鉄道員(ぽっぽや)は新田次郎の短編小説である。117回1997年(平成9)直木賞受賞作。
最近再読した。
次いで、1999年映画化された作品をアマゾンでレンタルしてiPadで観た。この作品は高倉健の主演、多彩な出演者で傑作とされていたことで知っていた。
私は優れた文学作品を何度も読んで楽しむ。
読むたびごとに新しいイメージが展開するから常に新鮮である。しかしながら、映画化された作品はイメージが固定されてしまうので観るのを好まない。ほとんどが落胆する。しかし、この作品は、比較的素直に楽しめた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/5e/6e2e8381f1ee81c481fc976697ea638f.jpg)
映画の場面は、北国の田舎の冬を中心に設定されており、色彩的には雪の白が主たる色調である。凍えるような厳しい生活環境の中で、逞しく、優しく生きる人々の姿が、温もりを感じさせる。ある時代に生きた人々の生活ぶりを象徴的に表現している。
映画は、まず、蒸気機関車の勇壮な疾走シーンから始まる。D51が雪を蹴散らしながら疾走する。実は私はSLの隠れマニアの一人である。中学生の頃よく駅を訪れ見たものである。このシーンだけでも観る価値がある。
蒸気機関車は平地では走りはスムーズであるが、上り坂などでは黒煙を吐きながら必死の形相で喘いで走る。とても人間的なイメージに溢れている。だから私は好きだ。私も弱った心臓の元、喘いで階段や坂道を登っている。
やがて時代と共にディーゼル車に代わった。
主人公自身も定年が真近に迫っている。昔炭鉱で栄えたが、過疎化のために間も無く廃線となる駅を実直に守り続けている。かつて妻と幼い一人娘の命さえ守れなかった苦い悔恨は、主人公の心に深く宿っていた。
氷点下30℃近い極寒の、降りしきる雪の中に制帽を目深にかぶり、背すじを伸ばして、プラットフォームに立ち続ける姿は、まるで自分自身に厳しい罰を与えているかのよう、修験者の如く、哲学者の如くの姿だった。高倉健の表情、演技は他に代替できないほどしっくりしている。
ある日、愛らしい少女が三人次々とやって来る。主人公は目を細めて優しく会話し、見送る。少女は成長した姿を見せに年老いた主人公の元を訪れたのだが、それは老化に伴う幻想だった(??)と考えられる。この娘たちとの交流によって読む者も、観る者も救われた感じがする。
翌日、主人公は雪の中ホームで倒れて息を引き取った。やはり、娘が迎えにきたのだろう。
あまりにも実直な男の生き方のラストは娘の訪問で幸せに満ちていた。そう思いたい。
この映画は主人公の人生を通して、時代の推移、当時の住民達の生活の変化、老化などについて示唆するものがある。主人公が口ずさむ鼻歌や口笛が高倉健のかつての夫人だった江利チエミのヒット曲であったのも意味深であった。
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