
尼崎市の松原神社には、素盞嗚命(すさのおのみこと)、
三輪明神と並んで崇徳天皇が祀られています。
保元の乱で弟の後白河天皇に敗れた崇徳院は、知足院(船岡山の東南)近くの
とある僧坊で出家し、仁和寺に入り沙汰を待っていました。
仁和寺には弟の覚性法親王がいたので、弟にすがりとりなしを頼むつもりでした。
しかしその時、父鳥羽法皇の仏事で鳥羽離宮にいた覚性はそれを断わり、
合戦から13日目に讃岐(香川県)配流という厳しい刑が下されました。
覚性法親王・後白河天皇どちらも生母は崇徳院と同じ待賢門院璋子です。
朝まだ暗いうちに仁和寺を出発し、粗末な牛車で草津湊へ向かいます。
この湊は鴨川と桂川の合流点にあった船着場です。(現・伏見区下鳥羽)
護送は囚人同様のきびしい扱いでした。院がみすぼらしい屋形舟に乗りこむと、
四方を打ちつけ、外からは鍵をかけて淀川を下ります。お供をしたのは、
重仁親王(崇徳の第1皇子)の母、兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)の他
2人の女房であったという。重仁は乱後、仁和寺で出家して僧となりますが、
わずか23歳でその生涯を終えています。
讃岐への途中、崇徳院を乗せた船は嵐にあい、一行は浜田で休息したとされ、
その縁により院の崩御後、村の鎮守の松原神社にその霊を祀ったと伝わっています。

JR立花駅前

松原神社


松原神社(浜田の神事)
主祭神は素盞嗚命で、崇徳天皇を相殿神とし、三輪明神をも配祀する。
末社は琴浦明神社、八幡宮社、稲荷神社。浜田に残る伝承によれば、
崇徳天皇が讃岐(現在の香川県)に移られる途中、大風雨を避けて
この地にご休息されたとき、村民が、このしろ、はまぐり、かき、
まてがい、ばい、ゆば、湯どうふ、よめな、しいたけ、ごぼう、
やき米、やき豆、塩おはぎ、などを差し上げてもてなしました。
その由縁から、没後も御霊を慰めおまつりするに至ったといわれています。
現在3月31日に行われている春祭りをダンゴノボーといい、
当時と同じ物を献上する神事が行われています。
また特定の家が神事に奉仕する当家の制度が残っています。
12月31日の除夜には、当屋の中の宮当番が、新しい藁を垂らした注連縄を
松竹梅に寄せ合わせて根元を笹でくくった門松に張って、拝殿前に飾り付けます。
元旦の早朝当屋の人たちは、威儀を正した服装や裃を着て、
一切無言で神事を行います。このような当屋は、宮講と呼ばれ、
現在も神社を中心とする年中行事を踏襲して、厳粛に行っています。
なお、浜田の地は崇徳院の御影堂領が比叡山粟田社領に護持されていた史実と合致し、
古くから浜側の田地が(浜田の地名由来)開かれていたことを物語っています。
尼崎市教育委員会 (現地説明板)



