梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

小料理屋とまではいかない店

2011-10-21 15:05:58 | 雑記
焼き豚で腹をくちくしアルコールも準備運動を済ませるとその頃増えてきたスナックと言う女の子の居る店に行く、元々は喫茶店でビールを出して更にウィスキーも飲ませると言う形式で広がってきたのだが(アルコールを置かない喫茶店は”純喫茶”と言う看板になっていた)風俗営業法が厳しくなり11時以降の喫茶営業が禁止され、特例として「軽食食堂」なら2時まで営業が出来ると言う条例がひかれ営業時間を延ばすために軽食=スナックと言う事になった、
暫くは11時に成ると店のほうから「何か軽い食事をオーダーして下さい」と言う様な時期もあったが何時の間にか有名無実となって彼方此方に「スナック何とか」と言う飲屋が増えて来た、
しかし来れは店にも1つのメリットをもたらした、つまり食堂だから女店員が配膳しても問題無いと言うのでカウンターしかない様なスナックに若い女性が何人も居る事になる、大抵は昼間働いていてアルバイトをしている子達で其れが新鮮な魅力でもあった、
その頃何時もつるんで飲み歩く仲間が居て中に1人毎日仕事が終わると必ずその焼き豚やで落ち合い河岸を替えて飲み歩く友人が居た、歳は自分より4つほど上だが意識することなく対等に付きあってくれた、歩いて行ける程度の距離に行き付けを6軒作りキープボトルを置いて毎日違う店に行く、最後の土曜にはどちらかのアパートに泊り込んでいて日曜は抜いてと言う生活を彼此年位やった、
その友人が見合いで結婚を決めてから焼き豚は行くがスナックはぷっつりと行かなくなった、
特に理由は無いのだが一人で女の子と飲みながら話すと言うのがあまり得意ではなくつまらなくなってしまったのだ、
焼き豚店から少し離れた所にひっそりと有った小料理屋を飲み仲間の長老に教わって通いだしたのはその後半年もしない頃だった、バス通りから一本入った路地でその路地の向こうは一種住専だから本当に静かに営業をしている、音楽を流すわけでもなく派手な明かりがある訳でもない、焼き豚やと逆で入り口は建物の幅一杯で2間もあるか、ガラス戸には藍暖簾が掛かっていて座る席はそのままカウンターなので出入りは楽だった、
カウンターの右側が奥に折れていて詰めて3人と言う位の席がある、其処が自分の定席になった、
マスターは30代の半ば、小柄の丸顔で「いらっしゃい」と笑い顔で言う以外は余計な話はしない、
かと言って取っ付き難い訳でもなく話しかければニコニコと話題に乗ってくる、黙っていればやはり黙っていて「今日はいい鮪が有るけどどうする?」とか「変った酒が入ったけど飲んでみる?」とかそんな具合だった、その頃自分が借りていたアパートはこの店から歩いて5分程度だったので本当にありがたい店だったのだが「どうしても一度やって見たい」と言っていた若い女の子を置いたクラブを蒲田の駅近くに開いてこの店を閉じてしまったのだが優しすぎる彼の性格ではとても若い女性を律する事は出来ず僅か1年程で閉店してしまいその後全く解らないようになってしまった、
未だ結婚する前の今の女房とも行っていたので時々「Oちゃんはどうしているんだろうね」と話に出る、
何処かであのままいい親父になって同じ様な店をやっていたら又行ってみたい物だ

