梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

同窓会

2011-10-26 08:41:00 | 雑記
同窓会の連絡が来た、凡そ3年か4年に一度位来ていたが最近東京に暮らしている連中が別枠でやり始めたらしい、此方は毎年やっているようだ、
私は中学を卒業するとその年の9月には上京してしまったが最初の同窓会には出席した、
その後上記の様に数年に一回葉書が来て20代と30代に一度づつ出た事がある、しかし特別会って嬉しかったと言う事も無く遠い事もあって足が遠のいてしまった、
同窓会で昔付き合っていた異性と仲良くなってと言う話を聞くが中学卒だと未だそんな相手は居ない、現在とは違って中学生で彼女彼氏と言う付き合いをすることは先ず無かった。
同窓会で昔の彼女と再会し盛り上がって「一緒にクラス会」と言ったら彼女が「同窓会」と答えたと言うジョークが有ったが最初の同窓会は未だ16歳で高校生である、2度目は20代後半で次が30代後半だからもう殆ど対象外だ、中学校の時少し気になっていた女性は来なかった事にもある。
大体、話が合わなくなっているのとその頃は何人かのガキ大将が居て対立グループも有り系列を作っていたのだか自分は全くそう言うのに加わらなかった事も有り同窓会で自然とその系列毎に車座が出来ても所在無いと言う事も有った。
面白い事に地元から出ないで生活基盤を築いている連中はそのまま同じ上下関係が継続しているように見える事だった、
子供の頃のガキ大将とその取り巻きで腰巾着だった奴は30代の同窓会でも隣に侍って居てその他の同級生にはまるで昔と同じ態度で話しているのだ、ドラえもんに出てくるジャイアンとスネ夫の様な感じである、
その頃どのグループにも属していなかった自分は生意気だと思われがちだが対立グループにも属していなかったので庇う者も無く、同じ様にどちら付かずの数人と緩い友人関係を保っていた、
それでも他の友人は従属こそしていないが何となくKグループとかYグループにと言うカラーは有ったが自分は全くそのグループ毎の遊びには加わる事は無かった、
別に突っ張っていたわけではなく中学1年で父親と2人になってしまい家事が多くなって街に出かけるとか言う事が金銭的にも時間的にも難しくなったせいなのだが12歳~15歳の時期でこの事を理解するのは難しかったのだろう、
私の自宅から10分程度に住んでいるMグループのガキ大将は近くなのでその辺は理解してくれていた様だがそれ以外はかなり離れた村のガキ大将なので単に生意気な奴だったのだろう
更に自由時間が夜になるのでテレビの無い村では結局本を読む程度しか娯楽は無く、暇潰しに学校の図書館の本をジャンル関係なく端から読んでいたのでその辺も気に入られなかったのではないかと思う、
元々本が好きで小学校の図書室の本は略全部読んだ、見る物が無くなって父兄用の本も引っ張り出して読んでいた。
中学校も2年の後半には読むものが無くなったがこの頃になると好みが出てきて読まない部分も有ったがいわゆる世界文学全集とか日本文学全集は読み切ってしまい隣にあった公民館の銭形平次や右門捕り物帳を読み漁ったりしていた、此れがかなり気に入られなかった様だ
同窓会でこのガキ大将分けを見た事が切っ掛けで結局参加しても自分が居る場所が無いので2度と行かなくなってしまった、
此処数年上京組の同窓会に顔を出さないのはそう言う理由より金が無いのが原因理由なんだが少し落ち着いたらそろそろ顔を見に行くのも一興かなと思う様になった

