私は1973年の第一次、1979年の第二次オイルショックを経験した
この時、私は社会に出たばかりだった。それまではあまり制限なく、物品が入手できる現実を疑問を感じることなく享受していたが、電気や水、灯油・ガソリンなどを大切にする方向に考え方が変わった。
2002年、徒然日記に「エネルギーは活用すべきであって、浪費すべきものではない」、「病院医局の1本40Wの天井灯が70数本ほど夜通し付けっ放しになっているのを見るのは辛い」、などとコメントしたことがある。
私は1990年後半から病院の業務が立て込んできたために5:00am頃に出勤していた。出勤時に日課として医局の各部屋を巡回し、無人の部屋の天井灯を消灯して歩いた。この朝の行動は2011年に退職するまで、15年ほど続けたことになる。
2004年には「エネルギーは有効利用を 浪費を見るのは辛い」と題し徒然日記に以下の小文を記載した。
————————————————————————————————
(・・・略)
無人の医局の中で夜通し付けっ放しになっている天井灯をみるのはつらい。病院の経費云々の問題とかではなく、エネルギーに対しての考え方、強いてはモラルの問題として、自然環境のことも含めて、私は心穏やかでない。 私は日祭日を除き、朝は殆どこの時間帯に出勤する。医局ではまず各室の電気を消して歩くことから始める。これは10年以上も続けてきた日課である。この間、全部が消灯されていた事は数回しかないと言っても良い。特に、当然であるが多人数の医局が問題である。誰かがまた戻ってくるだろう、とそのまま帰るのだろう。
私の一見取るに足らないようなこんな小さな行動も、これだけ長期になると省エネ効果もかなりになっているはずである。 水も含め、エネルギーは有効利用すべきものだが、実際には随分浪費されている。それを見るに付け心が痛む。あまりにも簡単に手に入るから感謝の念、畏怖の念が乏しいのではないかと思う。コンセントにプラグを差し込みスイッチを入れる、ただそれだけで電気が自由に使える。蛇口をひねる。ただそれだけできれいな水、湯が出る。これは、実はすごいことなのだ、恐れ多いことなのだ、と思う。
こんなことを考えている私の方が異常なのだろうか。 私のこの考え方は、呆れるほどに、いや、今から見れば病的と言うべき程にまでケチで倹約家であった母の影響をモロに受けている。
本音では、エネルギーの安易な使われ方にも文句はあるのだが、有効に使われている分には何も言わないことにしよう。
ムダになっている分にだけ一言言いたくなる・・・・。
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要するに、私は結構若い時からエネルギー使用などについては抑制的自覚がある方だと思っている。だから、地球温暖化が問題になってエネルギー消費の抑制が話題になっている今、誰もアクションを起こすことなく平然としている様に見えるのが、実に不思議である。
私の病院での省エネ活動は誰にも話すことなく粛々とやっていたために組織的な動きにはならなかった。今はどうなっているのだろうか。
我が家でもやはり私の意向は十分浸透しているとは言えない。部屋の電気、はコウコウと付いていることが多い。家族といえ同じ意識には成り難いものである。
この時、私は社会に出たばかりだった。それまではあまり制限なく、物品が入手できる現実を疑問を感じることなく享受していたが、電気や水、灯油・ガソリンなどを大切にする方向に考え方が変わった。
2002年、徒然日記に「エネルギーは活用すべきであって、浪費すべきものではない」、「病院医局の1本40Wの天井灯が70数本ほど夜通し付けっ放しになっているのを見るのは辛い」、などとコメントしたことがある。
私は1990年後半から病院の業務が立て込んできたために5:00am頃に出勤していた。出勤時に日課として医局の各部屋を巡回し、無人の部屋の天井灯を消灯して歩いた。この朝の行動は2011年に退職するまで、15年ほど続けたことになる。
2004年には「エネルギーは有効利用を 浪費を見るのは辛い」と題し徒然日記に以下の小文を記載した。
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(・・・略)
無人の医局の中で夜通し付けっ放しになっている天井灯をみるのはつらい。病院の経費云々の問題とかではなく、エネルギーに対しての考え方、強いてはモラルの問題として、自然環境のことも含めて、私は心穏やかでない。 私は日祭日を除き、朝は殆どこの時間帯に出勤する。医局ではまず各室の電気を消して歩くことから始める。これは10年以上も続けてきた日課である。この間、全部が消灯されていた事は数回しかないと言っても良い。特に、当然であるが多人数の医局が問題である。誰かがまた戻ってくるだろう、とそのまま帰るのだろう。
私の一見取るに足らないようなこんな小さな行動も、これだけ長期になると省エネ効果もかなりになっているはずである。 水も含め、エネルギーは有効利用すべきものだが、実際には随分浪費されている。それを見るに付け心が痛む。あまりにも簡単に手に入るから感謝の念、畏怖の念が乏しいのではないかと思う。コンセントにプラグを差し込みスイッチを入れる、ただそれだけで電気が自由に使える。蛇口をひねる。ただそれだけできれいな水、湯が出る。これは、実はすごいことなのだ、恐れ多いことなのだ、と思う。
こんなことを考えている私の方が異常なのだろうか。 私のこの考え方は、呆れるほどに、いや、今から見れば病的と言うべき程にまでケチで倹約家であった母の影響をモロに受けている。
本音では、エネルギーの安易な使われ方にも文句はあるのだが、有効に使われている分には何も言わないことにしよう。
ムダになっている分にだけ一言言いたくなる・・・・。
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要するに、私は結構若い時からエネルギー使用などについては抑制的自覚がある方だと思っている。だから、地球温暖化が問題になってエネルギー消費の抑制が話題になっている今、誰もアクションを起こすことなく平然としている様に見えるのが、実に不思議である。
私の病院での省エネ活動は誰にも話すことなく粛々とやっていたために組織的な動きにはならなかった。今はどうなっているのだろうか。
我が家でもやはり私の意向は十分浸透しているとは言えない。部屋の電気、はコウコウと付いていることが多い。家族といえ同じ意識には成り難いものである。