近くの家におくらが咲いていた


焼き豚、煮込み

2011-10-20 10:43:53 | 雑記
中学の頃、姉がバーと言う所に勤めていた事が有る、その時遊びに行って薄暗いカウンターに座って何かジュースかなんか飲んだのだが小さな扉を押してはいると左側にカウンターが有って昼間だと言うのに暗い店内に小さく明かりが燈った怪しい雰囲気の印象が結局私のバーと言う場所のルーツの様だ、
自前で飲み始めたのは二十歳を越えた頃から(当たり前か、)で焼き鳥店が行き付けの最初で此処で大勢の飲み友達が出来た、
銭湯の脇にあるその店は大柄な坊主頭が1人で切り盛りをする店で焼きトン(豚か牛のモツを串に刺して焼いた物をここらでは焼き鳥と区別してこう呼ぶ)と煮込みが売りで多少刺身は有るがまああまり褒められた物ではなかった、
兎に角安いので何時行っても繁盛していて表まで椅子を出して飲んでいた、客の多くは近くの工場の職工か運送会社の運転手だが背広ネクタイのサラリーマンも結構居た、
モツ煮込みは牛のシロが主でそれに大根と牛蒡の短冊、ジャガイモがごろりと入った味噌味で注文するとその上にネギの小口切りをどさっと乗せて出す、其処に七味を振りかけて食べるのだが実に美味かった、此れは私のレパートリーに頂いて我が家の子供や友人に大評判である、
焼き豚はカシラ、タン、しろ、レバーが定番でコブクロはざっと湯がいた物にやはりネギの小口と薄切りにした大蒜を乗せる、醤油は好みで酢も入れている客も居た、冬しか出さないレバ刺しは此処でその美味さを知った。
縄のれんと波板のガラス戸をと開けると左手はカウンター、ぎっしり詰めて12~13人位が座れる、
右手には此れもこの手の店では定番の丸椅子にパイプ足のテーブルが3席で合計12人、其れと突き当たりに小上がりが有って思い切り詰めると8人くらい座れたと思うが一部は階段の下になってかなり窮屈だった、
この人数を1人で切り盛りするので注文の品は皆が手渡しがルールで皆知り合いだから全く遠慮はない、ビールは入り口の脇にあるガラスケースから勝手に出してゆく形式で親父が出すのはサワーくらいだった、
カウンターの一番手前に大きな黒い招き猫が置いてある、開店当時から有るのだがその後ろが焼き台になっている、
火はずっと炭火だったので猫の頭から方に灰が積もって居た、おそらく最初は時間が無かったのだろうが面白いので客が「猫の掃除はするな」と言う事になり10年も経つと凄い事になっていた、髭に氷柱の如く灰が垂れ下がり顔の上半分は白髪のビートルズの様な按配だったがそれがこの店の看板になった、
あれから40年近くが経つ、前を通ると未だやって居たので寄って見たらやはり同じ坊主頭で彼が仕込みをしていた、
当時の面影は有るのだが見事にやせて皺だらけになっていた、
「親父、随分歳を喰ったな」と言ったら「お互い様さ」と言って眼を細めて笑った顔はやはり昔のままだった

バー

2011-10-19 17:55:59 | 雑記
0代の後半から飲み始め20代頃から色んな所にのみに行った、未だ給料が安く敷居の高かった場所に「バー」と言うところが有った、暗い路地の両側に並んでいるのは小料理屋とこの「バー」という奴で金の掛からない飲み屋はもう少し広い裏通りに有った、定食食堂で魚をおかずにとか
中華料理と言うよりラーメン屋で餃子をつまみにと言う奴が多く、後は焼き鳥とおでん位だった、
未だスナックと言う形式の店は無く先輩に連れて行ってもらったカウンターと小さなボックスシートが壁際に幾つかと言う所は若い我々だけでは実の入り難かったし第一金額が追いつかない、
殆どは洋酒メーカーの系列で行灯には「サントリーバー」「ニッカバー」と言った冠が付いていた
サントリー系列で「トリスバー」と言うのも有ったが此方は少し安かったのだろうか
サントリーは今盛んに宣伝している「角」がメインだったがその後「オールド」が出る、一番安かったのは「白」だったがその間に「カスタム」と言うのが有った、
ニッカで覚えているのは「スーパーニッカ」だったが此方の方が少し優しい味だった気がする、
水割りと言う飲み方はかなり後からで大抵はロックかストレートだったが其れこそ今盛んに宣伝している「ハイボール」が一時かなり流行った、この流行が焼き鳥屋やおでんや、何でもある「パイイチ」(ちょいと一杯の省略名)でも飲み始め「ハイダマちゃん」と言っていたが此れがウィスキーでは根が張るので焼酎で割るチューハイとなり、やがて有名になった「ホッピー」になる、
本格的なバーでは炭酸のボンベで作っていた所もある、ウィスキーは別格の舶来と言う奴があって代表格はジョニーウォーカーで「ジョニクロ」と言えば飾って有るが飲む奴は居ないと言う位の価値があったが、今では2千円位で売っている、オールドとあまり変らないようだ、
バーとパイイチの大きな違いはホステスと言う接客女性の有無だ、しかし薄暗い店の中には年齢不詳のママとホステスが居る店も結構あった、昭和40年代はこんな店が多かったがそれを逆に楽しんだりしていた、
若い女性の居る店は結構金額が張るのだが酒より摘みが高かった、「チャーム」と呼ばれる乾き物が必ず付いてきてスルメにマヨネーズをつけたもの、柿の種、ドライソーセージ程度が乗っていて結構いい値段がする、其処に若い女の子が「私も良い?」とねだるのがフルーツだのカクテルと言う名前の色付き水で此れで自分の分の倍も取れれる、
それでも結構客は居たのだがスナックと言うタイプの店が流行りだすと段々とバーと言う店は姿を消して古い温泉街にしか見なくなった
私の住む町にはそんな店が未だ幾つか並んだ小路がある、通りから見ると本当に懐かしい通りなんだが実を言うと未だ入った事は殆ど無い、

線路際に背を向けて並んでいるのだが線路から見る窓に店の名前が書かれているのだが今の店の名前かどうかは分らない



Ton2の意味は何だろう?ディスコはどうした!