数年前震災地に行った思い出

2011-10-25 16:52:59 | 旅行
4年ほど前の11月初めにJR東日本のスリーディーパスと言う奴で東北を廻って来た、
先ず田沢湖まで行って角館を見て少しはなれた西木温泉と言う所に一泊し翌日は角館から平泉まで行って毛越寺と中尊寺などを見てから気仙沼に移動し此処で一泊、その翌日に松島まで行き仙台青葉城を見学して帰京した、その内気仙沼と松島が今回の震災で大きな被害を受けてしまった、
平泉はさほど大きな被害は無かった様だが気仙沼ホテルと言うホテルは港の直ぐ近くだったから恐らく全壊したのではないだろうか。
翌日は此処から海岸を通る気仙沼線に乗って松島まで行ったのだがあの海岸沿いの線路もは今どうなっているのか、
最初に行った田沢湖では船に乗って湖の対岸付近まで遊覧したが既に高い峰には雪が幾筋か輝いていた、
土産に「いぶりがっこ」を買い、軽く食事を済ませるとバスを待つ、ここには面白い看板が有った、
「バスは一旦通り過ぎて戻ってきますので決して追いかけないでください」と言うのだが「追いかけないで」が目立つ様に大書きされているので実に笑える看板だった。



角館は既に紅葉は終えていて残りの色葉が梢にしがみつく様な景色だったが武家屋敷らしい町並みは今でもポスターを見るたびに「あそこだな」と言う記憶を呼び起こしている。
泊まったのは其処からかなり離れた西木温泉と言う地方のヘルスセンターの様な所で何も無い田んぼの中に有った、
公共の施設らしく少し素人風の従業員だったが実に節度ある接客で交換が持てる施設だった、翌日は来た時と同じに車で角館まで送って貰い平泉に向っう、
だが此処で私は大変な失敗をしてしまう、スリーディーパスは何度でも乗り降り自由で新幹線も4回利用できるのだから一旦一関まで出て一駅戻ればよかったのに携帯で調べたので在来線で行く様な方法をとってしまったのだ、此処で彼此1時間半のロスを出してしまった、平泉に付いたら既に昼時になってしまい駅前で昼食をとり、先ず毛越寺に行く、
裏側のお土産やの並ぶ駐車場に付いたら団体客のバスが数台入ってきたがこのバスはどうやら中国からの観光団らしい、凄い勢いで中国語が飛び交う、
毛越寺は紅葉の真っ只中と言うタイミングで黄色と赤のモザイク画の様な所を堪能し中尊寺に向う、

中尊寺の石ベンチにくっついていた紅葉



道路から長い階段を上り始めたら今度は違う言葉の団体に囲まれた、どうも此方は韓国語の様だ、今の時点ではどうやら日本人より外国人のほうが断然多い、周りの喧騒が中国語と韓国語だと何とも妙に居心地が良くない、取り合えず目に付いた茶店に入ってやり過ごす事にする。
数年前に女房と2人で来たのだが今回は女房の古い友人と3人連れである、前に来た時に見た能楽堂が古びていい感じだったが彼女はあまり興味が無さそうだったのでそのまま駅に戻ることにする、自分のミスで時間が少し押してしまった、電車の中から予約してあった気仙沼ホテルのフロントに事情を話して2時間ほど遅れると連絡を入れたが此れがどうやら奥に伝わっていなかったらしい、この日はちょっと残念な締めくくりになってしまった。