松原神社拝殿

拝殿の背後に本殿。

松原神社を南下すると、中世の浜田荘の一部にあたる
崇徳院1~3丁目 という地名があります。
この地名は、近世以来の小字名で、
大字浜田(江戸期から明治22年の浜田村)の一部でした。
浜田荘は鎌倉期~室町期に見える荘園の名で、現在の浜田町1~5丁目、
崇徳院1~3丁目など尼崎南西部地域一帯です。
建長8年9月29日付の『崇徳院御影堂領目録』には、浜田荘が記され、
この荘園が鎌倉期には粟田宮に寄進された
荘園の一つであったことが知られています。
粟田宮は崇徳院の霊を慰めるため、後白河天皇によって
保元の乱の戦場跡に建てられた社です。
古代、尼崎の海岸線は現在よりかなり北側にあり、海岸部に立地している
浜田荘は、戦国期には地続きの浦浜の境界をめぐって隣接する荘園と
争いを起こしています。また江戸時代の崇徳院は海岸線に沿った
一角に位置していたことが『草場忠兵衛文書』に見えます。
『アクセス』
「松原神社」尼崎市浜田町1丁目 6 JR立花駅下車 南へ徒歩5分 松原公園隣
『参考資料』
「兵庫県の地名」(1)平凡社、1999年 「角川日本地名大辞典」(28)角川書店、平成3年
「兵庫県の難読地名がわかる本」神戸新聞総合出版センター、2006年
「神戸~尼崎海辺の歴史」神戸新聞総合出版センター、2012年
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」日本放送出版協会、平成16年
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年
「待賢門院璋子が時代を終わらせたということもできる。それを見守っている西行の心の内も…」と作者は創作ノートで語っていますが、白河院、鳥羽院、崇徳院、後白河と待賢門院璋子を西行の立場から見た時代を主に書かれています。
でもやはり崇徳院は悲劇の人ですね。
父・母の罪を生まれながら背負って生きる悲劇、それしか言いようがないです。
皇位が武力で争われたことはありませんでしたが、
保元の乱は皇位継承問題で兄と弟の対立が兵乱へと発展し、
この争いに参戦した武士がしだいに貴族をしのぐほどの力をつけ主導権を握っていきます。
西行の歌集には、歌に添えられた詞書が沢山あり、
歌集から西行の自伝のようなものが見えてきます。
西行は清盛と同い年、西行は23歳の時に出家、歌僧として諸国を行脚し、
多数の和歌を詠み後世に影響を与えています。
一方の清盛は出世街道をひた走り、栄華を極めた末に滅亡しましたね。
崇徳天皇は優れた歌人で、ひとつ違いの西行とは和歌を通じて親交があり、
歌の上だけでなく、身分の違いをこえて互いに親しい感情をいだいていました。
保元の乱で敗れた仁和寺の崇徳上皇の許へ、いち早く西行は馳せ参じています。
敵方に囲まれた仁和寺の上皇を訪ねることは、
身の危険をともないますが、それを承知で駆けつけたのです。
松原神社の由来について、興味深く、楽しく拝見致しました。
崇徳院が実際立ち寄ったかどうかは、800年前の事なので、伝説でしか有りませんが、松原神社が海岸近くと云う事は、近世川の土砂が堆積した新たな土地に、崇徳院の名を命名した人々、町名変更の嵐の中も町名を守った人々がいて、今も松原神社の神事に残され、守り続ける人々がいると言うことに敬意を表します。
京都では、有り得ないと思いました。白峰神社にしろ、金井金比羅宮にしろ、誰もが崇徳院を祭り、慰撫する神社と知りつつ、祟り神の名をを忌む所が有るかと。サッカー神社でもなく、縁切り神社でも有りませんよね。
拙句
五月雨やかかることしも濡れつらむ
(西行の話題があったので、山家集の中の讃岐の崇徳院へ女房を通じて贈った歌。あさましやいかなるゆゑの報いにてかかる今年も有る世なるらむの本歌取りです。ホトトギス派からすると愚作中の愚作。雨、かかる、濡れは縁語ですもの。)
5、6年前でしたか、NHK大河ドラマ「平清盛」の中で、
崇徳天皇がかなり大きく取りあげられ、井浦新さんが
崇徳天皇の狂気を演じられていました。
このドラマを見ていた尼崎に住む知人から、
近くに「崇徳院」という地名やバス停があると聞きました。
悲惨な運命に翻弄された崇徳天皇は、生前は無力でしたが、
崩御後は人々を畏怖させる怨霊となったとされ、
安井金比羅宮の縁切り・悪縁切り・物断ちのご利益の由来は、
祭神崇徳天皇のパワーからきているようです。
大江山で雨にあわれて風邪でもひかれましたか。