前の路地から見ると「ショットバー」らしい、この小路の雰囲気が何ともいえないが、入るのに勇気が居る




家族の継承

2011-10-18 10:40:41 | 雑記
今私の会社にCADの勉強をさせて欲しいと他の会社から頼まれて来ている女性が居る、
20代の後半で大学を降りてから教師の免許を取り数年勤務したが教育現場の難しさとモンスターペアレント、そして教師社会の特異さに精神的に付いていけず退職、暫く保母をしていたらしいが此方も仕事が少なく臨時から中々抜けられない事もあり手に職を付けたいと知り合い経由で勉強をしようと思ったそうだ、
その彼女の妹さんが介護の仕事をしているらしい、我が家の長男も介護士である事から少し話をした。
介護の仕事はかなり時間が不規則で体力もきついがその割りに給料は実に少ない、
しかし彼女の妹は「この仕事が好き」だそうで明るく頑張っていると言う、息子の話や彼女の話から本当に高齢者問題は大変な問題になってしまったと言う話題に成った、
彼女の祖母は90歳を超えて他界したがその前10年近く痴呆の症状が出て自分の娘(彼女の母親)の顔も解らなくなったと言う話になった、
我が家の義理の母も他界する前3年ほどは娘の顔が解らなくなって居た、徘徊、後追いとなりやむを得ず施設に預かってもらおうと言っていた矢先に家で転倒し股関節骨折から寝たきりになってしまい結局特別擁護老人施設に入事になったのだが、未だに「施設に入れよう」とした決断が2人の傷になっていた、結果的にその遠い施設には入る事は無かったのだが親を見離すという事が悔恨の思いになっている、
「しかし、あの苦労は子供にはさせられないからどちらかが欠けたら施設に入る位の用意だけはしておかないとね」と言うと彼女は「そう言う親が増えたんですが、其れはおかしいと思う、子が親を見るのは当たり前の事で其れを苦労と思う事のほうがおかしいと思います」と言う、
「親の方がそう言う考え方をしても子供は其れを有難いと思うとは限らない、やはり子供が親を見る事が出来る様な社会にならなければおかしい」と言われた、
確かに今まで永い間家庭は親子数代が同じ家に暮らし、順番に育ち、没していった、
だからこそ子供の教育も家事の分担も上手く言っていたのだが昭和の後半から「核家族化」が進んできて今其れがスタンダードの様な状況に成ってしまった、
地方から仕事が無くなり仕事を求めて都会に若者が流れてしまい、生まれた地域で生計を立てるのが難しくなった事も大きな原因だが此れだけ核家族化が進行しているのは日本だけの様な気がする、
「日本は家系社会」だと言われたが実際今の日本は世界にもまれな世代断絶の家庭構造だ、
若い彼女に言われ自ら「子供に苦労を掛けたくない」と思うのは僭越な独りよがりだったかも知れない

増税は本当に不足した時にある所から集めるべきだ

2011-10-17 10:15:09 | 雑記
政治家と言う人達は基本的に政治と言う物の目的をどう考えているのだろうか?
政治と言うものは何を最終目的として、どう言う理念で携わっているのだろうか、野田総理は毎日駅前に立ち立ち止まる人々が殆ど居なくても自分の思いを呼びかけたと言う、
菅総理も市川房江氏に傾倒し理想に燃える若い時期を過ごしていた筈だが最終時には余りに情けない終幕で終えてしまった、
恐らくは御両者とも始めは高い理想に燃えていたのだろうと思うが実際の運営になると多くの意見の相違を纏める事に翻弄され徐々にその理想から離れてしまったのだろう、
政治家全員に「政治とは何か、」を400字程度に纏めて貰ったらどんな回答が出るのだろうか、
省庁と言う組織は本来事務方である、政治をスムーズに進める為には政党が変っても実行に延滞が起こらないように国政を運営する為のプロ集団である、
政府の策定した政策をその政策方針に従って進めるのが職務である、しかし「政策のプロ集団」と言う事は「政策施行」が彼らの最終目的であり政策その物、政治の目指す理想とは関係が無い
彼らを見ているとそう思える、
政治の最終目的は国家の安定熟成だと思う、其れは国民の為に如何に政策を施行するかと言うところに有るが官僚にとっては政策を進める事が最終目的であって国民の為である事とは関係ない、だからこそ「庶民感覚」と言う様な言動が官僚自ら発せられる。
政治家は事務方が居なければ多様な政策は運営出来ない、其れを良い事に新しい大臣が来ると我が意に沿わないと真剣に尽力する事をしないと言う。
会社で社長が交代したら専務から部長クラスが社長の足を引っ張ると言う事は会社の信用を落とす、会社の信用を下げれば重役連の将来も無い筈だがそんな事は全く関係無さそうだ
一億三千万の社員が路頭に迷っても多くの報酬を蓄えた彼らは何とも思わないのだろう、しかし幾ら高級官僚でも日本が破綻に向えば他の国が雇ってくれる事は絶対にありえない事を自覚するべきだろう。