先物取引とヘッジファンド

2011-10-24 11:10:53 | 雑記
又、ヘッジファンドが空売りで巨額の利益を出したと言うニュースが流れた、更にその利益はヘッジファンドの資金を増強し次の投機に備えているだろう、
通貨に始まり、オイル、穀物、金と大きな物から今回の様に政策的に行おうとする増資ですら標的になる、
彼らにとって其れは一種のゲームだろうがその巨額な利益の対極にはその利益に相当する損失がある、株式に関しては「インサイダー取引」と言う法の網があるが通貨や石油は投機対象である、法の網は掛けられていない、しかしヘッジファンドマネーは国家予算に匹敵する額を保有している、この金を使えば先物を買い占めて価格を上昇させてから売り抜ける事が簡単に可能になってしまった、
石油は現時点ではエネルギーの基幹である、穀物は生活の糧である、此れらを買占めて価格をつり上げる事を個人の集合体であるヘッジファンドが制限を受けることなく行われると言うのは世界経済に対して大きな障害である、
自由経済は人類の発展に大きな恩恵をもたらした事は確かで有るが国家予算に匹敵する程の資金を利益の為だけに動かせる事は自由経済の根幹を揺るがすいわば「帝国」である、
江戸時代に米騒動になった様な買占めも有ったがこれは「現物」である、買い占めた米は保管のコストもあり、万が一幕府が放出をすれば暴落のリスクもあった、しかし現在は全て「先物」で買占めが出来る、金は必要かも知れないが石油を保管する必要は無く、コーンも買い付けて転売する事も必要なくキーボウドから数字を打ち込むだけである、
この操作で国によっては飢餓を起こし、経済を圧迫して貧困層を増加させる、通貨に至っては国家予算を圧迫し産業を衰退させる、巨額の資金を持ち更に巨大化する怪物は強制力を持って制限する必要がある、
あらゆる先物取引を停止するか最低でも額か変動幅を制限をすべきだろう、
株は投資で有って投機ではない、思惑で経済の足を引っ張る先物と言う投機はやはり強制力を持って制御する必要がある

居酒屋の2

2011-10-23 10:11:18 | 雑記
結婚して転居した近くにそのまま「居酒屋」と言う看板の居酒屋が有った、自分と同年輩の親父と言うよりサラリーマンが前掛けをした様な雰囲気の男性が1人で切り盛りしていた、
対向2車線の少し曲がりくねった狭い道路に面していて踏込みは無くいきなり車道と言う店構えだが、狭い割に環7から第二京浜への抜け道のせいで交通量はそこそこ有る、しかし7時を過ぎると通りは閑散とする、
入ると右側が店一杯のカウンターで左は畳の小上がり、二人並んで座るのはちょっと狭いと言う位の幅で座卓が3つある、此の小上がりの一番奥が我々夫婦の指定席で共稼ぎなので金曜が定日だった、焼トンと煮込みは前の店と同じだが此処の煮込みは上品でモツの入った味噌汁風と言った所か、蒟蒻と短冊の油揚げが入って居た、
此処の客筋はやはり職人、運転手と言った人達で中には定年後とも見える男性や夫婦も顔なじみになった、オリジナルの抓みが有ったりまるで定食の様な物もある下町に多い店で馴染み客で忘年会や新年会を毎年やって居た、
今ではクックパットなぞのネット情報が有るが30年位前なのでローカルのメニューだった、
手羽餃子とか上げ下ろしとか面白い物が有り、新しいオリジナルを考えると馴染みに無料で試食して貰ったりしているアットホームの店だった、
モツは大抵揃っていてハツ、レバ、タン、カシラとほぼ何でも有る、その頃私はボストンの会社から有る自動機を輸入している会社に勤めていてアメリカから二人のエンジニアが来た事があり何度か来ていたので夫婦で鎌倉を案内した事が有った、
紫陽花寺の脇にある懐石料理の店に連れて行ったのだがどう考えても彼らには物足らないだろうと言う事で、「自分が普段言っている飲み屋にどうだ?」と行ったら「是非連れて行け」と言うので「狭くて綺麗ではないし食い物は変な物しか無いぞ」と言っても「そう言う経験は中々出来ないから是非行きたい」と言うのでこの居酒屋に連れて行く事になった、
指定席の小上がりに押し込んだがソフトエンジニアのネド(通称で本名はウッドマンと言ったが樵と言う苗字の様だ)は身長が2mを越していて初めは胡坐をまねしていたが結局板により掛って足を投げ出して座る事になる、もう一人は黒人でクレッグと言う小柄の男でその当時巨人で活躍していたクロマティ選手に良く似ていた、
飲み物は「皆が飲んでいる奴が良い」と言うのでホッピーをジョッキで、抓みは親父が面白がってお任せにしたら次々ともつ焼きを出す、その度に「これは何だ?」と聞くがこちらは解らないので辞書で調べて答えるのだがどうしても全て内臓の直訳になる、つまり、「此れは小腸、これは肝臓、これは心臓」と言った具合で説明しているこちらの食欲が落ちそうな説明になったが二人とも「これは行ける」とか言いながらどんどん片づけて行く、
クレッグは刺身に付いていた山葵が始めてだったらしい、口に入れた途端鼻を押さえて上を向いて涙を流すと「これはホットでは無くシャープと言う味だ」と言ったが気に入ったらしい、
「女房がメキシコ料理が得意でやたらに辛い料理を俺に出すから此れで敵を打ってやるから」とチューブ山葵を何本かもって帰った、
翌日彼らは直接成田に行って会わなかったのだが送って行った通訳に聞いたら「面白かったし美味かったが本当は必死で飲み込んだ物が2つあった」と言っていたそうだが、名前を忘れたので何だかわからなかった、次に行った時に親父と話したのだがおそらく一つは「烏賊腑のホイル焼き」ではないかと言う結論になったのだがあとひとつは謎のままである
あれから30年近くが過ぎた、中途半端な距離だから全く行っていないのだが店はまだある様だ

