羽蝶)
2016-08-20 20:41:55
 歴代天皇の御陵は、古代を除いてはほとんど京都近郊にありますが、京都を離れたところでは、崇徳天皇の、
白峯陵。下関の、我々の安徳天皇の阿彌陀寺陵ですが、当時より地元の人から尊敬され、愛され大事にしていただいています。ありがたいことだと思います。
 
 
 
2週間も水浸けされて血は流れない (自閑)
2016-08-20 20:59:36
sakura様
崇徳院が崩御してから2週間水浸けにされた御遺体から血は流れない。
しかし、突然の雷雨と血が流れた為に、既に怨霊伝説がここから始まっていますね。
久保田教授の全評釈を読まれたとのこと。この本は高いので、1冊しか持っておりません。いつか退職金でと思う次第です。同じく久保田教授の角川ソフィア文庫はベットの横に常備?しております。
拙句
たまの床寝ぬ熱帯夜にはひんやりと
(難しい本は、私の睡眠薬です。)
 
 
 
揚羽蝶さま (sakura)
2016-08-21 11:12:05
阿彌陀寺は神仏分離令により廃されましたが、
赤間宮が創建され、今は赤間神宮となり多くの参拝者を集めています。
「先帝祭」のときなど、参拝客の列の長さに驚きました。

後白河院が重病に陥ると、安徳天皇の祟りと恐れられ、
御霊を鎮める御影堂が建立されたようですね。

 
 
 
自閑さま (sakura)
2016-08-21 11:17:09
江戸時代になって伝承が増えていきました。
「怨霊とは何か」の中で、山田雄司氏は
「綾北問尋抄」の作者はこの本をまとめるにあたって、
古老に物語を尋ねてまわっているが、その際、真贋とりまぜた
伝承が入り込むことになったのであろう。とし、
青海神社について、崇徳院を荼毘に付した際に、煙が下りてきたので、
「煙の宮」とよばれるようになったと記す一方、
「血の宮」とよばれる高家神社については、
お棺を置いた石があることを記しているが、
まだ「血」に関する伝承は記されていない。
もっと後になって作られた伝承であろう。」と書いておられます。

久保田教授の全評釈は図書館で読みました。専門書は高価ですね。
 
 
 
後世の歴史学者(愛好家)が付け加えて行った伝説が多いのではないかと。 (yukariko)
2016-08-23 15:26:16
お棺を置いた石に血が流れたとか、煙が上に上がらなかったとかの記述を古い言い伝えに見つけた歴史家は鬼の首を捕ったように喜んで自分の本に書き加えた事でしょう。
勿論不思議な事があったかもしれないけれど、その事象を勝手に怨霊と結びつけて話す人がなかったとは…。

学問として研究してこられた偉い先生たちと違い、伝説好きな庶民からすれば登場人物も第一級の人物ばかりで絶好の怨霊話(笑)色々ありそうです。

幼いまま亡くなられた安徳帝とは違い、至高の位に上られた人とは思えない苦悩の46年を送られた崇徳帝が後世の帝にきちんと祀られて穏やかになっておられればいいなあと思います。
 
 
 
伝説のすべてを信じるわけにはいきませんが… (sakura)
2016-08-24 13:33:52
嘘か本当かわからないような話が、まことしやかに
今日まで伝えられているのは、

かつて天皇であった方が罪人として流され、
許されないまま配所で亡くなった悲劇に、
村人が心から同情しているのだと思います。

 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。