福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

昨年は指揮者カラヤンの生誕100年(3)死して後、真価を発揮

2009年08月05日 07時47分59秒 | 音楽談義
 私は力ラヤンには人としての興味がある。
 音楽そのものは違いが分からないからカラヤンでなければ、と言うほどではない。持っている全ての録音を楽しんでいる。

 車のCDチェンジャーにはカラヤン、クライバー、他の演奏によるベートーヴェンの交響曲がセットされているが、ざっと聴いた範囲では区別できない。どれも素晴らしい。だから、誰の演奏でも良いのだ。わずかにレガート奏法から何とか判別できる程度である。私はカラヤンを含め、この人でなければと思うような音楽家はいない。そんな聴き方すれば視野、聴野と言うべきか、が狭まるだけ。

 カラヤン自身が自分に対する風評等を何と思っていたのか知らないが、彼は音楽以外のところの行動でも注目され、そのことから彼の奏でる音楽の評価を悪しきものにしていた。馬鹿な話である。
 金権主義、旺盛な自己顕示欲、商業主義、万人受けを狙った表層的演奏、ジェット機やポルシェを駆使するスピード狂、ヨットやスキー分野で華麗なアスリート、等々、彼の一挙一動が話題になった。中でも必ずあげられるのがナチに入党である。映像や録音関連のエレクトロニクスに興味を持ち、積極的に発展に寄与し、自らも多数の記録を残したことも必ずしも評価されているとは言えないが、これは偉大な業績の一つである。恩恵を享受しながら悪しく言う自称評論家が多すぎる。

 従来、指揮者は世間知らずで、禁欲的にひたすら指揮の世界にこもってひたすら音楽に奉仕することがイメージとして作られていたのかもしれないが、カラヤンは全く違う考え方を持っていたのだろう。凡人でなかったから、超人に近かったから軋轢も多いのだ。本物は風評とかでぶれることはない。

 私は生前のカラヤンが演奏以外のことで酷評されるのを不快に思っていたが、死して約20年、さすがに音楽以外のことは話題にあげることは少なくなって、残した音楽遺産の真の価値が純粋に再評価されて来たと思う。
 これからも節目節目にカラヤンの遺産が世に出るだろう。これは彼を利用する側の価値観の問題である。しかし、それに十二分耐えうるような素晴らしい演奏を残してくれたからであって商業主義に利用されているからではない。

 今、彼の最期の公の講演会となった、ウイーンフィルと演奏したブルックナー交響曲第7番が耳元で壮麗に鳴ってる。彼の残したブルックナーはフレーズが大きく流麗であり、楽譜に小節がないようにさえ聞こえる。カラヤン・レガートとでも言うべきか、とさえ思うほどである。
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