居酒屋

2011-10-22 11:57:51 | 雑記
小料理と言うより、「居酒屋」と言う様な店が有った、未だ川崎に居た頃だからOちゃんの店より少し前になる、20代の後半入り浸っていた喫茶店が有って30代になったばかりの夫婦がやっている店で昼夜となく行っていたのだがウェイトレスの娘さんは居るのだがカウンターに入るアルバイトが居ないと言うので無給で其の替わり飲食は無料という条件で入る事になった、
此処で珈琲の入れ方からハンバーグサンドの作り方などを覚えたのだがその頃やはり常連だったちょっとやくざっぽい客と親しくなった、やくざに見えるだけで堅気では有ったが其れなりに繁華街ではぶいぶい言わせていた人なのだが性格はお人好しで笑い顔が実に可愛い男である、
彼が飲み屋をやりたいと色々探していたらちょっと小ぶりで新築の物件が川崎に有ったと言って来た、「Iちゃん(私の渾名)は確か川崎だったよな」と言うので話を聞いてみたらなんと自分のアパートから10分程度の所だった、立地条件を教えて一度その付近二人で飲み歩いた結果其処で回転する事になる、棲家の近くでありそう言う知り合いなので結局この店が10年弱でラーメン店に衣替えするまで毎日通ったのである、
此処ではかなり我儘を聞いてくれて飲む物は勝手に買って来て買った金額と同額でキープさせてくれた、ウィスキーからジン、ウォッカ、山梨の一升瓶のワイン(山梨ではワインでは無く酒と言う)など随分楽しませてくれた、
常連の魚好きを捕まえて「良い鯛が有ったから」と電話が来て仕入れてくるがそのままの原価で振る舞ってくれる、包丁代は彼が一緒に少し食べるだけと言う様な塩梅だから儲かる訳もない
付近にはこの手の居酒屋と言う様な店が無いので結構上客が付いて暫くは繁盛したのだが徐々に廻りに店が増えたのと毎日半分位席を埋めていたある会社が引っ越してしまい彼らも其れにつれて付近から居なくなってしまい、彼の性格で仕入れた物が少し古くなると全て捨ててしまうと言う歩留まりの悪さも影響して遂には「居酒屋」を諦めてラーメン屋になった、
ママさんが北海道だったので面を札幌の西山ラーメンから直接仕入れて親父の拘りの海産物も直送してつくる「海賊ラーメン」は評判が良くリピーターも増えて此れでと思った矢先、直ぐ近くの国道にチェーン店の「車屋ラーメン」が開店し車の置けない彼の店はファン以外が入らなくなってしまった、結局ラーメン店も5~6年でたたんで職人になって持病の糖尿が悪化し、67歳で一昨年他界してしまったがやはりああいう店はもう無くなったな
チェーンの居酒屋は其れなりに安くて美味しいのだが雰囲気がなじめない事も多い