コメント
 
 
 
建勲神社の前を通りながら… (yukariko)
2009-10-26 01:40:43
船岡山にも登り、建勲神社の前も何度も通りながら
全くその由来を知りませんでした。

五行説に基づいて平安京が造られた時、玄武に比定されたお話は読んで知っていましたが葬送の地であったとは…。

船岡祭の10/19はもう済んでしまいましたが、今度何かで通ったら立ち寄ってみようと思います。

でも源氏というのは利害で対立するのが多いですね。
どの人もこの人も欲望に正直なのか、争うのが好きというか…大将が部下を引っ張ってゆけない、人望がない?
どうも源氏は好きになれませんし、これだけ纏まらなければそりゃ平氏に負けますね。

話は変わりますが、時代祭りの女人列で常盤御前と子供達も可愛かったし、横笛や静御前は可憐でしたよ。巴御前は凛々しかったしね。
こんな風にお話の中の姿を見るとなんだか実感がわきますね。
 
 
 
お祭は偶然の出会いでした (sakura)
2009-10-26 17:24:51
建勲神社に着いた時には、お祭はすでに始まっていて
写真は、見物人の後ろから背伸びしながら撮りました。
神社のパンフレットによると明智光秀を討った秀吉は、
大徳寺で信長の法要を執り行い、船岡山に寺を建てようと
正親町天皇から天正寺の寺号を賜りましたが、
寺の竣工は中途に終ったとあります。

建勲神社から少し足を延ばせば、大徳寺の北には牛若丸や
常盤の史跡が散らばっています。
物語に登場する人物や場所をイメージするだけでなく、
時代祭りなどでそれぞれに扮した人たちを見たり、
史跡を訪ねたりすると一層実感が湧きます。

保元の乱で義朝は父や多くの弟たちと戦い
乱後には彼らを船岡山で処刑していますが、
為義の十男行家は幼少で戦いには加わらず母の実家の
熊野にいて処刑を免れ、後、以仁王の令旨を諸国の源氏に伝えます。
この乱で東国における長年にわたる勢力争いや為義の
嫡子をめぐる一族間の紛争にピリオドが打たれたことになります。
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。